たそがれモラトリアム「おはようございます、□□□さん」
「おはようございます」
「ビッ!」
呼ばれた名前に自然に反応できるようになったのは、いつからだっただろう。少なくとも、このマンションに越してきたころには、できるようになっていた筈だ。
「――え! 今の、ロナ戦のロナルド様!?」
「そうそう、すっかりおじいちゃんだけどね」
残念だなぁ、お嬢さん方。おじいちゃんだけど、まだまだ耳は聞こえてるんだぜ。
何でもないような顔でコンシェルジュの前を通り過ぎ、コロコロと隣でキャスターを転がしていたメビヤツの視線に苦笑を返して、しぃ、と人差し指を立てて見せる。ロナ戦は先日何度目かのリメイクを受け映画化され、人気の若手俳優が演じたことで再度注目を浴びていた。
「お、□□□さん。来週ラウンジでボドゲ大会やろうと思うんだけどさ」
「いいね、行かせてもらうよ」
「□□□さん、強いからなぁ。楽しみにしてるよ」
朝の庭は、散歩をしている入居者が多い。マンションの中庭としてはそこそこの広さのある場所だが、次々と顔見知りから声をかけられる。
「おはよう、□□□さん」
「カワサキさん、おはよう。膝の調子はどうだい?」
「今日はすこぶるいいね。ずっとこうだといいんだけど」
おだやかに交わされる会話。大声を上げることも奇声を発することも、ましてや誰かを殴って暴力ですべてを解決することもなくなって久しい。
ここにいるのは『□□□』という名の、ひとりの男。
朝日を浴びて散歩をし、午睡を嗜み、日が落ちれば眠る、昼に生きるもの。
夜を裂いて赤をひるがえし、月光と朝日のはざまを生きていた『吸血鬼退治人ロナルド』は、もはや『□□□』だけのものではなくなって久しい。
ロナルドの自伝小説『ロナルドウォー戦記』は中小ながら堅実なオータム書店のメディアミックスにより最初はアニメ化。それから舞台化と実写映画化があって、新装版が出て、――あのときは急遽数本短編を書きおろして久しぶりに爪先が揚げ油に浸った――、ロナルドの退治人引退から一年後に完結編が出て。
そして『吸血鬼退治人ロナルド』は、『□□□』のことではない、誰かのことになった。
***
「やぁやぁやぁ、元気にしているかねロナルド君!」
だというのに。
「少なくともすぐ死ぬ虚弱ジジイよりかは元気だな。今日何回死んだ?」
「ハァアン? 相変わらずかわいげのない若造だな、私のモットーは一日二十死! 今宵は既にここに来るまでに十七死こなしているぞ!」
「わけわかんねえノルマだし六十年前から数変わってねえってあまりにも進歩がないんじゃねえの」
「うるさいうるさいうるさーい! というかそれ増えたら進歩なの!? 減ったら進歩なの!?」
「知らねえよ、お前が立てた目標だろ」
やかましくも心地いい声が響いた途端、おだやかな『□□□』の日常は一瞬にしてあの踊るような日々に引き戻される。
新横浜郊外に小ぢんまりとした家を買い求めたロナルドは、ロナ戦の完結から半年ほどで新居へ移り住んだ。同居人はメビヤツ一台。
「ここまで60年間、ろくに家のことなんかせずに生きてきた君が今更ひとり暮らしなんかできるわけないだろ!? 一緒に住めばいいじゃないか!」
「ばーか。俺はこれからどんどん年食って、からだ動かなくなってくんだぞ。すぐ死ぬザコジジイの面倒まで見きれねぇだろ」
家を購入したこと。連れて行くのはメビヤツだけであること。
既に決定事項として告げたそれに対して、ひとしきり騒ぎ抗議し、それでもロナルドの決意が揺るがないことを悟ったドラルクがーーいつもはうるさいくらい我儘を言い、何がなんでも自分のやりたいようにやる260歳児が、珍しく静かな口調で告げた。
「君がいないと、さみしいよ」
「ーーーー……そうか」
ほんとうは、そんな素っ気ない返事をしたいわけではなかったけれど。
ほんとうは、「俺も」と言ってしまいたかったけれど。
「まぁ、たまには遊びに来いよ」
60年も経てば、本心を隠してきちんと微笑むことくらいできるようになるのだ。
それなのに。
それなのに!
「ロナルドくーん! 遊びにきたよ!」
人のことを散々情緒を解さないとかなんとか煽っておきながら、この吸血鬼はあのしんみりした別れを意に介さず二日に一度はロナルドの家にやってきては、食事を作り置き部屋を片付け、たまに泊まっていった。
その数日間、ロナルドとメビヤツの静かな家は新横浜のあの賑やかさに包まれる。