新生のプレリュード深い、深い、森の中――木々が太陽すら覆い隠す森の奥深くに、小さな足音が響き渡った。
「待ってろ、お兄ちゃんが必ず持って帰ってくるからな……!」
そんなことを呟き足早に駆けているのは、金色の髪をもつ幼い少年であった。質素な服に身を包み、不相応に大きい片手剣を抱くように持っている。
人々から『黒の森』とも呼ばれているこの森は、少年の住む”森の都市”を覆うように存在している。森は都市から離れるほどに人の管理が薄くなっており、ましてや少年が今走っている場所は森の比較的奥深く……最深部ほどではないものの、危険な獣や魔物も確認されている地帯だった。
時折、腕利きの冒険者や警備隊が見回りに訪れているものの、幼子一人が勝手に歩いて良い場所ではないのは明らかだ。だというのに、その少年は何かに急かされるように、森の中をひたすら走っていたのである。
「確か、小川を越えて北に行くんだよな……でも、北ってどっちだろう……」
それから少しして、少年は小川の近くで足を止めた。
キョロキョロと周囲を見回しながら、彼は何かを探す素振りを見せる。その表情は緊張で強張っており、自分が母親から怒られかねないことをしているという自覚はあるようだった。
――だが”怒られる”という行為は、彼が生きていなければまず叶わないものだ。
『グウゥ……』
「っ!!」
突然、背後から低い地響きのような音が響き渡る。反射的に振り返った少年の瞳に映ったのは――
「ひっ ク、クマ……!」
大人の背を軽く追い越すほどの巨大熊が、少年より十数メートル先で唸りを上げていたのだ。その口元からはぽたりと涎が落ち、明らかに空腹で機嫌が悪いことをこれ以上なく主張していた。
熊自体はこの森で滅多に見られない動物だが、それは人の手によって追い払われているからである。裏を返せば、尚も森に残っている熊の強さは魔物にも劣らないと言えるだろう。そして、そんな熊の目的は『人を含む全ての物を喰らい尽くすこと』以外に存在しない。
「森の奥には怖い魔物や人食い熊がいるから、決して入ってはいけない」……森の都市に住む母親が必ず子に伝える忠告を、この少年もしっかり覚えていた。だからこそ、不運にもこの熊と相対してしまった時、少年は逃げることも剣を抜くことも出来ず、恐怖に身体を凍らせることしかできなかったのだ。
『グルル……』
「か、かあさん……とうさん……」
一歩を踏み出した人食い熊を前に、少年はただ両親を呼ぶことしかできない。剣を抱き締める手はカタカタと震えている。
だがそんな姿を見たからと言って、本能に生きる人食い熊がその事情を考慮することは無い。例え小さく喰い甲斐の無い相手だろうと、己の糧になるならその牙で貪り喰うだけなのだ。
「……だ、だめだ。死んだらだめだ。オレが頑張らないと、サキも死んじゃう。だから……!」
それでも、少年は僅かながらに勇気を見せた。
お守りのように抱えているだけだった片手剣の柄を持ち、鞘を落とすように抜き取る。だが、現れた鈍色は鋭く、その身は余りにも重かった。幼い人間の少年が両手で持とうにも、その刀身は重力に従って地面へ落ちてしまう。
『ガアアアァァァァ!!!』
「ひぃっ!?」
そして、大熊の気まぐれが続いたのもそこまでだった。辺り一帯に響く大きな咆哮と共に、その巨体が少年へと歩き出した。
丸太のような前足一本を振り下ろすだけで、目下の獲物はぐしゃりと潰れるだろう。本能でそれを理解していた人食い熊は、ただ己の欲望のままに少年へと近づいていく。
(もう、だめだ)
剣を取りこぼし、最早どうにもならないと悟った少年は、涙を零しながら目を強く瞑った。
そして――
「――あぁ、これはいけないね」
場違いに優しい誰かの声と、荒れ狂う風の音を、少年は確かに聞いたのだ。
『ゥグウゥゥ!?』
苦悶の唸り声が聞こえ、ドサリと何かが倒れる音がした。
驚き目を開いた少年が真っ先に見たのは、僅か数メートル先で倒れ伏す人食い熊と、その背に突き刺さった一本の矢……そして、その更に先に立つ”誰か”の姿だった。
その人物は木々の影に隠れてよく見えないものの、大きな弓をその手に持っていることだけは辛うじて認識できた。
『ガアア!!』
だが、少年がもっとよく見ようとしたところ、人食い熊が突然咆哮を上げたのだ。
熊は身体を起こすと、少年には目もくれず自分を射った人物へと方向転換し、そのまま走り出した。
「フフ、流石に風の矢程度じゃ役不足だね。良いよ、ちゃんと相手をしてあげようか」
襲い来る巨体を前に、その人物はからからと笑う余裕すら見せる。そのまま素早く弓を構えれば、今度は矢に紫の瘴気を纏わせながら撃ち放った。
それは人食い熊の胴に容易く当たり、今度はより大きい苦悶の声を上げながら、熊は立ち止まって悶えた。
「毒は十分。ただ、あまり長引かせてはいけないね……っと!」
その人物は熊の更に先――へたりこむ少年を一瞥し、再び矢をつがえる。
だが、射出するよりも早く、怒り狂った熊が猛突進で突っ込んできたのだ。当たるだけでもひとたまりもない質量だが、彼は驚くことすらなくひらりと飛び退いてみせる。そしてお返しとばかりに空中で矢を連続で撃ちだせば、それは前足と後ろ足を的確に射抜き、熊のバランスを崩して転倒させた。
「……すごい」
少年が呆気に取られるのも無理はない。都市の警備隊でもここまで鮮やかに、ましてや大型の獣相手に一方的には戦えないのだ。それこそ熟練の冒険者でもなければ、滅多にお目にかかれないだろう。
まるで物語に出てくる英雄のように、その人物は恐ろしい人食い熊をどんどん追い詰めていく。その雄姿を、少年は己の眼に強く焼き付けていた。
「さて、いよいよフィナーレだ! 盛大に行こう!!」
立ち上がったものの既にふらついている人食い熊を前に、その人物は大仰な身振りと声で宣言する。まるでこれ自体が一種の見世物であるかの如き振る舞いだ。その効果もあってか、少年も何時しか見世物を見るように、その光景を目に焼き付けていた。
『ガアアアアアア!!』
最期の抵抗と言わんばかりに、クマは血で濡らした脚を引きずり、森を掛け抜ける。生意気な人間を食いちぎらんとその大口を開けながら。
そんな狂乱を前にしても、彼は決して背を向けなかった。ただ静かに目を閉じ、その背から矢を取り出してつがえる。その途端、ざわりと風が彼の手に纏わりつき、そのまま矢へと収束していったのだ。
「腹の空いた暴君へ、最後にたらふく食べさせてあげよう――さぁ、受け取るが良い!」
その叫びと共に、矢が一直線に放たれる。
それは平凡な矢ではない。放たれた瞬間いくつもの矢に分裂し、まるで真横に振る雨のように熊へと降り注いだのだ。そのどれもが一つも外れることなく熊へと突き刺さり、深く食い込んだ。
だが熊とてこの程度では止まらない。せめて一矢報いようとその巨体は勢いよく突進する。
「あぶない!!」
少年の叫びは、結果として役目を遂げることはなかった。
……それよりも早く、クマがバランスを大きく崩す。その突進が彼へと届くことはなく、間もなく地面へと倒れ込んだのだ。
「最後の駄目押しは毒だったか……もう少し格好良く締めたかったんだけどねえ」
彼は倒れ伏す熊を一瞥した後、大弓を背負い直す。どうやら熊は完全に死んだと見て良いようだ。
そして少年はと言えば、目の前で起きた超常的な光景を前に、暫く呆けたままだった。ようやく我を取り戻したのは、いつの間にか目の前にいた人物が「大丈夫かい?」と問いかけたタイミングであった。
少年は呆然としたまま、遥か頭上の人物を見上げる。
……此処では見かけない、奇妙な格好をした人物だった。扱う武器からして、彼は弓で戦う”弓術士”の人なのかと少年は思っていたのだが、その服装は森の都市にある”弓術士ギルド”の所属員のものではなかった。どちらかというと森の狩人のように、腹部を露出した軽装を身に纏っていたのだが、その足を覆っている靴が獣足のように見える足鎧なのが印象的だった。
顔立ちは若い青年のもので、その体躯や声から男性であることが伺えた。そして、ラベンダー色に淡い青の差し色が入った髪をふわりと揺らし、彼は片膝立ちとなって少年へ手を差し伸べてくれたのだ。
――普段の少年であれば、親から躾られた礼儀正しさで「ありがとうございます」と礼を言えただろう。
ただ、命の危機による極限状態だったことで若干混乱していた彼は、差し伸べられた手よりも上にある相手の整った顔……よりも更に上にある”とある物”を見て、目を丸くしてみせた。そして、思わず言ってしまったのだ。
「……ウサギさん?」
自分を救ってくれた命の恩人――その頭にある『ウサギのようにピンと伸びた二つの耳』を、少年はじっと見つめていた。
対する青年は、少年の言葉を聞いて一瞬呆気に取られたような表情を浮かべる。そして一拍置き、顔を逸らして盛大に噴き出したのだ。
「ぷっ、あはは!!命の恩人相手にそう来たか! でも、確かに知らなければそう思ってしまうだろうね」
朗らかに笑いながら、彼は大きな手で少年の髪を軽く撫でる。そして微笑とともにこう告げたのだ。
「”ヴィエラ族”に会うのは初めてかな? なら、自己紹介もしておこう」
「――僕はルイ。根も無く旅を続ける、しがない旅人だよ」
「まぁ、今は少し根を下ろしているけどね」と付け加え、彼は穏やかに笑った。
***
奇妙な邂逅から少しして、少年はルイと名乗った青年に抱え上げられ、彼と共に森の中を進んでいた。
『狩りの途中で物音を聞いて、駆け付けたら君と大熊がいたんだ』と話す兎耳の青年は、最初こそ少年を都市へ送り返そうとしていた。だが、ようやく調子を取り戻した少年が、青年に向けて必死に懇願したのだ。
「おねがいします!森の奥にある『月光草』を採取したいんです! 一緒についてきてくれませんか!?」
「月光草? 確か満月の夜にだけ咲く、この土地由来の薬草だったかな。もしかして、君の知り合いか家族に病気の人がいるのかい?」
「えっ!? う、うん。妹が昔から身体が弱くて……」
「なるほど。だから君は危険を承知で、こんな森の奥まで一人で来ていたんだね」
薬草についての知識だけでなく、そこから少年の抱えていた事情まで看破した青年に、またしても少年は目を丸くする。
「……お兄さんって、魔法使いなのか?」
「フフ、魔法は少し齧ったことはあるけど、専業は森の狩人だよ。『錬金術』の心得もあるけどね」
彼は微笑と共に少年の頭にぽんと触れ、そのまま少年を抱き上げた。その際に左手で落ちていた剣を拾い、「わわっ」と慌てる彼を右手で軽々と抱えながら、その脚は都市ではなく森の奥へと進んでいった。
「良いよ。君の護衛と薬草採取の依頼を引き受けよう。君には傷一つつけないから安心してくれたまえ」
「ほんとか!? えっと、お礼は……」
「その話は帰ってからにしよう。君も早く妹くんを助けたいだろう?」
「……! うん!!」
力強く頷く少年に「良い返事だね」と青年は笑い、彼はそのまま歩みを進めていった。
道中は意外にも平穏なもので、彼らはスムーズに目的の採取地まで向かっていた。というのも、青年が時折立ち止まっては周囲を伺い、魔物や獣がいないルートを選んで進んでいたからだ。そんな安全な旅路だったからこそ、少年は青年と様々な会話をすることが出来た。
「お兄さん、ヴィエラ族ってなに……ですか?」
「フフ、敬語じゃなくても大丈夫だよ。ヴィエラ族っていうのは、僕みたいな人達のことさ」
彼は幼い少年にもわかりやすく、自分のことについて教えてくれた。
まず、この世界には少年のような人間――ヒューラン族と呼ばれる多数派種族以外にも、様々な種族が”人”として暮らしている。
少年もその事実は前から知っており、例えば彼の住む森の都市では、背が高く耳先がとがっているエレゼン族や猫のような耳としなやかな尻尾を持つミコッテ族、ヒューラン族より遥かに小さい小人のララフェル族に、逆に大きくがっしりとした身体を持つルガディン族など、個性的な種族が日々を賑やかに暮らしていた。ただ、そんな都市でもヴィエラ族なる種族は全くおらず、それ故に少年には彼らを知る術がなかったのである。
ルイ曰く、ヴィエラ族とは兎に似た耳を持った種族であり、普段は森の中で暮らしているらしい。彼らは此処とは別の大陸に住んでいる少数種族であり、その上生涯の殆どを森の中で過ごすことから、人前には滅多に現れないのだという。また、種族の多くは女性で構成されているため、男性のヴィエラともなれば、その希少性はより高くなるのだとか。
ルイのように故郷の森を離れて冒険するようなヴィエラ族は”相当な変わり者”なのだと、彼は最後にそう付け足していた。
「だから君がヴィエラについて知らなくても無理はないよ。僕ら《ヴィエラ》がこの大陸に来たのも、つい最近のことらしいからね」
「へぇ~。お兄さんはこの森に引っ越してきた人なのか?」
「いや、僕は冒険者だよ。とっくの昔に故郷の森から出て、今は色んな場所を旅しているんだ」
「冒険者!?」
青年の口から”冒険者”の名を聞いた途端、少年の目がきらきらと輝いた。
「おや、君は冒険者が好きなのかい?」
「うん! 将来は冒険者になって、格好良い活躍をたくさんするんだ! そして、世界中に『ツカサ』の名前をとどろかせて、お母さんやお父さんやサキに一杯褒めてもらうんだぞ!」
「なるほど、それは随分と大きい夢だね。妹くんの為に頑張れるツカサくんなら、きっと凄い冒険者になれるよ。もしかしたら、古に伝わるような英雄にもなれるかもね」
「えへへ、そうかな……」
照れる少年――ツカサを褒めながら、しかしルイはすっと表情を真剣なものへと変える。
「……でも、今日のことは感心しないな。いくら妹くんが命の危機であったとしても、君が死んでしまったら家族の皆はとても悲しんでしまう。こういうときは周りに相談しないとダメだよ。君が握っていた剣も、君のものではないのだろう? 合わない武器を持ったところで、君がすぐ英雄になれるわけではないからね」
「あ……」
淡々と説教する青年に、少年は表情を暗くして項垂れる。
「ごめんなさい……」と小さな声で零せば、青年は困ったように笑みを浮かべた。
「まぁでも、そこまで自省できるのなら僕の心配も杞憂かな。これ以上のお叱りはご両親にお任せして、僕は未来の冒険者にアドバイスでもしてあげようか」
「えっ、いいの……?」
「勿論。夜まではまだ時間があるからね」
そう告げて青年は立ち止まる。気づけば、森の中でも開けた場所に二人は立っていた。太陽の光も隠す鬱蒼とした森の中で、此処だけが唯一空を邪魔しない空間だった。地面をよく見れば、薄い青色の蕾がそこらかしこに存在している。あれこそが月光草であり、月に一度の満月の日に開花する薬草だ。その為には夜まで待たなければならず、青年は少年を下ろすと手際よく”休憩所”を設営し始めたのだった。
少年――ツカサから見てルイという青年は、御伽噺に存在する偉大な魔法使いのようであった。
彼は瞬く間に暖かい焚火と腰掛ける椅子を用意しただけでなく、荷物から牛の乳や小さな鍋を取り出すと、それを焚火にかけて暖かいホットミルクを作り、ツカサに渡してくれたのだ。それを飲めばたちまち心と身体がぽかぽかしてきて、ツカサの強張っていた身体も徐々にほぐれていった。
「ルイって本当にすごいな! 弓だけじゃなくて料理や錬金術も出来て、オマケにとっても物知りだ!!」
すっかりこの不思議な青年に懐いてしまったツカサは、やや興奮気味にルイを称えてみせる。対するルイは少し照れつつも嬉しそうに、少年の賛辞を受け取っていた。
「フフ、ありがとう。とはいっても、僕のようなヴィエラ族はサバイバル技術を必ず身につけないといけなかったからね。僕は森から逃げたようなものだけど、こうして冒険や君の役に立てたなら、悪くない経験だったかな」
「逃げた……? ルイがか?」
「うーん……少し恥ずかしい言い方になるけど、家出をしたようなものだよ。昔から外の世界が気になっていた僕と、生涯森で暮らさないといけないしきたりが、ちょっとばかり相反していたからね」
「そうなのか……その、寂しくないか?」
「僕がかい? ううん、全然。寧ろこの世界は長く旅をしても未知が沢山あって、それを追い求めている内はとても楽しいよ! おかげでやれることが沢山増えたし、新しい趣味も出来たしね」
ルイはあっけらかんとそう告げながら、おもむろに荷物から何かを取り出す。よく見れば、それは小さな竪琴のようであった。
「例えば、今の僕の職業は”吟遊詩人”だ。あの大熊を倒した時は使っていなかったけど、普段は戦歌を奏でて冒険者パーティを支援しながら戦っているんだよ」
そう言いながら竪琴の弦を撫でれば、透き通るような音が紡がれる。それはやがて幻想的な音色へと変わり、一つのバラードとなって少年へと届けられた。
確かに聞いている内に心の中に勇気がみなぎるような、力強くも不思議な曲だと少年は聞きながら思っていた。
「……まぁ、こんな感じかな。僕の演奏はどうだった?」
「とてもきれいですごい演奏だった! オレ、ピアノをやってるから何時かルイと一緒に演奏してみたいぞ!」
「おや、そうだったんだね。それじゃあ、将来は君も吟遊詩人になれそうだ」
「むむっ、確かにそうかもしれないが……ううむ」
「その様子だと、他になりたいものがあるのかい?」
難しい顔で唸っている少年にそう問えば、彼は「そうなんだ!」と強く頷いてみせる。
「オレは将来、格好良いナイトになりたい! “砂の都市”の近衛兵団や伝説の英雄みたいに、剣と盾を使って皆を助けるんだ!」
立ち上がり、剣……は流石に重くて持てないので、持っているという体で天へと掲げながら、少年は堂々と宣言した。先ほど怯えていたとは思えないほどの立ち振る舞いに、青年はくすりと微かな笑い声を零す。
「それは良いね。なら、将来は砂の都市に行くと良い。あそこには剣術士のギルドがあるし、もしかしたら君ならナイトになれる素質があるかもしれないからね」
「素質?みんながなれないのか?」
「なんて言ったら良いか……僕の吟遊詩人もだけど、上級の職業に就くにはそれなりの素質が必要なんだ。実際、多くの人は弓術士や剣術士の域に留まっているからね。でも、君みたいに恐怖に負けず立ち向かっていける人間なら、絶対にナイトになれると思うよ」
「ほんとか!? やったー!!オレ、たくさんがんばるぞ!!」
ぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうに笑う子どもに、大人である彼は優しい眼差しを向ける。それに気づかないまま、少年は「そうだ!」と唐突に手を叩いた。
「ルイ! ルイがオレの”おししょうさま”になってくれないか!?」
「師? マスターになれってことかい?」
「うん! ルイは色々なことを知ってるし、何でも出来るだろ? オレにそれをぜーんぶ教えてほしいんだ!」
「フ、フフフ……随分と欲張りさんだねえ」
頭の耳を揺らし、ルイはくつくつと笑う。それを馬鹿にされたと思ったのか、ツカサは「オレは本気だぞ!」と手で拳を作りながら、力強くそう叫んだ。
「君の気持ちに応えてあげたいのは山々だけど、僕には難しいかな」
「ええ!? なんでだ!?」
「まず、僕には剣術の心得が無いんだ。弓術と……あと、少しなら魔法方面も教えられるけど、生憎相性が悪くて剣や武術はからっきしでね」
「剣術なら自分で覚えるから大丈夫だ!それ以外なら良いだろ!?」
「それについては……うん、少しクイズを出そうか。僕が得た知識や技術は、どれくらいの時間をかけて取得したものだと思う?」
「えっ!?」
脈略なく出された問いに、少年は硬直する。だが、彼に教えを乞うには問いに答えなければいけない。少年は小さい頭を抱えながらうんうんと唸って悩み始めた。
「ヒントだけど、僕が幼い頃から今日までの間、ずっと勉強をしていたようなものだよ」
「そんなにか!? じゃ、じゃあ……オレと同じくらいから今のルイまで……”じゅうねん”だ!!」
「残念、はずれ♡」
にこやかに、かつ容赦なく切り捨てたルイに、ツカサは「んがー!!」と頭を抱えて悶える。その様子に思わず吹き出してしまったルイは、そのまま顔を背けて盛大に笑ってしまっていた。
「ふ、あははっ……じゃあツカサくんは僕のこと、何歳だと思ってる?」
「えっ。えっと、冒険者のお兄さんだから、”じゅうななさい”とか……」
前に冒険者ギルドに行った時、「せめて十七歳くらいになってからまたおいで」と受付のお姉さんに言われたことを思い出しつつ、少年はそう告げる。
するとルイは、何処か得意げな……そして『上手く騙せた』と言わんばかりの悪戯な笑みを浮かべた。
「うん、”見た目”の部分では遠からず、かな」
「ううう~~!! わかんないぞ~~!!」
ついに癇癪じみた叫びを上げてギブアップした少年を前に、青年は「ごめんごめん。意地悪過ぎたね」と謝りながら言葉を続けた。
「正解は……大体”六十年”くらいだよ」
――なんてことの無い顔で告げられた数字を、少年は最初理解できなかった。
「ろくじゅ……んん? ルイ、間違ってないか? どう見てもルイは”お兄さん”だぞ」
「見た目はね。僕はこれでも、もう六十年以上は生きているんだ」
「君のお爺ちゃんお婆ちゃんより年上かもね」という補足を聞いたことで、幼い頭に”六十年”という年月がより明確に伝わってくる。同時に、脳内の老いた祖父母と目の前の青年を何度も交互に思い返し、彼の頭はかつてないほどぐるぐる回った。そして
「う、嘘だ~~!?!?」
――鳥が飛び立つほどの絶叫が、茜色の空へと響き渡った。
***
ヴィエラ族には二つの大きな特徴がある。
一つは、兎に似た一対の耳が生えていること。
そしてもう一つは――一般的な人間よりも三倍以上の年月を生きることだ。
「僕らはね、成人してから二百年くらいはこの姿のままなんだ」
ヴィエラの青年(曰く、最長で二百五十年ほど生きる彼らの感覚だと六十歳はまだ若造らしい)は焚火に枝を付け足しながら、なんてことのないようにそう告げた。
「森の都市にいるエレゼン族も、ヒューラン族より少し長生きだろう?」
「でも、ルイみたいに”にひゃくねん”は無理だぞ……」
「そうだね、彼らは長くても百二十年ほどだったか……。まぁでも、これでわかっただろう? 僕は誰よりも長く生きて、誰よりも長く活動することができる。こうして君に見せた知識や技術の一端も、僕がヴィエラだからこそ、時間をかけて得ることが出来たんだ。君に教えようとすれば、それこそ同じくらいの年月が必要だろうね」
ルイは頬杖をつきながら、幼い少年へ優しく諭す。そこまで丁寧に説明されてしまえば、ツカサも反論する言葉を失ってしまった。
――六十年は自分にとって、とても長い。
何時か英雄になりたいと思う少年にとって、時間は限りあるものだ。ましてや自由を求めるルイを、それほど長く留めることなどできない。
その事実をすんなりと飲み込めるほど、少年は歳以上に利口な少年であった。
「……無理なことを言って、ごめんなさい」
少年は椅子に座り、申し訳なさそうに頭を下げてそう言った。その光景を見て、ルイは少し驚いたように瞬いた。
「……良いのかい? 僕が言うのも何だけど、君ならもう少しお願いしてくると思っていたよ」
ルイがそう言えば、少年は落ち込んだ表情のまま顔を上げる。
「だって、ルイにはしたいことが沢山あるんだろ? 我儘を言って、ルイを困らせたらいけないから……」
「……我儘は、いけないことなんだ」
きゅっと胸元を握りしめながら、少年は小さくそう告げた。
その様子を眺め、ルイは目を見開く。自分よりも遥かに短い時を生きる人にしては、妙に聞き分けが良すぎると彼は感じたのだ。それこそ奔放に生きている己以上に、少年には自制の心があった。それはきっと、彼の過去や環境――つまり、家族に由来しているのではないかと、彼は考えた。
――だからこそ、彼は短く問うたのだ。
「……君は、何を我慢しているんだい?」
少年はその言葉にぴくりと肩を震わした。そうして、まるで怒られるのを恐れているような表情で、青年の顔を伺った。
「心配しなくても大丈夫だよ。決して口外はしないし、何なら指切りで約束しても良い。僕が嘘をついたら、君は針千本……いや、針十万本を僕に飲ませても良いよ」
「そ、そこまでしなくてもいいよ!」
あわあわと否定しながらも、ルイが本心から自分を気遣っているのだと少年は気づいた。そのことでようやく決心がついたのか、少年は胸をぎゅっと握り締めたまま、ぽつぽつと言葉を落とした。
「オレ、さっきも言ったけど、ずっと前から冒険者になりたかったんだ。お母さんが読んでくれた本の英雄みたいに、オレも世界中を冒険して、皆を守れる英雄になりたい」
「確かに君はそう言っていたね。今はまだ難しいかもしれないけど、それでもあと十年もすれば、君もきっと冒険者になれるよ」
ルイの言葉は、ツカサに希望をもたらす為に告げられたものだ。それなのに、ツカサはその言葉を聞いても尚暗い顔をしていた。
それから少し考え込んだ後、ツカサは口を開く。
「……オレの妹は、小さい頃から難しい病気にかかってるんだ。普通の薬や癒しの魔法でも治らない病気だって、幻術士ギルドの人も言ってて……。お医者さんは『遠くにある錬金術師の国のお薬じゃないと、完治は難しい』って」
「…………」
「オレは、サキに元気になってほしい。その為なら何でもするし、どんなことでも頑張れる。サキが元気になるまで、お兄ちゃんのオレが手伝ってあげたいんだ」
病弱な妹のために、そう宣言できる少年の心は強い。けれども、ルイは気づいていた。未来を見つめる少年の瞳に、何処か迷いがあることを。そして、彼の話を断片ながら聞いたことで、ルイは核心に触れることができた。
「……君は、怖いんだね。妹くんが病で死んでしまうかもしれないことも。そして、彼女の病が治らない限り、自分が何処にも行けないかもしれない未来についても」
「――っ!!」
それは、幼子にもたらすにはあまりにも残酷すぎる指摘だった。
ツカサは森の都市に住む、ごく普通の善良な少年だ。
家族と仲睦まじく暮らす彼は他の子どもたちと同じように、大きな夢を持って未来を見据えていた。
唯一他の子どもたちと違ったのは、彼には病弱な妹がいるということだけだった。
癒しの魔法に長けた幻術士でも癒せない難病……その為に妹は満足に外で遊ぶことも出来ず、何時も命の危機に脅かされていた。
少年は妹が大好きだった。妹のためなら何でも頑張れることも、傍でずっと支えてあげたいと願っていることも本心だった。
……ただ、少しだけ。彼の中にいる”我儘な自分”が、時々囁くのだ。
『オレは何時まで”サキのお兄ちゃん”でいないといけないんだろう?』
『早く冒険に出て、色んな世界を見てみたい。皆を守れる英雄のような人になりたい』
そんな欲望が表に出かかる度に、彼は必死に心に蓋をしていた。
『ダメだ! サキが苦しんでいるのに、オレだけ我儘になったらいけないんだ!』
外で遊ぶ子どもたちを寂しそうに見つめる妹を、彼は何時も見てきた。夜、病に苦しんで泣いている妹がいるのを、彼は知っていた。そして何より、大切な人には死んでほしくなんてなかった。
だから、高熱で死の淵にいる妹を前に『解熱には月光草が必要だ』と医者が言ったのをこっそり聞いた時、彼はいても立ってもいられず飛び出してしまったのだ。
死んでしまうかもしれない妹を一刻も早く助けるために。
――そして、自分の中で燻る”冒険と英雄への憧憬”を抑えることができなかったために。
そうして、長らく”良い子”であり続けた少年は、約束を破って危険な森へと足を踏み入れてしまったのだ。
「…………」
重い沈黙が森を支配していた。
すっかり落ち込み、溢れそうな涙をこらえる少年を前に、青年は考え込む素振りを見せる。そして周囲を見回し――微笑んだ。
「ツカサくん。少し目を瞑っていてくれないかい?」
「え? ……う、うん。わかった」
素直な少年は、そのままぎゅっと目を瞑る。そうすると視界は暗闇だけとなり、木々のざわめきと焚火の音以外、彼の耳に入る音もなくなってしまった。
そんな闇の世界の中で、少年の心は徐々に不安と焦燥に苛まれていく。
(次に目を開けた時、ルイがいなかったらどうしよう……)
かつて妹が重症で苦しんでいた時、妹がいなくなった世界を想像した時と、その不安は良く似ていた。幼い少年にとって、孤独は何よりも恐れるべきものだった。
そうして、ついに少年の心が限界を迎えそうになった――その時。
「……良いよ、開けてごらん」
救いの言葉が少年の耳へと届く。それを聞いた瞬間、ツカサは弾かれるように目を開いた。
そして――彼は見たのだ。
「わぁ……」
――目の前に広がっていたのは、美しい光を纏った青の花畑だった。
天上に輝く満月の光を受け、花々はその身を開花させる。
月の光を吸収した花弁は淡く美しい光を放ち、その光が小さな玉となって空へと浮かび上がる。そうして蛍のように夜空を舞い踊る光となれば、ますます花畑の光景は神秘的なものへとなっていった。
「きれい……」
森の都市では見たことがない、実に幻想的な世界だった。
先程の悲しみも不安も忘れるほどに、少年はその光景に心を奪われていた。
「君の言う通り、とても綺麗な景色だ。そして、世界にはこれと同じ……いや、それ以上の幻想的な景色が沢山ある」
長く世界を見てきた冒険者は、少年の隣に座って静かに語り出す。
「……僕もね、かつての君と似たことを考えたことがあったんだ」
「え、ルイもか?」
ツカサがルイの方へと振り返れば、彼はこくりと頷く。その眼は目の前の景色を見ながらも、何処か遠くを見つめているように少年には思えた。
「ヴィエラ族は生涯を森で暮らし、森と故郷の人々を守るために生きる。特に数少ない男は、マスターと呼ばれる師と旅をしながら、やがて故郷の護人となって数百年の人生を終える……」
「――そんな人生、つまらないと思わないかい?」
突然振られた言葉に、少年は「えっ」と声を漏らす。
物分かりが良いと言ってもまだ幼い少年だ。ルイの置かれた複雑な状況を上手く呑み込めず、彼は咄嗟に答えを出せなかった。
悩む少年に「難しいことを言ってごめんね」と謝罪し、ルイはツカサの頭を一撫でして話を続ける。
「故郷に住んでいる頃に少し縁があって、外の世界を知る機会があったんだ。とても衝撃を受けたし、同時に憧れもした。僕も何時か冒険者になって、世界中を冒険するんだって思ったものだよ。でも、僕の考えは故郷の中では異端中の異端だ。当然故郷の人には大反対されたし、マスターだった人にも諭された。まぁ、最終的に「そんなこと知らないよ!」って反抗して、勝手に飛び出したんだけどね」
「お、おお……ルイはその、やんちゃなんだな」
あまりにも破天荒なエピソードに言葉を選んでそう言えば、ルイはからからと嬉しそうに……そして何処か清々しげに笑った。
「そんな掟破りの変人だった僕だけど、実際の旅はとても大変なものだった。ヴィエラ族の……ましてや男性なんて、故郷の大陸でも人前には滅多に姿を現してこなかった。それに由来する困難も沢山あったし、一時期は諦めてもいたよ。だけど結果的に言えば、僕は旅に出て良かったと思っている」
「それは、どうして?」
少年の問いに、冒険者は微かな笑みを浮かべる。そして、空を見上げてこう告げたのだ。
「……僕の心の赴くままに、世界を見て回れるからだよ」
一見すると、その答えは実に単純なものに思えたかもしれない。
それでもその言葉を聞いた瞬間、迷っていた少年の心は確かに光を見たのだ。自分が本当に望む願い……それを指し示す光を。
「そうだね……折角だから、先輩冒険者として君の未来を予言してあげよう」
少年のさらさらとした髪を撫でながら、青年は自信を持って口を開く。
「今から十年……いや、五年だ。五年後には君の妹くんの病気は治って、彼女は自由に外を出られるようになる。そうしたら君は存分に我儘を言って、剣術を教えてもらうんだ」
「そうしてもう五年ほど経ったら、君は皆に見送られて旅に出る。森の都市でも、砂の都市でも、海の都市でも、何処でも良い。訪れた都市一番の冒険者ギルドの戸を開いて、君は笑顔で一歩を踏み出すんだ」
「――憧れの英雄に至るまでの、最初の自由な一歩をね」
まるで物語の語り部のように穏やかで、吟遊詩人が紡ぐ冒険譚の序章のように力強い一節――それこそが、これから先の未来へと歩む少年に向けた、一人の冒険者からの祝福だった。
少年は呼吸も忘れて息を飲み、隣の青年を見上げる。満月に照らされた青年の顔は、この幻想的な光景よりも美しく、きらきらと輝いているようにすら思えた。
「……ルイ、お願いがあるんだ」
――この美しい人と、もっと一緒にいたい。
そう願えるほど少年はまだ自覚的でなく、我儘にもなれなかった。
……だから、彼は代わりに一つのお願いを口にした。
「もし、もしオレが冒険者になったら……その時はオレと一緒に冒険をしてほしいんだ」
その言葉を聞いた時、青年は目を満月のように丸くさせ、少年をじっと見つめていた。それから少しの沈黙を置いて、彼は口端をゆるく上げて微笑んだ。
「――うん、良いとも。僕も君がこれから紡ぐ冒険譚に興味があるからね」
「本当か!? ルイのことたくさん待たせちゃうけど、それでも待っててくれるか!?」
「フフ、十何年なんて僕からすれば瞬きの間だよ。何なら二十年三十年経っても問題ないからね」
「んなっ!? 流石にそこまで時間はかからないぞ! “じゅうねん”だ!あとじゅうねん経ったら、ルイの背を抜かすくらいの格好良い冒険者になってやる!」
うおー!!と勇ましく(ルイから見れば可愛く)立ち上がって宣言する少年を、ルイは優しい眼差しで見守っていた。その道行く先がどんなに困難でも、彼ならば本当に乗り越えてしまうかもしれない……贔屓かもしれないが、かわいい後輩を前にそう思ってしまうほど、ルイは自分でも無自覚に、この少年に感情移入していたのであった。
「さて、ではそろそろ帰ろうか。ギルドには遠距離通信用の貝で君のことを伝えているとはいえ、遅すぎるとご両親に心配させてしまうし、花もまた閉じてしまうからね」
「ご両親からの説教、ちゃんと受けるんだよ?」と敢えて触れれば、ツカサは「あっ」と声を上げて露骨に落ち込んだ。その様を見て、意地悪な大人はまた笑ったのである。
――少年の小さな大冒険は、号泣する母親に叱られ、自分も泣きながら一緒のベッドで眠ったことで終わりを告げた。
更にこの冒険(あるいは失態)は後日しっかりサキに伝わってしまい、いっぱいいっぱい泣かせてしまったのも、ある意味少年への罰だった。
ただ、悪いことばかりだったわけではない。ルイと採ってきた月光草が上等なものであったこと、そして錬金術の心得があった彼が薬として調合してくれたことで、妹の体調は一気に良くなったのだ。
「この調子なら、暫く安静にすれば外に出られるまでに回復できるでしょう。勿論無理は禁物ですが、一週間後の劇団公演にも行けるでしょうね」
「本当ですか!良かった……」
事件の日から翌々日。妹を診に来た医者と母親が話している隣で、ツカサは「劇団?」と首を傾げていた。
「そういえばツカサは入れ違いになってたわね。実は他の大陸から来た旅芸人の一座が、この都市の野外音楽堂でコンサートを開くらしいのよ。確かルイさんもそちらに所属しているらしいわね」
「そ、そうなのか!?」
「ええ。サキの体調が良さそうなら、公演を見に行っても良いと思うけど……」
「オレ、絶対に見にいきたい!」
「わたしも!」
二人揃って目をキラキラさせる兄妹に、母親も医者も笑みを浮かべていた。彼女としても、子どもたちを公演に連れていくことに異論はないようだ。
「そうだ! 今、劇団は何処にいるんだろう?」
「もしかしてルイさんに会いに行きたいの? でもダメよ。ツカサは勝手に飛び出したお仕置き中でしょ?」
「あっ、そうだった……」
言いつけを破った罰として三日間家にいることになっていた少年は、しょんぼりと肩を落とした。その落胆の様は悲壮感に満ちており、妹も釣られて泣きそうになるほどだった。
「……でも、そうね。これは昨日サキにお薬をくれた『お耳の長い親切な人』からの伝言なんだけど――」
『僕は一週間ほどこの都市にいるから、会いたくなったら何時でも冒険者ギルドに来てほしい。君が知りたいこと、学びたいことがあれば、できるだけ何でも教えてあげるよ』
「え!? それって……」
ばっと顔を上げて母親を見つめれば、彼女は困ったように微笑みながらツカサの頭を撫でる。
「本当はとても心配だけど、ツカサとサキの命の恩人を無視なんて出来ないわ。だからツカサがルイさんのところに行きたいなら、お母さんは止めない。でもその代わり……」
「オレ、ちゃんと良い子にする!勝手に言いつけを破ったり危ないことはしない!お手伝いもたくさんする!」
「よろしい。ルイさんに迷惑をかけないようにね。いってらっしゃい」
「いってきます!!」
外にまで響く大きな声で元気よく叫び、ツカサは一目散に家を飛び出す。元気が溢れている息子へ娘と共に手を振って見送れば、彼女は昨日会った青年の姿を脳裏に描いた。
「……本当に、羨ましいくらいなんだから」
家族と同じくらい青年に懐いている息子を想い、母親は言葉とは裏腹に安堵の笑みを浮かべてそう零したのだ。
***
それから、冒険者ギルドに元気よく突撃した少年は、無事に青年と再会することができた。
そして約束を守ってくれた彼は、一週間という短い間に、沢山のことを少年に教えてくれたのだ。
ある時は冒険者としての心得を。
ある時は北の雪に閉ざされた地や、他の大陸で見た冒険の一端を(全てを話すのは「これからの楽しみにしたい」というツカサの主張を受けてやめた)。
そしてある時は、ルイが所属する劇団についても教えてもらっていた。
「僕の所属している”ムーソン一座”は、大陸を股にかけて公演する移動劇団なんだ。風が吹き抜けるように自由気ままで、団員の入れ替えもしばしば起こる。入るも去るも本人任せで、だから上映内容もその時々でがらりと変わるんだ」
「そうなのか……じゃあ、なんでルイはそこに入ったんだ? 吟遊詩人だから、皆に歌を聞いてもらいたくなったのか?」
「フフ、それはねぇ……渡航費が安くなるからだよ」
「とこうひ」
「船に乗るお金のことだよ。僕は自由気ままに旅しているけど、お金(ギル)の問題だけは何時も付き纏うからねえ。そんな時、此処に所属していれば移動費食費諸々全部負担してくれるって聞いたから、一年前にお邪魔させてもらったんだ」
「え、ええ……」
幼いながらもわかる、何とも夢のない話に思わず少年も困惑する。少年にアップルジュース(ルイの奢り)を渡した受付のお姉さんも何とも言えない目で青年を見つめていた。
「前に言っただろう? 僕は根無し草だって。この一座に入るまで、僕はずっと一人で旅をしていたんだ。一時的に他の冒険者とパーティを組むことはあっても、大体は一度切りの関係だ。その方が気楽で良いからね」
「そうなのか……じゃあ、オレとも一回しか冒険してくれないのか?」
「えっ、それは……」
落ち込んでしまったツカサを見たことで、ルイは此処で初めて自分の失言に気づくこととなった。
――これは余談だが、あの日はツカサを前に『先輩冒険者』としての威厳を見せた彼であるが、その実態は『数十年単位でまともに人と交流してこなかった口下手』と表すべき人物だった。
どれくらいなのかと言えば、入団当初は持ち前の性格と変人度で大いに浮き、座長が大らかでコミュニケーションの上手い人でなければ、そのまま馴染めずにいたかもしれない程だ。
自身の職業である吟遊詩人らしく、歌うように台詞を紡いでいくのは上手い彼だが、うっかり口を滑らせ幼子を悲しませた際のフォローはずぶの素人である。
ルイは慌てた。そして不意に視線を感じてそちらを向けば、腕を組んだ受付のお姉さんが「彼を泣かしたら許さないからね」と暗に目つきで告げていたのだ。つまり絶体絶命である。
ルイは短い時間を用い、此処からの打開策を急いで思案した。そして笑みを浮かべ、ツカサの頭をぽんと撫でる。
「……そんなことはないよ。君と一回限りなんて勿体ない。十年でも二十年でも一緒に冒険しようじゃないか!」
彼の出した回答――それはリップサービスだった。
真実を知れば、あの日のキラキラが即座にくすんでしまいそうな対応だ。それでも少年は気づかずに嬉しそうな笑みを浮かべたし、受付のお姉さんは恐ろしい視線を取り敢えずは引っ込めた。青年はギルド併設の宿を叩き出されずに済み、残り数日を野宿で過ごすルートを無事に回避したのである。
(……まぁ、大袈裟な言い方をしたけど、全部が嘘ではないからね)
それでも、一安心した青年が心の中でそっと零した言葉は、青年がちゃんと少年を想い、また特別に考えていることを如実に表していた。最も、当人は無自覚なようだが……
「へへ、じゃあオレとルイは一緒の冒険者パーティだな! オレとルイの二人なら、どんなダンジョンもサクサク攻略だ!」
「フフ、流石に吟遊詩人とナイトだけでは難しいよ。癒し手の仲間と、もう一人攻め手がいないとね」
「む、そうなのか……でも、オレはルイと二人で冒険したいぞ……」
アップルジュースを飲みながらいじらしいことを言うツカサを見て、ルイは無意識に頬が緩んでいた。同時に心がぽかぽかするような、むずむずするような感覚が走ったのだが、それが何なのかを理解できないまま、取り敢えずもう一度少年の頭を撫でる。
「なぁルイ。ルイは何でもできるんだろ? じゃあ癒し手とかできないのか?」
――最も、そんなふわふわとした気持ちは、次に飛び出したトンデモな提案に吹き飛んだわけだが。
「えっ 確かに魔法は一時期学んだとは言ったけど……」
「だよな! じゃあここにある幻術士ギルドで勉強しないか? ルイなら”白魔道士”になれるかもしれないぞ!」
「し、白魔道士かあ……」
無邪気な笑みと共に悪気無く提案されたそれに、ルイは何とも言えない表情を浮かべていた。
確かに森の都市には、癒し手として最もメジャーな幻術士のギルドがある。その中でも一握りの優れた者は、より上位の白魔道士として活躍をしているのだ。
だが、根無し草かつ劇団に所属するルイが此処に滞在することは出来ないし、第一森に住むのが嫌で家出した彼にとって、何十年経っても”森の長期滞在”は遠慮したいほどだった。
彼は森の民より都会派になりたい方だし、菜食より獣肉を好む偏食家なのだ。
閑話休題。
とにかく上記の事情と相性から白魔道士は断りたい青年だったが、そうすればまた少年を悲しませてしまう。受付のお姉さんへの恐れ以上に、彼にはずっと笑顔でいてほしいと願っていた青年は、頭上の耳をひくひく動かしながら頭脳をフル回転させた。
――そして、とあるアイデアが思い浮かぶ。
「ツカサくん。白魔道士は難しいけど、それ以外の癒し手なら出来るかもしれない」
「本当か!?」
「ああ。とは言っても、必ず約束できるわけじゃないからね。出来る限り努力はするけど、あまり期待しないでおくれよ」
「だいじょうぶだ! ルイなら絶対にできる!! オレが保証するからな!」
えへんと胸を張った可愛らしい子どもに、ルイはたじたじとなった。
微笑ましく見守る受付のお姉さんからの視線もルイへのエールじみていれば、彼は否応なく頷くしか出来なかったのである。
(それにしても……”海の都市”と”北洋の知の都”、どちらに行くべきかな……)
脳裏に”将来の行く先”を二つばかし思い浮かべ、彼は心の中で溜息をつくのだった。
***
――時の流れは早く、気づけば一週間が経っていた。
ツカサにとって恵まれた日々の最後を彩るように、いよいよムーソン一座による公演日がやってきたのだ。
「ルイさん達の演奏、楽しみだね!お兄ちゃん!!」
「そうだな!」
一週間の療養を経て、無事に外へ出られるほど回復した妹と手を繋ぎながら、ツカサはるんるんとした足取りで野外音楽堂へと向かっていた。
宣伝と「別大陸から来た一座」という物珍しさのお陰か、ツカサ達が到着した時には多くの人々で賑わっていた。
幸いなことに、ツカサ達は『出演者の関係者席』を取ってもらっていた為、入場前の長蛇の列を気にせず、会場に入ることが出来たのだった。
「うっわ~、いっぱい人がいる~……」
「サキ、お兄ちゃんの手を離しちゃダメだぞ!」
「はーい!」
両親に見守られながら、二人の兄妹は幸せそうに笑った。そうして自分たちの席へ向かおうとしたのだが……
「バビューン!!」
「うわぁ!」
ツカサの横を突然、一陣の風が駆け抜けた。
びっくりしながらその”風”へ視線を向けると、自分よりも小さいヒューラン族の少女が、一目散に関係者席へと走っていく姿が見えたのだ。
「おじいちゃーん! あたしたちの椅子はここだよ~!」
「おお、席を取ってくれてありがとう。だが、さっきみたいにお爺ちゃんから離れちゃ駄目だよ」
「うん!」
続いて、ゆっくりとした足取りで一人の老人が通りすがり、桃色髪の少女の方へと歩いて行った。関係者席の方へと進む彼らも、どうやら一座に知り合いがいるらしい。
「びっくりした……サキと同じくらいの子か?」
随分と元気いっぱいだな……と逆に感心しつつ、母親の「私たちも席に行きましょ?」という言葉に背を押され、ツカサ達も移動するのだった。
そうして、夜の帳が落ちゆく頃――満席を越え、外周で立ち見をする人まで現れた音楽堂で、ついにムーソン一座による公演が幕を上げた。
実の所、ルイの吟遊詩人としての演奏しか知らなかったツカサからすれば、今回の公演で披露されるのは楽器による演奏くらいなのかと彼は考えていた。
――だが、その幼い考えは瞬く間に覆される。
「わぁ……!」
開幕を飾ったのは、美しいヴィエラ族とヒューラン族の女性による情熱的な舞踊だった。
近東の踊り子が着るという、少々露出の多い踊り子衣装に少年が少しドキドキしたのも束の間、彼女らによる舞踊が始まった途端、あっという間にその世界に引き込まれてしまった。
舞台後方では笛や竪琴、小さな筒のような太鼓や手拍子によって軽快で情熱的な音楽が奏でられ、彼女たちはその旋律に乗って自由自在に舞台を駆け巡る。
その両手には穴のある金属輪――後にルイから”チャクラム”と呼ばれる一種の武器だと教えてもらえた――を持ち、それを時折空へ投げたり、空を切るように一閃しながら、踊り子たちは熱気溢れる舞踊を披露した。
滅多に見られない近東の島国由来の踊りであることも手伝えば、観客の心を盛り上げるには十分すぎるものであり、人々は魔法にかかったかのようにすっかり舞台に惹きつけられてしまったのだ。
「かっこいい……」
その魔法にかかったのはツカサも例外でなく、妹と共にすっかり鮮烈な踊りの虜になってしまっていた。
興奮の中で舞踊が終わり、続いて行われたのは旅芸人たちによるパフォーマンスだ。
道化のような服装を着たエレゼン族の男性がジャグリングをしたり、ミコッテ族の男女が卓越した身体能力でアクロバットを魅せつけたり、小柄なララフェル族が水と光を使った幻想的な絵を空中に描いたり……
様々な種族が分け隔てなく、それぞれ得意な分野で観客を魅了していく。内容を俯瞰して見ればぐちゃぐちゃもいいところなのだが、彼らは皆活き活きとしており、何より全員が満面の笑みを浮かべていた。その笑顔はやがて観客へも伝染していき、気づけば音楽堂は沢山の笑顔と笑い声で溢れる空間となっていたのだ。
「すごいすごい! お兄ちゃん、みんなキラキラしてて楽しいね!!」
「うん……! 本当にすごくて、とっても楽しいよ!!」
まだ世界を知らなかった幼い兄妹たちは、目の前の光景にすっかり魅了されていた。
妹はまるで大輪の花のように明るい笑顔を浮かべ、それを見た少年は心に強い衝撃を覚えていた。
(サキが笑ってる……! ショーってこんなに楽しいものだったんだ……!)
英雄になりたいと思っていた少年の心が揺れてしまうほどに、舞台上の世界はキラキラと輝く素晴らしい場所だった。その光景は少年の心に強く刻まれ、同時に彼へある気づきを与える。
(そうか……。この人たちはルイみたいに、色んな場所を旅しながら皆を笑顔にしているんだ。じゃあ、オレも何時か同じように、皆を笑顔にできる冒険者になれるのかな……)
ただ力を振るうだけでなく、世界中の人々の笑顔を守れるような英雄――そんな人になれたら、どんなに素晴らしいことだろうか。
それまで少年の中でぼんやりとしていた”英雄像”……そして彼の目指すべき夢が、この時ハッキリと形をもって少年の心に刻まれた瞬間であった。
――そうして、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「ご会場の皆さま! 最後になりましたが、我が一座自慢の歌姫たちによる素晴らしい歌でもって、お別れの餞とさせていただきたいと思います!」
「ええー!もう終わっちゃうのー!?」
「そんなぁ!」
座長らしきミコッテ族の男性が告げた言葉に、隣のサキから残念そうな声が上がる。何処からか幼い少女の声(先ほど通りすがった子とよく似ていた)も聞こえ、観客席もざわついていた。
一方のツカサはと言えば、きょろきょろと舞台上に目を向けていた。というのも、もうすぐ舞台が終わってしまうのに、まだルイが出てきていなかったのだ。
(ルイ、大丈夫かな……もしかして何かあったのかな……)
不安げにそんなことを考えていれば、舞台端がにわかに騒がしくなった。そちらへと視線を向ければ、白を基調としたドレスを身に纏った女性たちが舞台上へと上がっていく姿を彼は見た。
更に様々な楽器を持った座員たちも、その後から続いて現れる。その中からぴんと伸びた耳を持つ青年を見つければ、ツカサの表情は一気に明るいものとなった。
「ル……」
「あっ! おねえちゃ~ん!!」
形にしかけた言葉は、しかし大きな少女の声によって霧散してしまう。
驚いて声の聞こえた方向を見れば、なんとあの桃色髪の少女が、満面の笑みで両手をばたばたと振っていたのだ。彼女の視線の先を追っていくと、歌唱団の中で一人だけあたふたとする少女がいたのをツカサは見つけた。
自分たちよりも歳上だろうか……十代前半と思われる彼女は、若草色のふわりとした長髪に、猫のような耳と尾をもったミコッテ族であった。
「おねえちゃーん! あたしだよ~!!」
尚も大きな声でアピールする桃色の少女に、会場では微笑ましさからくる笑い声が響く。慌てていたミコッテの少女も、同じ歌唱団の女性に笑みと共に促されれば、恥ずかしそうに手を振り返していた。
そこまで見届けたところで、ツカサは思い出したように舞台で演奏者が立つ方へと目を向ける。そこには演奏者たちに紛れ、竪琴を手にもったルイが確かに立っていた。
そしてツカサがルイを見つけると同時に、彼の顔が動く。
「あ……」
まるで凹凸がかみ合うように、ルイの視線がツカサと交わった。彼はこちらを認識すると同時に、その顔に柔らかい微笑を浮かべる。そして右手を竪琴から離せば、緩く手を振ってみせたのだ。
元より整った美しい大人の顔立ちで、まるで花開くような笑みと共にツカサへ手を振ってくれたルイに、ツカサの心臓はドキリと飛び跳ねる。
(な、なんだろう……)
まるで全力疾走した後のようにドキドキと鳴る鼓動に、幼い少年は無意識に左胸を手で押さえたまま首を傾げた。何故だか顔も熱いし、胸がきゅうと痛いのだ。
「お兄ちゃん、お歌がはじまるよ!」
「っ…… う、うん」
少年が抱いた混乱は、しかし妹の声によってふつりと途切れる。ふるふると頭を振って気持ちを切り替えれば、いよいよ始まるフィナーレへと目を向けた。
――始まりは、ルイが奏でる竪琴の音がもたらした。
その出だしを聞いた時、司は思わず息を飲みこんでしまった。何故ならその旋律は、この一週間ルイが時々聞かせてくれたものと全く同じものだったからだ。
竪琴に続くように楽団の音が重なりあっていき、その音色に乗せられるように、歌姫たちの歌声が空へと響き渡った。
……とても幻想的で、煌びやかな一時だった。
あれほどの熱気が嘘のように、場は穏やかな空気に包まれる。美しい歌声たちが紡ぐ世界は、種族も性別も関係なく、全ての人々の心を魅了したのだ。
歌う前に恥ずかしそうにしていた若草髪の少女も、堂々とした立ち姿で歌声を響かせていた。その振る舞いは”歌姫”に相応しいと言っても過言ではない。
そして多くの人が歌唱団に目を向ける中、ある少年――ツカサだけは、演奏者の中にいる一人をじっと見つめていた。
ルイの立ち位置は歌唱団に比べてずっと目立たない立場だ。だが、彼と彼ら楽団の演奏がなければ、この素晴らしい歌は生み出せなかった。
『人々を笑顔にさせるには必ずしも主役である必要はない。そして誰か一人でも欠けていれば、この世界は生まれなかったのだ』
この時、少年は幼いながらもその事実を理解した。そして、その心に深く刻み込んだのだ。
「あ……」
――ふと、視界に何か光るものがちらついた。
見上げた少年の目に映ったのは、淡い光が雪のように舞い踊る美しい光景だった。その景色に多くの人が感嘆の声を上げたが、同時に少年は気づいていた。
(これ、ルイと見た花畑の光だ……!)
一週間前にツカサの運命を変えた、あの幻想的な花畑の光景が、今目の前で再現されていたのだ。そしてこの”演出”を考えられるのは、ツカサの知る彼しかいない。
歌が終わると同時に、会場中が万雷の喝采に包まれた。ツカサは拍手をしながら、咄嗟に”彼”へと視線を向ける。
――喝采の中に立っていた青年は、そっと人指し指を口元に当て、少年へ微笑んでみせたのだ。
***
大成功の内に終わったショーから一夜明け――ついに二人の別れの日がやってきた。
「ルイ!!」
出発準備をする一座の中にいたルイの元へ、ツカサは急いで走っていった。次は砂の都市へ向かうらしい彼らは、昼前にはここを離れてしまうようだった。それに間に合うように、少年は早起きをして駆けつけてきたのだ。
「やぁ、ツカサくん。昨日は楽しかったかい?」
「うん!! とってもとっても楽しくて凄かったぞ!」
何時も通りの笑みで問いかけるルイに、ツカサは興奮気味で頷く。そしてそのまま勢いよく、昨日のショーの何処が凄かったかを矢継ぎ早に話し出したのだ。
なんせ昨夜は興奮からあまり眠れなかったほどだ。それをもたらしてくれたルイには、是非とも感謝と共に感想を沢山語りたかったのだ。
これには流石のルイも面食らったらしく、最初こそきちんと聞いたり質問に答えてくれていたものの、最後には何故か目を逸らしそわそわした様子であった。
「ルイ?どうしたんだ?」
「あー、いや。これはだね……」
「はははっ!! ルイは可愛い坊主に沢山愛を囁かれてメロメロなんだってよ!」
「なっ……!?」
通りがかったガタイの良いヒューラン族の男性が、揶揄うように彼らへそう告げる。ルイは珍しく焦りながら、そのまま通り過ぎる男性へ抗議の目を向けた。
「ルイ、あのおじさんの言ってたのって……」
「ツカサくん。あまりああいう人の言うことを真に受けたら駄目だよ。特に二日酔いのおじさんはね」
「え!? う、うん……」
力強くツカサにそう言ったルイは、何故か少し慌てていた。彼の新しい一面を別れ前に見られたのは、ある意味幸運だったと言うべきか……
「なぁルイ。ルイはこれからも一座の皆と旅をするのか? オレ、もう一回皆のショーを見たいんだ」
気を取り直し、ツカサはルイに一番聞きたかったことを問う。
というのも以前、ルイはツカサと会話を交わす中で「もうあと少ししたら、一座を離れて一人旅に戻る」ということを話していたのである。
自由を好むルイらしい方針だが、ツカサとしては『一座に属する吟遊詩人・ルイ』も好きだったため、もう一度彼の演奏とショーを見られないかと願っていたのだ。
「それは……そうだね。君には話しておこうか」
ルイは少し離れた場所にある樹へともたれかかり、ツカサを手招いた。通行の邪魔にならないよう、ツカサもルイの隣へ並ぶ。
「本当なら君に言っていた通り、僕はまた一人旅に戻る予定だった。でも、昨晩少し気が変わってね……もう少しだけ、この一座でショーを続けようと思っているんだ」
「ほ、本当か!?」
ツカサが食い気味に問いかければ、ルイはにこやかな笑みと共に頷いてみせる。そして視線を旅立ちの準備をする一座の団員達へと向けた。
「正直なところ、僕が吟遊詩人を選んだのは路銀を稼ぐためだし、故郷で鍛えた弓の腕を使えるからという理由だけだったんだ。でも、昨日多くの人の前で演奏して、君に喜んでもらうためのサプライズの演出をつけた時……僕は気づいたんだ」
「気づいた?」
「うん」
「……僕の演奏と演出で皆が笑顔になることが、どんなに心地良く素晴らしいことかをね」
そう告げた彼の言葉に、ツカサははっと息を飲む。
それは奇しくもツカサがあの晩考えたことと同じものであり、ツカサの夢が形となったのと同じくして、ルイにも一つの”想い”が芽生えていたのだ。
「『誰かに喜んでもらいたい』なんて思ったのは、君相手が生まれて初めてだよ。その為にわざわざ団長さんに頭を下げて”サプライズ”を入れさせてもらったくらいだからね」
「まぁ、その後先輩方に散々揶揄われてしまったけど……」と小さく呟きながら、ルイはツカサの小さな頭を撫でる。
幼いツカサは難しい言葉を全ては理解できない。それでも、頭を撫でられながら優しい声音でそう伝えられれば、心がきゅうと痛くなり、頬に熱を帯びる感覚を確かに覚えたのだ。
――きっとあのおじさんが近くにいたら「まるで愛の告白だな!」と笑う一幕が見られたかもしれない。
「まぁ、今回ので座長さんに目を付けられてしまったから、もうしばらくは一座にいないといけないだろうね。次の演出も手伝って欲しいと言われてしまったよ」
「なんだと!? オレも見たいぞ!!」
「駄目だよ。まだ僕は素人なんだ。君に見せるのはもう少し練度を積んでからにさせてくれ」
「え~!! オレはルイの演出も演奏も全部見たいぞ!!」
可愛らしい我儘を叫ぶ少年に、ルイはくすりと笑みを浮かべる。
そのまま彼を揶揄う言葉を口にしようとしたところで、「おーい!そろそろ出発するぞー!」という声がそれを遮った。
「おっと、出発の時間だね。それじゃあ僕はそろそろ行くよ。妹くんについての約束もしっかり果たすし、可能なら手紙も送るからね」
キャリッジに乗った一座の人々に目を向けつつ、ルイは彼らの下へ歩み――出そうとして、その脚が止まった。
「ルイ!」
それは小さな幼子が、彼の片足に突然抱き着き足止めをしたからだった。
驚いたルイが下を向けば、そこには自身の脚に顔を埋めたツカサの姿があった。
「オレたち、また会えるよな? ちゃんと”じゅうねん”経ったら、オレと一緒に冒険してくれるよな?」
ぎゅうと強まった力と、徐々に掠れていく幼い声。それだけで、青年は少年が別離を寂しがっていることに気づいた。
ルイが目を見開いたのは一瞬で、彼はすぐに口元に微笑を浮かべ、小さな頭を優しく撫でた。
「ツカサくん、顔を上げておくれ」
優しくかけられた言葉に、少年がおずおずと顔を上げる。その顔は既に涙でぐちゃぐちゃであり、青年は苦笑と共にしゃがみこみ、彼の身体を優しく抱き締めた。
「約束は守るよ。十年後に森の都市……いや、ナイトになりたいなら剣術士ギルドがある砂の都市が良いかな。そこにある冒険者ギルドを待ち合わせ場所にしよう」
「十年後の今日、そこで僕らは再会する――それで良いかい?」
「うん……うん……うそついたら、はりじゅうまんぼんだぞ……」
「勿論だとも。あとは君が笑顔で見送ってくれれば、僕は胸を張って旅立てるんだけどね?」
「う……もうすこしまってくれ……」
ぐずぐずとした涙声でそう頼まれれば、ルイは「うん、わかったよ」と優しく告げ、その小さな背と頭を撫でて少年を元気づけた。
「もうだいじょうぶだ……」
少し間を置いて、小さな掠れ声が聞こえた。
それを聞いてルイがゆっくりと身体を離せば、涙まみれでくしゃくしゃになりながらも精一杯の笑顔を浮かべるツカサがそこにはいた。
「る、ルイ。”じゅうねん”経ったら、ルイよりでっかくなるからっ、ちゃんとオレをみつけるんだぞ……!」
「フフ、それは頼もしいね。僕は……十年経っても変わらないだろうし、僕より早く見つけておくれよ」
ヒューラン族の十年とヴィエラ族の十年は、それぞれ違った意味を持つ。
長き時を生きるヴィエラにとって、十年など瞬きの間だろう。何十年も生きてきたルイは、その感覚をとっくに知っている。対して短き時を生きるヒューランにとって、この十年はとても長く、待ち遠しいものになるだろう。
それでも少年は信じている。”じゅうねん”を越えた先で、自分より先を行く青年に並び立つ日が来ることを。
だから……これは暫しのお別れだ。
「それじゃあ……またね、ツカサくん」
「っ、うん! またな!ルイ!!」
憧れの人が、少年の元から離れていく。
ツカサが満面の笑みのまま手を大きく振れば、ルイも手を振りつつ、キャリッジへと向かっていった。
やがてキャリッジを引く黄色の大きな鳥が動き出せば、彼らはそれに乗って森の都市を去っていった。
「うう……」
ルイの姿が見えなくなったところで、少年は笑顔をくしゃりと歪める。そのまま溢れ出しそうな涙を必死に拭って抑えれば、彼は家族の待つ家へと走り出したのだった。
――そして、時を同じくして
キャリッジに揺られていた青年は、その視線を外の森へと向けていた。
「ねえ、大丈夫なの?」
そんな彼に声をかけたのは、隣に座っていた若草色のミコッテ族の少女だった。
元より一座に入ったものの孤立しがちだった彼へ、最初に声をかけたのがこの少女であった。それからは少しずつ交流していたため、彼女は年上の彼へもそうやって声をかけることが出来たのだ。
「……そうだねえ。彼ならきっと立派な冒険者になれるよ」
「そうじゃなくて、ルイのこと」
きっぱりとした彼女の指摘に、青年は沈黙する。
先程から森の都市の方へと顔を向け、頑なにこちらを見ない辺り、ルイの抱いている感情は明白だった。
――自分より何十歳も年上なのに、まるで同じ歳の子どもみたい
齢十二ながら察する力が優れていた彼女は、敢えて青年の様子を詳しく指摘することなく溜息を吐いた。
「……初めてなんだ。ああやって人と関わったのも、ちゃんとお別れをしたのも……それを”惜しい”と思ったのも」
そうして長い沈黙を経て、青年がやっと吐き出した言葉がそれだった。それは何十年も生きてきた者にしては余りに幼く、あの少年と何ら変わりのない感情の発露であった。
きっと彼はその感情の名に気づけていないのだろう。長い間一人で生きてきた彼にとって、少年との交流は少なからず良い影響を与えていたのだ。
大人びた少女は再び溜息を吐きつつ、されど苦笑してみせる。一座に馴染めていなかった彼がようやく踏み出せた一歩を、彼女は心の中で祝福していた。
そして今も動揺しているだろう彼へ向け、”先輩”として助言をしてあげたのだ。
「ルイ。そういうときはね……”寂しい”って言うんだよ」
***
――それから、実に長い時が経った
少年にとって待ち遠しい十年になるかと思われた日々は、意外なことにあっという間に過ぎていった。
その理由の一つは、ルイから定期的に送られてきた手紙だった。
彼と所属する一座は本当に色々な場所を巡っているらしく、送られてくる手紙には、彼が今訪れている地域の話や公演の時の話などが多彩に紡がれていたのだ。
時には誰かに描いてもらったのか、その土地の風景をスケッチした紙が添えられていることもあり、ツカサはその手紙を通して少しずつ自分の世界を広げていった。
手紙によれば、ルイはあの後一座の演出家として才能を買われたらしく、旅の日々や公演を心から楽しんでいるようであった。
『本当は一回離れてやりたいことがあったのだけど、座長さんたちが強く引き留めてくるから、中々タイミングが掴めないんだ』と、何やら嬉しい悲鳴が書かれていたのは、別れから二年後の手紙でのことだった。
ルイからの手紙はそれだけに留まらなかった。
三年目の秋が訪れようとした頃、ツカサの家へ何やら丁寧に包まれた荷物が送られてきたのだ。
疑問に思った母が送り主と手紙を確認し、その内容にびっくり仰天していたのはツカサの記憶に強く残っている。
――それは、錬金術の本場である近東の島国から送られてきた、とある病の特効薬だった。
素材も遠方の大陸にしかなく、買おうと思えば砂の都市の富豪でも無い限り難しいほど高値の薬だ。それが無料でぽんと送られてくれば、何らかの罠かと逆に疑ってしまいそうになる。幸いにも差出人がルイ本人であったことと、砂の都市にある錬金術師ギルドから来た錬金術師が効能を保証してくれたことで、ツカサの母は安心して受け取ることが出来たのであった。
「これほどの薬を作れるとなると、錬金術師としてかなりの腕を持つ方でしょうか。私も一度お会いしてみたいですね」
薬についてそう語っていたギルドの女性に、母は曖昧な笑みを返すしかなかった。
『ようやく錬金術の本場に行けたから、学びがてら僕が作ってみたんだ』と書かれた手紙を思い出しつつ、息子の恩人が実はとんでもない人なのでは……と母が畏敬の念を覚えたのは此処だけの話である。なお、薬のお礼に頭を悩ませる母とは対照的に、息子は手紙の内容を娘と共にとても喜んでいた。
――こうして、彼との約束は一つ果たされた。
錬金術発祥の地で作られた薬ともなれば、その効果は劇的だ。薬を飲んだ妹は劇的な勢いで回復していき、二年経つ頃には日常的に外へ出ても問題ないほど元気になったのである。
「えへへ、ルイさんのお陰でわたしもお兄ちゃんも、やりたいことがたっくさん出来るね!!」
明るい陽の下、笑顔でそう告げた妹に、目を滲ませながらツカサは頷く。
……彼と別れてからもうすぐ五年。少年から幼さが抜けていく最中の出来事であった。
妹が快復した一方でルイからの手紙はまだ続いており、そこには相変わらず自身の近況と旅の出来事が書かれていた。彼はあまり一拠点に留まらないため、ツカサから返答の手紙を出すことが出来なかったのが歯痒かったものの、それでもツカサは彼からの手紙を胸に、旅立ちの日に向けた準備を進めていたのである。
そして五年目のある日、ルイから一通の手紙が送られてきた。
『――……最近、北の帝国が怪しい動きをしていて、一座も思うように旅が出来ないんだ。暫くは公演も取りやめるらしいから、僕はこの機会に別の目的を果たしてくるよ。どうか君も気を付けて』
そう綴られた手紙は、ツカサとツカサの居る国を案じてのものだった。
ルイの言う通り、ここ最近は都市全体に不穏な空気が漂っていた。噂だと北にある恐ろしい帝国がこの大陸に攻めてきており、色々な国々が既に乗っ取られてしまったらしい。そして帝国の魔の手が、いよいよこの国にも迫ってきていたのだ。
「……いや、大丈夫だ。オレがしっかり家族を守って、ルイとの約束を果たさねばな」
湧き上がる不安を振り払うように、彼はそう呟く。
まだギルドに入れる歳ではないものの、警備隊である父親から剣術や身の守り方を教えてもらっていた。いざという時はその力を使い、自分が家族を守るのだという決心がこの時のツカサにはあった。
……だが、その決心を嘲笑うように、”その時”は唐突にやってきた。
――その日は何が起こったのか、正直なところツカサはよく覚えていない。
不穏な空、怪しく光る星、遠方で始まった帝国との戦争……そして、強大な力が国中を蹂躙し尽くした。
結果的に言えば、ツカサのいる国は帝国の侵略を食い止めることができた。しかしその代償は軽くなく、帝国が用意していた”最終兵器”によって、国中に被害が及ぶ結果となったのだ。
幸いにもツカサたちは避難が出来ており、何とか一家全員が無事だった。だが守れたのはそれだけであり、家や身近な知人、そして彼の愛する都市や森全体が深刻な被害を負うことになってしまった。
――それからの五年は、苦しい復興の日々だった。
失ったものを悔やみながら、それでも少年は前を向いた。
変わり果てた都市や森の復興を手伝いながら、それでも彼は一つの”約束”を胸に、未来へ進み続けたのだ。
『何時かルイと並ぶ冒険者となり、彼と共に冒険する』
その想いだけは忘れることなく、何時までもツカサの心に残り続けた。
……その一方で、ルイからの手紙はあの日を境にぱたりと途絶えてしまっていた。
災害によって手紙や外国からの流通に支障が出てしまった以上、それは仕方のないことだった。ただ、ツカサの中でどうしても寂しさが芽生えてしまうのもまた、仕方のないことだった。
「ルイは……大丈夫だろうか」
あの日、見上げることしか出来なかった恩人に迫るほど大きくなった”青年”は、ようやく平穏を取り戻した空を眺め、そんなことを呟いた。
それは、ルイとの出会いから九年経った日のことだった。
どのようなことがあっても、世界は変わらず時を進めていく。
幼子は何時しか少年となり、やがて青年となった。
そして……ついに運命の日が訪れる。
***
――その日は旅立ちに相応しい青き晴天だった。
「お兄ちゃん、お金はちゃんと持った? あと着替えとかハンカチもちゃんと持たないと! あと……」
「はーっはっはっは! 心配無用だ、サキ!! 事前に十回は荷物の中身を確認したからな!剣も含めて準備万端だ!!」
「良かった~! この前砂の都市に行った時、お兄ちゃんったら着替えを忘れていったから心配してたんだよ?」
「んんっ! それはそれ、これはこれだ!!」
砂の都市行きのキャリッジ乗り場にて、一人の青年が妹と仲睦まじく会話をしていた。
これから冒険者として旅立つ彼は、先ほど両親や近所の人から盛大に見送られて家を発ったのだが、その際に妹が「最後までお見送りしたい!」とのことで、此処まで着いてきたのである。
忘れん坊な面のある兄を心配しつつ、それでも彼女は兄が必ず立派な冒険者になると信じていた。だからこそ、彼女は憂うことなく笑顔で兄を見送るのだ。
「……お兄ちゃん、絶対に死んじゃダメだからね」
「あぁ、勿論だ。世界にこの名を轟かせ、真の英雄になるまで倒れるわけにはいかないからな! 無論、なった後も同じだ!!」
「うんうん!その意気だよ! 冒険に夢中になるのも良いけど、時々ちゃんと帰ってきてお土産話も聞かせてね!」
妹の言葉に強く頷き、彼は砂の都市行きのキャリッジへと歩みを進める。
「それじゃあ、行ってくる!」
そしてキャリッジへと乗り込めば、彼は――ツカサは、大きく妹へ手を振りながら、別れの挨拶を告げたのだ。
「行ってらっしゃ~い!」
サキも負けじと大きく手を振り、動き出したキャリッジを見送る。彼女のそれは、兄が森の中へと消えていくまで続いていた。
「……はぁ。お兄ちゃん、行っちゃったな」
ほんの少しの寂しさと誇らしさを胸に、彼女は小さく呟く。
幼い頃から病気がちだった自分をずっと守ってくれ、元気になった後も笑顔にし続けてくれた自慢の兄だ。そんな彼が自分だけの英雄ではなく、世界中の英雄になってしまうことが、この少女にとってはほんの少し残念でもある。
それでも、少女は笑顔で兄の背を押すのだ。優しい兄が幼い頃からの夢を叶えることを、そして”憧れの人”に彼が会えることを、彼女はずっと願っている。
「――お兄ちゃんがルイさんと一緒に、世界一のすっごい英雄になれますように」
澄み渡る青空を見上げ、少女は祈るように言霊を紡ぐ。
それが国や人を見守る神々に伝わったかは定かでない。それでも、彼女の想いが揺らぐことはないのだ。
***
――砂の都市
乾いた大地と砂漠に取り囲まれたこの地は、厳しい環境でありながら交易都市として賑わいを見せている。
そんな地に今、一人の青年が降り立っていた。
「ハーッハッハッハ! ついにこのオレが!英雄としての一歩を踏み出す地にやってきたぞ!!」
周りの視線もなんのその。青年は自信満々に立ちながら、砂の都市入り口の大きな扉を眺めていた。
――なお、こんなにも格好つけている彼だが、ついさっきまで荷車の中で爆睡していたり、起きたら起きたで酔ってグロッキーになっていたのをバッチリ同乗客に見られていたりする。
「ふむ、まずは冒険者ギルドに行くのだったか……その後は剣術士ギルドの門戸を叩き、教えを乞いに行かねばな」
これからの目的を思い返し、そこで彼はふと思い出したように懐を漁った。そこから取り出されたのは若干古びた手紙であり、彼はそれを広げて真面目な表情を浮かべる。
「最後に来たのは五年前、か。ルイも災害に巻き込まれていないと良いのだが……」
それはツカサが災害に会う前にもらった、恩人からの最後の手紙だ。あれから音沙汰は一切なく、ツカサはルイが今どこで何をしているのかを全く知らなかった。
心配な気持ちは勿論ある。手紙ではルイは国外にいると言っていたが、ツカサの国を襲った災害が何処まで被害をもたらしているのか、一般人の彼では全てを把握しきれていないのだ。故に、ルイが巻き込まれてしまった可能性は否定しきれない。
――それでも、ツカサは信じていた。
「ルイなら大丈夫だ。いずれオレも追いつくとはいえ、オレより先を行く冒険者なのだからな。ならばオレは、ルイを信じて冒険者としての力をつける!そして約束の日にルイを出迎えるまでだ!!」
その言葉は力強く、ツカサからルイへの強い信頼と憧憬に満ち溢れていた。
ルイとの約束の日はまだ一か月ほど先だ。彼は一足早く冒険者となり、昔より逞しく、そして格好良くなった自分となって、ルイと再会する心づもりなのである。
その為にも、ツカサはルイの無事と約束を信じ続けるのだ。五年前から変わらずに、ずっと。
「……良し、そろそろ行こう」
そうして、砂の都市の熱気を胸に取り入れながら、青年は一歩を踏み出した。
――神々に愛されし国に生まれた、英雄に焦がれる青年
彼はまだ知らない。
自分がこれから巡り合う人々も、この先に待つ運命も、辛く残酷な未来も……そして、己が何者なのかも。
それでも彼は歩み続ける。
光の中を進む、一人の戦士として。