マリオネットの秋空 輪郭を掴めない穏やかな夢が、少しずつその彩りを光の中に滲ませていって、おぼろげな風景が知らぬ間に部屋の景色へと変わっていく。目を開けたという自覚もないまま、俺はベッドの中で無機質な天井を眺めていた。
瞼を優しく下ろそうとする眠気の誘惑に抗って、理性を叱咤し上体を起こす。枕元の時計は五時過ぎを指しているが、この明るさはどう考えてたって午前五時でも午後五時でもない。早朝トレーニングに勇んで目覚ましを仕掛け、意識の無いうちに壊したらしい、数日前そのままの時計だ。スマートフォンを確認すると、ピントのずれた野良猫の後ろ姿の上に、九時三十分の表示がある。
今日は数週ぶりの一日オフ。ガストは普段通りに出勤したようだったが、一人で起きたのにこの時間ならば上々だ。ひとまずは顔を洗いに部屋を出る。今日こそは部屋でゆっくりと猫短編集を読み進めたい。百冊セットの文庫の山は手付かずの巻数をまだまだ残し、難攻不落の様相で部屋の片隅に聳え立っている。そのうずたかい活字の中に潜む数多の猫たちにこれから出会えると思うと、そこに山があるから登るのだと宣う登山家の気持ちにも頷けるものだ。心ゆくまで物語の山道を攻略したら、それから少しトレーニングをして、明日も早く起きられるよう早く寝よう。洗面の傍ら頭の中で一日の算段を立て、タオルを片手に部屋へ戻ろうとすると、リビングでどこからか帰ってきたらしいマリオンと鉢合わせた。
「オマエ、今頃起きたのか」
「……ああ」
マリオンも今日はオフらしい。外出でもしたのだろうか、呆れたように髪を搔き上げる腕は長袖に覆われている。
思えば、急に涼しくなった。制服はいよいよ長袖シャツを出したところだが、前回のオフにはまだ冷房の効いた屋内を探し求めるような陽気だった気がする。秋物の私服を出そうとクローゼットを漁ってみるけれど、ろくなものが出てこない。寝間着に丁度よさげな無地のカットソーが数枚と、アカデミー時代から履き古したジーンズ。果たしてこれしか無かっただろうか。ジャックを呼んで尋ねてみたが、個人の衣服を室外に持ち出したままにするようなことはないと言う。ひとまずは一番マシそうな紺色を着て、下は夏のままのズボンを履いた。風通しの良いチノパンツの足首が、上半身の温もりとの違和感を肌に訴えている。
まあ、今日は一日部屋の中で過ごすだけだ。そうでなくても服装なんてどうだっていい。リビングに出ると、ジャックと話していたマリオンがこちらを見咎め、途端に眉根に皺を寄せた。
「レン、オマエはどこの中学生だ」
「……」
「ジャックに聞いたけど、本当にろくな服を持っていないんだな。市民に見られる立場なんだから、身だしなみにも気を遣え。分かった?」
「……善処する」
「ハァ……」
マリオンは立ち上がり、改めて俺の全身を上から下まで眺める。そうやってじっくり検分でもされるように見られると流石にきまりが悪い。すると何を思ったか、マリオンはくるりと背を向けて自室へ入ると、すぐさま戻って薄手の上着を俺に渡した。
「今から出かける。それを着て、一分以内に支度をしろ」
「……は?」
そう言い残して、自分はさっさと部屋に引っ込んでしまう。俺はその場に固まったままで、ただ茫然とマリオンのものらしい上着を携えているよりほか無かった。
出かけるって、俺とマリオンがか? 予定も訊かずに、冗談じゃない。
そう反抗的なことを考えてみたって、扉の向こうから物音が聞こえれば突っ立っていることもままならず、仕方なく生成色のカーディガンに袖を通す。デスクの脇に全集が悲しく沈黙しているのを横目に、俺は鞄を引っ掴んでマリオンの待つリビングへと急いだ。
⁂
連行されるようにして訪れたショッピングモール、言われるがままに服を当てられ試着をさせられ、口も出せない俺はさながらマリオンのお人形化した。俺の服だというのに、文句をつけながら次々と決定していって、両手に提げた紙袋の中身はきっと夏服の総数よりも多い。
慣れない場所で慣れないことをさせられるのは、職務なんかよりもよっぽど疲弊する。少し遅めの昼食に入ったカフェテリアの店先のテラスで、俺が大量の荷物を整理する間に、マリオンがサンドウィッチとコーヒーを買ってきてくれた。注文の希望すら訊かれなかったけれど、俺の分にはエビとアボカドが挟まっている。
「それで少しはマシになるだろ。組み合わせは店員さんにも教えてもらったし、分かったな?」
「ああ」
「休日だろうと、ブルーノースの担当だという自覚を持てよ。ちゃんとした格好をすればそれなりに見えるんだから」
「……」
マリオンはひとしきり言いたいことを言い終えたらしく、ようやく自分のサンドウィッチを食べ始める。思えば今日、マリオンは自分のことには全く無頓着で、俺のことばかり気を掛けてここまで来た。俺と同じかそれ以上に少ない丸一日のオフだろうに、俺の服ばかりを見繕って、食事まで俺の分も買ってきてくれている(まあ、それはどちらかと言えば俺の意見など聞くまでもないという考えのように思えるが)。マリオンの休日の過ごし方なんて知るよしもないけれど、間違ったって暇を持て余すような人ではないし、意味もなく他人にかまけるような人でもない。それくらいのことは、分かっている。
「なあ、マリオン」
「何?」
「その……ありがとう。俺のために、こう、してくれて……」
だから、そう告げた。ぎこちなくなってはしまったけれど。マリオンが今日という日を俺のために使ってくれたことを、分かっていると、そしてそれを俺は嬉しく思っていると、そう伝えたくて。
そう伝えたかったのだけれど、果たして伝わったんだろうか。中途半端に切った言葉が着地点を見失い、カップから立ち昇る湯気と一緒に漂うあいだ、マリオンは口の中のものを咀嚼しながらその間俺の方を見つめていて、それが俺には妙に長い時間に感じられたが、ゆっくりと飲み込むと何とも言えない表情で口を開いた。
「……オマエは本当に、どうしようもないヤツだな」
秋さきを過ぎて広葉樹は染まり、赤や黄色の強いところは日当たりが良いのだろうと眺めてみれば、もう存外日中の陽も低いことに気付かされる。往来に面したテラスは中秋のひんやりとした空気に澄んで、午後の日差しを美しく透かした、木漏れ日のモザイク模様に彩られていた。コーヒーカップの温かさが冷えた手にじんと沁みる。
エレメンタリーの鞄を提げた子どもたちの一群が、いま目の前を駆け抜けていった。視界の隅にマリオンの横顔が、子どもたちの方を追ってそっと綻びるのを、俺は見た。
『レンは本当に、どうしようもない子ね』
そんな声が思い出された。
そうだ、俺は知っている。どうしようもないと放つ瞳の、その底なしの愛情を。自分勝手に掴んで進む、その手のひらのあたたかさを。
風が吹いて、乾いたレンガ敷きの上を落葉が転がる音がした。やわらかい日差しを浴びながら、カーディガンの裾がひらめいて踊る。
マリオネットの秋空 Fin.