不器用たちのおまじない――ワンダーランドのセカイは何時だって不思議に満ちている。
バーチャルシンガーやぬいぐるみが動いていたり、木々が話し汽車が空を飛んでたり……もう何度も訪れたことのあるセカイは、何時だって僕に新鮮な驚きを与えてくれた。それでも短くない時をこのセカイで過ごし、僕もやっとこの不可思議な出来事に慣れてきたと、そう思っていたのだけど……。
「にゃーん」
今、僕の目の前には一匹の猫がいる。
太陽のように明るい金の毛並みに覆われ、その猫はのんびりと僕を見上げていた。
不思議の国で逆に浮いてしまっている普通の生き物を前に、しかし僕は戸惑いを隠し切れずにいた。
それもそうだろう。だってこの猫は――
「……本当に、司くんなのかい?」
傍から見れば正気を疑われそうなことを、僕は目の前の……先ほどまで確かに人間だった筈の彼へと問いかけた。
「みゃー!!」
果たして、猫は元気よく一鳴きすれば、その四本足で僕の足元にするりと近寄る。そうしてしなやかな肢体を僕の足に巻き付かせれば、すりすりとその頭を摺り寄せてきたのだ。その動作は何処から見ても猫そのものであり、人間のようには全く思えない。
(これは……奇妙なことになったねえ……)
心の中で溜息を一つ。
どう見ても猫にしか見えない生き物を前に、それでも僕は、目の前の"それ"が司くんであると確信していた。
――つい先ほど、ショーの打ち合わせをしようと共にセカイへと訪れた司くんが、セカイに来た途端姿を消してしまったこと。
――そして彼がいた場所に、司くんと同じ毛色をした猫がいたこと。
その二つの状況証拠に『ワンダーランドだから』という理由を添えてみせれば、『目の前の猫は司くんである』と結論付けるには十分だったんだ。
とはいえ、もし"司くん"が猫になったのなら、彼はそれはもう大層驚いてみせただろう。それこそ、きゅうりを背後に置かれた猫のように暴れまわっても不思議じゃない。
だからこそ、こうして"普通の猫"としての仕草を見せられてしまうと、僕の結論も揺らぎそうになってしまう程だった。
「んぁぁ」
「……ふふ、随分と人懐っこくなったものだねえ」
それにしても、猫となった(?)司くんはかなりの甘えん坊らしい。
僕にすりすりを続ける小さな生き物は、とても人懐っこく甘え上手だ。僕が手を伸ばして彼を抱きかかえても、抵抗するどころかすっかり大人しく僕の腕の中に納まってしまったほどだからね。
片手で猫の頭を撫でれば、彼は気持ちよさそうに目を細めて、僕の手に頭をぐっと押し付ける。
「……取り敢えず、カイトさんに聞いてみるかな」
このままずっと司くん(?)を撫でていたい衝動を押さえながら、僕はサーカステントへと歩みを進めた。
***
――結論から言えば、やはりこの猫は"司くん"で合っていたらしい。
カイトさんもミクくんも原因がわからず首を傾げていたものの、確かだったのは「司くんの身も心も猫になってしまった」ことであり、加えて「何かしらの想いが司くんに作用してしまっているのではないか」ということだった。
「困ったな……二人でもわからないとなると、司くんはこのままずっと猫のままになってしまうのかい?」
てっきりこの現象もワンダーランドの不思議の一つだと思っていた僕は、住人達ですら知らない奇妙な現象に眉をひそめた。
……まぁ、その間もすり寄ってくる猫司くんを撫でていたから、深刻さはそれほど感じられなかったかもしれない。
「むむむ~……多分、ワンダーランドのセカイから外に出れば、司くんも元の姿に戻ると思うよ!でもでも、もう一度このセカイに来たらまた変わっちゃうかも~?」
「セカイから出るのは対症療法ということか……セカイでの練習が出来なくなってしまうのは困ってしまうね」
「困っているにしては、随分と"今の"司くんを気に入っているように見えるけど……」
猫司くんを撫でまわす僕にカイトさんが苦笑を浮かべる。
勿論、僕だって真剣に考えているとも。でも、猫司くんがとっても甘えん坊になって、こうして僕に甘やかせと迫ってきているからね。なら、それに応えないのも失礼と言うものだろう?
そんな言い訳を心の中で重ねつつ、僕は一先ず手っ取り早い解決方法を脳裏に描いた。
「それじゃあ、僕たちは一度セカイから出てみるよ。今日は僕のスマホから曲を流していたから、僕のを止めれば司くんも戻れる筈だ」
司くんを足元に置いて、僕は自分のスマホを手に取る。何処か名残惜しそうに見つめてくる小さな隣人の誘惑を跳ね除け、僕はスマホから再生されている曲を止めた。
幻想的な光が走り、セカイは世界へと戻った。
先ほどと変わらない昼休みの屋上。僕の隣には、セカイに来る前と同じ"人間の司くん"が座っていた。
「んん……」
何故か眠り込んでいた彼は、小さな身じろぎと共に目を覚ます。きょろりと周囲に目を向けた後、彼は僕を見上げて「…類?」と寝ぼけた声を上げた。
「おはよう、司くん。昨日は徹夜でもしていたのかな?ぐっすりと眠っていたよ」
「あ、あぁ。そうだったのか……って、しまった!!今日はセカイで打ち合わせではなかったか!?」
「……うん、そうだよ。でも司くんが随分と疲れていたようだから延期したんだ。別に放課後にやっても問題ないだろうからね」
「うぐ……すまない、類。体調管理を怠るなど、座長としてあるまじき失態だ……」
「大丈夫、寝不足は誰にでもあることだからね」
心から反省する彼に少しの罪悪感を覚えながら、僕はアドリブで『司くんは寝不足からずっと眠り続けていた』という状況をでっちあげた。
"……司くんが猫になっている間、彼に自我や記憶は一切ない"
その事実に少しの驚愕と、じわりと芽生えた"企み"を自覚しつつ、僕は司くんと共に屋上を去ったのだ。
"司くん猫化現象"
即興で名付けたこの現象の全貌がわかるまで、そう時間はかからなかった。
彼が猫になってしまうのは、いつも決まったタイミングでのことだった。
僕と司くんが二人きりで、僕のスマホからセカイに入った時……その時、彼は決まって金の毛並みの猫となる。
猫になっている時の記憶や自我はなく、身も心も"甘えたがりな一匹の猫"になるんだ。
この現象の対処自体は簡単だ。寧々やえむくんたちとセカイに行ったり、司くん自身のスマホからセカイに行けば、猫化は絶対に起こらない。だから、こちらから意識しない限り、その異変は司くん自身ですら知り得ないものだった。
特段気を付ける必要もない、ワンダーランドの不思議の一つ。余程のことがない限り、今日も司くんは人間の司くんだ。
……ただ一つ、彼にとっての"不幸"があったとするなら――その"魔法"を、欲深い錬金術師が知ってしまったことだろうね。
***
「にゃあ」
実に一週間ぶりに出会った金色の猫は、今日も僕に甘えた声を上げる。
僕はその頭を撫で、ミクくんからもらった『猫司くんのおやつ』だと言うふわふわとした綿菓子を静かに差しだした。猫司くんは躊躇なく綿菓子を食べ、もぐもぐと嬉しそうに口を動かしていた。
「おいで、司くん」
そうして両手を差し伸べれば、彼は滑らかな動きで僕の手の中に収まる。そうして抱き上げ、優しくも少し力を込めて全身を撫でれば、彼は心地よさそうに僕の腕の中で目を閉じるんだ。
――あの日から僕は、時々彼と二人きりになるチャンスを作り、こうして『猫の司くん』をセカイに呼び出していた。
もし本人に知られてしまえば怒りは避けられないかもしれない。それでも僕はやめられず、こうして彼を猫にすることを続けていたんだ。
もしこれによって司くんに悪い異変が起きるなら、僕もすぐにやめるつもりだった。でも、現実世界の司くんには(居眠りが少し増えた以外は)異変など起こってはおらず、ミクくんやカイトさんも僕を咎めることはしてこなかった。寧ろミクくんは僕が猫司くんを甘やかすことを良しとしているのか、時々猫のおやつや猫じゃらしをプレゼントしてくれる程だった。そうやって止める要素がなくなってしまえば、僕がこの"魔法"を手放す理由なんて無くなってしまった訳で。
……そう、これは"魔法"だ。
仲間を導き、人々の笑顔を何よりも尊重する、強くて格好良い僕らの座長。
そんな君が誰かに甘える姿なんて、僕は見たことがなかった。
僕は……自分で言うのも何だけど、司くんには存分に甘えさせてもらっている。昔は出来なかった数々の演出案を試してもらったり、お昼ご飯を交換してもらったり……なんてね。
だから、これは一つの"お返し"だ。
日頃君を振り回して、存分に甘やかしてもらっているお礼として、僕は君を"猫"にする。
格好なんてつけなくて良い。自由気ままで我儘な、君とは対極にある小さな生き物になって、その心のままに僕に甘えてほしいんだ。
「……なんて、綺麗ごとを言えたら良かったんだけどね」
自嘲じみた呟きを零せば、眼下の猫司くんが不思議そうに僕を見上げた。
その仕草から表情まで無垢そのもので、彼の純粋さを前にすれば、僕の心に秘めた欲望が苦しそうに呻きを上げた。だからと言って今更やめてあげられるほど、僕は出来た人間ではなかった訳だけど。
――ごめんね、司くん。
君を甘やかしてあげたいと思う以上に、きっと誰にも晒したことのない"猫(本能)の君"を、僕はずっとこの手の中に置いておきたいんだ。
猫の君は司くんではなくて、この触れあいは君の夢にも記憶にも残らない。だからこそ、僕の際限ない欲望を満たすために都合がよかった。
猫の君を抱き上げ、そのふかふかのお腹に顔を埋める。猫は身動きしたものの、やっぱり逃げることはなかった。それが司くんに許されているように感じて、僕はますます柔らかい夢へと溺れていく。
「……好きだよ、司くん」
どうせ叶わない夢なら、好きにしたって構わないだろう?
悪びれもせずそう考えたまま、僕は今日も猫の君を甘やかす。いつかこの儚い夢が壊れる、その日まで。
――それでも願わくば、君がずっと僕の隣で夢を見てくれますように。
欲深い錬金術師は今日も想い人へ魔法をかける。
独善的でどうしようもない、それでも優しくて柔らかい夢だった。
***
「それじゃあ司くん、また明日ワンダーステージで」
「あぁ。またな、類」
何時も通りの別れの言葉を告げ、天馬司は帰路へと着いた。
今日は練習も打ち合わせも無い日だったため、何時もより早い帰宅だ。昼休みに少し眠っていたお陰か、夕方にしては疲労もなくスッキリしている。
間もなく家に着いて自室へと戻れば、司はカーテンを閉めてベッドに腰掛けた。今日は自分が一番の早帰りだったためか、家はしんと静まり返っている。
『つっかさく~ん☆』
と、不意に賑やかな声が横から響く。ベッドに置いていたスマホが輝けば、そこからワンダーランドのミクが飛び跳ねるように現れた。
「あぁ、ミクか。今日も教えてくれるか?」
『もっちろ~ん!司くんとの約束は絶対だからね☆』
ミクは目を輝かせながら司の言葉に頷いてみせる。そんな彼女を微かな笑みと共に見つめれば、司はスマホを手に取ってミクに向き直った。
「……それでは、教えてもらおうか」
「類が"猫のオレ"に何をしていたかを」
くつり、と漏れた声は明るい色をしている。
るんるんとした表情で『今日の猫と類』の様子を語りだしたミクを、司は読み聞かせを聞くかの如く、穏やかに見つめていた。
***
――オレの身に起きた異変ぐらい、とっくの昔に気づいていたぞ。
たった一、二回なら"疲労からの寝落ち"と片付けることができても、それが数週間置きとはいえ何か月も……それも、決まった時に続くなら、記憶がなくても違和感に気づけるのは当然だ。
あの類がそんなことに気づかない訳がない気もするが……ミクから聞いた"様子"を考えるに、それほどまでに"猫のオレ"に魅了されてしまっているのだろう。我ながら罪深いな、オレ。
違和感さえ覚えれば、後は簡単だ。
一人でセカイに来た時にカイトへ率直に尋ねれば、あっさりとオレに起きた異変を教えてくれた。
『オレが類と二人きりでセカイに行くと、何故かオレが猫になる』ということを。
猫になった際の記憶や意識は欠片も残っていない。ただ、類の前でうっかり居眠りをした後は、必ず身も心もスッキリとした状態になっていた。そうして類が猫のオレにしていたことまで聞いてしまえば、オレは納得せざるを得なかったのだ。
……正直、最初に聞いた時は羞恥から死にたくなった。オレが今すぐ類に詰め寄り、どうして教えてくれなかったと詰ることは簡単だったかもしれない。
それでも、オレはその道を選べなかった。
そしてあろうことか、オレは類の魔法を知りながら、敢えてそれに罹り続けることを選んだのだ。
類がさりげなくオレをセカイに連れていくことを黙認し、猫になっている間にオレを甘やかすことを受け入れた。その代わり、こっそりミクにその時の様子を後で教えてもらっている。傍から見れば理解できない行動だっただろう。
『司くん、とっても幸せそうだね!』
かつてニコニコとした笑顔でミクにそう言われたことが、未だに記憶に残っている。
――そうだ。オレは、類に猫として甘やかされることを嫌っていない。
それどころか、この奇妙ながらも優しい夢の虜になってしまった。
オレは……正直言って、"甘える"という行為に抵抗を持っている。
兄として、学級委員長として、座長として、常に皆の前に立って導くことを生業としてきた。だから、今更誰かに心内を明かして頼ろうとしてもわからないのだ。それどころか、つい最近まで考えたことすらなかった。
オレはこれからも"強い天馬司"であり続ける。格好悪い姿なぞ誰にも見せたくはない。
そんな不器用なオレの心が何時の間にか限界だったのか……それとも、単なる不思議の国の気まぐれか。どちらにせよ、オレは本能のままに生きる猫になった。そして、「"自分の全てを許しても良い"と思うたった一人の相手」に対し、本能のままに全てを曝け出している。
類が猫のオレを甘やかし続けている理由は、未だにわからない。
ミクから聞く様子は俗に言う"猫馬鹿"のようなものであり、最初は類が猫派だったのかと思った程だ。
……だが、回数を重ねるごとに"理由"などどうでも良くなった。
記憶にも夢にも残らずとも、類に甘やかされた後は幸福感に満たされる。
"天馬司"として考えれば断固として認めたくない行為も、"ただの猫"が受けているだけのものとすれば、オレは思った以上にすんなりと受け入れることができた。
類は好きな猫を存分に構うことができて、オレは"天馬司"を崩すことなく"優しい想い"に甘えることができる。
これは俗に言うWin-Winの関係だ。だから、きっとこのままで良いのだろう……と、オレは思っている。
夢を覚ます一針など必要ない。
類の気が済むその日まで、オレは猫の魔法にかかり続ける。オレが受けるべき類からの好意も、今だけは猫に全て渡してやろう。
ミクから聞く"オレの知らない類の姿"を脳裏に思い描き、その想像に独り浸ることができれば、今のオレにとっては十分だった。
ああ、でも……
(……羨ましいな)
自由気ままに想い人へ甘えられる"隣人"を思えば、この胸にある"嫉妬"の灯火は微かに揺れ動いた。
【不器用たちのおまじない】
――互いの想いに気づかぬまま、今日も彼らは不器用な愛の魔法をかけあっている。