地面から陽炎が立ち上り、景色を歪めて見せている。ゆらゆら、ゆらゆら、……ぽたり、汗が流れ落ち、顎を伝って地面に落ちた。ジュッと、音を立てて蒸発してしまいそうだ。
「やってみろ、」
アッシュは陽炎のその先にいる人物を真っ直ぐに見据えて弓を引き絞った。
「僕はもう、あの頃の僕じゃない……弱い自分を、変えるんだ!」
矢を放つ瞬間、手が震えそうだった。相手の紫色の美しい髪が真っ赤なマグマの光に反射して、熱風にマントが翻る。ああ、楽に避けられてしまった。新しい矢をつがえて、すぐに構える。キッとアッシュを睨みつけたままだった彼が、部下たちに向かって剣でクイと指示を出した。まずい。そう思う間もなく、彼の、ユーリス=ルクレールの部下たちが怒号を上げて武器を構え、突撃してくる。アッシュの周囲にいたローベ家の騎士団はすっかり引き付けられて、アッシュはいよいよユーリスと二人きりで対面した。
吐く息も、吸い込む空気も熱くてたまらなかった。やらなくちゃ、と思うのに、剣を片手にこちらへ近づいてくるユーリスを見ていると指が痺れたように動かなくなる。もっと強く弓を引け!しっかり狙いをつけて、頭か心臓を射抜くんだ!!頭の中で自分にそう命令しても上手くいかない。暑いせいだ。それに、アッシュを睨みつけるユーリスの目があまりにも美しくて、つい、ずっと彼を見つめていたくなってしまう。ヒュッ、とそれでもアッシュの手元から放たれた矢は、今度はユーリスの剣に弾かれてしまった。
それを合図に、ユーリスは駆け出した。間合いを詰められたらお終いだ。斬り伏せられ、アッシュの体は灼熱の地面に焼かれてもがき、息絶えるだろう。黒焦げになった自分の姿が脳裏に過ぎり、アッシュは慌てて矢をつがえる。狙いをつけようとして、けれども、間に合わなかった。ユーリスの俊敏さを甘く見すぎていたのだ。
「っの、大馬鹿野郎、がっ!!!」
アッシュの懐に飛び込んできたユーリスはアッシュの弓を鋼の剣で叩き落すと、自らも剣を地面に投げ捨てて拳を握った。胸倉を掴まれた、と思ったのは一瞬だった。左頬に強い衝撃を受けて、アッシュはよろめく。目から星が出そうなほど強烈な一撃だった。続けて、もう一発。斜め下から顎をえぐるように繰り出されたユーリスの拳に吹っ飛ばされて、アッシュは地面に尻もちをついた。そこが焼けた岩の地帯でなかったのは本当に幸いだ。まだ、生きている。立ち上がって、自分の信念のために戦わなくちゃ。自分にそう命令するのに、やっぱり上手くいかない。それもこれも、全部相手が彼だからだ。
アッシュはユーリスが自分に馬乗りになる気配を感じ、呻いて体を起こした。頭がぐらぐらする。だが、体を起こしたと思ったのは自分だけだったようだ。すでにユーリスはアッシュの体に跨って、もう一度胸倉を掴むと彼の上半身を引き起こす。
「このまま死ぬつもりか、おい!」
パンッ
今度は先ほどよりも乾いた音がアッシュの鼓膜に響いた。
「本気で、あんな、ローベ家なんかと心中するつもりかよ!」
パンッ
容赦なく、もう一発。平手でぶたれると、アッシュはじわっと目に痛みが広がるのを感じた。やめて、と言いたくなった。いつだったか、遠い昔、盗みを咎められて店主に折檻された記憶が蘇って、悲しい。
「ッ……だって、仕方がないじゃないか……!」
口の中には血の味が広がっていた。頬が熱い。陽炎がゆらゆらと立ち上って、戦場を幻かなにかのように歪めて見せている。けれど、すぐ目の前に広がっているユーリスの顔は、はっきりと見える。それの事実が、たまらなくアッシュの胸を抉った。
「僕は……僕は、もう、自分の信念以外の何を信じたらいいのか……!」
「甘えんじゃねえ!!」
パンッ!
最後に一発、一等強く殴ってから、ユーリスはアッシュの胸倉を乱暴に突き放した。地面に後頭部を打ち付けて、アッシュはどうやら死がすぐ近くにあることを悟る。
「お前の信念は、そんなところにはねえはずだろ……!根性、叩き直してやる……!!」
ユーリスが何かを取り出している気配。短剣か何かだろうか。反撃しないと、ここで殺されてしまう。それは、嫌だ。アッシュはどうしてか、金鹿の学級でユーリスと二人、草むしりをやらされた時のことを思い出していた。あるいは、二人で温室の水やりをしたこと。料理当番で、みんなから作った料理を絶賛されたこと。上空警備でユーリスが空中から落ちかけて一緒に慌てふためいたこと。これが走馬灯という奴か。武器を手繰り寄せようと伸ばした腕を捻じ曲げられて、アッシュは体を強張らせる。
「あうっ……!」
そのままうつ伏せにひっくり返されて、熱い地面に体を押し付けられた。後ろ手に両腕を押さえつけられて、どうやら身動きが取れなくなった。
「死にたくないなら大人しくしてろ!」
「あっ……!な、なにを……!」
強盗のような口ぶりだ。取り出した縄で手早く縛り上げてしまうと、ユーリスはまるで羊かなにかを扱う肉屋のような仕草でアッシュの体を引きずっていく。
「おい、こいつを連れて一先ず下がれ……先生に会わせるまで、他の奴には指一本触れさせるなよ」
部下の一人にアッシュを引き渡すと、ユーリスは敵の本陣の方へと走り出した。
「ま、待って、ユーリス!」
アッシュの言葉に、ユーリスは振り返らない。グエンダルは今頃誰と対峙しているだろう。クロードか、それとも先生か。アッシュはじわじわと胸に広がる後悔に身を焼かれる気分だった。ゆらゆら、ユーリスの背が陽炎の向こうへ消えていく。後ろ手に縛り上げられた腕を嫌というほど強く引っ立てられて、アッシュはぼやけた視界の中に一筋の光を見ていた。