「休日」 七伊***
「伊地知さん、いい加減休んでください」
そう言ったのは、目の下に濃い隈を作った新田明だった。
自分だって疲れ切った顔をしているのに、心配そうに眉を下げてこちらを見上げている。
「いえ、私は大丈夫ですから」
「そうは見えません。こっちは平気ですから、明日は一日休んでください」
新田は、まるで縋りつくように伊地知の両腕を掴んだ。
『私は後回しで良いので、皆さんから先に休んでください』
そう言おうとしたが、その言葉が伊地知の喉から先に出てくることはなかった。
「今一番困るのは、伊地知さんに倒れられることなんです」
「しかし……」
「お願いします、伊地知さん。そんな顔色でいられたら、こっちも気になって仕事にならないっスよ」
気を遣わせないようにと、新田がわざと浮かべたであろう笑顔は、誰が見ても作ったものだと分かった。
後輩にそこまでさせてしまったのだから、今回は従うしかないだろう。
「……分かりました。明日は一日、お休みをいただきます」
「良かった……!」
「何かあればすぐに連絡を。それから、皆さんも順番に休みを取ってください」
「了解っス。明後日までにスケジュールを組むので、確認お願いします」
ようやく安心したように、新田は作ったものではない笑顔を浮かべてくれた。
ふと辺りを見回すと、その場にいた補助監督たちがホッとしたようにこちらを見ていた。
どうやら、随分と周りに心配をかけてしまっていたらしい。
伊地知は心の中で少し反省し、新田へお礼の言葉を伝えた。
丸一日の休暇はいつから取っていなかったか、考えたところで分からなかった。
あの事件が渋谷で起きてから、昼夜の感覚すら無くなるほどの忙しさだったのだ。
伊地知は、自分がいなくても明日一日が滞りなく進むよう、優先度の高い急ぎの仕事をピックアップする。
他の補助監督への引継ぎ資料も作成しなくては。
明日の伊地知が少しでも仕事に手を付けようものなら、今度こそ新田に泣かれてしまいそうだ。
そうならないよう、伊地知は早速残りの仕事に取り掛かった。
***
今日一日が休みだとは言っても、特段やることは無かった。
溜まっていた家事は午前のうちに終わらせてしまったし、昼寝をしようにも、目を閉じると色々な事を考えてしまってうまく眠れなった。
「……いい加減そろそろ行かないと、ですかねぇ」
伊地知は無表情のまま小さく呟くと、力なく立ち上がりゆっくりと外出の準備を始めた。
家を出て駅まで歩き、電車を乗り継いで、また駅から歩く。
そうしてやって来たのは、あの事件の現場である渋谷駅だった。
仕事では何度か立ち入った渋谷駅だが、事件後に個人的に来るのは初めてだ。
未だに復旧の目途が立たない駅は封鎖されており、人の姿は殆ど無い。
伊地知は風に揺れる黄色い規制テープの前に立つと、少しの躊躇もなくそれをくぐった。
無人の渋谷駅は、寒気がするほどの静寂に包まれていた。
この事件に関する報告書は可能な限り確認し、情報は全て伊地知の頭の中へ入っている。
書面上では何度も目にした現場を一つずつ、初めて自分の目で確認していった。
駅のホーム、連絡通路、改札を抜けて出口へ。
そして再び中へ入り、また別の出口に向かう。
いくら報告書を読み込んだからといっても、実際の現場を見たわけではない。
想像しかできない自分が今更ここに来たところで、何かが変わるわけでもない。
それでも、いつかはここに来なければ、あの日止まってしまった自分の中の何かが、動き出せないままな気がした。
渋谷駅地下二階。
伊地知は改札の近くにあるコインロッカーに寄りかかると、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
通り抜ける風の音しか聞こえない場所で、伊地知は膝に頬杖をついて辺りを見回すと、ゆっくりとその瞳を閉じる。
弔いの花も言葉も、何も持ってこなかった。涙の一粒だって出てこない。
ただただ、その場で静かに息をする。
そうしていると、時間の感覚が曖昧になっていくのを感じた。
今がいつなのか、あの日がいつなのか、境界線が溶けていくようだった。
一つ、強い風が黒い髪を揺らした。
その風に起こされるように、伊地知はそっと目を開ける。
そこには来た時と何も変わらない、あの日のままの渋谷駅があった。
適当な出口から外に出ると、日が暮れかけていた。
随分と長い時間が経ってしまったようだ。
伊地知は、次に行く場所で最後にしようと決め、ゆっくりと歩き始めた。
***
あっという間に日が暮れて、辺りはすっかり暗くなってしまった。
駅だけでなく周囲も封鎖されているため、東京とは思えないほど静かだ。
階段を一段ずつ上る伊地知の口元からは、白い息が漏れていた。
前を開けて着ていたコートが、冷たい風に吹かれてはためく。
手すりを撫でながら橋の真ん中まで進んでいくと、道路を見下ろすように肘をついて寄りかかった。
伊地知は、あの日自分が刺された歩道橋へやって来たのだ。
***
あの日以来、周りの補助監督や呪術師たちが口をそろえて「このまま伊地知は死んでしまうのではないか」と噂していることは知っていた。
また、七海との関係を知っている者からは「後を追ってしまうのではないか」と心配されている事にも気付いている。
伊地知は、口には出さずとも心の中では常にこう答えていた。
「そんなこと、するわけないだろう」と。
あの事件以降、補助監督は随分と減ってしまった。
それでも業務が減ることは無いし、むしろ事件の処理をしなければならず、必然的に激務となっていた。
毎日遅くまで仕事に明け暮れているのは事実だし、今日までしっかりとした休みも取れず、自分が憔悴していることにも気付いていた。
涙など、あの日から一度も流していない。そんな暇が無いくらい、毎日があっという間に過ぎ去っていく。
そうこうしているうちに、こんなにも時間が経ってしまったのだ。
正直に言うと、あえて思い出さないようにしていた自覚はあった。
あの日の事を思い出して少しでも感傷に浸ってしまったら、そこから二度と抜け出せないのではないか、なんて考えると恐ろしくて仕方なかった。
だからこそ激務を理由にして、考えることも、この場所に近づくこともしなかったのだ。
「今日、ここに来て良かった」
歩道橋の上から零れた言葉は、誰にも受け止められることなく、澄んだ夜空に消えていく。
それまで少しの感情も露わにしなかった伊地知は、その表情をようやく緩めることができた。
今日一日、渋谷を歩いて、記録に残る数々の場所をこの目で見た。
彼の最後の場所にも立ち寄った。
駅内の痛いくらいに静かな空気を吸って、自分の中の淀んだ空気を吐き出すと、霞がかっていた心の中がクリアになっていくのを感じた。
そうして分かったことは、「自分の心は何も変わっていなかった」というただ一つの自信だった。
本当は、少しだけ不安だったのだと思う。
ここに来て彼の事を考えてしまったら、自分はどうなってしまうのか。
周りが言うように、彼の後を追おうとしてしまうのではないか、と。
しかし、その懸念は今の自分自身によって完全に否定された。
「私は決して、後を追ったりしませんよ。七海さん」
ふふ、と白い息と共に笑みをこぼす。
手すり乗せた腕を枕にするように体を屈めて頭を乗せると、楽しい夢を見るように目を閉じた。
自分を追う素振りもない伊地知に、七海はどんな顔をするだろうか。
寂しそうに笑うかな。それとも、拗ねたようにそっぽを向いてしまうかも。
だけど結局は、伊地知の決めた生き方を、誇らしげに見守ってくれるのだろう。
最後の時まで、格好良く生きたであろう七海建人さん。
そんな彼が愛してくれたのは、きっとこういう自分だったから。
「私だって、最後まで格好良く生きなくちゃ」
やることは、まだまだ多く残っている。
自分にしかやれない事だって、たくさんあるのだろう。
それはきっと、伊地知が自分らしく生きている限り、絶えることはないのだ。
ふと、目を開ける。
電気の消えた渋谷の空には、東京らしくない星空が広がっている。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、ゆめうつつの頭がすっきりしていく感覚があった。
「愛しています、七海さん」
一言そう呟くと、搔き抱くようにコートの前を合わせた。
そうして歩き出した伊地知の足は、コンクリートの地面を力強く蹴った。
家に帰ったら、まずは温かいものを食べよう。
ずっと栄養ドリンクやゼリー飲料ばかりを口にしていたのだから、今日くらいはきちんと食べないと怒られてしまう。
冷蔵庫には何か残っていただろうか。いや、残っていたとしても食べない方か良いかもしれない。
「七海さんが前に作ってくれたあんかけうどん、あれ再現できるかな」
伊地知は、あの時のうどんに入っていた具を思い出しながら、頭の中に買い物メモを作っていく。
それをメモ帳のアプリに書き写そうと、その場に立ち止まって数時間ぶりにスマートフォンの画面を見る。
そこには、数件のメール通知が表示されていた。
伊地知は小さく笑うと、メモ帳を開くことを止めて、スマートフォンをポケットへ入れた。
今日は仕事をしないと、新田と約束したのだ。
もし急ぎの要件なら電話があるはずだろうから。
メールが気になる気持ちをなんとか抑え、明日の自分に任せることに決めた。
「明日は、うんと忙しくなりそうですね」
吹っ切れたような表情で言った伊地知は、人々の声がする明るい方向へ、再び歩き出したのだった。