「……っていうことがあったんです」
なんであんなことを海はしてきたのか、どうしても理解できなくて、樫尾は数日の煩悶の末、経験豊富な先達の叡智に頼るしかなかった。
なるほどね、と言いながら、空気を読んで蔵内も橘高も席を外したふたりきりの作戦室に、王子はとっときだよとほほ笑みながら、彼の瞳のような鮮やかなブルーの花の混じった茶葉の紅茶の香りをくゆらせてくれた。
交際が始まってから、自由気ままで奔放な南沢だったけれど、恋人として自分が嫌がることは絶対にしなかったのに。
「そう、それはびっくりしちゃったね」
そんな相談を受けて、果たして麗しの隊長は、まっすぐに向けてくる樫尾の視線を、上等なシルクのようにふんわりと受け止めて、少しだけ思案顔にはなったものの、慈愛のまなざしを返してきた。
「ところで、カシオはそんな海くんを嫌いになった?」
「ま、まさか! でも」
「でも?」
「あの日から連絡が来ないんです、南沢先輩から」
「きみからは? したのに返事がないのかい?」
「いえ……おれからはとても、できるもんじゃない気がして。せっかく補習が終わったところを駆けつけていただいたのに、ちゃんと話もせずに逃げてしまって……」
合わせる顔がありません、と膝を見つめるように俯いてしまう。
「やれやれ、どっちもどっちだ」
「……むしろ、おれが先輩に呆れられたりしたんでしょうか。おれが、あんまり子供だから」
あんなキス知らなかった。キャンディめいた甘い幸福を分け合う優しい接吻ではなく、無理強いに押し入って樫尾を蹂躙しようとしながらも、どこか焦れるようなもどかしさがそこにはあって。
あのまま応えてしまったら、何かが変わってしまいそうだった。
「ううん……そうだね。ぼくから答えらしきものを与えることはできなくもないけど、本当の正解はきみの中にしかないからね。自分で導かないと」
「おれの、中に」
「そう。正確には、きみと海くんの間に、かな」
おれと先輩の間、と樫尾は、彼のことを想うと逸る胸にそっと掌を置いた。
そのいとけなさすら漂わせた仕草に、王子は微笑みながら、されど容赦ない一言を付け加えた。
「それから、カシオ、明日の昼にあるランク戦――対戦相手は弓場隊と生駒隊だから」
「……!」
自分がブレードトリガーの扱いにおいては王子に、弾トリガーの運用においては蔵内にまだまだ及ばない自覚はある。1DAYトーナメントに参加したのだって、少しでも実戦を積み重ねたい。彼らの足は引っ張りたくないという気持もあったのだ。
そして、マスタークラスにすら届いたことがある、あの人にも互したい、とも。
だけど、こんな気持のまま、彼と「敵」として向き合った時ちゃんと働けるのだろうか。
「あの、王子先輩、おれ……」
「そろそろ生駒隊は任務から戻るんじゃないかな」
「!」
「ぼくは隊長だもの、よその部隊のスケジュールくらいおおよそ把握してるよ」
さて、と王子は樫尾の額に指先を押し当てた。
「賢くて果敢な、ぼくらの自慢のカシオには孫氏の言葉のひとつを思い出してもらえるかな。『兵は拙速を聞くも』はい、続き」
「……『未だ功の久しきをみざる』ですか」
「さすが、生徒会長。つまりは?」
優美な微笑は、だが、B級上位部隊を率いる長の自覚と矜持で樫尾を鼓舞するものだった。
「兵は拙速を尊ぶ、です」
「よろしい。正解のご褒美に」
と王子は携帯端末を手に取って、そのままなめらかに通話をつないだようだった。
「ああ、もしもし、みずかみんぐ。今どこ? 本部に戻る途中? そこに海くんはいる? そう、だったらそのまま連行して」
「……王子先輩?」
「みずかみんぐと海くん、もうすぐ連絡通路でこっちに来るって。東通用口に五分もすれば来るんじゃないかな。さ、きみの心を奪ったままの不埒者を成敗してきたまえ!」
「樫尾、了解です」
嫣然と笑みを深めて高らかに告げる隊長の声に従って、海は作戦室を駆け出した。