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    ogata

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    2017に出した及岩本のWEB再録。

    高校卒業時〜社会人及岩。
    終章とはまったく別のルートのピュアなふたり。
    高校卒業時に及川が岩ちゃんに告白するけど失敗してボタンの掛け違いで疎遠になるところから始まります。

    再会ネタが好きすぎる。

    #及岩
    andRock

     及川は、扉を勢いよく開けた。
     パラパラと雨が降っているが、空には晴れ間が見えている。
    (なんだっけ、こういうの。天気雨……)
     朝の風が冷たい。もう振り返らないのだと決めたはずなのに、ストーブのぬくもりと石油のにおいと、幼馴染に触れた感触がまだ胸に沁みている。
    (そうだ、涙雨。今日の俺にぴったりじゃん)
     両親は空港まで送ると言ってくれたのだが、平日だからいいよと断り、両親には家を出る前に「ありがとう」と伝えた。泣かせてしまうのも、泣いてしまうのも避けたかったので、それだけ言って出てきた。
     本当は岩泉には来て欲しかったのだが、昨日あまり眠れなかったようで、珍しく朝方まで部屋の電気が点いているのが見えていた。
     実を言うと及川も、昨夜は殆ど寝ていない。だから岩泉が寝ていないことに気づけたとも言える。
     昨日はせっかく一緒に過ごせる最後の日かもしれなかったのに、意識しすぎてあまり話せなかった。それどころか、するつもりもなかった告白までしてしまった。
     あの時見開いた猫の瞳を、及川はしっかりと目に焼き付けた。あの眼がくるくると表情を変えるのを見ているのが何よりも好きだったのに、彼は驚きの中に微かな怯えを見せていたように思った。それが何より悲しくて、より一層うまく言葉が出て来なかった。
     これまで伝えるつもりはなくても、あらかじめ幾つかのシミュレーションをしては、自分の想像に傷ついて涙ぐんだりしていた。そうでもしないと、これから起こる現実に打ちのめされてしまう気がしたからだ。
     けれど本当の現実はそんな生易しいものではなく、結果は惨憺たるものだった。思った通りになど何一つ言葉にできなかった。
     一晩経った今でも、感情を通しているのかいないのか、気を抜くとふいに涙が吹き出そうになる。
     今朝起きた時から瞼の腫れが治りきらないので、ウェリントンの伊達眼鏡を掛けている。春高の決勝戦の日に勢いで買ったものだ。顔がむくんだ日に学校へ掛けて行ったら、女子には概ね好評(女バレ曰く『バカがバレにくい』)だったので、時々使用している。
     すれ違った若い女性の二人連れが「今の子かっこよかったね」「スタイルいいよね」と小声で囁き合うのを、持ち前の地獄耳でキャッチして大股で歩く。卒業旅行の仙台観光というところだろうか。もし今日が自分の旅立ちなのでなければ、少しご一緒したかった。
     飛行機までまだ時間があるので、空港内のコーヒーショップで甘いラテのトールサイズをひとつ頼んだ。ガラスに映る自分の姿は、この間まで高校生だった(厳密には今も)にしては悪くないと思う。
     振られたばかりでも、ボロボロの瞼でも、せめて背筋くらいは伸ばしておきたい。
     大学に入ったら、さっきの子たちみたいな、お洒落でスタイルも良くてすごい美人ってわけでもないけど結構可愛い彼女ができたりして、バレーも順調に世界大会でメダルをとって、そんな最中に岩泉の結婚式に出席して、あの頃はあんなに好きだったんだなと思い返したりするのかもしれない。
     思い描いてみて、あまりの下らなさにまた涙が滲んできた。
     悲しい。悲しい、こんなにも悲しい。
     行くべき場所はわかっているのに、前に進むしかないはずなのに、まだ昨日までの日々が愛しすぎ、手放すには未練がありすぎる。
     もし映画ならこれはエンドロールなどではなく、まだプロローグに過ぎない。
     これは門出だ。こんなつまらない、何ひとつ実らないまま終わる結末があってたまるか。
     腫れた瞼に力をこめて、窓の外で眩いほどの光を湛えた雨を見据える。

     ねえ、こんないい男を振るなんてどうかしてるよ、岩ちゃん。



          *
     
     仙台近郊の片隅にあるこの住宅街に生まれ育ち、名実ともに家族よりも側にいた幼馴染が、明日、この街を出て行く。
     その及川の母に、「掃除は手伝わなくていいから徹を見張っていて」と頼まれ、遅々として進まない片付けを見守りながら、脱線したがる及川のお目付役をしていた。
     部屋はこのまましばらく及川の部屋として置いてくれるらしいので、荷物はそれほど減らす必要もない。しばらくは帰れないこの部屋に、これまでの感謝の気持ちを込めて十分に掃除せよというのが、母から息子への命令だった。
     そういうわけで、及川は先ほどから、溜め込んだ漫画雑誌とバレーボール誌の選別を行なっている。残しておきたいものが多すぎるのだ。
    「手伝わないから、自分でやれよ」
    「わかってるって。岩ちゃんってほんっと俺のお母ちゃ……やめて頭のツボ押さないで」
     何度も何度も繰り返された、自分達のお約束の会話も、卒業を迎える。
     というのも、及川と岩泉は違う大学を受験し、見事に合格通知を受け取ったので、進学先は互いに気軽に会える距離ではなくなる。
     そして、及川は一足先に実家を出て、東京にある大学の寮で暮らすことになった。
     物心ついた時から、そんなに長く離れて暮らしたことがなかったので、お互いにしばらくは落ち着かない気分になるだろう。言葉にしない感傷もあってか、三学期に入ってからは気づくと一緒にいることが多くなったりしていた。
     さして物は多くないはずなのに、三時間もかけて押入れを掃除する及川を待つ間、岩泉はバレーボール雑誌に掲載されたユースの記事をペラペラと流し読みしていた。ここには、及川が掲載されたことも何度かある。
     影山がユースの合宿に呼ばれたと聞いて、及川は大層立腹していた。
    「ほんと生意気だよねあいつ。初めてなのに俺より扱いが大きい!」
    「いや影山、本当に凄くなってたからな。でも確か、あいつ想像を絶する方向音痴じゃなかったか? ちゃんとNTC行けたんかな」
    「どうでもいいよ方向音痴のバカの心配なんて! それより明日からの俺の心配をしてよ!」
     及川はぷんすか怒りながら、その号捨てていいからね! とそっぽを向いてしまった。
     そう言いながら、きっとまた帰省した時に気になって探し回ったりする及川のために、及川がこちらを見ないうちに、そっと元のマガジンスタンドに戻した。
     影山は、北川第一時代にも既に頭角を表していたが、未熟な部分も多かった。端的に言うと空気が読めない。コミュニケーションが不足しやすいと言うべきか、稚拙と言うべきか。
     そういう性質もあり、また天性の才を感じさせる技術もあることで、及川の自尊心を傷つけ、羞恥心を逆撫で、本人にその気はないのに周囲を傷つけることも随分多かったようだ。
     だが、彼が烏野に入ってから再会してみると、彼の変化は如実に感じられた。中学での大会の時に垣間見た不安が鳴りを潜め、岩泉の目から見ても、バレーが好き、セッターでありたいという熱量が増していた。チームとの連携をとることによって自信をつけたのだ。
     控えに回っていた三年セッターや、及川をして「トスを上げてみたくなる」と言わしめた日向翔陽との出会いは、影山にとっても特別なものだったのだろう。
    「岩ちゃんも東京に来ればよかったのに。俺と同じじゃなくても、選べる大学バレー部あったはずなのに」
    「もうその話、半年前にやったし」
    「岩ちゃん、俺がいないと心配なんだもん」
    「どういうことだ」
    「怒らないでよ。俺の言いたいことくらいわかるでしょ。岩ちゃんのバレーのことは心配しないよ。でも岩ちゃんはちょっと小さめだし痛アッ」
     言い分を聞いていたが腹が立ってきたので、少し腹に軽めの拳を叩き込んでやる。
    「俺には、俺がいねえお前のほうが心配だわ」
    「えっ心配してくれるんだ! 優しい!」
     及川は胡座をかいて雑誌を読んでいた岩泉に後ろからダイブして抱きつき、目にも止まらぬ早さで振り払われた。
    「投げ飛ばすこと無いじゃん!」
    「突然くっついてくんな。俺のとこはレギュラーの主力がだいぶ抜けるから、一年目からレギュラー狙えるかもしれねえんだよ。まあ、入ってみないとなんともわからねえけど」
    「うー、岩ちゃんがいなくても、俺はインカレ優勝するけどさ」
    「奇遇だな。俺も優勝するぞ」
     二人は顔を見合わせ、子供の喧嘩のように顔を歪ませた。
     違う大学に行く、ということは、早い段階から互いに理解していた。及川はバレーボールでユース合宿に選抜されたりで方々から目を掛けられていたし、岩泉は身体能力の高さを買われ、幾つかの大学に誘われていた。バレーでは全国まで足を伸ばせなかったが、陸上の公式記録会にも選抜され、長距離では全国レベルの記録を残している。
     三年のインターハイが終わるまで、なるべく卒業後のことは考えないようにしていた。
     今は、目の前のことだけを。せっかくこれほど恵まれたチームでバレーをすることが出来るのに、多くを求めて自滅するわけにはいかない。
     しかしそれ程までに渇望した県代表の権利は、またしても白鷲に奪い去られた。
     まだ、力が足りない。嘲笑うかのように攫われた優勝旗。春高予選で再戦を誓ったが、それすらも為らなかった。
    「別々になることだってあるって、わかってたろ。今できることを精一杯やるのに何か不満があるか?」
    「……あるわけないじゃん。俺も覚悟を決めてるよ」
    『戦う時は倒す』。岩泉は、及川の背を力強く叩いた。
     痛い、岩ちゃんの馬鹿力、と泣き言を叫んだ及川の目が潤んでいて、それは痛みの所為だったのかどうか、よくわからなかった。
     そのとき「徹、部屋片付いたの?」襖の外から母の声がして、及川は少し焦り気味に立ち上がった。
    「大丈夫だよ。何?」
    「おやつ持ってきたから、襖あけて」
    「やった、おばちゃんあんがと」
    「こちらこそ、この間はありがとう。一ちゃんがいなかったら徹の片付けまだ半分も終わってないわ」
     そう、実は一昨日、岩泉家で及川の家族と岩泉の家族、合同で壮行会が行われたのだ。
     岩泉に、息子と同じく我が子のように愛情を注いだ及川の両親、そし及川を我が子より可愛がったのではないかと思われる岩泉の両親は、涙ながらに二人の門出を祝ってくれた。それが二日前のことだ。
    「んなことないよ! もう結構終わったんだから」
     言いながら部屋の入り口を開けると、及川の母がお茶菓子を用意してくれた。
    「あらほんと、片付いたわね。一ちゃんが居たから、いつもみたいにぐうたらできないもんね。早く終わらせて解放してあげなさいよ」
    「もーわかったって。おやつありがと! じゃあね!」
     菓子を受け取り、急いで襖を閉めようとする徹の額を小突き、岩泉に手を降って及川の母はリビングに戻っていった。
     小さなテーブルにお茶菓子セットの載ったトレイを置いて、ふたり並んで石油ストーブにあたる。冬はやはりこれが一番温かい。先ほど及川の母が用意したドーナツを齧り、熱いコーヒーに息を吹きかけた。
     それからまだ部屋にある漫画や服を整理しながら昔の写真を眺めたりしていたら、あっという間に時間が経ってしまった。窓の外が赤く色づいてきたことに気づいた及川は、急いで道具を取りに行き、窓と桟を拭き清めた。春といえどもまだまだ凍てつく東北の三月のこと、うっかりすると手が悴んでくる。ちゃっかり風呂掃除用のゴム手袋を装着し、日が暮れるまでに済ませてしまった。
    「早くできるならさっさと済ませりゃいいのに」
    「だって寒いじゃん」
    「ギリギリにやったら余計寒いだろが。せめて昼間にやれよ。お前ほんと昔っからギリギリまで出来ねえ奴だなグズ川」
    「ちゃんとできたでしょ。なんでそんな意地悪言うのさ」
    「できるのにやらねえからだろうが」
     何故かよく岩泉の手を借りたがり、手を貸してやらないときちんとやろうとしなかったこの幼馴染は、けれど大抵最後にはどんな問題も自分で解決し、進む道を選んで来た。
     何しろ、及川は割に万人受けする容姿であったけれど、万人受けする性格とは言い難かった。家族にも周囲にも愛されていたけれど、人生の(あるいは性格の)紆余曲折を経た結果、愛される振る舞いを覚えたというのが正しい。
     やろうと思えば器用にできることのほうが多いくせに、わざわざ岩泉の手を借りたがる。子供の頃は気を引きたかったのだろうと思っていたが、今や何のためにここまで、と思わないでもない。
    「ていうか俺、もうしばらくお前に会わねえと思ってたんだけど」
    「この間の壮行会、なんだか別れの言葉っぽいこと言ってたから、岩ちゃんほんとは寂しいのかなと思ったんだよ。岩ちゃんはちょっと抜けてるとこがあるから、大学で悪い虫がつかないか心配なんだよね」
    「抜けてるのはお前だし、会わなくても別に寂しくはねえ。あと虫は好きだから大丈夫だ」
    「なになに、えっ、今、俺より虫のほうが好きって言った?」
    「お前は面倒臭いし、文句たれだからな。まあ、バレーに関しては認めてやる」
    「俺のバレーが虫に負けた……」
     虫め、と毒づく及川の鼻をつまんで、岩泉はくつくつと肩をゆらした。
    「そこまで言ってねえよ。お前のバレーが、比較的評価の対象にのぼるだけだ」
    「言い方変えただけだよね!?」
     春から大学生になろうという大男が、両手で顔を覆って泣いたふりをしている。 
     及川が項垂れた時の後頭部は横から見ると形が綺麗で、岩泉はそれが好きなのだが口にしたことはない。
    「遠くに離れちゃったら、あんまり会えないじゃん」
    「まあそうだな。試合で会えるんじゃねえか」
    「チームが違うと、あんまり話せないよね」
    「勝手に抜け出したりしたら怒られそうだよな」
    「岩ちゃんはさ、それって、俺と会えないの寂しくない?」
    「お前はさっきから何を言いたいんだよ、わけわかんねえな」
    「そうだけど! 俺もよくわかんないけど! あーもう岩ちゃんのバカ! きらい!」
     ただしばらく会えないことが寂しいと伝えるために、これほど回りくどくなるものか。
     頭は悪くないが臆病だった子供の頃と、こういうところは少しも変わっていない。やりたいことも、やらなければならないことも、考えすぎてぐずぐずと後回しにし、仕方なく手伝ったことが何度もある。弱虫の泣き虫で怖がりで、冒険もしたがらなかった及川が、バレーと出会い、これほどまで好戦的で負けず嫌いな面が表面化するなどと誰が想像しただろうか。
    「何だよ、勝手に一人で癇癪起こすな。明日から俺はお前の面倒見れねえんだぞ」
     その言葉が、余程不満だったらしい。及川はブランケットを被って突っ伏してしまった。岩泉は事実しか言っていないのだが、こうなると上手く機嫌をとるしかない。
     幸いなのかどうか、岩泉は機嫌を損ねた及川を宥める方法に長けている。
    「おい。怒ってんのか」
     わかっていて、わざと問いかける。及川に近づいて、上から上半身を凭せ掛けた。嗅ぎ慣れた及川のにおいだが、ここまで近づいたのも久しぶりかもしれない。頭のあるあたりをフカフカと撫でてやると、無言のままもっと撫でろと主張してくる。
    「また一緒にバレーしようぜ」
     泣いているわけではない。怒っているわけでもない。
     ただあともう少しだけ。
     岩泉も、明日には離れてしまうことを、寂しく思わないわけではない。不安よりは、好奇心が勝っている気がするのだけれど。
     その時、じっとして撫でられていた及川が大きな犬のようにのそりと動き、岩泉ごとブランケットで包み直した。二人で入ると少々狭いその毛布は、及川のにおいがした。
    「狭くねえか、これ」
     問いかけたが、返答はない。及川は岩泉を見ようとはせず、ただ黙って顔をうつ伏せて丸まっている。
    「お前、どっか具合でも悪いのか」
    「違うから。大丈夫」
     ブランケットの中でもこもこと会話する。多分セミダブルサイズだから、はみ出ることはないけれど大の男がふたりで被るにはやはり少々狭い。
    「二人で毛布入るとあったかいよね」
    「まあな」
    「ぎゅーってしてもいい?」
    「いらん」
     いらないと言ったにも関わらず、及川は毛布の中で岩泉にそうっと抱きついた。
    「なんだこれ」
    「好きなんだ」
     声が震えていたので、ただ腕を回して及川の頭を搔きまわす。すると、抱き締める力がさらに強くなった。布団の中で上がった体温に、いつもよりさらに距離の近さを感じていると、及川は岩泉の肩に頭をうずめた。
     ただ静かに、ぴったりとくっついて、どこも離れることのないようにと願うかのように。
     岩泉は声を発さなかった。言葉もなく自分に縋りつく幼馴染の意図を探る。声から、触れた指から、肌から。
     及川はブランケットの中で、岩泉に向き直った。ふとした瞬間に唇同士が触れてしまいそうなほど近くで、及川はこう言った。
    「離れたくない」
     先ほどまで、掠れた声で囁いて居た及川の声が、急に低く重く感じられた。まるで、挑戦するかのように。もしくは、呪いをかけるかのように。何故か及川の口調から、愛おしさのようなものが感じられなくて戸惑った。
    「岩ちゃんは? 俺のこと好き?」
     あまりに有無を言わせない、余計な口を挟ませない空気があったのと、何を意図しているのか読みきれない。答えに迷いながらも、いつもの自分を思い出してこう答えた。
    「俺は、お前のことなんか、好きじゃない」
     及川と岩泉の間で言葉を間違うことなど滅多にない。だからこの答えで間違っていないはずなのに、及川は岩泉の耳元で小さくひゅっと息を呑んだ。
    「岩ちゃんは、俺がいない人生に悲しめばいいよ。俺だって辛いんだから岩ちゃんだって絶対辛いよ。俺たちが引き裂かれたら」
     冗談みたいな台詞なのに、どうしてそんなに悲しい声をしているのか、岩泉にはわからない。
    「俺、帰るわ」
     空気に耐えられず、既に汗ばみ始めたブランケットを剥いでしまうと、仄暗く見えた及川の表情はすっかりいつもの間抜け顔に戻っていた。
    「ええー、もう帰っちゃうの? 夕飯食べていったらいいのに」
    「お前、明日早いんだろ。それに、おばちゃんも用意があるだろ」
    「お母ちゃんは岩ちゃんの分くらいいつも準備万端だよ」
    「いや、今日は帰るよ。お前、俺がいたらなかなか寝ないだろ。明日早いんだから早く寝ろよ」
    「えー」
     面倒臭いのはいつものことだ。諦めが悪いのもいつものことだ。会話だっていつもと変わらない、くだらない戯言だ。
     なのに岩泉には、そこにいる及川が、よく似た顔の別の生き物のように感じられた。
     


       *


    「え、まじで?」
    「うええ? え? いや岩泉がそういう冗談を言うようになるなんて、俺らも大人になったな」
    「冗談で言うかよ、こんなこと」
     七月の初めの金曜日、久しぶりに青葉城西のバレー部三人で飲み会を開くことになった。松川、花巻、そして岩泉。高校を卒業して、既に七年が経っていた。その間、それぞれがあちこちに住んでいたので集まることは少なかったのだが、この春から岩泉が東京で住むことになり、久しぶりに集まれることになったのだ。
     小洒落た店内は、昼間は大きな窓からの採光が明るい。店頭にはテラス席もあり、センスのいいスーツ姿の男女がラップトップを開いていることも多い。アルコールの種類が多いことで人気のこの店は、松川が今の部屋に引っ越した当初に見つけた店で、自身も月に二度ほど通っていた。
     一軒めの居酒屋でしこたま腹を満たした後、飲み足りないので河岸を変えることにした。店に入る時に「こんなとこで飲んだことねえ」と言った岩泉に、松川は「こういう店、来そうにないもんな。恋人とかいないの?」と聞いたところ、岩泉は「今はいない」と答えた。
     今は、と言うのだから、恋人がいたことはあるのだろう。岩泉は恋愛の話題に関して口が重いし、見栄を張るタイプでもない。
     ただし恋愛以外に関しては「俺今年の健康診断で百八十五センチ超えた」などの法螺を吹いたりするので、嘘をつかないというわけではない。
    「岩泉って、高校の頃は結構モテてなかった? 俺が知ってる限りだけど」
    「まじで。俺それ知らない」顔色を変えて花巻が言う。
    「そんなん俺も知らんわ。誰にモテてたんだ俺」
    「え、一組の女子には割と人気あったと思うんだけど」
    「何年前の話だよ。その時教えてくれ」
    「いや、だって」
     あの頃の岩泉がバレーと及川のお守りで手一杯だったことは、誰の目にも明らかだった。どんなに可愛くて好みのタイプの子に告白されても、さして迷いなく、されど丁寧に、お断り申し上げただろう。
     松川がそう言うと、岩泉は「スンッ」という顔をし、とりあえず手元にあったチーズと干しイチジクが乗ったバゲットを三つほど口の中に放り込んでバリバリと咀嚼した。
    「うまいけお、くいえあない」
     何を言っているのかさっぱりだ。
     高校を卒業する頃には、このままあと何年もバレーをやるとして、及川や岩泉はどれほど馬鹿でかくなるのだろうと思っていたが、久しぶりに再会した時の感想は「思っていたほどゴリラではない」だった。岩泉は今日も男子高校生二人分くらい食べていたが、栄養科学の知識があるからか、種類や順番、スピードも一応考えながら食べているらしい。
    「まあ、岩泉には足りないか。俺はもうバレーやってないから、これで足りるけどね」
    「そんなことより、岩泉がモテてたってのは本当なのかよ。俺……ショック」
    「なんで俺がモテると花巻がショック受けんだよ」
    「だって……だって、岩泉じゃん」
    「お前は俺を何だと思ってたんだ」
     花巻はおしぼりでゴリラを量産しながら肩を落としている。どうでもいいけど器用だな、と松川は二頭手にとって並べた。
    「いやでもどっちにしろ、岩泉は及川と一緒にいる限り、恋愛とか無理なんじゃないかと思ってたけどね」
    「及川が毎回毎回長続きしなくて振られてたのもあれはバレーと岩泉の所為だよな」
    「そんなわけあるか。あいつが振られるのはあいつがクソなせいだ」
     花巻は岩泉の手を取ると、静かに首を横に振った。不機嫌な岩泉を放っておくとツマミがなくなるからだ。
    「そう言うけどな、岩泉。長く付き合った相手って居心地いいじゃん。岩泉だって、今あいつと離れてると、及川ならこうするのにな、とか無意識で思ったりするんでしょ」
     俺は及川なんて絶対やだけどな! と花巻が笑う。岩泉は唸った。
     高校を卒業して既に七年が経ったというのに、未だに感じるところがあるのだ。長年その存在に慣れきって生活していたものと離れることになれば、誰にだって不都合はある。パートナーに母を求める愚かさとは、無償の愛を求める心なのかもしれない。
    「やっぱり俺は、あいつと離れてよかったんだな」
    「卒業してからあんまり会わなくなったもんな、お前と及川」
    「まあ、実際忙しそうだもんな、及川。声かけても来られないこと多いし」
    「でも誘うと返事はめちゃくちゃ早いよな。こいつほんとに忙しいのか? って心配になる」
    「ああ、まあそうなんだけど。でも俺と及川があんまり会わなくなったのは、及川が、俺から離れてったからなんだよな」
    「そうなのか? 意外だな」
    「ああ。俺が及川のこと振ったのかも」
    「え?」
    「振った?」 
     松川と花巻の脳内で、岩泉の言葉がいくつかのフィルタを抜けて滑り落ちていく。
     及川が離れた。岩泉から。振った。誰を。
    「誰が」
    「俺?」
    「誰を?」
    「……及川?」
     えええええ、と、松川と花巻は声を揃えた。
     アルコールが岩泉の口を滑らかにさせていたのだろう、明らかに岩泉本人の頭の上にもクエスチョンマークが浮かんでいる。起こったことを正確には理解していないがゆえだと思われる。とはいえ、岩泉が及川に関わることを、疑問を残したまま放置して、疎遠になるとも考えにくい。
     酒に強い松川は、辛うじて詳細を聞くべきかどうか迷う理性を残していた。アルコールを摂取して出てくる本音は、隠していた秘密を暴いてしまうこともある。岩泉の、というより、及川の秘密なんか絶対に知りたくない。しかし岩泉と同等程度に酒に弱い花巻は、やはり思考力も鈍っていたようで、やや躊躇してからこう口を開いた。
    「まさか……いや、お前ら、付き合ってたのか」
     神妙な顔をする友人に、岩泉は情けなく眉を下げ、しみじみと溜息を吐いた。
    「なんでそうなった。そんなわけあるか」
    「ですよね」
     松川にしろ花巻にしろ、二人が恋愛関係にあったとしたなら、流石に気づかないほど鈍感ではない、と思う。及川一人の話であれば隠し通された可能性もあっただろうが、及川と岩泉の二人に限って言えば、もしうまくいっているのなら「隠すことか」と言いそうだという、よくわからない確信があった。
    「じゃあ、何だったんだよ。お前が、その、及川を振ったってのは」
    「んー……俺も、本当にあれがそうだったのか今となっては分かんねえんだけど。あいつに、好きだって言われたことがある」
     そんなんいつも言ってるようなもんだったべや! と、普段は出ない方言まで出して叫び出したくなった松川に「とりあえず最後まで聞こう」という面持ちで頷いたのは花巻だ。口を開きかけた松川はその勢いで店員を呼び、新しくウイスキーのロックを追加注文した。
    「それで岩泉は? どうしたの」
    「俺はお前のこと好きじゃねえって言った」
     花巻は吹き出した。口の中に何も入っていなくて良かった。
    「岩泉のそういうとこ、俺も好きですから」
    「でもそれがいつものよくある戯言なのかどうか、あの時はわからなかった。その辺すっ飛ばしても、多分あいつがごちゃごちゃ考え過ぎて極論になったんだと思った。俺はあんなあいつを見たことなかったから、読み間違ったかもしらんけど」
     ずっと考えていた。及川が、あの時何を考えていたのかを。でも考えれば考えるほど、及川のことがわからなくなりそうだった。及川からの連絡が無くなって、漸く、岩泉は「あの言葉が及川にとっての真実だった」可能性を考え始めたのだった。
    「よくわかんねえけど、大体合ってるとは思う。でも、岩泉はそれで良かったの?」
    「……まあ。あいつ、今元気そうだろ」
     松川も花巻も、それには特に異論なく頷いた。
    「でも、あいつが、あの後俺のこと避けるとは思ってなかったけど。大学でバレーしてたら、試合とかでも会うだろ。でもあいつ、声も掛けてこなかったんだよな」
    「まあ有り得ないとは思うけど、気づいてなかったとか?」
    「初め俺もそう思った。試合ん時だし、チームの奴らもいるからあんま時間もなかったからな。でも、違った」
     淡々と話す岩泉に対し、少し重くなりつつあった松川と花巻の瞼は(外見には判りづらいものの)ぱっちりと開きはじめ、頭も遅ればせながら回転を始めていた。
     及川とは正月の帰省時に宮城で集まったきりだが、ここ最近は本業も調子が良さそうだったし、バレーでは日本代表チームで活躍するほか、有名なパンメーカーのテレビコマーシャル出演などでも顔だけはよく見ている。自分の好物のテレビコマーシャルに出てしまう及川はやはり素直に凄いと思う。プライベートの話は聞いていないが、週刊誌で見かけることもあるほどだったから、まあそこそこにお盛んなのだろう。
     と思ってから、お盛んってなんだよ、と松川は自分の思考に自分でツッコミを入れた。
    「なんか、女子アナと雑誌に載ってたよね」
    「あれは俺も見たけど、どうとでも取れる感じじゃなかった? 客寄せパンダっつうのかな、耳目を集めるっつうのも考えもんだと思った」
    「稼いでそうだしな、海外移籍組は」
    「でもまあ確かに、岩泉と及川の場合は、どうなんだろうね。離れてよかったような、っていうのはまあわからないこともないんだけど。岩泉が珍しくそんなぶっちゃけ話するから、ちょっと昔を思い出した」
     岩泉が鼻頭を歪めると、松川は肩を揺らした。
     岩泉と及川の関係は、多分、誰が見ても特別だった。毎日登下校も部活も一緒。二人並んでいるのがデフォルトだった。
     まず浮かんでくるのが、バレーでのあの連携だ。同じ相手と長くやればやるほどセットアップは滑らかになるが、あれほど互いの空気を読み、一挙手一投足を感じて動くセッターとエースは、大学でもそれぞれバレーを続けていた松川と花巻ですら、未だにあまり知らない。及川と岩泉のバレーは華やかで、まるで一つの動物のように、言葉もなく、時折は空気で意思疎通が成立しているようにも見えた。
     高校時代の松川、花巻を含む青葉城西のチームメイトは、及川の、岩泉に対する執心に気づいていた。というより、彼らを知る大抵の人間が知っていただろう。
     しかし、冗談混じりに揶揄することはあっても、本気かどうか問いただすことはまあなかったと思うし、その必要も感じていなかった。松川や花巻は、彼らのチームメイトであり友人ではあったが、共に過ごした時間の多くをバレーボールに燃やし尽くしたため、それ以外の、とりわけ恋愛話をするタイミングは多くはなかった。そして更に年を重ねブランクをあけたことで、彼らの間から仄かに感じ取っていた、密やかに張り詰めた空気や距離感のことも忘れてしまっていたのだ。
    「同じ大学を選ばなかったのも不思議だった。まあ及川も岩泉もスポ薦だったし、順当だったと思うよ。でも、卒業したら離れるんだって聞いた時、不自然というか、違和感があったんだよな」
     高校時代といえば、この場の誰もが思春期であり、秘密にするという程でもない、かといって言葉にもできないことばかりだった。成長過程で気付き始めた疑問や自分以外の在り様に、まだ理論立てて思考する回路も余裕も十分には備わっていなかった。二人の間に起こっていたことも、そのような類のものだと無意識に思っていた。
     自分の能力や属する社会には限界があることを知り始めていた。学校生活を、部活を経験して、この世には努力がかなわないこともあると、もう気づいていた頃だ。
     たかだか数年前のことなのに、随分昔のようにも感じられる。
    「及川の推薦は夏にはもう決まってたし、俺のは、春高予選が終わってからだったけど、記録会とか、いちいち顔だしてくれる大学があったし、まあ夏頃には大体決めてたかな」
    「そう。それは聞いてたんだけど。でも不思議に思ったよなあ。お前らふたり、ニコイチのイメージが強くて」
    「それなー」
     神妙な顔で話を聞きつつメニューとにらめっこしていた花巻が、ようやく顔をあげる。
    「ところで話の途中で悪いけど、お前らデザート食わね? ここスイーツめっちゃ美味そう」
    「んー、俺は甘いのパスで」
    「俺も食う」
    「珍しいな。岩泉、甘いの食うのか」
    「ああ。何か腹減ってきた」
     花巻は店員を呼び止め、桃のパフェを二つ頼み、改めて向かいの席の岩泉に向き直った。
    「高校の頃から、及川の情緒不安定は半分くらい岩泉のせいだろ」
    「知らん。あいつが面倒くせえだけだ」
    「いやいや。俺は随分、及川から悩みだ何だと聞かされたんだぞ」
     花巻の愚痴を聞き流していると、デザートとお茶がやってきた。腕時計を確かめると、夜の十一時に差し掛かっていた。
     二人が「お、うまそう」とか言いながら甘味を頬張るのを眺めながら、松川は胸元からシガレットケースを取り出した。入っていたのは電子パイポだ。岩泉が「そんなもん吸うくらいなら潔く止めろよ」と言う。「これ、なかなか良いんだよ。気分転換に」
     煙草を吸っていた時の名残で、食後や飲みの締めで一服する。深く吸い込むと、高揚した精神がにわかに凪いでいくのを感じた。
    「やめろっつってんのに、松川やめねえの。まあ煙草よりはマシだろうけど」
     花巻は学生の時、友人に誘われてモデルのアルバイトをしてから、美容と健康に一家言ある男になった。そこからカメラに興味を持つようになり、アシスタントを経て最近ようやくスタジオカメラマンとしての仕事を始めたところだ。
     しかし飲むと最後に甘いものを欲しがるのは相変わらずである。美しく切り分けられた桃を一口齧り、うーんと目を閉じて味わいながら、相変わらず色素の薄い髪をもしゃもしゃと掻く。
    「及川と岩泉の距離感って、他の奴らとは違ったじゃん。なんか喧嘩して口きかなくても、知らん間に解決してたりさ。余計な口挟むとお節介しそうな。犬も食わないってやつだよ。自覚あったろ?」
    「そんな自覚あったら、及川があんなこと言い出す前に気づいた」
     不満そうな岩泉に、良い匂いの白い息を吐きながら松川が続ける。
    「それは同意するんだけど、ああいう及川が出来上がったのって、少なく見積もっても半分は岩泉の所為だから。自覚あったろ?」
    「ねえよ」
     一言二言話すうち、岩泉の前にあったパフェはあっという間に胃袋に消えたようだ。
    「食うの早過ぎだろ。腹壊すぞ」
    「あー。でももうさすがに腹膨れたな」
    「あれだけ食えばなぁ」
     唇を尖らせた岩泉は、上唇に申し訳程度の生クリームをのせていた。花巻がパチリと撮り、素早くSNSにアップしている。
    「おい、何撮ってんだ花巻」
    「うへへ。よく撮れてる。大丈夫、知ってるやつにしか送らない」
     ピカピカと光る通知を見ながら、花巻は機嫌良さげにスマートフォンを裏返しに置いた。
     閉店時間が近づいてきたので、そろそろ店を後にしなければならない。
     うまく割り勘できたのでハイタッチをし、マスターに挨拶して店を出ると、終電の時間が近づきつつあった。
    「一静、マキ子帰りたくない」
    「うーんしょうがないなあ、マキ子はそもそも泊まる気満々だったよね? ちょっと酔ってるし、うちに泊まっていきな。岩子はまあ大丈夫そうだけど、もう遅いし一緒に泊まっていけば。 雑魚寝だけど」
    「一静んち、おっきいソファあるからすっごく快適よ。一緒に寝よ!」
    「おぞましいから今日は帰るわ」
    「やだ、失礼ね。進展あったら連絡しろよ」
    「設定崩壊早えな。何が進展すんだよ」
     アホか、と笑って最寄り駅に向かおうとすると「岩泉」と花巻が声を掛けた。
    「実業団やジャパンに行った奴と一緒にバレーやってたってのも、俺らにとってはすげえことで、まぎれもなく青春だったけどさ」
     その言葉を受けて、松川が続ける。
    「俺らは、お前と及川のバレー、結構好きだったぜ」
     岩泉はなぜかその言葉が妙に胸に沁みて、うっかり涙ぐんでしまった。



     松川、花巻と別れて電車に乗り、三十分ほどで最寄駅だ。まだ酒が残る年齢でもないが、毎日のロードワークを日課にしているため、飲酒量を定め、朝までアルコールを残さないことにしている。
     店を出てしばらく歩き、ようやくマンションが見えてきたところで、ジョガーパンツのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが震えた。画面を確認して一瞬戸惑い、深く息を吸って通話ボタンを押した。
    「はい」
    『……岩ちゃん? 俺だけど』
     おう、と返そうと思っただけなのに、上手く声が出ない。
     必要以上に心臓が鼓動を早めた。
    「どちらの俺様だ」
    『うん』
     そこは『うん』ではない、と思ったが、心臓が脈打つのが煩くて、いつもの調子が出ない。 
     この声は、試合やテレビでたまに見聞きしているのだが、電話を通した声は久しぶりで、何故だか少し甘い。
    「岩ちゃん? 外なの?」
    「……ああ、大丈夫だ。元気か」
    『うん』
     気を取り直し、短くまた一つ肯首するのが見えるようだった。
    『手紙読んだよ。東京にいるんだね。大阪弁にはもう慣れた?』
     岩泉は、この春まで所属チームの本拠地である大阪に住んでいた。本拠地の体育館の老朽化と、チームに代表選手が増えたこともあり、春からバレー部の体育館が東京に移転することになったのだ。 
     及川は大学を卒業後、たびたび海外チームへ移籍していたため、試合でも滅多に会うことはなかった。
    「あんまり。面白いけど、うるせえ奴が多くて」
    『大阪だと、お好み焼きとごはん一緒に食べるんでしょ』
    「そりゃ俺もお前も食うだろ。お前は……去年はイタリアだっけ」
    『今年の春までね。岩ちゃん、俺の新しい住所知ってたんだね。この住所知ってる人あんまり居ないから、手紙が届いてびっくりしたよ」
    「手紙に書いたけど、春に実家に帰った時おばちゃんにな。徹が戻ってくるから、また遊びに行ってやってくれって」
     理由を聞いたわけではなかった。もしかしたら、互いの口から、互いの名前が出ることがめっきり減った息子たちを案じていたのかもしれない。
     一度手を離してしまうと、どちらかに意志がない限り、同じ道に戻ることが難しくなる。大人になればなおさらだ。愛情でも、友情でも、大切にできるものの数は存外限られている。高校生だったあの頃には、それほど現実感のなかったことだ。
    『今日、マッキー達と会ってたんでしょ』
    「その帰りで、駅から家に向かってるとこ。もうすぐ家に着く」
    『まっつんの家の近くで飲むって言ってたから、皆で泊まるのかと思った。さっきマッキーが連絡くれたんだけど』
    「ああ、そうなのか……」
     花巻のことだから余計なことは伝えていないだろうが、先ほどの会話が何かしら影響しているのは考えるまでもないだろう。
    「何か言ってたか? お前は、今日用事があるから来られないって松川に聞いたけど」
    『ううん、別に。パフェ食べた写真は見たよ。花巻カメラマンの撮った岩ちゃん結構イケてた。唇にクリームついてたけど』
     どこにアップしたのかと思ったら、及川に送っていたのか。
    『ところで岩ちゃんち、うちからそんなに遠くないね。この住所だと夜中なら車で二十分くらいかな』
    「ああ、まあそんなもんか? 俺は東京で車乗ってねえからよくわからんけど」
    『……今から岩ちゃんち行ってもいい?』
    「今からか」
     既に夜半を過ぎていた。夜遊びの習慣がなく体づくりを第一に考えるアスリートにとって、普段なら眠っている時間だ。
    『駄目? 明日予定ある?」
    「いや、別に駄目ってわけじゃねえけど……。雨が続いて洗濯物が溜まってるから、明日晴れたら干してえんだけど」
    『じゃあ、うち乾燥機あるからおいでよ。一回で全部終わるし、楽だよ。帰りも送るし』
    「え?」
    『すぐ迎えに行くから、準備して待ってて』
     ぷつりと通話が途切れて、岩泉は自宅マンションの手前で立ち尽くした。
    「強引すぎるだろ」
     最後に会ったのはいつだったか。もう二年以上前だ。それも試合の日にちらりと顔を見たくらいで、直接対戦はできなかった。
     手紙を出したのは確かに岩泉で、だからこの切っ掛けを作ったのも、それを機に、松川と花巻を誘って飲みに行き、心の隅で燻っているものを何とかしようとしたのも岩泉だ。飲みに及川を誘おうと言ったのは花巻だったが、及川は収録が入っていて無理だったらしい。
     こんなことなら、あのまま松川の家に泊まって、四人で再会するほうが幾らか気楽だったかもしれない。何の後ろ暗いところがあるわけでもないが、あの宮城での最後の日のことを思い出すと、どうしても胸がじくりと痛むのだ。
     互いを無二の相棒と信じた幼馴染を、切り捨てたような気がして。もちろんそんなつもりはなかったけれど、そう思わせたような気がして。
     かといって、他に打開策も思いつかず、そうこうする間に、距離の取り方がわからなくなってしまった。会わなければ会わないだけ、わからないことが増えた。
     突然の及川襲来を前に、気持ちがついていかない。
     基本的に洗い物は全部洗濯槽の中に放り込んでいくスタイルの岩泉は、部屋に着くとすぐに脱衣所に直行し、コインランドリーを使用する時のための大きな袋に洗濯物を移し替えた。
    「……パンツって人んちで洗うもんか?」
     これが、相手が松川なら、洗濯物を用意して待っていろなどと言わないし、仮に言われたとしてもパンツは持っていかない。しかし、相手は及川だ。
    「まあいいか、全部持って行こう」
     荷物の準備をし、何となく落ち着かずにうろうろしていると、着信音が鳴った。
    『着いたよ。エントランスの側に停めてる』
     すぐに洗濯物の入ったバッグをもって、マンションの下まで降りて行く。
     及川の車は、思っていたより小ぶりの車だった。チカチカとパッシングされて、助手席側まで走って行ったつもりが、左ハンドル車だったので運転席側だった。
     及川は、いつか高校生の時に買ったのに似た、上だけ黒いフチのある眼鏡を掛けていた。
    「とりあえず乗って、すぐ出るから。岩ちゃん、大荷物だね」
    「だから言ったろ、洗濯物溜まってたんだよ」
    「まあ、俺には都合がよかったけど」
    「あ? どういうことだ」
    「いいの、こっちの話。乗って乗って」
     岩泉が助手席側に回って乗り込むと、及川はすぐに車を発進させた。
    「もっと派手な車に乗ってくるかと思った」
    「うーん、岩ちゃんの好きそうなスポーツカーもあるにはあるんだけど、あれ目立つから」
    「うへ。お前、車何台持ってんだよ」
    「二台だけだよ。あっちは何か人数いるときとか、お客さんとか乗せるときにね。こっちのほうが小回りきくし、目立たないから普段使いにはこれがいいの」
    「へえ、羽振りいいな。まあ、お前テレビ出たりしてるしな」
    「なんかねえ、俺最近、尾行とかされたりすんだよねぇ」
    「はぁ? お前なんか尾行してどうするよ」
    「でしょ。聞きたいことがあるなら正面から聞いてこいっつうんだよ」
    「けど、誰かと付き合ってるかどうかとかは、相手のこともあるから言えねえんじゃねえの」
     そう言うと及川は逡巡した。赤信号で停車すると、社内に少しの間静寂が訪れたが、信号が変わると同時に及川はまた話しだした。
    「相手のあることの場合は、発言を考えないといけないね。契約とかもあるし。バレーの邪魔になることは避けたいしさ」
     及川の運転はかなり紳士的だった。ハンドル捌きもブレーキのタイミングも淀みがない。岩泉も車の運転は得意なほうなので、及川が運転慣れしていることはよくわかった。
    「俺んち、わかりにくかっただろ。あのあたり、マンション多いからな。ナビだけで場所わかったか?」
    「ん? ああ、うん。なんとかね。ナビが優秀だから」
     そこでもまた及川は歯切れの悪い返事をした。
     時々歯にものが挟まったみたいになるな、と思っていると「あ、俺んちあそこ」と及川が指し示した。初見でも高級そうなマンションだ。
    「すげーマンションだな。コンシェルジュとかいるんじゃねえの」
    「いるよ、でも賃貸だし、そこまでゴージャスっていうのでもないよ。やっぱり、管理とか保守とかきちんとしてるのが優先だよ」
    「お前そんなに苦労してるの?」
    「イタリアに行く前は寮だったからさ、結構周りに迷惑かけちゃってね」
     言いながら、及川のフィアットはマンションの地下駐車場へと入っていく。
    「今日は隠れて撮ってる奴とかいなさそうだねえ。はい、間もなく目的地に到着します。お疲れ様でした」
     ナビと声を揃えて言う。
    「おう、サンキュー」
     及川の部屋は、マンションの最上階にあたる三階の角部屋だった。マンション内を移動中には、誰ともすれ違うことはなかった。夜も一時を過ぎようとしているから、当然かもしれない。
    「おじゃまします」
     玄関の扉を開くと、懐かしいにおいがした。宮城の及川家の扉を開いた時と同じにおいがする。
    「右にスリッパ入ってるから、履いてね」
    「うお、なんか上品だな」
    「一時期マネージャーが毎日家に来てたから、こういうのに慣れちゃってねえ」
    「マネージャーって。芸能人かよ」
    「最近はバレーの練習したいから取材とかあんまり入れないようにしてるし、毎日会うこともないけどね。部屋、明るくできるけど、もう夜遅いから間接照明だけにするね」
     部屋は岩泉の家の倍くらいの大きさで、寝室以外はすべて繋がっている大きなリビングダイニングだった。岩泉は、導かれるまま客用のソファの真ん中に腰掛けた。
    「アルコールもコーヒーとかもあるけど、どうする?」
    「いや、さっきまで飲んできたから水でいい」
     思っていたよりも、ずっと滑らかに話ができている。流石に七年ぶりの会話は、表面を滑るようではあるけれど、それでも無言が続くよりはいくらかマシだ。及川相手に無言であることほどやりきれないこともそうそうない。
     及川からグラスに注がれたミネラルウォーターを受け取って、落ち着こうと一口飲み下す。及川もソファに座ったが、手にしているのはおそらくアルコールだ。岩泉も、松川や花巻とそこそこの量を飲んできたからそれなりに平常心でいられるが、これがもし素面だったなら、それなりに緊張していたかもしれない。
    「岩ちゃんがくれた、手紙。驚いたよ。手紙自体も珍しいけど、岩ちゃんから手紙なんて、ほとんどもらったことなかったし」
    「ああ。俺も、手紙とか書いたことなかったから緊張した」
     そして、何十枚も便箋を無駄にした。パソコンで書いて打ち出そうかと思ったくらいだ。しかし実際にやってみたらどうにも犯罪予告みたいだったのでやめた。
    「本当にびっくりしてさ。三日かけて、やっと開いて、読んで驚いて。そしたら今日の飲み会で連絡が来た。俺、夢でも見てるのかと思ってさ」
    「松川と花巻には俺が誘ったんだ。お前にも連絡するか迷ってたら、あいつらが連絡したみたいだな」
     仕事があったから、行けなかったんだけどね。と及川はため息をついた。
    「でも実際、どんな顔して会えばいいかわからなかったんだよ」
    「そりゃ俺もだ。俺は、お前に避けられてるみたいだったし、俺から連絡するのはやめ……」
    「はあ!?」
     その時、及川が突然大声をあげた。近所迷惑になるくらいのデシベルで、すかさず脳内レフェリーのホイッスルが鳴る。
    「おい、深夜だぞ。トーン落とせ」
    「えっ、あっ、いや、でも、ええ?」
    「何だよ。お前、俺のこと避けてただろ」
    「ああ、うん。ごめん。だけど、それ以前に岩ちゃんは……あの日のことをどう思ってたの」
     及川は、テーブルにグラスを置いて、密やかにそう言葉を継いだ。
     岩泉の脳裏には、今でもあの日、ブランケットに包まって呟いたあの囁きが、あの瞳が薄れることなく焼き付いている。長年側で過ごした幼馴染の、それまで見たことのなかった表情に、声色に何を思ったのか、今なら岩泉にもはっきりとわかっている。
     七年前の自分にはわからなかったことの中に、時を隔てて見えていることがある。そしてその答えが、あの日の及川を悲しませたであろうことも。


    「俺は……今から思うと、あれは、怖かったんだと思う」
     そう言うと、及川は目に見えて辛そうに肩をすくめた。
    「あの時はまだ、お前が、俺と離れることに怯えてるだけだと思ってたんだ。実際、お前が何を求めてああいうことを言ったのか、本当のところはわからないままだけどな。だけど、大学に入ってすぐの大会で顔を合わせた時、俺は間違ったかもしれないと思った」
     及川の視線の中に、その日初めて色が宿ったことに、高校生だった岩泉はただ怯えたのだ。
    「……俺も、岩ちゃんにもう一度確かめる勇気はなかったよ」
    「失うのが怖いのに、確かめなきゃ離れるだけなのに、そこから動けなかった」
     話を聞きながら、及川はふいに立ち上がり、リビングボードからあるものを取り出してきた。
     それは、岩泉が送ったあの白い封書だった。
     岩泉は、自分が手紙を書いた理由を思い出しながら訥々と語る。
     「俺は、お前と別れることがどうでもよかったわけじゃない……ただ、追いかけたかった」
     及川と一緒のチームで戦って、ウシワカに勝利する未来があればいい。いつかまた、影山と日向の変人速攻を倒すのもいい。及川と共に世界と戦う未来があってもいい。
     どれもまだ、ひとつとして諦めるつもりなどなかった。
     及川は、大学でも間違いなくレギュラーを獲るだろうと、岩泉は思っていた。そして実際、大学二年次には先輩からレギュラーセッターの座を奪い、卒業まで誰にも渡さなかった。
     及川は、もし岩泉と同じチームになったとしたら、どこでどんな戦いをしていても、あらゆる技術と力を駆使して岩泉をエースにするだろう。それが及川の、セッターとしての能力でもあるからだ。
     だがそれでは、それだけでは駄目だった。
     自分が、自分達が中学、高校時代に積み上げたものは、決して及川の力だけではない。けれど集大成として臨んだはずのあの大会で、青葉城西が負けたことに、及川も傷つき、岩泉の心にも影を落とした。
     勝てないということを、強く思い知らされた。これからも、互いが互いにとって最高の相棒であるために、岩泉は強くなければならなかった。強くなりたかった。そうでなければ、夢を見ることすらも適わない気がした。
    「だから、いつかお前と戦える力を持って、同じチームでバレーができるようにと思ったんだ」
     及川は、最後まで堪えきれなかった涙をこぼした。
    「また、一緒にバレーができるまで」
     及川が手にしていたのは、先日岩泉が日本バレーボール協会から受け取った報告の概要を書き、封書に入れて送ったものだった。正式な発表はまだだから緘口令が敷かれているが、来年の自国開催五輪でのレギュラー争いに入れるということだ。
     レギュラー争いに入れるという程度だから、まだ試合に出られると決まったわけではない。
     それでも、その細い糸を一本、掴んだ。
     それは、いずれまた、及川と見る夢を手に入れるための拠り所だったからだ。
    「岩ちゃん、やっぱりかっこいいね……」
     鼻を赤くして、これ以上ないくらい嬉しそうに笑う及川を久しぶりに見た。
    「七年もかかっちまったから、別にかっこよくはねえけど」
    「ううん、惚れ直した」
     及川は夢中でそう言ったが、岩泉は今更、及川の気持ちの本当の意味を理解し、あの日のことを思い出して赤面した。
    「お前、やっぱり、あの時……」
    「ごめんね。本当は、あんなこと言うつもりなかったんだよ。だけど、岩ちゃんがあんまりにも平気そうだったから、絶対忘れられないようなことを言いたかったんだ。でも同時に自分にも呪いがかかっちゃってさ。自分から岩ちゃんに話しかけられなくなっちゃった」
    「まじか……お前、俺を呪ってたのかよ」
    「そんなつもりはなかったんだけどね。結果的にそうなっちゃっただけ」
     鼻の頭を赤くしてテヘペロ、とする及川は、高校生の頃に戻ったかのようだった。
     七年で、髪が短くなり、体は少し大きくなった。しなやかな筋肉は相変わらずだが、名実ともに磨かれたのはおそらく及川のほうだ。そんなことを言ってやるつもりはないのだけれど。
     空白を埋める必要があるかどうかはわからない。
     ただあの頃と違って、今の岩泉には及川が伸ばしてきた震える腕を取って、ソファに抱き込むだけの心の準備があった。
    「待たせて悪かったな。今は怖くない」
     突然岩泉に大きなソファへと引っ張り込まれた及川は、ただただ驚いて顔を紅潮させている。
    「うそ」
    「嘘じゃねえ」
    「本当は、俺が誘おうと思ったんだ。もう、こんな機会絶対ないから、何とかして岩ちゃんを籠絡しようと思ってたのに」
    「まじか」
     この期に及んでそんなことを告白する及川に、思わず吹き出してしまう。
    「でもそれどころじゃなくなっちゃった……岩ちゃんがかっこよすぎるから。抱いてって言いたいところだけど、そこは俺が抱くからね」
    「何の心配してやがる。俺は今日は寝るぞ」
    「嘘でしょ!?」
    「もう、こんな時間じゃねえか。どうせ明日は洗濯しないといけないし、一日ここで過ごすから」
    「でもほら、流れっていうのがあるでしょ! 俺の、もう今の一瞬で結構こんなになってるんだけど!」
     及川が岩泉の手を取って、そっと自分の股間に当てた。確かにかなり膨張している。
    「期待させたのは悪いと思ってる。いやでも俺もう眠いから続きは明日だ。便所行ってこいよ」
    「酷いね! 期待させたぶんだけ、あの日の岩ちゃんより酷い!」
     無理矢理抱きついた及川を宥めながら岩泉は寝落ちし、及川は悲嘆と喜びの涙にくれながら、岩泉を寝室のソファへと移動させたのだった。

       *

     及川がこのマンションに住み始めて、そろそろ三ヶ月になる。
     築三十年にもなる独身寮は、雑音が遮断されてバレーに集中できるところが好きだったのだが、いかんせんセキュリティが弱かった。だから、この春に所属チームで住むところを探してもらったのだ。家賃は上がったが気楽になった。受付のいるマンションということもあって、勢い余ったファンが押しかけてくることもない。
     ダイレクトメールからファンレター、手紙という手紙が電子化の一途を辿っている昨今、ポストに投函されていた飾り気のない白い長封筒は、とても新鮮に映った。
     手にとって、宛名書きを確かめて思わず取り落しそうになった。高い筆圧で書かれた、やや右肩上がりの文字には強烈な既視感があった。
     結婚式の招待状ならもう少し飾り気のある豪華な封筒でも良さそうだし、もしそうなら家族から先に連絡があるだろう。
     だからその心配はなさそうだと思い至り、それだけで及川は少し落ち着きを取り戻した。
     けれど、どうしても開く勇気が出なかった。
     絶交したわけではなかった。かつて恋人だったというわけでもない。具体的に何か二人の間の約束や、関係があったわけでもない。
     けれど、ただの友人同士であったかと言われれば、そうとも言えない。
     自分達と同じ位の期間を友人同士で過ごす人々は、この地球上に数え切れないほど居るだろう。その中で、異性であれ同性であれ、恋に落ちる幼馴染もいる。

     そして、及川は恋に落ちた。

     その日は細い雨が降っていた。
     梅雨明けが近い朝、暖かい光が、南向きの大きな窓から差してくる。洗濯機が稼働する音と隣から規則的に聞こえる健やかな寝息を聴きながら、及川の心にはあの旅立ちの日の雨が滲んでいた。
     手に入れられないものの象徴のように霞んでいたあの日の景色の思い出が、静かに塗り替えられていった。
     手放しで見送ったあの背中も、触れられなかった唇も、今すべてがここにある。
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