Banksia rose(bitter)午後の日差しがレースのカーテンでやわらげられ、リビングの床にひだまりを作っている。その特等席、この時間一番暖かく明るい窓のそばに置かれた大きなクッション。その真ん中に、小さな窪み。
クッションのそばに座り込んで項垂れる背中に、サンズは強い既視感を覚えた。
「フリスク」
声をかけても振り向かない。フリスクは、クッションで気持ちよさそうに眠る、眠ったように事切れている小さな猫を繰り返し撫でながら、声もなく泣いてた。
「…やり直したなら分かるだろ。そいつはもう、寿命なんだ」
「やり直した」という言葉に肩を揺らしたフリスクが、ようやくノロノロと振り返る。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に3枚重ねのティッシュを押し付けあれやこれやを拭き取っても、赤く腫れた瞼の隙間からはとめどなく涙がこぼれ落ちて止まらない。
「…ごめんなさい」
囁くような小さな声でフリスクが謝った。
フリスクが白い小さな猫を拾ってきたのは昨日のこと。学校帰りに近くの公園でカラスに襲われているところを助けたのだと言っていた。昼寝をしていたサンズは叩き起こされて、動物病院までの近道をさせられた。
ミルクでゆるめた餌を食べさせ、温かく柔らかな寝床を用意するも、だいぶ弱っていてこのまま持ち直すかどうか分からないという医者の見立ては、やはり正しかったようだ。
フリスクの「ロード」は1度や2度ではないのだろうとサンズは確信していた。そして、どのルートでもこの猫は今日この時死んでしまったのだろう。
トリエルは学校の業務が終わるまでは帰れない。フリスクと猫の保護者役として留守番を任されたサンズも、猫の死とフリスクの涙を何度見たのだろう。
サンズはフリスクの隣に腰を下ろし、ミトンを脱いでそっと猫の背を撫でた。
ほんのりとまだ温かさを残した小さな身体。硬直もまだ起きていないようで、死んでいるとはとても思えない。ただ気持ちよさそうに眠っているような満足そうな顔。
「…地上の生き物は、やっぱり塵にならないんだな」
「……」
「あー…アンタはやれることを全部やったし、こいつも満足だったと思うよ」
瞼の奥を覗き込む。言葉が届いていないとしても、言わずにはいられなかった。
実際フリスクはよくやった。まさに寝食を惜しんで甲斐甲斐しく猫の世話を焼いていた。
今朝も一度学校に行くと出かけてから一時間もしないで帰ってきて、留守を任されていたサンズを驚かせた。どうしても側にいたいというフリスクの熱意に負けて、トリエルを電話で説得したのもサンズだ。
「腹いっぱいで、あったかいとこで眠ったまま…なんてさ、理想的だろ」
溢れ落ちるフリスクの大粒の涙を見ていると、サンズのタマシイがキシキシと締められるように痛む。モンスターの共感の性質か、フリスクの後悔と悲しみが染み込んでくるようだった。
慎重にフリスクの熱を持った頬を撫でると、温度のない骨の指に熱い涙が触れた。
「もうロードは止めな。アンタが余計に傷つくだけだ」
「っ…でもっ」
言い募ろうとする小さな子供の手を強く握る。驚いて言葉を飲み込むフリスクをサンズは真っ直ぐに見た。
「コイツを何回死なせる気だ?」
「え」と短く声を漏らしたフリスクの顔が、みるみるうちに青くなる。
何度も繰り返される死と目覚め。弱って動くことが出来ない小さな猫に自分が何をしていたのか、フリスクはそこで初めて気がついたようだった。
「ぼ、ぼく…そんなつもりじゃ…」
呼吸を整えられず苦しそうにしゃくり上げる背中をミトンの手で叩いてやれば、強張った身体からは恐怖と困惑が伝わってくる。
猫が死んで良かったと思う自分がいるのをサンズは自覚していた。
ロードを繰り返せば自分が望むルートがあるとフリスクが成功体験を積んでしまえば、フリスク一人のためにまた時間軸が乱されることが起きかねない。宥めてでも脅してでも、避けられるものなら避けるべきだ。
子どもは自分のしたことの重さに恐れを抱き、震えている。柔らかく温かい腕では抱いてやれない。せめて痛みがないようにと茶色の髪の毛を絡まないよう梳いて撫でた。
時空の歪みを起こさせるべきではない。それはサンズの中で絶対的だというのに、心の隅でこの子どもが傷つき泣いている姿を見るのは堪らないと、どこかが痛んで仕方がない。それが自分でも意外だった。
あの地下世界で自分は数えきれないほど死んだくせに、昨日拾ったばかりの猫の命を諦められずにボロボロになっていく馬鹿な子どもだ。
馬鹿でいじらしい、優しい子どもだ。
「フリスク!」
慌ただしい足音とともに、リビングにトリエルが駆け込んできた。と、荒い息を整えながら放心していたフリスクがハッと顔をあげて一目散に走っていく。
「ママぁ!」
やれやれと立ち上がり振り返ると、胸に飛び込んだフリスクを持ち上げ大切そうに抱きしめるトリエルが見えた。
ロードに気づいた時、フリスクに今何より必要なのは彼女だと判断して帰宅を急かす連絡をしたのは正解だったようだ。
「サンズ、ごめんなさいね」
「お構いなく。また来るよ」
文字通り手が離せないトリエルにニンマリと笑って見せる。チビっこを保護者に引き渡すことが出来れば、今日の任務は完了だ。
「サンズ、本当にありがとう」
背中にかけられる声に一度振り返る。お礼を言われることが皮肉のように感じて苦い。
トリエルの腕の中から一瞬顔を上げたフリスクにもサンズは手を振って背を向けた。
フリスクは庭の白いモッコウバラの木の下に猫の墓を作ったのだとトリエルから伝え聞いていた。
しばらく顔を見せなかったフリスクが、仏頂面で大きなバスケットを抱えてやってきたのはあれから一週間と少し後のこと。
「ウヒョゥ!大ーきなパイだッ」
「…ママが、サンズにって。パピルスもどうぞって」
表は雪がチラついている。赤いコートと厚手のタイツで完全防寒のフリスクは、サンズから顔を逸らしたままだ。
「上がってけば。アンタも食べるだろ?」
「…………」
「オレさまお茶淹れてくる!フリスクは?ココア?」
「…うん」
バスケットを受け取ったパピルスは陽気に歌いながらキッチンへ。
むっすりと黙ったフリスクと2人きりでリビングに残され、サンズは居心地の悪さに晒されることになった。あれはケンカ別れというわけではないが、無理からぬこととサンズは苦笑する。
いつものソファにだらしなく腰掛けると、コートを脱いだフリスクがサンズから少し離れたところにきちんと姿勢を正して座った。珍しいことにスカート姿だ。
「何かあんの?今日」
「…?何かって?」
「あんまり見ない服着てるから」
「これは…ママが着て行きなさいって」
「ふーん?」
会話は弾まないどころか、フリスクはあまり服装について突っ込んでほしくなさそうですらある。
そんな時もあるかと深く考えることを放棄して、テレビのリモコンを手に取った時、フリスクが唐突に顔をこちらに向けた。
「ぼく、これからも使うと思う」
電源を押そうとしていた指が止まる。見れば、フリスクは怒ったような顔をしていた。
「パピルスが大怪我したとしたら、どうする?その日の朝に戻れるとしたら?サンズなら戻ってパピルスを引き止めずにいられる?」
セーブ・ロードの話をしているのだとサンズは思い至る。特に説教の予定は無かったのだが、もしかするとフリスクはこの話を切り出されるのを恐れて顔を出せずにいたのかもしれないと感じた。
「黙って見てるなんて、出来ないよ…」
勢いは徐々に落ちて、最後の言葉は囁きのようだった。
フリスクはあの鍵を使って、あの部屋に入ったのだろう。そこで見たものについて説明を求められたことはないが、サンズの苦悩の一端に触れたのは確かなのだろう。
罪悪感。フリスクの顔にそう書いてあるようだった。
「…パピルスが怪我をしたのがトリィを守るためだったら?パピルスを助けたせいで、トリィが怪我をすることになったら?」
他者を慮るのはフリスクの美点かもしれないが、大きな隙でもある。危なっかしいことこの上ない。
「大事なものと大事なものを天秤にかけたとき、どう選ぶんだ?」
案の定、フリスクはぐっと言葉に詰まる。サンズは小さなため息をついた。
「そ、んなの…どっちも助けるに決まってる」
「そのせいで他のやつが、いや、まったく知らない他人が傷つくようなことになったら?他人ならOKか?違うよな、アンタは」
「…どうしてそんな意地悪を言うの!?」
フリスクが迷いなく目的のために力を行使するニンゲンだったなら、こんな気分にはならないのだろうかとサンズは考える。
いつまでもどこか心許なく、姿が見えないと落ち着かない。監視の目的はいつの間にかすり替わり、それをおかしいとも思っていなかった。
「フリスク、アンタには向いてないよ」
フリスクの目を隠す重たげなまつ毛の縁がじわりと滲み出す。
やばい。サンズははっとして思わずキッチンの方を確認した。小さな子どもを泣かせるスケルトンの図をパピルスが戻ったらどう言い訳したものか。
「あー…つまりさ、言いたいのは…」
「…ちがう、喧嘩しにきたんじゃない」
スカートの裾を握りしめたフリスクが乱暴な仕草で目元を拭った。
決然と顔を上げ、サンズのパーカーの胸ぐらを掴んだかと思えば、ぐっと顔を寄せてくる。
一瞬平手でも飛んでくるのかと身構えたサンズの左の頰骨のあたりで、「ちゅ」と気が抜けるような可愛らしい音がした。
「は?」
呆けた声が漏れてぽかんと停止した2秒後、ささやかに押し付けられていた柔らかな感触が逃げるように離れていく。眼窩を瞬いたサンズは思わずミトンの手でそこを押さえた。
トマトのように赤くなった頰を隠すようにうつむいたフリスクのつむじをまじまじと眺める。
「…お礼を言いにきたの。あの時一緒に居てくれたから」
あの時というのは、あの白い猫を看取った時だろう。お礼も何も、留守番を頼まれたからそこにいただけだと言おうとして、上手く声が出ずに沈黙が続く。
「サンズが心配してくれてるの、わかってる。ロードを止めてくれて、本当はぼく、ホッとしたんだ…」
はにかんで小さな声。心配?思ってもみなかった単語にサンズは眼窩を瞬く。ミトンの下の頬骨のあたりがまだ温かい気がする。
フリスクのタマシイから向けられた信頼を感じた。そして、じわりと微かに染み込んでくる、くすぐったくて笑いたくなるような、ほの甘い感情も。
「ありがとう、サンズ」
むず痒いこの場面をジョークでからかって流してしまえば良いと思うのに、春に綻ぶ花のように柔らかい笑みから、目を逸らすのが惜しいと心が言う。
「……お茶淹れたけど、オレさまおジャマかしら…?」
背後からおずおずとした声がかかり、フリスクがビョンと跳ね上がった。
「パピルス!ありがとう!ぼく運ぶよ!」
必要以上に慌ただしい動きで、フリスクがパピルスからトレイを奪い取る。
「フリスク…きさまついに、オレさまの次にスキなひとが…!でもよりによってサンズって…」
「ちが、ちがうちがう!そういうんじゃないし」
「キスしてたのに?」
「あっ、あ、あれはお礼だから…!!」
「パピルス、ミルクあったっけ?オレにするわ。お礼だけに」
「こんな時までくだらないジョークをかますとは!我が兄ながらナサケないッ!お茶だからミルクティーでしょッ!」
「へっへっへ」
笑って誤魔化して、サンズはのっそりとキッチンへ向かう。リビングでまだわちゃわちゃと二人が騒いでいる声を背中に聞きながら、ミトンの手で額を覆った。
「……参ったね」
まったく、本当に参ったことだ。思いやりと共感で出来ているらしいモンスターのタマシイは、フリスク自身すら自覚が薄そうな淡い気持ちを掬い上げてしまうし、困ったことにそれを心地良く感じている。応える気もないくせに。
ない、よな。あれ?
春はまだ遠く、フリスクの家の庭は冬支度をしていることだろう。雪が溶け、モッコウバラが咲く頃には、また何かが変わっているのかも知れない。