魔女の薬、魔法の媚薬、不老長寿の薬……伝承や御伽噺などで伝わるなんでも願い事を叶えてれる夢のような薬。
幾度か夢見た者は多く、知識と経験を活かして作ろうと試みた者は数多く。残された知恵の結晶は書物になって、後世に継がれていった。
一見、素晴らしく見えるが、現実はそう都合良くいかない──。
夕暮れよりまだ陽の高い頃合い。訓練を終えたフェリクスは自室で武具の手入れをしていた。普段使う剣ではなく、予備に携える小剣や蒐集した短剣や飾り剣などを中心に磨いていた。
使う機会はなくても手入れを怠ると輝きは鈍くなり、切れ味も悪くなる。日をみては手入れをしていき、磨かれた武器を眺めるのを楽しみにしていた。
彼なりの愉悦なるひと時だったのだが──。
「きゃーーーー!!」
「ひぃぃっ!!」
阿鼻叫喚の叫び声、ドタンガタンと物が崩れる音が隣から聴こえてきた。
木霊した場所はフェリクスの隣の部屋──おそらく全学生のうち最も部屋がゴチャゴチャしているクロードからだった。
常日頃怪しい行為をしているようで、時々強烈な匂いが漂ってきたり、夜中に本が崩れ落ちる音が聴こえていたので、また何かしていると察せれた。隣人の謎の行いにもう慣れてしまったフェリクスなので、またか…と呆れた。
しかし、今回は叫び声の主に聞き覚えがあったので、なんとなく気になった。少し思索してから武具の手入れの手を止めて、自室のドアを開けた。
「そんなに驚くことか?イモリやヤモリなんて珍しくもないだろ」
「部屋に何匹もの死骸を置いておくなんて、何考えてるんですか!」
「クロードくん!そういうのは女子の前に見せないでよ!夢に出てきそうで気持ち悪くなるでしょ……」
開け放たれていた隣の部屋からは、見知った人物たちが喚いていた。
部屋の真ん中で一抱えの箱に詰まった爬虫類の黒焦げや死体や死に絶えそうな虫を携えるクロード、ドアの隅で丸まって彼を非難しているのはリシテアとヒルダだった。
「あぁーもう!クロードくんの部屋の掃除に来なければ良かった。うー……ゾワゾワするー!」
「早く閉まってください!できたら、すぐ捨ててください」
「いや、お前らが勝手に開けたんだろうが……。危ないものもあるから部屋の中の物を触るなよって、ちゃんと言っただろ」
「そんなこと言われたら開けちゃうでしょ!前から怪しい物がいっぱいで、気になってたんだから!」
「そうですよ!何があっても不思議じゃないくらい怪しい部屋ですよ」
堂々と言い放つ女性陣に男性陣は呆気に取られる。青ざめた顔で震えながらも糾弾するのは勇ましくもあり、強がりにも見えた。
「騒がしい……寮の中では静かにしろ」
やっとフェリクスは、三人の前に姿を現して苦情を告げた。
「ああ、悪い悪い。ウチのお転婆娘達が勝手に禁忌の箱を開けて騒ぐもんで」
「ひっどーい!気になったんだからしょうがないでしょ」
「そうですよ。それに日頃から部屋の掃除くらいしてください!」
「おい……人の後ろに隠れて何をしてる」
良い盾を見つけたと言わんばかりにヒルダとリシテアは現れたフェリクスの背中に隠れて、クロードに言い放つ。箱の中を見ないためだが、隠れながらも尚強かだった。
勝手に盾にされたフェリクスは舌打ちをして、そんな様子を眺めてクロードは乾いた笑いをする。
「はいはい、仕舞いますよ。もう勝手に開けるなよ」
「随分と珍妙な物を集めたな。そう簡単に手に入らないだろ」
「そうそうー!けっこう苦労して集めてきたんだぜ。すり潰して粉にすれば目潰しになるし、矢尻に塗って射れば忽ち痒くなる優れ物!」
「怖いこと言わないでよ。クロードくんの趣味は特殊なんだから自重してよ」
「気味が悪いです……」
尚もフェリクスの背後に隠れながら非難するが、クロードは笑いながら流していった。
背後で服を引っ張られて、縋られるフェリクスはとばっちりだった。
「深く詮索しないが、お前の部屋をどうにかしろは同感だ。夜中に何かをすり潰したり、妙な臭いを撒き散らすのは勘弁しろ」
「あー……悪い。ローレンツにも言われたから気を遣ってたんだが、漏れてたか」
「せめて夜中は控えろ」
「いやー、それはお恥ずかしい限りで……悪かった。改めます、だから先生には内密に!先週言われたばっかなんだよ」
隣の部屋の主からの苦情にクロードを頰を掻いて、謝罪した。態度と言動から既に何度も注意されているようだ。
「それで、さっきの死骸は何に使うんだ?武器に使うにしても多いだろ」
「うん、興味ある感じか?」
「それなりにな」
「まあ、よくある話だよ。お前らだって、魔法の薬とか興味あるだろ?美貌を保つ薬とか、意中の相手を虜にする薬とか」
相対したフェリクスだけでなく、ヒルダやリシテアの顔を見て問いかけていく。
問われた者達は首を傾げながらも興味あると答えた。──御伽噺や伝承などで一度は聞く『魔法の薬』は、誰もが興味を持つもの。
「そういった魔法の薬の材料集めしてたんだよ。よく聞くだろ、ヤモリやトカゲの黒焦げとかカエルの死体とか」
「うわぁ……気持ち悪い〜」
「材料は知りたくなかったです」
「先人達も色々頑張ったみたいだぜ。まっ、良薬は口に苦しともいうし、眉唾ものだがな」
陽気な笑いをしながら、件の箱を閉じて仕舞う。ようやく気持ちが鎮まったようで、顔と体を出していく女性陣。
ヒルダは改めてクロードの部屋に入って見渡していくが、記憶力が良いリシテアはまだ脳裏に焼き付いてるようで、見えないようにフェリクスの袖を掴んでいた。
「それで魔法の薬は作れたの?」
「そう簡単に作れそうにないな。材料もかなり代用品だし、何しろ解読が難しくてな!文献を漁っても古過ぎて読めなかったり、要領を得ない説明ばかりだ」
「そっか〜。そんなものよね。はぁー何でも言うこと聞いてくれる薬があるなら、ちょっとほしかったな〜!」
「あってもヒルダに渡さないぞ。……これ以上、無敵になられたら太刀打ちできなくなる」
クロードとヒルダが軽口を言い合う中、リシテアは未だ袖を掴んだまま考え込んでいた。
「……魔法の薬、ですか」
すぐそばにいたフェリクスはリシテアの呟きが聞こえたが、思考の海を泳いでるようなので口を閉ざす。
代弁するかのようにフェリクスは、クロードに疑問を投げた。
「何の薬を作る気だったんだ?」
「大したもんじゃない。何でも美味しく食べれる魔法の秘薬って、やつだ」
「意外と地味なのね……」
「いやいや、味覚を変化させるって大した効能じゃないか!それがあれば、どんな不味いものでも、泥水でも美味しく啜れるんだぜ」
「ほぅ、戦時中では役立ちそうだな」
「うわぁ……夢がな〜い。男子って、そういうの好きよね」
呆れたため息を吐くヒルダは、ちらりとリシテアの方を見る。予想通り、ため息を吐いてがっかりしていた。
「そういうのですか……まあ期待していませんでしたが」
「リシテアちゃんは、どんな薬が良かった?ははぁ〜ん、惚れ薬かな!」
「ち、違います!そういうのに興味ありません!」
「えぇ〜そう?王道だし、あったら面白そうじゃない!」
「何に使うんですか。ヒルダには必要ないと思いますが……」
「そうそう、薬に頼って振り向かせても良いことないぞ!自分を磨かないと怠け癖が付くからな」
「クロードくん、それってあたしのこと言ってるのかな〜?」
お馴染みのやり取りになったのが終いの合図になったのか、本来の目的であるクロードの部屋の片付けをしていった。
ついでで、フェリクスも片付けに参戦することになってしまった──。
魔法の薬──それを手にすることができたらどんなに幸せだろうか。
「……現実的ではないですね」
書庫で魔法の薬と称される伝承や史実を調べていくリシテア。どれを読んでも不明瞭で、都合が良ぎる話ばかりだった。
「鼠をかぼちゃの馬車に幻惑させる方が楽な気がします。……でも、もし魔法の薬があれば」
短い寿命を消せるかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
だが、片付けの報酬代わりにクロードから借りた魔法の薬に関する本を何度も読んで、解いていくが実りは浅い。
「こういうのは、わたしより別の人が向いてそうですね。専門外ですし。……媚薬の項目も怪しいですね」
年頃の娘なので、やはり気になっていた。王道なのか、借りた本にも調合や材料が書いてあった。
意中な相手に使えば自分を好いてくれる魔法の特効薬!夢が溢れるが、裏を返せば薬を使わなければ好いてくれない、とも言える。
「作ろうにもイモリの黒焦げに蛇の抜け殻、百年虫の死骸とか気味の悪いものばかりですから無理ですね……」
「そんなのを作って、どうする?」
「へっ?……あっ、ああぁぁーー!?」
背後からかけられた声に驚いて、書庫にも関わらず声を上げてしまった。慌てて、口を手で塞ぐが、聞かれたくない人に聞かれて心臓はバクバク脈打っている。
「騒々しい」
「……すみません。驚いてしまいました」
「そんな本に頼ってまで、作りたいものなのか?」
「ご、誤解しないでほしいですが、媚薬が目当てではありません!クロードの本は珍しい物が多いですし、見聞を広げるにも読んで損はないですから!」
実は、リシテアがクロードの部屋の片付けに参加したのも珍しい書物や道具が目当てだった。フォドラの外からやってきた彼なら、何か紋章消す手がかりを持っていないかという画策があったのだが……それを明かすわけにはいかない。特に、知られたくないと思っている相手には。
「こういうのは魔道の知識を深めるのに役立つんです。読み物としても面白かったですし、クロードらしい文献でしたよ」
「セテス殿に見つかるなよ」
「そうですね。没収されかねません……」
教会に不都合な本は処分しているのだから個人の書物も対象かもしれない。見つからないようにした方が得策である。
「あんたは興味ないんですか?媚薬とか願い事が叶う薬とか」
「そんな都合の良い話があるはずない。毒やしびれ薬の方がまだ有用性がある」
「……浪漫がない人ですね、相変わらず。でも同意します」
都合の良い薬なんてあるわけない。大体、紋章をどうにかする薬なんてこれまで聞いたこともなく、望みは薄い。
「それに、お前使えるのか?」
「何がですか?」
「仮に薬ができたとしても飲んだり、塗ったりできるのか?材料はアレだぞ」
「…………うっ、うぅ嫌です!」
思い出させられるクロードの箱の中身。あの中の物が材料になると言っていた……それを飲むのを想像すると、胃の中がかき回される錯覚が起きた。
「で、でも、効能を聞くと気になりますから……わ、わたしが使わなくてもいいですし!」
「何のために作る?他人のためにわざわざ作る理由なんてないだろ」
「わたしだって、年頃の女性ですよ。色々興味を持ってもいいじゃないですか!」
媚薬とか美貌を保つとかに興味がないわけではないが、一番は紋章に関して記載されていないかが重要だった。フェリクスに知られるわけにはいかないので伏せているが、目当ての項目は載っておらず、抽象的で曖昧なものばかりだった。
「どれも当てにはなりませんね。都合の良い話しか載っていませんし、絵本の薬のように抽象的で要領を得ません。……クロードが言っていた『味覚を感じなくさせる』ものならできなくはなさそうですが」
「よほどのことがなければ、服用はしたくない代物だろうな」
「そうですね……。材料と生成法を見る限り、おそらく一生味覚がなくなります」
二人で首を振って、本を閉じた。参考にはならないが、読み物としては面白かったので気に入ってはいた。
「ためしに作ってみたいのもありましたし、夢のある本でしたよ」
「自分で試してから使え」
「遠慮します!」
即座に否定の言葉を返して、一時の時間を過ごしていった。
時を経た、5年の月日。
リシテアは再び、元クロードの部屋を訪れていた。散らかったままの持ち主のいない部屋は士官学校の頃と変わらない。卒業を迎えず、慌ただしく退散した痕の名残は彼女の胸をざわめかせる。
「すみません、クロード。少し、貸してください」
苦しそうに呟いてから部屋の物を物色していく。盗人の真似をするのは忍びなかったが、リシテアには時間はなかった。士官学校の時に『使いたければ、好きなだけいいぜ』と話していたのを免罪符に積み上がった異国の文献と貴重な材料を調べ上げていく。
月日が流れた分、リシテアの知識と解釈は深まっていた。魔法の薬の解明は今の彼女には、それほど難しくなかった……。
「戦時中の渦中ですが、わたしは……紋章消す手がかりがあるなら何でもする。わたしはもっと━━」
目当ての物を見つけて、大きな瞳をさらに広げた。
「賛成はしないけど、君の気持ちはよくわかるから協力はするよ。ただ、副反応が目当てだから期待しないほうがいい」
「そんなのわかっています。……でも、放っておくことはできません。試せるなら何だって試します!」
「あーあ……君って、けっこう頑固だから骨が折れるんだよね。説得するより、試した方がめんどくさくないかな。元の薬の効能は覚えてる?」
「忘れてません!本来はそちらの使い方なんですから」
元ハンネマン教師の部屋に集って、話し合うのはリシテアとリンハルト。青獅子学級に編入してきた二人のため、ファーガス出身の生徒達より役割は少なく、重要な任務にはあまり携わっていない。帝国と親帝国派の出自では周りの目は厳しい。
それを好機と捉えて、二人は各々の研究に勤しんでいた。集中すると飲食や就寝を疎かになる傾向がある二人は、度々先生に注意されてはと似たところが多かった。
「勝手にわたしの秘密を暴いた罰です。償いくらいしてもバチは当たりませんよ」
「はぁ、まだ根にも持ってる……。その薬で紋章に何らかの影響が出るなら僕も協力を惜しまないよ。おそらく期待通りにはならないけど、効果がないことを知るのも検証材料になるからね」
「話が早くて助かります」
「いいんだけど……調合はしたくない。材料考えるだけで吐きそうになる」
「そ、それは言わないでください!わたしだって我慢しているんですから!」
絵本の魔法使いさながら、大きな鍋に蛇の抜け殻やイモリの黒焦げやその他色々入れて煮詰めていく。既に異臭が漂い、変色して悍ましい色になっている……。
「本当にやるの?どう考えても美味しくないよ」
「…………やらないわけにはいきませんから」
必死に奮い立たせて、二人は薬作りに励んだ。
出来上がった紫と黒が混ざったドロリとした薬瓶を眺める。……一目で不味そうで、得体が知れない物と判別できる。
材料は代用も多いが問題ない……はず。調合も話し合いながら順調に進めたので、間違っていない……はず。何にせよ、あとは確かめるのみ!
だが、やはり躊躇はする。
「どう見ても不味そうですよね……」
自室で何度も手にして眺めてるが、瓶の蓋を開ける気にならなかった。この時のために先生に休息を申し入れて、部屋に留まる許可を得た。念のために、解毒剤になりそうな物も作った。
今日という日のために準備してきた……戦時中の最中では、実行できる日は限られている!そんなことは誰よりも理解しているリシテア。
「……ま、まあ何にも起こらない可能性の方が高いですから」
参考にした文献も眉唾物だ。薬の効果より味の方が気になる彼女は、数十分の思考の時間を取って、ようやく口にした。
あまりの不味さに吐き出しそうになりながら一気に喉へと流し込んでいった。━━━魔女の媚薬、と呼ばれる薬を。
飲んですぐに効果は出た。妙な高揚感を覚えて、頭が蜜を蕩かしたように沸いていく。しかし、それは想定内だったので、リシテアはさほど驚かず残った理性で分析していった。
(……紋章への干渉は僅かながらあります。けど、これは望んだものではないですね)
体の中の二つの紋章が反応しているのを感じていた。熱い頭に幾多の紋章反応が現れて、感知できる。近くにいる紋章持ちの紋章がわかる━━といったところ。
「期待していませんでしたが、紋章に作用する薬の存在は、確認できましたか……」
これはこれで良い結果に繋がった。症状を記録して、リンハルトと話し合えば有意義な研究になりそう……と、どんどんぼんやりしていく中で、紙にメモしていった。
そして、いい加減理性が保てなくなってきたのを悟った。分析は後回しにして、手元のお手製の解毒剤を服用したが、即効性ではないようで、いつ頃になったら効くのか不明だ。文献と知識で作った薬なので効かない可能性も視野に入れて、リシテアは部屋を出た。
「部屋にいる方が……厄介です」
脳裏にチラつく紋章反応は厄介だった。軍の中で紋章持ちは少なくはない。頭で処理できない反応は頭を焦がして、焼き尽くすように思えた。
人目を避けれる場所を求めて、彼女はアビスへと向かった。さすがに、今回は付き添いを付けれなかった……。
「あー……これは留守かな。となると、行き先は彼処かな。もう暗くなるから行きたくないんだよなぁ……」
訓練で疲れて、ベンチで一眠りしてからリンハルトはリシテアの部屋を訪ねていた。今日が薬を試薬する日と知っていたので、様子を見るために来たのだが、ノックしても無反応だった。
二人で色々な仮説を立て合っていたので、リンハルトには居場所の検討はすぐに付いた。
おそらくアビスの書庫……彼と彼女には宝物庫だが、先生に籠りすぎて咎められて日は浅い。夕暮れ過ぎてからは治安の悪さを懸念して、訪れないでいた彼の足取りは重い。
「というわけで、よろしく〜!」
「……毎度のことだが、いきなり話を振るな」
「何って、リシテアの様子見に来たんでしょ?たぶん、アビスの書庫にいるから行ってきたらいいよ。僕は力不足で、君は適材適所」
三歩離れた所にいたフェリクスに事も何気に伝えていく。誰かが様子を見に来るとはなんとなく思っていたので、リンハルトには渡に船だった。厄介事を自ら請け負う気は、彼にはない!
「僕に来られても迷惑だろうからね。夜のアビスは近付きたくないし、何かあっても対処できないよ……体力もないし」
「堂々と言うが、虚しくならないのか」
「いや全然。人には向き不向きがあるし、僕は力を使うのは苦手だし、好きじゃない。そういうのは、カスパルとかに頼んで。血を見るのも駄目だから本当に戦闘に向いてないな……って、いつも思っているよ」
堂々と言い放つリンハルトは、いっそ潔かった。これまで何度も言われてきているのも窺えられ、実際彼は後方支援の方が向いている。
「ちょっと大変かもしれないけど、君なら大丈夫だよ。いざとなったら、力があるのはいいよね!」
「何か心当たりがあるのか」
「……言ったら怒るでしょ?誰に言っても叱られそうだし、そんな面倒臭いことになりたくないから。それじゃあ、後は頑張ってー!」
フェリクスが戸惑う内にリンハルトハは走り去っていった。脱兎の如くの走りに逃げ足の良さを再確認する。
「……脚力はあるんだな」
持久力なら問題なさそうだ、と明後日な方向に思考が飛ぶ。
アビスの地下に降りると地上の雰囲気とガラリと変わる。陽の光が入らないとこうも変わるのか…と、訪れる度に感想を抱いていた。
「おや、お兄さん。今日はお嬢ちゃんと一緒じゃないんですか?」
顔馴染みになってしまった入口の衛兵に呼び止められる。門番の役割をしている以上、顔を覚えられてしまうのは当然で、誰が来たのかも把握しているため、今はありがたかった。
「そいつが此処にいるんじゃないかと聞いてな」
「じゃあ、お迎えですか?見た目によらず、お兄さん面倒見良いですよね。なーんか具合悪そうにしていたんで、早く戻った方がいいと思いますよ……。あんまり娘さん一人で来る場所じゃあないですし」
「そうか」
要件を聞いた後は、例の書庫へ足を運ぶ。此処にいるのなら、リシテアの居場所は葬られた書物の眠り場しかない。
腹が減ってくる頃合いなので酒場を覗きたい欲が湧いたが、具合が悪そうと聞いては二の次だ。
「何をそんなに調べるんだか……」
心当たりがないわけではないが、リシテアに聞いたことはない。聞いてほしくなさそうにしているし、尋ねたところではぐらかされる気がしていたので、フェリクスは何も言わずにいた。
気にならないわけではないが、とりあえず今は関係ない。
天井まで届きそうな本棚に詰められた本は、いつ見ても壮観だ。全てが相応しくないと処分された物と思えば、教会への畏怖を抱く。
早速、書庫を見渡したが人っ子一人おらず、目当ての人物は不在だった。
なら上か下の階の方にいると推測し、書庫の中央の階段に向かう。立ち入り禁止を表す紐は、彼女にはただの紐──既に何度も行き来を繰り返しており、利用者も大変少ないので咎められることもない。
……気配を探ると、下の方にいると察した。静かな場所では耳を澄ませば僅かな音も聴こえ、忙しない吐息が時折耳に入った。
倒れられては困ると、地下への階段を降りていくと白い女性が息を乱して、床にへたり込んでいた。本や文献は散らばっておらず、背を向けた態度でも様子が違うのは誰の目にも明らかだ。
「おい、大丈夫か?」
「……フラル、ダリウスの紋章ですか。へぇー、こんな形なんですか。紋章って気味悪いんですよね……」
声をかけたが、振り向かずに何かぼやいていた。フェリクスには気付いているようだが、リシテアの反応は薄く、呆然としているように見えた。
「熱でもあるのか?」
「ない、とは言えませんね……想定内ですから問題ありません。帰って、くださ…い」
語尾は乱れており、どう見ても問題があるだろ!と心の中で突っ込んだ。そこで、ふとリンハルトが言っていたことを思い出した。
『……言ったら怒るでしょ?誰に言っても叱られそうだし、そんな面倒臭いことになりたくないから』
何をしたんだか不明だが、叱られるようなことなんだろう。それがリシテアの同意の元なのか……いや、さすがにリシテアの同意もなしに強行するリンハルトではない。リシテアも黙ってやられるタチではない。
となれば、両者の合意の元で何かしでかしたんだろう……。
「何をしでかしたんだ?」
「……その言い方は不服ですね。ちゃんと先生には伝えてますし、考えて実行したことです」
「そうか。それで、何をしたんだ?」
言い直しても態度や口調に怒りが含まれてるのがわかり、リシテアはバツが悪くなった。誰に聞かれても怒られるとわかっていたので仕方がないが、いざフェリクスに説明しなければならないと思うと気が引ける……。
「……実験です」
「何のだ?」
「……魔法の薬です」
「真面目に答えろ」
「もう!ちゃんと答えてますよ!」
ようやくリシテアはフェリクスの方へ振り返った。顔を赤く染めて、涙目に潤ませて、荒い吐息を吐きながら対峙されて、フェリクスは目を見開いた。
「風邪でも引いたのか?」
「……違います。病気ではありません。その、一時的な効果で、こうなっているだけで……人体に影響はない、はずです」
「目が泳いでるぞ」
「こ、これでも良くなったんです!解毒剤が遅効性だからまだ胸が苦しいだけで、別にそんな、意図的なわけでは……あるかもしれないけど、違います!」
「何を言ってる?」
頭がクラクラして、フェリクスは米神を抑えた。要領を得ないリシテアの言いようから何かを自分に仕掛けたのだろう……魔法の薬、そういえば、5年前にそんな話をしたことを思い出してきた。
「──ああ、味覚を変えるやつか」
「そっちじゃないです!なんで、そういうとこで変なところで鋭いんですか!あんたのそういうところが、どうかと思います!」
「……さっぱりわからん」
「今のわたしは頭がうまく働かないんです!だから、あんたといると苦しくて、破裂しそうなんです!」
「破裂?それはまずくないか……」
「もうっ!お菓子あげませんよ!」
全くもって理解できない非難を浴びて、頭が痛くなってくるフェリクス。聡明な彼女にしては支離滅裂で、言っていることの半分も理解が追いつかない。
いつになく興奮している様は動物のようで、対処法を考えるが何も思い浮かばない。
「とりあえず、落ち着け」
「落ち着くわけないじゃないですか!大体なんで、あんたが来るんですか?!一番会いたくなかったですし、大人しく訓練してたらいいじゃないですか!」
「何を怒っているんだ?お前の様子を見に行ったらリンハルトに此処にいると聞いたからだ」
リシテアのリンハルトへの好感度が一気に急降下した。余計なことを言ってー!と叫びたい衝動を抑えて、うーうー唸るリシテアの姿は感情が爆発している。少なくとも年相応以下で彼女が嫌ってる子どもっぽい。
異常事態と思いながら、頭痛がする中で現状把握を努めようとした。
「怒らないから何をしたのか言え」
「怒っていませんか?」
「元からこんな顔だ」
「もう少し笑った方が良いと思います……甘いもの嫌いも治らないし」
「病気扱いするな……。お前の菓子なら食えるようになっただろ」
今のリシテアには胸を貫くことを言われて、さらに鼓動を速めた。そんな心情を知らないフェリクスは、なかなか口を割らないリシテアを問い詰めていった。
「…………よく飲めたな」
「はい、自分でもそう思います。二度と味わいたくありません」
「何か事情があるのだろうが……知った以上、放っておくのも寝覚めが悪い」
「あんたのそういうところがずるいから困るんです!」
渋々と経緯を話したリシテアは不貞腐れてるようにも見えたが、頬は赤く染まったままだった。どういう形であれ、媚薬に手を出した事実は恥ずかしい……できれば、誰にも知られたくないもの。
「だから……大丈夫です。時間経過と共に治るでしょうし、解毒剤だって飲みましたし」
「そんなに媚薬なんか使いたかったのか?」
「違いますから!!副反応の紋章への干渉を調べたかったんです!」
「紋章……」
フェリクスには初耳である。これまで口を割らないでいたリシテアが自白してしまったのは、薬の効用で頭が働かないせいだと思い当たった。
今の紋章社会を嫌っている節はあったが、紋章学の本は積極的に読んで調べていたので何かが繋がった。何の紋章かは忘れたが、リシテアに紋章があるのは知っている。
「お前は珍しい紋章でも持ってるのか?」
「何を言ってるんですか。カロンの紋章は珍しくもないですし、グロスタールの紋章も別に……っ!?」
「グロスタール?」
気付いて、口を手で塞ぐが時すでに遅し。しっかり聞き取っていたフェリクスは当然の疑問を浮かべていた。
「な、何でもありません!もういいから放っておいてください!」
泣き叫ぶリシテアは悲痛の意思が籠っていた。不覚だったのは伝わるが、そう言われてる引き下がるほどフェリクスも聞き分けは良くない。
「──お前は何を隠している?」
詰め寄って、リシテアの腕を掴んで押し迫った。先ほどから頭痛に悩まされて、思考力が落ちて短絡的になっているフェリクス。両者とも違和感を覚える。
「な、なんですか!?」
「前から気になっていた。お前が何か隠しているのは知っていたが、一向に話そうとしないのは腹が立っていた!」
怒気を含みながら顔を近付かれて詰められ、リシテアは怯えた。フェリクスにしては怒るところがおかしく、隠し事をしているのが露呈していたのに困惑する。
「そんなに俺が頼りないか?話すに値しないか?」
「ちょっ、ちょっとどうしたんですか!?あんた、変ですよ!」
「そうかもしれん……さっきから頭がぼんやりする。だが、前から聞きたかった。見くびられてるなら苛立つ」
苛立つポイントがわからないリシテアだが、フェリクスの台詞に知見を得た。
さっきから頭がぼんやりする……。正常な思考が働かないからこそ、妙な行動をしたり口走ってると推測できる。じゃあ、どうしてそうなったか───すぐに答えは出た。
「ハッ!?媚薬のせいですか!」
効能を思い出して、顔を青くする。リシテアには紋章の影響を確認する代物だが、元を正せば媚薬である。作り出した媚薬は、相手を虜にする類……。
「ま、まま待ってください!とりあえず、離れてください!」
「うるさい……近くで騒ぐな」
「近いから伝染するんです!わたしは今媚薬を服用しているから、あんたにまで影響してしるんです!」
「うるさい」
いつになくぶっきらぼうで返される。口は悪いが、乱暴に遮ることはしないので薬の影響が強いのをリシテアは感じ取った。
彼女自身も薬に侵されているが、フェリクスの方が心配で意識を保てていた。
「フェリクス、離れてください。そうかからずに正気になると思いますから」
「……そうかもな」
声をかけられて、ぼんやり意識を取り戻していく。頭に靄がかかって冷静になれないが、状況は把握していた。リシテアの言っていることは正しいと理解している。だが……。
「なら、丁度いい。俺もお前も素面じゃないからで済ませれる」
「な、何を言ってるんですか!?」
「リシテア。──お前は、死にたいのか?」
琥珀色の目は鋭く、はっきりと怒りを孕んでいた。フェリクスの強い眼光を受けて、リシテアは硬直して頭が真っ白になった。
何を言っているのか不明瞭だが、核心を突いているのは悟れる。
「な、にを言ってるんですか……」
「いつも生き急いでる。焦ってばかりで、己の身を省みない。戦場では業を潜めているが、いつなりふり構わずになるかわからん。何より、たまに猪と同じ目をする」
「……なんのことですか?」
「どこか虚ろだ。何を見ているのか知らんが、少なくとも良いものじゃない。明日のことさえおざなりで、先のことなんか考えていないだろ!」
捲し立てられて身が竦むリシテアだったが、薬のせいで冷静でいられないのが功を奏したのか、心は反発心を膨らませた。
先のことなんか考えてない……そんなの当然です。考えたって無駄なのだから。
「わたしには時間がないんです!あと5年で費える命に未来を語れるはずないでしょ!」
勢いで隠していたことを暴露してしまう。
どこまで理性が残っているのか不明なフェリクスでも、流石に耳を疑った。彼女の言ったことを反芻させて、理解しようとするが思うようにいかない……けれど、彼の答えは決まっていた。
「それがどうした」
「ど、どうしたって?!あんた、何言って……」
「戦場に出れば死ぬ可能性の方が高い。生き延びたいのなら今すぐこの場を離れて、実家に引き篭もってろ」
「そんなことできません!わたしは早く戦争を終わらせるために此処にいるんです……父様と母様が早く平穏に暮らすために」
悲痛な思いで語るリシテアは居た堪れなかったが、媚薬のせいで頭が働かないフェリクスには靄がかかって見えた。普段の彼なら押し黙って、それ以上声をかけなかっただろう。
「だったら大した差はない。死なないようにすればいい」
「ですが……」
「終わった後にまた考えればいい。5年経つ前に死ねば、元も子もない。お前の両親だって望んでいないだろ」
家族のことを言われてリシテアは黙る。指摘されたことはずっと考えてきたことだ……親帝国派を掲げているコーデリア家は、他の諸国よりは安全度が高い。新皇帝のエーデルガルトも帝国派の者を無体を強いていない。
でも、何もしないでいるのはできなかった。余命が少ないリシテアには拷問で、少しでも早く平和が訪れるなら尚のこと。
「そんなの、わかっています。わたしが此処にいることで、立場が危うくなるのは承知の上です」
「……気の利いたことは言えん。今は頭が回らん。けど、俺からすれば大したことじゃない。驚きはしたが、それでどうこう変わらない」
「大したことないって?!あんた!」
「大したことないだろ。気にするんだったら、まずは生き延びることを考えろ。話はそれからだ」
価値観の違いを大きく感じた。薬に冒された最中で、彼が取り繕ってるわけではないのは理解してる。
先のことを見ているのは互い同じでも、見ている方向は随分と違って、リシテアの心が騒ぐ。……大したことない、なんて言われると思ってもみなかった。
「……あんた、驚かないんですか?」
「実感が湧かない。5年先のことを考えれるほど戦況は明るくない。俺には贅沢な悩みに聞こえる」
「そう、ですか」
贅沢な悩みと言われて思うところはあるが、フェリクスの言う通り、今の情勢では明日の命さえ危うい。戦争が終わったら……と掲げているが、終わりがいつになるかわからない。
リシテアが思考に耽っている間に、フェリクスは彼女から離れていった。怒らせたか……と気になって、近づこうとすると険しい双眸で制止してきた。
「近付くな」
「えっ……」
「頭が痛い……少し、休む」
薬の効果が切れてきていたリシテアは、フェリクスの発言で失念してたことを思い出す。
そうだった……効果は短いだろうが、彼は巻き込まれてしまっていたのだ。
「あの、すみません……わたしのせいで」
「別に」
背を向けられた簡素な返答は冷淡に聞こえたが、悲しんでいる場合ではない。