ジャバウォックは咆哮する「別れよう、類」
その言葉は予想以上にすんなりと口に出せた。
声は震えていない。”いつも通り”を完璧な仮面として被り、オレは滑らかな口で別れるべき理由を口にしていく。
「――わかったよ」
そうして、予想以上にすんなりとした返事でもって、恋人の類から同意をもらえたのだ。その時の類も”いつも通り”の顔であれば、オレは自分の選択が間違っていなかったことに内心安堵していた。
オレと類は二か月もの間、恋人関係にあった。
きっかけはオレからの告白であり、類が好きだと気づいてから一週間も練った言葉でもって、オレは類に愛を伝えたのだ。
「えっと……」
だが、オレが全ての愛を吐き出し、満足な心地で類を見た時――オレは過ちに気づいた。
何処か戸惑うような表情を浮かべる類は、明らかにオレと同じ想いを抱いていなかった。『もしかしたら、類もオレと同じ恋心を抱いているのではないか』などという思い上がりは、その時をもって崩れた訳である。
しまった、と気づいた時にはもう遅かった。オレの軽率な告白によってこの関係が終わってしまう。それだけは嫌だ。仲間や友達という関係まで失いたくない。
焦燥にかられたオレはこの想いを無かったことにするため、更に言葉を重ねようとし――
「……うん、良いよ。付き合おうか」
微かな笑みを浮かべ――それでいて、何処か迷うような表情を滲みだした類の言葉によって、この想いは無様にも生きながらえてしまったんだ。
そうして始まった交際は、オレを地獄に落とすには十分だった。
あんなにも描いていた幸せは『類を困らせた』という事実に阻まれ色褪せる。それでいながら、恋人としてのふれあいはしっかりと行っていたのだから、自分の欲深さに反吐が出そうだった。
最初こそ『恋人と言う肩書だけあれば十分だ』と言い聞かせていた心も、類との交際を続ける内に抑えきれなくなっていた。
もっと触れ合いたい。手を繋ぎ、共に過ごし、キスをして、そして――――
オレの抱いていた恋心は、オレの想っていた以上に強大で醜悪だった。
寸でのところでキス以上は踏みとどまれていたが、それももう限界だ。類は望んでいないのにオレを想ってこの関係を選んでくれた。だから、オレはこれ以上の迷惑をかけないために、踏みとどまらないといけなかった。
――だから、別れを切り出した。
オレの中の醜い怪物をこれ以上野放しには出来ない。類の心を穢さない内に、オレは類から身を引くんだ。そうして、いつも通りの”仲間”へと戻り、これからも共にショーをしていく。
そうして作り上げた別離までの脚本は、少しの狂いも無く上手くいった。類は別れを了承し、これからもショーをしていく仲間であろうと肯定してくれたのだ。
だから、これで良かったんだ。
今だけは溢れる涙を許してやろう。殺した怪物の死体を流し、そうして明日からオレは”何時も通り”の日常へと戻っていく。それが正解なんだ。
――あぁ、そう信じていたのに……
「ねぇ、類くん。前の授業でわからないところがあったんだけど…」
「あの問題かい?それはね……」
今、オレは類の教室の前で荒れ狂う感情を抑えていた。
類を取り囲むクラスメイトの女子も、下の名で類を呼ぶ甘ったるい声も、それに二つ返事で答える類も――その全てが気に喰わなかった。
――気に喰わない? お前にその資格はないだろう?
心の中の冷静なオレが、オレ自身の思考に冷や水を浴びせる。それと同時に、オレは自分の中の”怪物”がまだ死んでいなかったことに愕然とした。
類がオレ以外の誰かと交流するのは自由だ。その相手が将来彼を幸せにするパートナーであったとしても、オレは笑ってその背を押すことしかできない。
……それなのに、オレは類の隣に誰かがいる未来を”嫌だ”と強く想っていた。
浅ましい。類を幸せにしたいと願う口で、オレ以外を見るなとこの心が叫ぶ。
殺した筈の怪物は生きた屍だったのか、何度も殺そうとしては蘇り、類への想いによって暴れ狂った。
自分の感情が全く抑制できない――それはオレの中で、何時しか焦りと恐怖になって降り積もっていった。
何とかしないといけない。類を不幸にするだけの想いは、徹底的に殺さねば……
「天馬くん。これ、類くんに渡してもらっても良いかな?」
――あ、駄目だ。
頬を林檎色に染め、可愛らしい恥じらいと共に手紙を渡してきた女子を見た時、オレの中の”怪物”が咆哮を上げた。
歩く。歩く。歩く。
誰もいない屋上へと辿り着き、震える手で手紙を開く。
そこに書いてあったのは、砂糖菓子よりも甘ったるい愛の言葉の数々。オレの予想通り、それは類への告白だった。
『好きです』――オレが類を困らせた四文字が、紙の上で何のしがらみもなく舞い踊っていた。
やめろ。今すぐ引き返せ。
これはスターが抱いて良い感情ではない。今すぐ手紙を戻し、何食わぬ顔で類に渡すんだ。理性が必死にそう叫べど、オレの中の”怪物”は手の中の紙に力を込めていく。そうして、オレは――
「……おや、それは恋の手紙かい?」
その言葉が聞こえた時、オレは心臓が止まるほどの衝撃を覚えた。
咄嗟に振り返れば、そこには類が平然とした顔で立っていた。
不味い…そう思った時には全てが遅く、不意を打たれたオレは、類から呆気なく手紙を奪われてしまったのだ。
「類っ、それは……!」
「なるほど、僕宛だったんだね。それをどうして君が持っていたんだい?」
「……類に渡してくれと、そう頼まれたのだ」
「ふむ、ならどうして開封されているのかな?君は人宛の手紙を勝手に開くような人ではないと思っていたのだけど」
ぐうの音も出ない追及だった。
現行犯だった以上、オレは真実を話さないといけない。だが、類に何と言えば良いのだ?
『お前が誰かに告白されるのが嫌で、その手紙を破ってなかったことにしようとした』などと馬鹿正直に言えば良いのか?既に別れを切り出し、恋人ですらないただの仲間だと言うのに?
ぐるぐると思考が渦巻き、心が凍てついていく。逃げ場を無くした哀れな怪物は、ひたすら黙することで何とか最後の一歩を踏みとどまっていた。
「……ねぇ、司くん」
「な、んだ」
「もし、僕がその告白を受けると言ったら――君は喜んでくれるかい?」
――あぁ、勿論。全力で祝福してやろう!
脳裏に発すべき言葉が描かれたというのに、いつまで経っても音になることはなかった。瞠目した瞳は類を呆然と見つめ、微かに震える口が開かれる。
「……いやだ。類はオレのものだ」
そうして、ついに怪物は解き放たれた。
醜いオレの化身は、類への醜い想いをひたすら音として生み出していく。類が好きであること、手放しがたいと思っていること、その隣に立つのはオレであってほしいこと、見知らぬ誰かを演出するお前すら見たくないこと。そして、そして、そして――
ああ、これは本当にオレなのだろうか。
いっそ気持ち悪いと軽蔑の目で見て、今すぐこの怪物を殺してくれないか。
意味不明(ジャバウォック)を殺せるのは、何時だって正義の剣(ヴォーパルソード)だけなのだから。
「……頼む。早くオレを否定して、お前の手で楽にしてくれ」
絶望に染まった顔で、オレはその時を待つ。この怪物がトドメを刺されるその瞬間を。
「何で否定をする必要があるんだい? 僕はずっと君が好きなのに」
果たして、類から出た言葉は拒絶でも侮蔑でもなかった。
ニコニコとした笑みで、その男は怪物の理解できない言語を口にする。
「……は?」
思わずそう問い返すしかなかったオレを置いて、類は歌うように語り出した。
「本当はね、君の遠慮にはとっくの昔に気づいていたんだ。確かに僕は、当時の君の告白に戸惑ってしまった。その時は愛は愚か、誰かに恋をするという感情も抱いたことがなかったからね」
「でもね、君の告白を拒否しなかったというのは『嫌ではなかった』ということなんだよ。そして実際、僕はこの二か月で君に恋をし、愛することを覚えた。わかるかい?僕は君と同じ想いを抱いていたんだよ」
類は一歩ずつゆっくりとオレに距離を詰める。それがどうにも恐ろしく、オレは更に一歩後ずさった。
「それなのに、突然僕を捨てるなんて君はひどい人だよ。まぁ、君は僕が未だに妥協していると勘違いしていたみたいだし、優しすぎる君が何時か別れを切り出すんじゃないかというのは予想していたよ」
「んな…!?気づいていたのか!?ならどうして……」
ガシャン、と音を立てて背中がフェンスにぶつかる。
オレよりも高い身長が間近に迫れば、最早オレは猛獣に喰われる寸前の被食者でしかなかった。
類はニコニコとした笑みを崩さない。それが何よりも恐ろしい。
「簡単なことだよ。君自身が気づいていない、君の本当の想い……いや、本当の”欲望”に気づかせるためさ」
「オレの……欲望?」
欲望――あるいは、怪物。
類と離れたことで形を為し、自分でも押さえられないほど肥大化した類への醜い想いは、こうして類に突き付けられたことで完全に姿を現した。
「……なんてことをしてくれたんだ、お前は」
「フフ……君が僕の”欲望”を自覚させてくれたから、そのお返しだよ」
そう笑う類は、まるで怪物のように獰猛な欲望を滲みだしていた。それにゾクゾクとした感覚を覚えるオレは、どうしようもなく救えない。
オレはもう、輝ける星とは程遠い獣を殺すことなどできなかった。
他でもない好きな人に肯定され、生きることを許可されてしまったのだ。そして……オレもまた、類の中で目覚めた”怪物”の責任を取らないといけない。
その熱のこもった瞳が、オレの全てを暴き喰らい尽くすまで――もう二度と、離れることはできやしない。
「ねぇ、知ってるかい?籠の中で飼われ続けた鳥は、いざ扉を開け放っても逃げることはないらしいよ? 逃げるという発想すらないのか、それとも――」
“――その中に居続けたいと願うほどに心地良いのか。君はどっちだと思う?”
伸ばされた類の腕は、オレの頭の横へと置かれる。
そうして、静かに顔が近づいていけば……
「ほら、言うべきことがあるんじゃないかい?」
耳元で囁くように、類はその言葉を口にする。
恐ろしいという感情すら最早沸くことはない。ただ、その男の虜となってしまった哀れな怪物が、熱のこもった瞳を揺らがせ頭を上げる。そして、
「すきだ」
その降伏宣言を口にした時、目の前の怪物はニィと口元を歪ませた。
そして、満足そうな顔でオレの唇へと噛みつき、呼吸ごとこの”怪物”に牙を突き立てたんだ。
「――たいへんよくできました」
……もう、オレたちは逃げられない。