バックグラウンド・ミュージック 「音楽」***1
日が落ちる頃、石畳の上を通り抜ける風に、ヒュンケルは上衣の首もとを緩め、涼しさを味わう。
食事とともに酒を供する店の、通りに出したテーブルの上のランプに火が灯る。一日の労働を終えた人々が、家路を辿りながら、あるいは腹と心を満たす店を選びながら、気の置けない者と話すくつろいだ声が、町の雰囲気を一層柔らかくする。
ラーハルトは、ベンガーナで行われた会議にレオナと出席したダイに帯同し、数日間パプニカを離れていたが、今日の昼過ぎに城に戻り、夕方、城の書庫にいたヒュンケルを迎えに来た。フードを被って二人で城を出て、今日は材料も準備していないからどこか店で夕食を取ろうと、立ち並ぶ飲食店を見ながらゆったりと通りを歩く。
「広場に面した、泡の立つ葡萄酒を飲ませる店があるだろう。そこにせんか」
「珍しいな、お前があんな目立つ店を選ぶとは」
「ちょっと訳ありでな。それにあの店の店主はオレと同じ、魔族と人間の間の子だ」
「そうだったか。あの店も夜は広場の方へテーブルを出していたから、風が通っていいんじゃないか」
ラーハルトの提案にヒュンケルが同意して、広場への近道になる小路へ進んだ。香草を擦りこんで焼いた鶏肉の香りや、牛肉を骨ごと煮込んで胡椒をたっぷり挽いたスープの香り。食欲が刺激される。
目的の店に着くと、ラーハルトと視線を交わした店主が、広場に出した卓の中から端に寄った卓の椅子を引いてくれたので、二人はその席についた。
「新鮮なカトゥウオの刺身が恋しいのではないか」
「たった数日でそうはならん…が、そうだな、玉ねぎと大蒜と生姜を、たっぷりと乗せて食いたい」
「お前、精のつく食材が好きだな」
「戦士なのだから当然だろう?向こうでは、会議だからな、匂いの強い食材は使われなかったから少し物足りなかった」
「それはまあそうだろう」
「カトゥウオは、さすがベンガーナだ、生のまま届けられていたが、鮮度ではパプニカには及ばぬ」
何品かの料理と酒を注文し、先に運ばれてきた発泡性の葡萄酒を飲みながら、海藻と生野菜を醤と酢と油で和えたものや、小魚の油漬けをつまんでいると、広場に、いつもここで見かける演奏者たちよりも艶のある、有り体に言えば高価そうな楽器を持った数名がやってきた。しかし服装は至って平凡である。
「あれは城の楽団の者ではないか?あのバイオリン弾きは、ダイ帰還の祝賀会で、指揮者のすぐ横で皆をまとめていた者だと思うのだが」
「そうだ。少し前に、ダイ様が楽団の演奏を聴かれる機会があってな。レオナ様がいろいろと、人間共の文化を教え込もうとされているだろう」
「ダイも大変だな」
「うむ…長い演奏をじっと聴いているのはお好きではないようだ。『お尻がムズムズする』とおっしゃっていた」
「ははは、ダイらしいな」
「だが、デルムリン島でブラス翁が持っておられた楽器を組み込んだ曲も用意されていてな。ダイ様は『じいちゃんが弾いていたやつだ』と懐かしそうにされて、演奏も楽しそうに聴いておられた」
ヒュンケルは、そのときのダイの表情を想像して、微笑んだ。
「オレたちが島にブラス爺さんを訪ねたとき、夕食の後に火を囲んで、聞かせてもらったことがあったな」
「ああ。あのときは、あの銀ピカがブラス翁に習ったという踊りを披露し始めて、巻き込まれた獣王が困っていたな」
「ははっ、そうだったな。あれは楽しかった。ヒムの動きはブラス爺さんの手本とは少し違うようだったが。獣王も案外楽しんでいたぞ。それで?なぜ広場に城の楽団のメンバーが来ることになったんだ?お前は知っているんだろう」
「ダイ様が、音楽は、式典で演奏したり、演奏会のように音楽だけに集中して楽しむのもよいが、もっと気軽に、ワイワイと皆で食べたり話したりしているところで鳴っているものの方が好きだとおっしゃってな。島でそうだったように」
「なるほど」
「国民向けの演奏会も年に数回だけだろう。せっかく楽団があるのなら、ときどき広場で皆のために弾いてやったらどうかとダイ様がおっしゃったのだ」
「なるほどな。それで姫も乗ったのか」
「ダイ様はいつも皆のためになることを考えていらっしゃる。服装も、楽団の衣装では人々が畏まるといけないから、普段着がよいと思うとおっしゃった」
「あいつはそういう奴さ……それで?評判を見てこいと言われたのか」
「そんなところだ」
二人が話す間に、テーブルにはカトゥウオの刺身(玉ねぎ、大蒜、生姜がたっぷり乗っている)をはじめとする品々が並び、一方楽団のメンバー(今日来たのは弦楽器のカルテット形式のとれるメンバーのようだ)は、広場の真ん中あたりに各自持参した簡易な椅子を置いて座り、調律を始めた。
ヒュンケルがそれを見ながら穏やかに話す。
「この広場では、昼でも夜でも、弦楽器だったり管楽器だったり声楽だったり、誰かしらが演奏をしているな。それを聞きながら、お前とあそこの石段に腰掛けて他愛もない話をしたことがあっただろう。近頃、そんな時間を過ごすのも悪くないと思えるんだ」
***2
ヒュンケルは、初めのうち、そういう、目的のない、何の役に立つわけでもない時間が、苦手だった。自分は今こんなことをしていていいのだろうか。何かするべきことがあるのではないか。だから、師に「ゆったりと過ごす時間も、人間の生には必要なのですよ。そうやって人々が平和を味わえる世の中にするために、私たちは戦っていたのでしょう。あなたも味わっていいのですよ」と言われても、なかなかすんなりとは受け入れられなかった。
ダイとともに帰還してしばらくは、傷を負った肉体を癒すため、ラーハルトとともに城の客室をそれぞれ借り、静養した。肉体を癒すという目的があり、読むべき書物も書庫から借りていたが、不安だった。
ヒュンケルの師アバンは、今やカール王国の王配という立場にあるが、ヒュンケルたちが城で静養している間、所用でレオナの元を訪れた際には、毎回、ヒュンケルを城の中の木漏れ日の注ぐ庭へ誘った。
食事や薬草の話をすることもあれば、カールやパプニカの現在の話をすることもあるし、昔の……ヒュンケルがアバンの元で暮らしていた頃の、修行の、生活の、転々とした土地の、それから、何を思っていたかの……話をすることもあった。
あるとき、アバンは、これだけは忘れないでほしいのですが、と前置きして、話し始めた。
──ヒュンケル。あなたは、これから、長い時間の中で、自分と向き合うことになるでしょう。
もちろん、あの戦いの中で、あなたは過去と向き合い、闇と決別し、その魂は今や光で満ちていることを、私は知っています。そして、そのことを必要があればいつでも、私はあなたに伝えます。
それでも、記憶が残っている限り、何度でも、後悔の念で、あなたは苦しむでしょう。あなたがそういう子だということは、よく知っています。でも、裁くのは、あなた自身ではない。
自分と向き合うばかりでは苦しくなってしまう。世界をよく見ることです。この世界の美しさを知り、人々の暮らしの中の幸せを見つけるのです。
そして、そのとき、あなた自身に、どんな感情が生まれるのか、まっさらな心で感じてください。そうしながら、あなたがどう生きたいか、考えればよいのです──
だからヒュンケルは、敢えて目的がないと思える時間をつくってみることにした。
例えば、木漏れ日の庭で、本を閉じて、太陽のぬくもりを感じ、木の枝や葉が風にそよぐ音を聞き、小鳥のさえずりを聞いて、心地よさを味わうことができるようになった。
ラーハルトとともに城の外の、広場や、眺めのよい丘の上や、浜辺まで散歩をして、奏でられる音楽や、遠くから聞こえる町の喧騒、波の音を聞いて、音楽で心が弾んだり慰められたり悲しみに沈んだりすることや、自分が何もしていなくても町は生き生きと動いていること、心が洗われて無に還るような心持ちを、知った。
***3
その浜辺でヒュンケルの隣に座っていたラーハルトは、幼い頃に母と見た海を思い出していた。
ラーハルトの母は、夫、すなわちラーハルトの父を失った後も、夫を想い続け、その日は「父さんと出会ったのは、海だったのよ。久しぶりに海を見たくなったわ。一緒に行ってくれる?」と言って、母と子の二人で海へ行ったのだった。まだハドラーが台頭する前。潮風を受けながら、父親との思い出を少し寂しそうに、でも確かに幸せそうに話す母の横顔を、そのとき聞こえた波の音と潮の香りを、随分昔のことのはずなのに、ラーハルトは鮮明に覚えていた。
隣を見れば、寄せては返す波をただじっと見つめるヒュンケルの眼差しがあった。ヒュンケルは今、何を思うのだろうと、ラーハルトは思った。
***4
ヒュンケルとラーハルトが初めて出会ったのは、戦場、しかも敵同士として。ひ弱な駆け出しの魔法使いにとどめを刺そうとした当時のラーハルトの同僚が、肩から血を吹き出した次の瞬間、崖の上から舞い降りてきたのがヒュンケルだった。
美しい、とラーハルトは思った。
男を敵と正しく認識してはいたし、もう一人の同僚に倒されることを確信してはいたが、その凄まじい闘気に、ラーハルトは、一体何のために戦えばそこまで闘気を高められるのかと、男の内心に興味を持った。
結局、ラーハルトとヒュンケルの一対一の戦いになり、ラーハルトがスピードと正確無比な槍使いで圧倒し、ヒュンケルに引導を渡したと思ったのだが。
倒れたヒュンケルに人間を憎むわけを問われ、バラン様とソアラ様の話を聞かせてやったら、自分も人間を憎んでいた、だが人間も捨てたものではない、それをバランに教えたいと、もはやボロボロのはずの体で再び立ち上がった。しかしその言葉は、当時のラーハルトには、自分と母やバランの苦しみ悲しみ、さらには自分とバランの絆をも、軽んじられたように感じ、何を思い上がったことをと頭に血が上ったのだが。
立ち上がったヒュンケルを、ラーハルトが怒りのままに攻め立て、ついに止めを刺さんとした瞬間、どこにそんな力が残っていたのか、ヒュンケルが底知れぬ生命力の残りほとんどを費やした技を放ち、ラーハルトは倒された。
そうして永らえた命だったのにもかかわらず、弟弟子を人質に取られたヒュンケルは、彼を助けるため、その命をあっさりと手放そうとした。なぜだ。ラーハルトはその潔さ、あるいは、自らが守るべきものは何なのかをはっきりと見定めた眼に、先ほど受けた眩い光の十字と同じくらい圧倒された。
気づいたときにはラーハルトは、残る僅かな力を振り絞り、卑怯な真似をした同僚の方に、槍をぶちこんでいた。
それから、問われるままに、ラーハルトは自らの生い立ちを語った。するとヒュンケルと魔法使いは、それを我がことのように悲しんだ。
ああ、この男に、バラン様とディーノ様の行く末を託したい。そして、オレをオレたらしめていた、鎧の魔槍も、この男に受け継いでほしい。ラーハルトのその願いは、ヒュンケルによって確かに受け取られた。
時が経ち、竜の騎士であるバランの血の力で蘇ったラーハルトは、ダイの元へ急いだ。ヒュンケルが生き延びていることを、託した鎧の魔槍を身に纏って戦い続けていることを、願いながら。
果たして、ヒュンケルは生きていた。鎧の魔槍は、ヒュンケルが己の姿を見せんとして、戦場に打ち立てていた。そしてこの優しい男は、またも友となった者を救うため、命を尽きさせようとしていた。
しかしその直前に、ラーハルトはヒュンケルを、その手で救うことができた。そして今度はラーハルトが、もう戦うことのできない体となったヒュンケルから、鎧の魔槍を受け継いだ。間に合った。それはラーハルトにとって、大きな救いだった。
***5
ヒュンケルにとっても、ラーハルトが生き返り、自分の代わりに戦ってくれることは、救いだった。
己の魂を託せるのは、戦いの間、鎧の魔槍としていつも共にあった、ラーハルトだけだったからだ。
***6
ダイ捜索の旅では、ただ歩む、ただ待つ、そんな時間も多くあったが、ダイが見つかるまでは、そのことだけに集中していたいと二人共が思っていたので、余計な話はしなかった。
しかし、ダイと共に帰還した後、静かに回復の時を過ごす中で、二人は、決闘以来初めて、自分がこれまで生きてきた道のりや、自分には世界がどんな風に見えていたのかを、少しずつではあったが、互いに打ち明けるようになった。
各々、自分の内なる戦いを一つ乗り越えたことで、自身の心の内を、少し遠くから見られるようになったために、そんなことができるようになったのかもしれない。
また、お互い、相手に自分のことを話すことが、癒しになることを知った。
話して、何か自分を大きく変える返事がもらえるわけではない。話すことで何かに気づくこともあるが、それも自分で気づくのだ。しかし、打ち明けることができる相手がいる、黙って聞いてくれる相手がいること。そして、その相手は、自分の熱い思いを知り魂ごと引き受けてくれた男である、ということ。それが、戦いの先の世界を生きていく支えになっていた。
元々、命を看取り合い、託し合った仲である。魂がこれまで以上に強く結びつき合うのに時間はかからなかった。
***7
城を出て、自分の家を持って暮らすことが決まった日も、二人でこの広場へ来ていた。そのときも、誰かがバイオリンを弾いていた。美しくて穏やかな曲だった。
「お前、どの辺りに住むつもりなんだ?」
「お前とよく散歩した丘があるだろう。あの麓の、他の家から少し離れたところに、主が亡くなってから放置されたままの家がある。一昨日見に行ったが、住めそうだ」
「準備が早いな」
「ふん。お前がのんびりしすぎなのだ。どうせ、初めは森で野宿でもして探せばいいなどと思っているのではないか」
「……」
「図星か。全く」
「すまない」
「オレに謝るな。自分に謝れ」
そう言ってからしばらく沈黙が続く間も、美しいバイオリンの音色が、耳に心地よく空へ拡がっていく。
「ヒュンケル」
「なんだ」
「オレと一緒に暮らさないか」
「……それも、いいかもしれないな」
ラーハルトが、ヒュンケルを見る。
「ヒュンケル、こちらを向いてくれ」
ラーハルトの声に緊張を読み取ったヒュンケルが、こちらも緊張気味に、ラーハルトの方を向く。
「ヒュンケル……。オレは……お前のことを好いているようだ」
ヒュンケルが目を瞠る。
「ヒュンケル、オレにはお前が必要だ。そして、オレもお前に必要とされたい」
ラーハルトは一言一言、ヒュンケルの目を見つめながら、丁寧に告げ、それからヒュンケルの返答を待った。
「……オレも、同じだ、ラーハルト。オレも、お前が好きだ。お前が必要だし、お前に必要とされたい」
ふぅーっ、とラーハルトが息を吐く。気づかないうちに息を止めていたようだ。バイオリンは音を奏で続ける。
「よろしく頼む」
「こちらこそよろしく頼む」
こうして、二人の新しい、しかしこれまでの続きの日々は始まったのだ。
***8
カトゥウオの刺身にたれをかけると、カルテットの演奏が始まった。一曲目は、賑やかな曲だ。広場を取り巻く店の客が、酒を飲みながら手拍子を打つ。
「なかなかの滑り出しだな。人々に警戒されずにすんなり馴染んでいる」
玉ねぎたっぷり、大蒜と生姜もたっぷり乗ったカトゥウオはやはり旨くて、もうほとんど平らげてしまった。二曲目が始まる。バイオリンのソロのようだ。
「この曲は……」
「……ああ、そうだな」
互いの気持ちを確かめた日に、二人を包んでいた曲だ。気恥ずかしいが、その気持ちも味わうように、二人は黙って、二杯目の葡萄酒のグラスを傾けた。
Fin.