レンとノヴァ
五月の窓際は水の匂いがした。澄んだ夜風がカーテンを揺らす、三階のレストランは居心地が良い。
「ありがとう、レンくん。一緒に来てくれて」
「……ああ。こちらこそ」
レンが警戒したよりは、カジュアルな雰囲気の店だった。建物はかなり年季が入っているが、よく手入れされた古き良きレストラン。魚のライトコースを頼み、窓の外を眺めた。暗い視界に運河の向こう側の街灯りと、それを映し込んだ水面が静かに揺れている。
レンがノヴァからレストランへの誘いを受けたのは、数日前の夜のことだった。
「ノヴァが呼んでる」
そろそろ寝ようとカップを洗いにリビングへ出たら、マリオンに会って、そう聞かされた。
「今か?」
「さっき、夕食の時に聞いた。急ぎじゃないって言ってたけど、……早めに行ってやってほしい」
マリオンの顔には、心配とも苦渋ともつかない微妙な表情が浮かんでいた。レンは訝しみながら、濯いだコップを乾燥棚に伏せた。
「なら、行ってくる」
「ボクはもう寝るからな。迷ったらノヴァに連絡しろ」
マリオンはすぐに踵を返した。けれど、その直前に見えた顔にはやはり心配の方が強いような気がして、レンは何も言わずに部屋を出た。迷わずに辿り着けたけれど、安心よりもむしろ、あまりにもすぐにノヴァと会うことになってしまったことに戸惑った。
「ノヴァ博士。いるか?」
軽くノックをすると、扉の中でバタバタと物音がして、ノヴァはすぐに顔を出した。
「レンくん! 来てくれたんだね、遅くにありがとう」
「いや……」
マリオンが心配そうだったから、とは、言わなかった。
「何かあったのか」
「あのね、おれの好きなレストランがあるんだけど、そこが今月で閉店しちゃうんだって。それで、よければ、レンくんと一緒に行きたいなと思って」
ノヴァは、折り畳まれた形跡のある紙を見ていた。覗き込むと、ブルーノースの住所が書かれている。それがどの辺りなのか、レンには見当もつかなかったけれど、見当のつかないことは場所のほかにもあった。
「それは……なぜ、俺なんだ」
「ここ、シオンさんとたまに行ったお店なんだ。だから、もし、レンくんがよかったら……」
それで、レンはやっと、ノヴァが遠回しな誘いをかけた意味や、それを受けたマリオンの表情の意味を理解した。思わぬことに驚きながら、レンは自分のなかに、素直に行きたいと思う気持ちを抱いていた。
けれど、それをどう言葉にしていいのかわからず、レンはうなずいた。そんなそぶりは見せていなかったのに、どこか緊張していた空気がゆるむ。ノヴァは、すぐにスケジュールを参照した。閉店まではもう日が無く、翌週にどうにか一日、夜の時間を確保した。お店には明日電話しておくね、と、ノヴァは嬉しそうだった。それが普段見るノヴァの姿とは少し違う気がして、レンは言葉少なにまたうなずいた。
そこが、以前聞いた、シオンが窓から飛び降りて強盗を捕まえたレストランだと言聞いて、レンは思わず啞然とした。そりゃあ、記憶に残る場所だし、無くなるとなれば何だか寂しい。れんが造りのビルは三階建てとはいえども当たり前に高く、レンは数年越しに、姉の行動に呆れた。同時に、失ってからの姉にそんな新鮮な感情を持ったことは無かったと気付いて、ノヴァが自分を誘ってくれたことに、この時心から感謝した。
「美味しいよね、魚のポワレ。シオンさんもそれが好きだったんだよ」
「そうか」
「見ての通りだけど、古い建物だから、取り壊しになっちゃうんだって。あの浸水の後の調査で決まったみたい」
「……そうか」
下の階にあったらしい家具屋とカフェはもう撤退してしまって、シオンの雄姿を想像するにはもう少し遅かった。それでも、ノヴァが生き生きとそのことを話すから、レンの目の前にもその姿があるかのようだった。窓から階下の騒ぎを聞きつけ、テラス席になった一階の、青い縞模様のオーニングに飛び降りて。家具をなぎ倒してひったくり犯を捕まえた彼女を、この窓から身を乗り出して見ていた、ノヴァの様子まで目に浮かぶ。
料理は丁寧な仕事が感じられて、美味しかった。店の温かい雰囲気と、向かいのひとの温かい目線が心地よかった。ノヴァは珍しく、ワインを飲んでいた。
「今日はもう、仕事はおしまいにしてきたから」
細かい泡の浮いた透明なアルコールを、ノヴァがほんの少しずつ口に含んで味わう様子から、レンは目を離せずにいた。
ノヴァが会計をしながら店に感謝を告げているのを待たずに、レンはビルを出た。通りは静かだった。運河の柵に背を預けると、灯りはレストランのほか、見渡してもぽつりぽつりとしか灯っていない。浸水の被害が大きかったのだ。いまは穏やかな水面を覗く。やや涼しい空気が顔面を撫で上げる。
「ごめん、お待たせ」
「いや。ご馳走さまでした」
ノヴァが階段を下りてきて、声を掛けながらレンの隣に立った。ノヴァが奢ると言うのに、レンは大人しく従った。
「ずいぶんさびしくなっちゃったねぇ、この通りも。まあ、再開発が進められるみたいだけど」
「何ができるのか、決まっているのか」
「いや、それは分からない。でも、地域的にリスクがあるわけじゃないし、綺麗になればテナントも集まるんじゃないかな」
でも、レストランは店仕舞いをしてしまうそうだ。先程ノヴァが話していた店主とみられる男性は、ずいぶん高齢のように見えた。良い機会、ということなんだろう。
ノヴァが、運河沿いを歩き始めた。レンもそれについていく。方向感覚はちっとも無いが、通りの先はやはり閑散としており、逆に向こう岸には光が増えた。繁華街にほど近く、悪くない土地であることは確かだ。
姉さんも、こんなふうに博士と歩いたんだろうか。あの日は交番に行く羽目になったと聞いたけれど、もちろん、普通に食事をした日もあっただろう。就職してから、シオンは帰らない日も増えた。仕事が忙しいのだと聞いていたけれど、いまになって思えば、それだけではなかったに違いない。目の前の背中を追うのに、急にすわりが悪くなって、レンは気持ち歩調を緩めた。
「レンくん?」
けれど、すぐに気付かれてしまう。敏いひとだ。レンが立ち止まって運河を向くと、ノヴァは戻って来て、その隣で柵に凭れた。
「……姉さんとも、こうやって歩いたのか」
「たまには、そんな日もあったねぇ。あんまり、のんびり散歩するような感じのひとじゃなかったけど……」
「そうだな……」
でも、たまにはこうしてのんびり歩くようなこともあったんだ。レンも、無為に時間を過ごすのが得意なたちではない。それでもいま、こうして目的もなく足を進めたのは、きっと、この時間を終わらせたくないからだ。シオンの存在を感じながら、ノヴァとそれを共有する時間を。まだ、姉さんのいない日常に、戻りたくないから。
隣にいるノヴァも、同じことを考えているんじゃないかと、思った。言わなくても、見なくても、シオンの不在こそがそれを感じさせると、思った。レンは、胸の内が絞られるような感覚を覚えた。心がせつなくて、それでいて、どきどきしている。
レンは、静かに息を吐いて、右に一歩、ノヴァに近づいた。そして、少し高い位置にある肩に、自分の頭を乗せた。
「レンくん?」
ノヴァに声をかけられると、かあっと顔が熱くなる。いますぐ飛び退いて、なんでもないと言ってしまいたい。けれど、そうはせず、そのままでいる。右のこめかみと頬、それから自然と触れ合った右腕にノヴァの左腕が、じんわりとあたたかさを伝えてくる。その温度が心地よくて、レンは、ノヴァの方に額を擦り付けた。
「……」
次ぐ言葉のないノヴァに、いよいよ恥が勝ちそうになると、不意に髪を梳かれる感触がした。驚いて身体をびくつかせてしまう。それは見るまでもなくノヴァの右手で、遠慮がちに数度髪と戯れたあと、こんどはしっかりと意思を持って後頭部を撫でた。その手のひらは少し、冷たい。
レンはその手つきに、また心がぎゅっとするのを感じて、せり上がる想いを口に出した。
「まだ、帰りたくない」
その瞬間、抱き込まれていた。レンの頭を左肩に置いたまま、ノヴァは身体をレンの方に向けて、両腕のなかに閉じ込めた。
ノヴァを見て感じる想いを、肯定されたかのようだ。レンは拘束されていない肘の下で、ノヴァの身体に縋り付いた。ノヴァが長く溜息を漏らすのが聞こえる。
「はぁぁ~……どうしよう……」
ノヴァが、自身の欲求と大人の面目の間に揺れているのが、わかる。どんなときにも理知的なひとであることを、レンもよく知っている。けれど、ここでみすみす逃すのは、レンはもちろんノヴァにとっても惜しいことであるはずだ。レンにももう、弟の図太さが顔を出してしまっていた。
「ノヴァ博士」
「うん、いやあ、そうしたいのはもちろん、やまやまだけど」
「嫌だ、俺は、もっと……アンタと、姉さんといたい」
「……」
俺が姉さんなら返さないだろ、とは、さすがに言わなかった。
ノヴァはしばらくうなったり天を仰いだりを繰り返していたけれど、その間もレンを離すことはなく、いよいよ心を決めたらしかった。ノヴァは身じろぎをして、スマートフォンを取り出した。
「ジャックと、一応ヴィクにも、連絡するね。……そのへんのビジネスホテルとかで、いい?」
久方ぶりに合わせた顔が、なんだか知らない表情で、レンは一も二もなくうなずいた。ノヴァが電話をかける間、普段通りを装った声音に現実が蘇りそうな気がしたから、身体は離したけれど、レンはその左手を握ったままでいた。冷たかった手のひらは、いつしかレンの体温に馴染んで溶け合うかのようだった。