しかめっ面しないでハニー ゼノと一緒にいたころ、スタンリーに煙草を吸う気はさらさらなかった。お喋り好きな幼馴染に「きみはどう思う?」と聞かれたら、即座に返答をしたかったし、目を離すとなんにでも手を出す彼に「ストップ」と声をかけるためには、煙草どころかロリポップキャンディだって齧りたくなかった。それどころか本当なら出来ることなら炭酸水のボトルも、バーガーの包みも持ちたくないのだ。だって砂糖たっぷりの飲みものをお気に入りのシャツにこぼすのはテンションが下がるし、バーガーの包みは放り投げるとソースが垂れる。ゼノと初めてしたケンカは、彼が垂れた前髪をアルコールランプで焦がした時に食べていたチーズバーガーを放り捨てて駆け寄って、買ったばかりのコンバースにケチャップがべったりついて取れなくなった時だった。「ゼノのせいで」と泣き言をいうスタンリーに、ゼノはむくれて「別に頼んでなかったよ」と返した。初めてとっくみあいのケンカになって、スタンリーが勝った。幼馴染を守りたかったのに、スタンリーがたたいたせいでゼノの頬は腫れたし、膝にいくつも擦り傷を作って、スタンリーはそれからコンバースを履くのは止めて、食事もゼノより早く食べ終えることで両手を開けた。だから子どもの頃のスタンリーにはとても煙草だの酒だのをやるよう余裕も、憧れるような必要も無かった。ゼノがいたから。
「だから……軍に入ってからだね、煙草なんて吸い始めたのは」
「ふぅん?」
話を黙って聞いていた龍水は、眉を下げて返事をする。フォークに巻き付けたミートソースの一滴すら飛ばさずに、口に運ぶ恋人の手付きの美しさといったらない。
「冷めるぞ」
「いいよ、もう。それよか一服したいんだけど」
下げた眉が歪む。フォークが置かれて、ワインのボトルに伸びる指。スタンリーはちっとも減っていないパスタの皿をぼんやり眺めている。龍水が差し出したボトルにグラスを差し出しもせずに、諦めるのを待っているのだ。
「アルコールじゃなくて、ニコチンが欲しいって言ってんだけど」
「だろうな」
龍水がボトルを下げる。スタンリーはため息をつく。
「アンタ、大事な話がしたいって呼び出したのに、ずっと上の空だね。俺に話したかったのは生牡蠣にかけたソースのこと?それともシェフご自慢のフィットチーネのこと?少なくとも、俺のガキのころのつまんない話を聞くためじゃないだろ」
今度はスタンリーがボトルを取った。腰を浮かしてワインのボトルをひったくるなんて、洒落たフレンチの店じゃありえない行儀の悪さだが、それを言ったら目の前の男だって手酌でワインを注ごうとしたのだ、お互い様だ。
「タイが曲がってる。有能執事に躾けられたお坊ちゃまらしくないね、熱でもあんの?……帰りなよ、俺と居んのが楽しくないなら」
言って、今度は足を組む。半年ぶりに会った恋人と今夜はゆっくりリビングかベッドで過ごそうと思っていたのに。何の相談も無しに着せられたスーツも靴も気に入らない。そもそもスリーピースは嫌いなのだ、もっと気軽な格好がしたい。
「いや、楽しい……わけではないが」
恋人はずっと困った顔をしてる。スタンリーのプレゼントしたタオル地のガウンじゃなくて、目の覚めるような真っ青のシャツが嫌だ。それを覆い隠すみたいなグレーのジャケットも嫌だ。
「つまんねえ男」
ワインをグラスに勢いよく注ぐ。どぷん、どぷんと波打ってシャツの胸元に水滴が飛んだ。舌打ちをしながらグラスを煽る。ワインは美味しかった。復興からたった数年しか経っていなくても、年月の作った深みを有した酒瓶が地球上のどこにも残ってなかったとしても……美味いものは美味い。
「……つまらないか」
びっくりするほど真摯な視線。龍水はスーツ姿が良く似合う。聞けばほんの小さな子どもの頃から着ていたらしい。住む世界が違う男、育ちの根本が別の人、スタンリーはミートソースのパスタはこんなスーツで食べたくない。赤ワインも嫌だ。早く全部脱いでいつものルームウェアに着替えて煙草を吸って、ブレッドケースの中のバゲットをカリカリに焼いて、昨日ゼノから貰ったチーズをたっぷり厚く切ったのを乗せて食べたい。パンくずをボロボロ床に零してあぐらをかいて、そんな生活がいい。コンバースのスニーカーも、ダナーのブーツも汚したくない。ましてやこんなにピカピカの革靴でケチャップの海を渡れるか?スタンリーには無理だ。早く家に帰りたい。ピローカバーもベッドシーツも洗いたてなのだ、スタンリーがどれほど今夜を待ちわびていたことか。
「俺と話すよりも、煙草のほうがいいか?スタンリー」
龍水がワインのボトルではなくて、見慣れない小箱を机の上に出す。スタンリーが何か言う前に開いて見せてくれた。中には大きなダイヤのついた、カートゥーンアニメで金持ちマダムが付けてるような指輪!
「口は煙草に、過去は幼馴染に譲ろう。でもこれから先は、俺が欲しい」
スタンリーは目をまんまるにして驚いて、止まって、組んだ足を戻して、まじまじと指輪を見た。洒落た店やスーツを選んだ男にしては、マナーや教養の染み込んだ上流階級の男としては、マイナス百億点のプロポーズだ。こんなに大きな石ころのついた、指輪を、よりにもよってスナイパーに渡すなんて。
「笑えんね、マジでアンタ、熱でもあんの?」
「本気だ」
「そうじゃなくて……」
でもスタンリーだってプロポーズを受ける側としては最低だ。今も嬉しいより先に今ここが自宅だったなら、首っ玉に齧り付いてキス出来たのに!とそればかり考えてる。
「全部くれって言いなよ、アンタらしくないぜ……」
箱の蓋を優しく抑えて、スタンリーは指輪を箱の中に閉じ込め直した。にやにやしてくるのを抑えきれないまま、どっかり座り直して冷めたミートソースを頬張る。スーツにソースが飛んだけど、どうせ恋人が勝手に買ってきたのだ、知ったことか。
「ほら、ちゃっちゃと食って帰るぜ。家でなら指輪でも首輪でも付けてやるし、お返しにアンタのドラゴンにゴムの帽子も被せてやってもいいね」
それまでずっと黙っていたウェイターが、吹き出しそうになって慌てて咳払いで誤魔化した。ぽかんとしている龍水を尻目に、スタンリーはテーブルの上の皿をどんどん片付けていく。別に汚れてもいい。食べ終わったら煙草も吸う。だけど一服し終えたら、龍水に教えてやってもいい。
「アンタがキスしてくれりゃ、煙草なんざすぐ捨てるのに」
って、キスのおまけ付きで。何しろスタンリーは今、とっても機嫌がいい。これ以上無いほど、浮かれているから。