僕は悪い子になりたい「おら起きろ、アッシュ」
コツン、と頭を足先で小突かれて、アッシュはのろのろと目を開いた。
「起きてるよ、ユーリス……ッ」
「そんならさっさと支度しとけよ」
口答えが気に障ったのか、ユーリスは靴の裏でアッシュの頭を軽く踏む。軽く、といっても、アッシュは起こしかけた体をもう一度床に敷かれた薄い毛布に縫い付けられてしまった。やめてよ、と言いたかった口は閉じ、今度こそ体を起こす。まだ回復しきっていない腕が痺れたが、さっさと寝床の始末をする。
「今日は俺らが朝飯の当番だ、行くぜ」
「……」
ユーリスはアッシュの首に付けられた首輪―――かつて灰狼学級の制服に付属していたものだ―――に結んだ縄を掴むと、まるで罪人を引っ立てていく看守か処刑人のように歩き出す。実際、その通りなのだ。一度はローベ家に仕える身となり、ベレト率いる同盟軍に敵対したアッシュは、先の戦場で何人かに弓を射かけ負傷させている。無論、自身の信念に従って行動した結果であり、後悔はない。……はず、だった。
『何が信念だ、この大馬鹿野郎……!!』
苦し気なあの言葉が耳から離れない。アッシュのことを文字通りぶん殴って目を覚まさせてくれたユーリスの手によって、今は捕虜のような形でこのガルグ=マク大修道院の地下、アビスに身を寄せている。ベレトは『かつての同級生なのだから、……』とユーリスを諫めたが、兵士たちの目を考えると暫くはアビスにいた方が安全だろう。ベレトを信頼して味方に付いた、なんて、事情も知らない周囲には、そう簡単に信頼されるはずがなかったのだ。
もちろん陰口を叩いたり、時には大っぴらに唾を吐きかけてきたりする兵もいる。お前の矢で、お前の仲間のせいで……そんな言葉も聞いた。アッシュには返す言葉もない。謝罪に意味などないからだ。行動で、戦いで、自分は同盟軍の味方になったのだと示すことしかできない。しかしそんな時、ユーリスは相手の兵を切れ長の目でジロッと睨み、「うるせーな」と一喝する。
「こいつが磨いた武器を使って、こいつの作った飯を食ってる間は文句言うんじゃねえよ。それに、アッシュは今、俺様が直々に躾してんだ。言いたいことがあるなら直接俺に言いな」
ガン、と食堂の椅子を蹴倒してそう啖呵を切った時は、その迫力に周囲が一瞬にして静まり返ったものだ。
「お前、躾ってなあ……」
「いくら平民の出とはいっても、犬ではありませんのよ」
「そうだよ。その縄もそろそろ外してあげれば~?」
「あ~うるせえうるせえ。全員うるせえ」
灰狼学級のメンツにそうフォローされても、ユーリスはどこ吹く風だ。結局アッシュはその時も縄を引っ張られて食堂を出ると、瓦礫拾いの手伝いに駆り出されていった。殴られた顔の腫れも引かぬうちからそんな風にユーリスに引き回され、こき使われているアッシュを見ているうちに、憐みをもち始めたり少しずつ敵対心を失くしたりしている者も現れているらしい。
「元気か、アッシュ」
「はい。ユーリスの魔法を喰らった腕はまだ痺れてますけど……」
アッシュがユーリスの部屋に繋がれてから二週間あまりが経った。ベレトがアビスを訪れた時、ユーリスはちょうど部屋にはいなかった。まだ傷が癒えずろくに動けなかった頃から、アッシュの首には縄が括りつけられてその辺に結ばれていたのだが、最近は自由にされている。それでも、アッシュはいつも大人しくユーリスの部屋で本を読んだり、武具の手入れなんかをしたりして彼の帰りを待っていた。
「なにかあったらすぐに言ってくれ。次の戦場では君の力を借りたい」
「僕も連れて行ってくれるんですか? ありがとうございます、頑張ります!」
「ああ。戦果を上げれば、ここから連れ出しやすくなるしな……もう自分の部屋は見たのか?」
「僕の部屋……ですか?」
「この前、ユーリスが掃除させていたが」
えっ。と、アッシュは動けなくなってしまった。自分の部屋が残っていることにも驚いたが、ユーリスが掃除をさせていた、ということが衝撃だったのだ。掃除くらい自分でするのに。いや、そういうことではない。部屋を使わせてくれるつもりがあるということは、つまり……
ベレトは、はやく上に来られると良いな、と言って去って行った。違うんです先生。僕は、別に……言いたかったことはうまく言葉にならず、アビスの汚れた床に落ちただけ。ガルグ=マクの地下は水漏れがして、虫が這いずり、ネズミの糞が落ちている。そんな床に敷くためにアッシュに渡された毛布はいやに清潔だった。
「ローベ家を切ったとはいえ、お前はまだ捕虜みてえなもんだ。捕虜らしく、床で寝てな」
ユーリスは冷たくそう言って笑ったが、同じ部屋で休む彼はいつもベッドを半分空けて眠っている。それがどういう意味なのか、アッシュは図りかねていた。
(いつかそこに、潜り込めたらいい)
「おいアッシュ、はやくしろ。あ~あ、今朝は何を作ってやるかな……」
「ユーリス、ちょっと苦しいよ」
縄を引かれ、アッシュはよろめいた。地上への階段を上りながら、ユーリスはニヤと笑って振り返る。
「アッシュ、今日もいい子にしてろよ。そうしたら、いいもんやるぜ」
楽し気な笑顔に、アッシュは目を瞬かせてユーリスを見上げた。地上への出口はすぐそこだ。光が漏れて、ユーリスの髪を照らしている。
「いいものって?」
「秘密」
(ああ、それなら)
眩しそうに目を眇め、アッシュは足を止めてしまいそうになる。
(君と、ずっと一緒にいさせてほしいのに)
「マジで急げよ、時間がねえ」
ぐい、と首引かれて、アッシュはケホ、と噎せた。言いたいことはまた地下に吸い込まれて、全部消えて行ってしまう。ユーリスの背を追いかけて、アッシュは朝日の照らし出す地上へと歩いていった。