逆鱗に触れたのだろう。そう思えるのは、大体やらかした後に気付く……起こってしまった後に振り返って、反省できるもの。もし、時間を巻き戻せるのなら同じ轍は踏まない!
そうは思っても残念ながら過去は消せない、それが現実。今後、どうするべきかと身の振る舞いを考える方が有意義だろう。過ちを犯しても、その後の行動次第で好転に結ぶことは多い。
……しかし、打つ手なく八方塞がりの時はどうしたら良いか。答えが見つからない時はどうしたら良いのか。
「どうしたんだ、ディミトリ? 浮かない顔をしているが……」
担任に声をかけられて、ハッと彼は我に返った。今は会議中だと言うのに、別の事に耽っていたことを恥じる。
「先生、すみません。つい考え事を……」
「へぇ〜? 堅物なディミトリ皇子様が大好きな先生との会議中に違う事を考えるとは……おっ、ついに春が来たか?」
「クロード、揶揄うのはやめてくれ。そんな風に浮かれていない……ちょっと悩み事だ」
「青春を謳歌するのは学生の嗜みだろ? しかし、会議中に悩み事とはね~! ぜひご清聴願いたいところなんだが」
「クロード……その辺にしておけ」
同じ会議に出席していたクロードがディミトリを揶揄い、ベレトが止めに入る。
級長会議の最中のこと……名前の通り、級長が集まって話し合うのだが、議題はほぼ終わっていたので、ディミトリの様子を聞いたのをきっかけにお開きになっていった。
「悩み事があるなら聞くぞ。役に立たないかもしれないが、話をするだけでも気が楽になる」
「先生、ありがとうございます!」
「そうそうー! 俺も聞くぞ!」
「……クロードが言うと胡散臭く聞こえるわね」
エーデルガルトに指摘されると、彼女の隣に座っているクロードは戯けて肩を諫めた。彼女の反対隣にいるディミトリの考えている様子を見て、向かい席に座るベレトは促すように話を続けた。
「ディミトリは、ここのところため息が多かったな。ドゥドゥーやアッシュが心配していた」
「そ、そうだったのですか! ……俺もまだまだです」
「いい仲間を持ったじゃないか。何かの縁だと思って、誰かに相談するのもいいんじゃないか?」
ディミトリは迷った。相談できたら助かると思っていたから願ってもないことだ。
ここで言うべきか否か……今は絶好の好機。エーデルガルトとクロードがいるこの時が!
「実は……相手に良くないことを言ってしまったと反省していた。俺への態度が変わった後に気付いたのだが、どうしたら良いのかわからなくて……。それで悩んでいた」
「へぇ〜! 皇子様がこうも難色を示す相手とはな。よっぽど面倒くさいお相手だったのか?」
「クロード、こういう時は茶化さないの。悩んでいるようなんだから」
「気にしないでくれ。俺は女性のことはわからない……良い機会だから皆にも聞いてみようと思う。その、リシテアの逆鱗に触れたようだから……」
相手の名前を聞いた途端、エーデルガルトとクロードは固まった。一呼吸置いて『あー……さっきの発言は無しで』と、クロードは発言の撤回を申し出て、彼女はじろりと目で嗜めた。
「リシテアが? ディミトリに?」
にわかに信じ難くて、ベレトが問いかけた。奇妙な組み合わせだと、他の者も同じ疑問を持った。
「そうね、リシテアがディミトリに……想像が付かないわね」
「俺ならわかるんだがな。なんだ、子ども扱いでもしたのか?」
「いや、そうじゃない。その、気になっていたことを尋ねたのだが……どうやら、それが良くなかったみたいで」
三対の続きを求める視線を受けて、ディミトリは深呼吸をしてから話し始めていった。
それは、書庫整理の当番が一緒になった時のこと──。
リシテアが机に積まれた本を分類して、背の高いディミトリが棚に収めていく分担作業している最中だった。二人とも真面目で早く当番を終わらせたかったので、スムーズに事は進んでいった。大した雑談らしい話はしていないが、話し辛さや空気の悪さなどはない。
最後の本を仕舞った時、彼はずっと気になっていたことを思い切って口にした──。
「君の髪色は珍しいな……と」
「駄目ね。無神経だわ」
即座にエーデルガルトがバッサリ切った。痛快な言い切りように男性陣は声を失った。
「そ、そうなのか!?」
「珍しいということは、気にしていることでもあるのよ。特に女性に、外見に関することを軽率に口にしたら駄目よ! いきなり尋ねるのも配慮が足りないわ」
「す、すまない……」
叱られた子どものようにしゅんとなるディミトリと予想外の叱責をする紅一点に驚きながら、周囲は宥めるように合いの手を出していった。
「へぇ〜珍しかったのか。俺はフォドラの外から来たから、そういうもんだと思って気付かなかったな」
「俺もそんなに……。変わってると聞いたことはあるが、気にしていたかまでは……」
「先生と生徒同士だと違います。でも、変ね……それでリシテアの逆鱗に触れたとは思えないわ。他に何かあったの?」
凛とした鈴の音に促されて、ディミトリはおずおずと口を開いていった。
たしかに、髪が珍しいと尋ねた時は「そうですか」と返されて、機嫌が悪くなった様子はなかった。
「今にして思えば、それ以上聞かないでほしいという合図だったのかもしれないな……」
彼は嘆いた。その時は露ほど気づかず、さらに言葉を重ねてしまった。ずっと気になっていたことを、確かめたかったことを。
「その髪は生まれた時から白かったのか? それとも、後から白くなったのか? ……と」
男性陣は平然と聞いていたが、エーデルガルトは絶句した。なんて無神経! と、事情を知る者は蒼白の顔で唇を震わせる。
「その質問には答えてくれず、その場を去ってしまった。それ以降、リシテアは俺に対して……口を聞いてくれなくなったというか」
「無視されたってか?」
「いや、そんなことはされていない! 質問したら答えてくれるし、話も聞いてくれるんだが……どうも避けられてる気がして……」
それはそうよ、と喉から出かかった言葉を飲み込んで、彼女は成り行きを見守るよう努めた。ここで下手なことを言うわけにはいかない……知らない方が良いことはたくさんある。
「そんな風に見えなかったが、リシテアは学級を移って日が浅いからな。俺も見落としていた」
「おいおい、うちの元生徒に何をしてくれたんだ? あいつは面倒くさいぞー。根に持つし、すーぐ不貞腐れるんだからな。子ども扱いしないでください! ってさ」
「それはクロードだからだ……」
ケラケラ悪びれるクロードによって、深刻になりかけた空気は治った。ここで話したことをディミトリは後悔しかけたが、すぐに励ましの声が上がった。
「ディミトリが反省しているんだ。ちゃんと気持ちを伝えればリシテアはわかってくれる」
「先生……!」
「そうそう、まだ学級異動して間もないんだろ。なーに、俺の方が対処法は知ってる。どういった事情か知らないが、話してわからない奴じゃない」
「だといいのだが……肝心の話す機会が作れなくて。何度か伝えようと試みたんだが、なかなか会わなくて。教室は誰かといることが多いし、訓練も違うからな……」
授業は被ってないし、級長は他の生徒の様子を見たり、自主鍛錬と忙しく、またリシテアも毎日色々なことに取り組んでいる。なかなか機会が訪れずに時だけが流れていた。
暗くなる雰囲気の中で、一名は悠然と解決策を説いた。
「なんだ、話す機会がほしいのか? そんなの簡単じゃないか」
「そ、そうなのか?」
「俺達を頼ったように、ディミトリは人を使うことを覚えた方が良いぞ。身近に打ってつけの人物がいるじゃないか! ……面白くなりそうだ」
「既に怪しいわね……」
どうしてだろう……クロードが自信満々に話せば話すほど、胡散臭く思えてしまうのは。皆の疑いの眼差しを受けても彼は飄々としていた。
ということを経て、数時間後の教室にて。
「話がしたいそうだ」
いきなり用件を告げられて、リシテアは顔を顰めた。何を言っているんだ? と思ってしまうのは致し方ないが、彼の実直な言いようには慣れてきていたので意図を汲み取っていった。
「えーと、どなたがですか?」
「猪が」
「ああ……そうでしたか……」
相手の名を聞くや否や、リシテアは顔を曇らせていった。その珍しい様子に今度はフェリクスが眉を潜めた。
「あいつが、何かしたのか?」
「いえ……大したことではありません。つい子どもっぽい対応してしまって……当番押し付けちゃいましたし……」
動じないつもりだったのに、と心の中で付け加えた。リシテアもディミトリに対して大人気ないことをしていると悔いていた。
彼もみんな知らない……知らないのだから聞かれても不思議ではない。変な聞き方ではあったが。
「わかりました。どうしたらいいですか?」
「これを渡すように言われた」
そう言ってフェリクスは一枚の紙をリシテアに渡した。折り畳まれた大きめの厚紙は新しいお店の開店を知らせるチラシだった。
「えっ?! こ、これって新設のカフェじゃないですか! 人気で予約必須と言われている!」
チラシを見て、驚嘆の声を上げるリシテア。そこに記されていたのは新しいお店──フォドラ中のお菓子が取り揃えている、と謳うカフェの告知だった!
右隅に『明日、此処で待っている』と簡素な文が添えられており、カフェにて和解の機会を設けたいと窺い知れた。
「ん? ……幻の氷菓子レシピを再現したって! まさか、パルフェのことですか?!」
「食い付いてるな」
「ハッ?! い、いいじゃないですか! 誰の入れ知恵だか知りませんが、気になっていたお店ですし」
顔を高揚させて、ウキウキ気分になっていく彼女にもう暗い姿は見られなかった。一応、深刻な話ではあるのだが……まあ快諾されて何よりだ。
「でも、怪しいですね。ディミトリがわたしの好みを知っていたと思えませんし……まさか、あんたが!?」
「何故、奴にお前の話をしなきゃならん」
「そうですよね。ということは……」
ちらりとフェリクスに視線を送って、続きを促した。少しの間を置いてから、リシテアの疑問を晴らすため重い口を開いた。
それは一刻ほど前のこと……訓練所で一息付いていた時に、徐に奴はやって来た。鼻歌と軽快な足取りで、振り向かなくても誰だか察せれた。
「よお! ちょっと頼まれ事があるんだが」
「断る」
「先週、ナルデールから故国の短剣を送られたんだが要るか? 刃の所がギザギザになっていて、フォドラじゃ珍しいんじゃないかー?」
「…………話は聞いてやる」
チョロくないですか? とリシテアは思うが、この話の流れで誰か察した。的確に相手の弱点を突いて交渉に持っていくのは彼らしい。
「ディミトリがリシテアと話がしたいんだとさ。でも、あいつ拗ねると大変だろ? 話しかけ辛いから何とかしてほしいーって泣きつかれちゃってさ……」
『ちょっと待って! わたし拗ねてませんから!』と言いたいのを堪えて、リシテアは苦々しい様子で続きを促す。
「……それが?」
「仲人を頼みたいんだよ、お前さんに。俺じゃ警戒するからさ〜」
「他に頼め」
「今なら俺特製の調合薬も付けるぞ! これを鏃に塗って、射つと効果覿面! あっという間に猪も鹿もごろんってな」
「…………とっとと言え」
チョロくて甘々じゃないですか……。そう思うリシテアは、フェリクスに呆れた目線を送ると、うるさいと態度で返された。
「そんなわけで、クロードに頼まれた。お前にこれを渡せ、と」
「それはそれは。素敵な取引ができて良かったですね」
「何の意図か知らんが、用件は済ませた」
「ええ、聞きました」
本当に事務的だと彼女は思うも、下手に探られるより良かったと胸を撫で下ろした。そういう点ではアネットやイングリットより助かったかもしれない……。
ようやくディミトリとの解決口を見つけられて、リシテアは安堵の笑みを作った。クロードにしてやられた感がするのは癪だが。
「クロードには『次会ったら覚えておいてください』と伝えておいてください!」
「そう言われたら『今度サガルトが出たら俺の分をやる』と、伝えろと言われている」
「……くっ! クロードらしい姑息さです!」
チョロくないか? とフェリクスはリシテアに対して思った。これに関してはお互い様である。
§§
ということで、翌る日の放課後。勉学と訓練を終えたリシテアは予定通り市場の方に出向いて行った。
教室から出て行く彼女を遠目で見送り、おそらくディミトリの方が先に向かっているだろう……と、フェリクスは思い馳せる。ついでに、なんとなーく武器屋でも見に行きたくなった。武器屋にね?
リシテアが面倒なのは彼がよく知っていたので、ディミトリが何かしらの理由で不快を買わせても不思議ではない。……二人が気にならないと言えば嘘になるが、彼女も悪く思っていたようだし、話をすれば良い方向に向かうだろう。
そう考えつつ、市場の方へ足を向かわせると──…珍しい見知った集団に遭遇した。
「おっ、フェリクスも来たか。なら一緒に行くか?」
当然のように誘ってくる男はクロードだった。そして、すぐ側に担任のベレトとエーデルガルトがいた。
どうして物陰や樽に隠れて、市場への通路に屯しているのか……。
「……何をしている」
絞り出した声をかけると、「えっ?」と三人同時に驚いていた。……おかしな質問ではないはずなのに、自分が間違ったことを言ったかと錯覚してしまうフェリクス。
「何って……改めて言われると困るな」
「聞くまでもないでしょ?」
「成り行きを見守るのも担任の務めだ!」
何をだ?! と突っ込む前に三人は動き出した。行くぞ、と当たり前のようにベレトに促されて、ついフェリクス足が動いてしまった……。
隠れながら時には走り、時には立ち止まり、時には散らばって、追いかける先……追跡している人物を見て状況を把握した。なるほど、考えることは同じか……と、急遽加わった四人目は納得した。だいぶ理不尽な状況だが、皆心配なのだろう……面白がっている者もいる気がするが。
そうこうしている内に、パステルカラーの旗とお菓子の看板が吊り下げられたカフェの前にて、二人は無事に合流した。ぎこちない雰囲気であるが、悪い空気はなさそうだ。
「無事に落ち合ったわね。……うまくいくといいのだけど」
「後はなるようになるさ。見ろよ! リシテアの奴、花を飛ばしてるぞ」
「フォドラ中の甘いものが揃っているのだもの。そんなの当然よ!」
「そうか、エーデルガルトも甘いものが好きなんだな」
うっかり本心が出てしまったのをベレトに指摘されて気付くエーデルガルト。慌てて弁明していくが、照れの混ざった様子に師は微笑ましい気持ちになっていった。
「と、とりあえず、店に入ったわね! 第一段階突破ね」
「んじゃあ、第二段階の遂行に行きますか!」
「そうだな。外の食事も楽しみだ!」
ごく自然な流れで、物陰から飛び出した三人は新装オープンのカフェへと向かっていく。軽快な足取りで向かう六本の脚に付いていく者は、苦虫を噛み潰した顔付きで口を開けた。
「は、入るのか……?」
店の前でようやく尋ねると、三色の彩とりどりの瞳がフェリクスを射抜く。まるで、自分が非常識なことを言ったのを責めているかのように……。
「えっ、入らないの?」
「此処まで来て、お留守番するのか?」
「安心しろ、先生が出すぞ!」
そういうことじゃない! と当然の突っ込みは、カランカランと響く店のベルの音で消え失せた。
もういい……何を言っても無駄だろう、と諦めたフェリクスは席を案内されて楽しそうにしている連れ達を見て、どうにか状況を受け入れようと善処した。
鼻腔を擽る甘い匂いは、甘いもの嫌いの胃を押し上げていった。これが彼の初めてのスイーツ店来訪になってしまった……。
§§
──案内された席は窓際で陽射しが良かった。オープンしたばかりで客足は賑わっているが座席数は少なく、淡い水色と白の基調の店内は落ち着いた雰囲気が保たれていた。
「すまないな。突然、呼び出してしまって……」
「いえ、構いません。このお店は気になってたから来れて良かったです」
「それなら良かった!」
社交辞令の定型文から始まったが、二人の空気はだいぶ和らいでいた。甘いものが大好きなリシテアに打って付けの店なのも功を奏していた。好きなのを頼んで良いとディミトリに促されると目を輝かせてメニュー表を覗き込むほど……。
悩んだ末、季節のティーセットを二人分頼むとディミトリは深呼吸して話を切り出す。
「まずは謝罪したい。どういう理由であれ、君を傷付けてしまった。本当にすまなかった」
「あの、一国の皇子がそんなに謝らないでください。恐縮します……わたしも大人気なかったですから」
「リシテアが気に病むことはない。あの後、エル……じゃなかった。エーデルガルトに色々言われてしまった。……無神経、だと」
「そう、ですか。…………エーデルガルトが」
きっと厳しくディミトリに言及したのだろう、と察せれた。項垂れている彼の様子を見れば、何か言いたかった思いは萎んでいった。元より深く追及するつもりがなかったリシテアは、さらに溜飲を下げていく。
「わたしは気にしていませんから、そんな顔をしないでください。せっかくのお菓子が食べ辛くなります!」
「あっ、ああ……そうだな。ありがとう、リシテアの心遣いに感謝する。学級移動してきたばかりの君に俺がするべきことなんだが……面目ない」
「いいですよ、別のお話をしましょう? ディミトリはお菓子が好きですか?」
「えっ? あ、ああ……嫌いじゃない。あまり食べる機会がないから好きとも言えないが。さっき注文したお菓子の説明もわからなくて……」
「ふふっ、そうですか。お菓子嫌いなんて言い出したらどうしようかと思いました! 本当に信じられませんよね!」
何故リシテアの機嫌が良くなったかわからないが、ここは頷いておいた方が良いだろうとディミトリは判断した。
(お菓子か……そういえば、彼女も好きだったな)
甘いもの語りをするリシテアを見ていると、懐かしい大切な思い出が蘇っていく。……このお店に連れて来たら、どう思うだろうか? 気に入るだろうか? 束の間の淡い夢物語を見てしまっていた。
窓際の一番奥の席から二席離れたテーブルセットにデバガメ……ゴホン、様子を見に来ていた四人が着席していた。ちょうどディミトリの背後に位置するので、向かいに座るリシテアは目の前の男に阻まれてるので見つかる可能性は低い。
見つからない点では絶好の位置と言えるが、彼らからは二人の様子がわからずにいた。
「こういう時、ディミトリってでかいんだなと思い知らされるな」
「そうね、リシテアが隠れてしまって言えないわね……」
「席を移動するか?」
「いや、まだやめておくか……こっちは人数が多いからな。見つかったら厄介だ」
率先して探ろうとする者達を尻目に、フェリクスは不服そうにスパイスティーを口にした。「何故、こんなことに……」と、ありありと態度に出ているが、他の三人は気にせず甘味を食べたり、お茶を飲んだり、お喋りしながら様子を窺っている。
……もはや、ただのお茶会じゃないのか?
「あら、このベリータルト美味しい!」
「そうか。エーデルガルトが気に入ったようで嬉しいよ」
「せ、師! その、食べているところを見られるのは恥ずかしいから……そんなに見ないでください」
「すまない。つい目に入ってしまうんだ」
「おっ、俺達は蚊帳の外だな」
目の前でなんか学級を超えた師弟愛を見せつけられて、向かい席のクロードは嘆息した。 隣のフェリクスは仏頂面で聞いてるのか、聞いてないのかわからない態度を取っている……といっても、この距離で聞こえないはずがないのだが。
「あちらさんはよく見えないが、険悪じゃなさそうだな。いやー、円満に解決できて良かった良かった!」
「……白々しい」
「何事も経験って言うだろ」
人を使っておいて何言っているんだ、と喉から出かかった言葉は紅茶と共に飲み干した。クロード相手に下手なこと言っては藪蛇になりかねない……一を言ったら十で返ってきそうな口達者では、フェリクスの分が悪い。
「リシテア、大丈夫かしら?」
「豊潤な大地の帝国領のエーデルガルト様がお気に召しているのなら、リシテアも美味しく食ってるだろうさ」
「そういうことじゃないわよ。……まあいいわ。良い雰囲気になってるし、和解はできたようね。本当に、無神経なことを言わなければ良いのに!」
そういえば……と、フェリクスはディミトリとリシテアに亀裂が入った理由を知らずいたことを気付いた。拗ねやすい相手なのだから、猪が何か不用意なことを言ったのだろうと察せれるが……気にはなった。
「そういえば、何があったんだ?」
「なんだ聞いてないのか。……って、俺も詳しくは知らないんだが、リシテアの髪について聞いたのがまずかったらしいぞ」
「クロード、余計なこと言わないの!」
エーデルガルトが強めに制止して少々驚くも、すぐに珍しい髪色だからと簡潔な理由を付け加えた。
「珍しいということは人から揶揄われたり、変な風に言われて、気にしていることでもあるのよ。──私もそうだったから」
「そういえば、エーデルガルトも同じ色だな」
「ええ……だから気になるのよ」
目を伏せた表情は、これ以上聞かないでほしいと訴えていた。女性の外見に関してはデリケートな話題なので、わざわざ触れることでもない……と思うも、皆違和感を持っていた。──エーデルガルトにしては過剰ではないか、と。
気付けば、フェリクスの口は勝手に動いていた。
「嫌っているのか?」
「そうね……好きではないわね。貴方もリシテアに似たようなことを言ったのかしら?」
「……さあ」
「私と彼女は別人だから参考にしかならないわよ。聞かれて構わない人もいれば、僅かでも知られたくない人もいる。どちらかは、私が言うまでもないでしょう?」
鈴の音を思わせる凛とした声は、フェリクスに柔い棘を刺した。
知られたくないということは、何かがある証。エーデルガルトから何か伝えられた……そんな気がした。
「女性は厄介だからなー。不用意な発言が命取りってな! 先生もフェリクスも気を付けておけよ」
「貴方が一番気を付けた方が良いんじゃないかしら? いつか刺されそうよ」
「何を言ってるんだよ。俺は一番の気遣い屋だろ!」
「気遣い屋は自分から言わないのよ」
瞬きの疑念は、外野から声でかき消される。些細な違和感は、いとも簡単に縫われ、ほつれていった。
甘い紅茶と美味しいお菓子が、リシテアの心をゆるく蕩けさせる。ディミトリとの気まずさは潜め、お菓子の話題から始まって少しずつ打ち解けていった。
「まだ学級移動して間もないだろう。気になることがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、特別変化はありませんから」
「ならいいが。……実は、他の移ってきた者からは座学を増やしてほしいと言われて、検討していたところなんだ。ぜひ、君の意見も聞きたい」
「そ、そうですね……良いかもしれません」
青獅子学級に移動してきたばかりのリシテアは、実技訓練の多さが気になっていた。金鹿はわりと自由だったので反動があることやそれぞれの学級の良さを折含めて、伝えていった。
……リシテアにもう蟠りはない。聞かれても仕方がないし、うまく返せなかった自分が子どもっぽくて情けないと自負してる。
何より、ディミトリに悪意がない。最初からわかっていたが、本当に気になったから聞いてきたのだろうと、彼とちゃんと話をして確信を持った。
「ディミトリ……以前の質問ですが」
「以前? ああ、すまないが、どれのことを言っているのか」
答えても良い。きっと彼には必要なことなんだろう……そう思えた。
「わたしの髪色は元々こんな色ではありません。あることをきっかけに……色が無くなったんです」
「……っ?!」
「詳しくはお話したくありませんが、質問には答えておきます」
自身の髪を一房取って語るリシテアは複雑な胸中でいたが、これが誠実な対応だと考えた。
突然の返答にディミトリは息を呑み、少しの間呆然としてしまう。一番聞きたかったことを理解した途端、頭の中のピースが繋がっていき、束の間の面影花が鮮やかに咲き乱れた。
「前は、すみませんでした」
「あ、ああ……ありがとう、リシテア……」
「……? あの、どうかしましたか? 気分が悪いようでしたら」
「い、いや、そんなことはない! ありがとう! ──本当にありがとう!」
つい声大きく感謝の言葉を紡いだため、他の客達が不躾な視線を投げていった。予想以上に響いてしまったことに気付いて、ディミトリはしどろもどろに謝った。
「す、すまない! 声が大きくなって……」
「いえ、平気ですから。そんなに驚くようなことでしたか?」
「えっ?! あっ、いや……そ、そうだな! びっくりしてしまった」
リシテアの言ったことを反芻して噛み締めると、ディミトリの鼓動はどんどん早くなっていった。彼にとって十分な核心を得た解なのだから、興奮してしまうのは無理もなかった。
「そうだ、初めて剣を折らずに力を振るえた時の喜びと似ている!」
「は、はあ……そうですか。こんな回答で恐縮ですが」
「いいや、そんなことはない! 無神経な質問をしてしまったのに……答えてくれて感謝する!」
初めて見るディミトリの満足そうな様子にリシテアは訝しがっていた。こんな回答で喜んでいるのが不思議に見える……彼女としては、どうして白くなったのか? 何があったのか? などと、聞かれる覚悟をしてたので拍子抜けだった。
(……わたしを通して、何かを探っている?)
聡明な才女は彼の本意を思い当てたが、突拍子がないため頭から追いやった。
気になっても相手に何かを尋ねる行為は、自分も聞かれてしまうことを孕む。不用意に追うのは得策ではない……何を思ってもリシテアは口を閉ざすしかなかった。
§§
「い、いや、そんなことはない! ありがとう! ──本当にありがとう!」
ディミトリの大声は、離れた席にいる者達にも聞こえた。とうとう此処にいることがバレたか……と身構えたが、二人にそのような気配はない。
「見つかったわけではなさそうだな。なにを話してるんだかなー」
「詮索するのは野暮よ。聞かれたくないことは誰にだってあるわ」
「此処まで来ておいて、なに正論言っているんだよ? 一番気にしてただろ……」
不満そうにクロードが漏らすと、エーデルガルトは涼しい顔でカップに金のスプーンで砂糖を入れていった。
「もう終わったようだから良いのよ。いつまでも過去に拘ってられないわ」
「過去があるからこその現在、未来だろ? ──偉大なる英雄も所詮は、ただの人。名のある先人たちは残った人々が語り継がなければ、歴史書に載らない無名の子だ」
「あら、それなら……人ならざるものは、過去に縛られて身動き取れない哀れな愚者かしら? 気の利いた皮肉で好きよ」
「これはまた意味深だな、お嬢様。生憎、時の流れに身を任せる気もなければ、未来は俺の手で作りたいんでね」
「奇遇ね、私も同じよ。──時計の針を早く進ませたいくらい明日が恋しいわ」
「せっかちは嫌われるぞ。急いては事を仕損ずるってな」
いきなり難しい話をし出す切れ者同士に声をかけれず、蚊帳の外になった二人は聞いてない振りをして、紅茶のカップを手にした。沈黙は金ともいう。
「険悪な雰囲気は良くないわね。美味しいお茶会が台無しよ!」
「急にしおらしくなったな、一番乗り気だったのに……。そういえば、前から思ってたんだが、エーデルガルトは随分とリシテアにご親切だよな。当番代わったりと甲斐甲斐しいことで?」
「そうかしら? どこで聞いたのか知らないけど、具合悪そうにしていたら誰にだって声をかけるわよ」
「……シッ! 二人ともその辺にしておけ。熱が入って、声が大きくなってる」
間に入ったベレトによって、エーデルガルトとクロードは文字通り、お茶を濁した。互いにそれ以上続ける気はなかったので、話題は目の前のお菓子に移っていった。
他人事のように聞いていたフェリクスは、先程の会話とディミトリの大声で一つの疑念に囚われていた。
(珍しく興奮していた声だった……欲しかった武器を手に入れた時のよう。あいつが、猪の欲しがるものを持っていたのか?)
昔馴染みだからこそ、ディミトリの喜びが大きいことがわかった。
しかし、最近学級移動してきたリシテアとは接点がなかったはず……以前から交流があったとしたら、どちらかが話題にしそうなのに今日まで無かった。結び付かない二人にフェリクスが疑問を浮かべるのは当然だった。
我関せずを装って耽っている彼を──…卓上の紫の瞳は捉えていた。
(……彼は連れて来ない方が良かったかしら。でも、これで終わりならそれまでね)
フェリクスは不用意に詮索してこないと思うが、リシテアからすれば僅かな疑念さえ持ってほしくないだろう。それは、エーデルガルトだからこそ気付いていたが、此処に誘ったことに後悔はなかった。
何も知らない方が互いに良い。しかし、それは何も変わらず、進まないことにも繋がってしまう。
「余計なお世話よね……」
誰にも聞こえない呟きは、紅茶の砂糖と一緒に溶けた。
事情を知る者同士でも言わぬが花。少なくとも今は。
§§
それぞれの思惑が巡る最中、陶器の割れる音で現実に戻される──。
ちょうどディミトリ達とベレト達の席の間の客が、カップを床に落として割ってしまった。その場にいる者の視線が音の方に集中してしまい、合ってはならない者達と交わってしまう。
「あっ!」
「……え?」
驚愕と呆気に取られた声が合唱した。困惑しながらも互いの意図を探っていき……。
「後を尾けていたみたいですね……」
「そう……みたいだな」
ディミトリとリシテアの方が早くに状況を理解した。面子が面子なので事態は把握しやすい……ベレトがいるのは予想外だが。
隠れて様子を窺われると心地が悪いので、この際だからと二人は追跡していた者達との合流を図った。
「おおっと奇遇だなー。俺達も"偶然"お茶してたんだよー」
「そうですか。へぇー……"たまたま"にしては珍しい組み合わせですね、クロード!」
素知らぬ顔で知ったかぶるクロードに怪訝な視線を送ってしまうが故、矛先は彼に向いた。
「どうせ、発端はあんたでしょ! 趣味が悪いですよ」
「おいおい、いきなり俺を疑うとはなんだ! 言い出しっぺは俺じゃないからな」
「白々しい。クロードが関わるのなら、まず疑うのが常識です」
「言い掛かりな常識を持つなよ……。それに、先入観はよくないぞ。大局を見据えた目を持たないと、してやられるぞ?」
「あんたが面白がっているのはわかりますよ!」
リシテアとクロードが口論している隙に、ベレトとエーデルガルトは気まずそうにディミトリに顔を向けた。
「すまない……気になって」
「ごめんなさい。どうしても様子が気になったの」
「い、いや、驚いたが、別に気にしていない! 元はと言えば、俺が招いたことだから!」
項垂れてしおらしく謝罪する恩師と次期皇帝陛下に、実はノリノリで二人の後を尾行していたとは思えない。あまりの変わりように、フェリクスは他人の振りをしながら胡乱げな視線を送った。
「フェリクスも来るなんて意外だな! こういう所は好きじゃないだろ」
「俺は巻き込まれたからだ。見ればわかるだろ」
「そうだが、意外だからな。お前なら誘われても応じないと思っていたから」
「……ふん」
ぶっきらぼうな応対にディミトリは頰を掻いた。彼の言う通り、いつもなら素通りしていただろう、とフェリクス自身も思っていた。
甘いものしかない店など願い下げだ。なのに、何故自分は此処にいるのか……不可思議に感じていた。
「あの、ところで……先生達は何を食べていたのですか? い、いえ、興味本位ですよ!」
「私は季節のお菓子セットよ。クロードはフォドラの焼菓子セットで、師は──」
「これだ!」
目を輝かせてベレトはメニュー表のある項目に指を差す。そこに記されていたのは…………馴染みある言葉で言うと、オンリーワンな特大パフェだった。
「ええっ?! せ、先生、それにしたのですか?!」
「ああ、この店の一押しらしい」
「でも……それって、四名以上向けではなかったでしょうか?」
「ちょうど四人いるから最適だろう。気にするな、俺は一日七食くらい問題ない!」
「……師、それは食べ過ぎです」
リシテア達が驚いている最中、お待たせしました〜! と明るい店員の声が降ってきた。……大きな器に盛られたアイスクリーム、シャーベット、季節の果物やクリームが添えられたパフェと共に。
「こちら、当店おすすめの特大ひんやり氷菓子になります! 溶けてしまわないうちにお召し上がりくださ〜い!」
でかい! 目を疑うほどの大きな物体に、ベレト以外の者は驚愕の色に染めていた。
人数分のスプーンを配って店員は颯爽と立ち去り、残されたパフェを嬉々として見つめるベレト、美味しそうな甘いものに興味津々の女性陣、ドン引きしながら冷や汗が流れる男性陣が出来上がった!
「おお凄いなー! 食べ切れるか心配だな」
食べ切るつもりでいたのか?! と、皆の心の声が揃った。
「あ、あの……先生。よ、よかったら、わたしも一緒に食べても良いですよ? その量じゃ大変ですから。せっかくの氷菓子が溶けるのは良くないですから!」
「師、私も手伝います。リシテアの言う通り、一人じゃ大変だと思うので……」
「ああ、そうだな。みんなで一緒に食べようか!」
えっ、俺も……? とその場の男達はアイスの如く、凍り付いた。互いに顔を見合わせて、胃が気持ち悪くなっていく。
「せ、先生! ……少しなら大丈夫です」
「要らん」
「いやー……俺は、ちょっとお腹いっぱいかもなー」
「そうか。美味いぞ?」
口々に言い訳を述べて、美味しそうに分かち合う様を見て、また胃がせり上がっていった。なんでこんなのを食べているんだ……と思いながら。
§§
店を出ると、陽が沈もうとしていた。特大パフェで有耶無耶になったおかげか、和気藹々な空気で寮や学校の方に戻っていく放課後。
その道中で、フェリクスは気になってたことを問うた。
「髪のことを聞かれるの嫌なのか?」
突然の核心を突いた質問にリシテアの顔が強張った。それは尋ねた者にもハッキリとわかった。
なんでそんなことを……と思うも、頭は返事を組み立てていた。先を歩く先生と級長達とは距離が空いているから聞かれる心配はない。それなら……。
「嫌いですよ。わたし、自分のこと話すの好きじゃないですから」
正直に答えた。フェリクスに誤魔化すのは嫌だった。こう言えば、これ以上聞いてこないだろうという思惑はあるが、聞かれたらちゃんと答えたかった。
「元々、こんな髪じゃなかったんです。色々あって変わってしまって……良い思い出はないので」
「そうか」
「……わたしの本当の色が気になりませんか?」
リシテアにしては思い切った問いかけだった。嫌でも虐げられた過去を思い出すし、本来なら避けたい変えようのない事実。
だが、意図の読めないフェリクスには単なる愚問だった。
「別に」
「なんですか。……拍子抜けですね」
「知ったところで見れるわけでもないんだろ。それに、どうしても違和感を持つ」
「違和感ですか?」
「俺や他の奴も、その色のお前が最初だ。違えば、お前らしく思えない」
普段通り、淡々と答えるフェリクスにリシテアは面食らう。予想以上に興味がない……一時の寂しさを覚えるが、目から鱗の彼らしい回答は心を満たしていった。
「……あんたって、第一印象を重視するんですか?」
「そうなるのか?」
「いえ……金髪かもしれませんし、茶髪かもしれませんよ。あんたと似たような色かもしれません。気にならないのですか?」
「別に。どうでもいいだろ」
外見の拘りが薄い……フェリクスからすれば、本当に瑣末なことだと推して測れた。興味がないと言えるが、リシテアの拗れた思いはゆるくほぐれていった。
「お前はどうか知らんが、雪を思わせるから馴染み深い。見慣れた色にどうこう思わんだろ」
「雪、ですか……」
「遭難したら困るな。色が同じだから救助は絶望的だ」
「突然、物騒な話になりましたね……。レスターは雪が降りませんよ」
雪の中の遭難に飛躍してしまったが、話題が移るのは都合が良かったので続けた。
──馴染み深い、か。違和感しかない髪色は、彼には見慣れたもの。たったそれだけのことなのに、リシテアの心が軽くなってしまった。
「我ながら現金ですね……」
「何だ?」
「こっちのことです。そうそう、どう言われたのか知りませんけど、お菓子のお店に行けたんですね!」
「…………不可抗力だ」
リシテア達が喜び勇んで食べていた特大パフェを思い出して、もう行きたくない……と、フェリクスは痛感した。存在自体信じられない、見てるだけで気持ち悪くなってくる。
「これを機に他のお店にも行ってみましょうか! お菓子も色んな種類がありますし、お店によって味も違いますから」
「断る」
「な、なんでですかっ?!」
「行きたくない」
即答で断るフェリクスに残念な声が上がるが、当然であった……。ショックを受けるリシテアは大変不満だが、彼は頑なに首を縦に下ろさなかった。二度は御免だ、と。
二人の様子を遠くで見ていた者は、ほっと胸を撫で下ろしていた。懸念が解されて、うっすらと笑みを浮かべながら。
「……どうかしたのか?」
「何が?」
先へ行っていたと思ってた声に呼びかけられて、エーデルガルトは振り返った。顔を向けた先には落ちた夕日を浴びて、影が生えたディミトリがいた。
「いや……エーデルガルトが笑っていたように見えたから、どうしたのかと」
「そう? まあ、貴方とリシテアが和解できて喜ばしく思ってるわよ。これからは発言に気を付けることね」
「あ、ははは……面目ない」
黒鷲を思わせる澄んだ声で忠告されて、ディミトリは乾いた返事をした。さらに、付き合わせてすまなかった……と、勝手に尾行してきた者におかしな礼を述べていく。
『わたしの髪色は元々こんな色ではありません。あることをきっかけに、色が無くなったんです』
希求していた解が、頭の中で渦を巻く──。後天的に色を失う例がある、と知ったディミトリはエーデルガルトを前にして、落ち着きを無くしていった。
確かめたい。彼女は、かつていっときの時を過ごした……大切な。
「エーデルガルト、君は──」
「何かしら?」
無垢に思えた。猜疑心が見えない菫色の瞳に息を呑み、その瞳に映る己の姿が怖ろしく感じた。
夕闇に染まっていく白い髪が、風に乗って揺れたのを視界に捉えた途端、頭に靄がかかった。……聞いてどうする? 彼女はもう忘れているかもしれない。前のように、また踊りの練習をしてほしいとでも言うつもりか……馬鹿馬鹿しい。
自戒と自嘲、憐れんだ自分の声が聞こえた気がした。
「あの、急に黙ってどうしたの?」
「……え? あ、ああ、すまない。……夕日が、綺麗だなって」
「ええ、そうね。ガルグ=マクの夕焼けは嫌いじゃないわ。光を遮る教会が無ければ、もっと綺麗なのかしらって思うわ」
咄嗟に出た誤魔化しだが、エーデルガルトは相槌を打ってくれた。翻して先行く彼女の姿を見て焦るが、ディミトリは安心を得ていた。
……機会を逃した。もう尋ねる機会はないだろう。そんな予兆があったが足は動かず、それ以上追及することができなかった。
知らない方が良い、聞かなくて良い。以前とは、立場も境遇も何もかも違うからか、その先の望みが見えないからか、忘れられていないかと問うのが怖いからか。
「どれも都合の良い言い訳だな……」
立ち昇るくすんだ思いは、無理矢理胸に押し込めた。赫い光の下で晒せば、自分の身も塵となって消えてしまいそうだった。
もう二度と開けてしまわないように心の奥の底に──深く、冷たく、沈めさせる。
「……エル」
懺悔の代わりに出た言葉は、山の息吹に乗って掻き消えた。彼の耳と女神にしか届かない囁きは胸を締め付けて、焦がす。
知りたいこと知れて、確信を得たはずなのに……沈澱した想いはより深く、暗く染まった気がした。もう晴れ渡る空の頃のように戻れない。そうとわかっていても切望してしまうのはどうしてか。
答えは出ている……だが、答えの誤魔化し方はわからない。
いつかの日、受け入れる時が来るのだろうか。奇跡みたいな僅かな希望に縋って、歪んだ夢を見た。
今日の夕陽に──色を添えたい。より燃えるような緋色を。