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    ogata

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    ほんのり匂わせ程度の風降

    ##風降

    DATE その年初めての最高気温を記録した五月はじめの真夏日、風見は都内にある公園のベンチに腰掛け、額に滲む汗を手の甲で拭っていた。
     日陰にすれば良かったな、と手にしたペットボトルの水を呷っていると、突然首元にツイ、と指が滑る感触が走った。
    「わっ、」
    「待たせたな」
    「ふ、降谷さん?」
     降谷は左右を見回して、上司の姿を探す部下に目を細めていた。
     風見はといえば、ようやく視界に入った降谷に安堵しつつも、首に残ったこそばゆい感触に肩を竦めている。
     最近、風見は一歳年下のこの上司と待ち合わせて出掛けることがある。
     大抵は降谷からの座標指示があるのだが「今日はプライベート」という場合は、日時の連絡は暦表記で、一般的な待ち合わせが行われる。
     今日は暦表記の日だったので、一応風見も私服で来たが、どんな時でも動きやすい服装を心がけている。降谷も日差しの強いこの日はキャップを被っていた。
    「それ、この間の服か。僕が着るより似合っている」
    「ああはい、いえ、まさか」
     この服はかつて降谷の潜入先での顔のひとつである【安室透】のために買い、使われなかった服だ。
     任務に応じて幾度か使い分けられるよう時々購入を依頼されるのだが、使わなかったものは自由に処分するように言われている。
     彼が着たところを人目に触れたものではないので、着られるものは自分で着ているのだが、目の前の彼より似合うとは言い難かった。
    「ありがとうございます。お褒めにあずかり光栄なんですが……」
     風見の言わんとしているところを察した降谷が苦笑する。
    「謙遜しなくてもいい男だぞ」
     風見の顔が熱くなったのは、外気温の高さの所為かもしれない。
     彼より背が高いのに、同じ服を試着しても余ってしまう部分があることを風見は降谷にまだ伝えていない。
     観察眼に極めて優れた降谷が、気づいていないはずもないが。
    「それで、今日は」
    「ああ、そうだ。呼び出してすまないな。映画に付き合ってくれないか」
    「珍しいですね。もちろんお付き合いしますよ」
    「そう言ってくれると有り難い」
     では行きましょうか、と立ち上がると、降谷は頷いて踵を返し、待ち合わせた駅ビルのそばからはずれた方向へ歩き出した。
     降谷はこざっぱりとしたカジュアルな装いだ。いつもと同じシャンプーのような香水のような軽いフレグランス以外、汗臭さも感じない。
     この人が、最近はどんな服を着てもくたびれ気味の三十代がガラスに映っている風見の上司だとは、なかなか気づかれないだろう。
    「それで、観たい映画というのはどんな映画なんですか」
     尋ねた風見に降谷は粗筋を語った。八〇年代のイギリスで起こった炭鉱労働者のストライキの話で、人権と友情をテーマにしているのだという。
     思っていたより随分お堅い題材で、少なくとも人を誘うなら相手を選ぶものだろう。
     おそらくミニシアターで上映される類の作品だ。
    「といっても、映画自体はラブコメディでもあるらしい。ちょうどリバイバル上映をやってるところが近くにあったんで、たまには映画館もいいかと思って。シネコンと違って人も少ないし」
    「そうなんですか。自分も近頃は上映中に映画を観に行くことはありませんし、映画館へ入るのも久しぶりです」
    「ああ。任務で調べ物をしていたら、気になる映像があったんだ。付き合わせて悪いけれど」
    「楽しみですよ」
     心からそう答えると、降谷はいつも通りの声で「それならよかった」と言った。
     人通りの多くない通りを抜けて辿り着いたのは、街中の雑居ビル内にある小さな映画館だった。
     オーナーの好みが反映されているのであろう館内のディスプレイは、流行の華やかさはないが筋の通ったこだわりが感じられる。
     二人分の飲み物を買ってきた降谷に礼を伝え、ふたりで最後列の真ん中を二席埋めた。
     予告が流れる前の密やかで仄暗い館内に、他の客は見当たらなかった。
     軽い冷房に人心地つき、汗の滲んだ額と眼鏡をハンカチで拭く。
    「この映画、任務や依頼との関係はあるんですか」
    「特には無いかな」
    「じゃあ、降谷さんのお好みなんですか?」
    「まあそういうことになるけれど、そういうわけでもない」
     降谷の言うことはしばしば難解だ。
     だが、こういうわかりにくい物言いをすることは滅多にない。
     それとも、既に何かの謎掛けが始まっているのかという小さな疑念があった。
     思い返してみれば、今日顔を合わせた時から彼はずっと目深にキャップを被っている。
     潜入時にも目立ちにくいように被ることのあるこの帽子のつばは機能的で、とてもスマートに表情を隠してしまう。
     降谷が常に虚飾と欺瞞に塗れた世界に足を突っ込んでいると同時、彼はおそらく生まれつきの謎掛け人間である。
     出会ってこの方、手を変え品を変え、そのことを念入りに教え込まれてきた風見は、降谷がどう考えているかを常に先回りして考えようとしてしまう。
     なぜこんなにも人の少ない映画を、突然見に来ようと言い出したのか。
     急に隣に座る彼が本当に本物なのかどうかさえ、怪しく感じられてきた。
     何気なく彼の座る右側を向くと、館内の非常灯で辛うじてわかる降谷の表情は、曇っているようにも、固く閉ざしているようにも思われた。
     聞いてもいいのか、そうでもないのか。二秒考えて口を開く。
    「降谷さん」
    「ん?」
    「帽子、とらないんですか?」

     その間、一秒ほど。

    「あ」

     忘れてた、と直ぐにキャップをとり、降谷は「ごめんごめん」とはにかんだ。その表情は、薄暗い室内にあって、光を湛えたような感情を伴っているように見えた。
    「ああ、なんでかな、緊張してたのかもしれない。映画なんて本当に久しぶりだったんだ」
     慌てたように帽子をはためかせると、顔に被せてしまった。
     室内で帽子をとるのはマナーといえるが、これほど照れる降谷も珍しい。

     けれど、恥ずかしそうに顔を隠した降谷は間違いなく本物で、風見の思った通り、おそらくはこの映画を観るのを楽しみにしていたのであろうことも、何となくはわかった。

    「そんなに楽しみだったんですね。面白いといいですね」
    「……うん」

     そう言って降谷は、顔に被せていた帽子を膝の上に乗せた。
     いつも何気なく良い匂いだと思っていたシャンプーと汗の混じった匂いが、二人の間を一瞬ふわりと掠めていった。
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