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    suzuro

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    suzuro

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    🌻夢。やさぐれパ…活女子と日車さんのお話。軽度のdv描写があります。

    目隠しの神様 薄っぺらい味のジュースが好きだ。不自然な色で体に悪そうなものがいっぱい入ってそうな飲み物をコンビニで買うのが最近の楽しみだ。
     今日はいちご。果汁なんてほとんど入っていないのになぜかいちごの味(そもそもいちごの味ってなんだろう?)がする不思議なジュースを飽きずに飲んでいる。彼氏にはガキみたいなもん飲んで無駄遣いするなと怒られたので隠れてこっそりと。ひと仕事の前の一杯くらいは贅沢しても許されると思う。
     今から会うおじさん、馴れ馴れしいんだよなあ。何か初回からやたらがっついてくるし。様子見てやばそうだったらお金だけもらって切ろう。そう思いながらいちごジュースのパックを棚から取る。レジで会計を済ませ商品とお釣りを受け取りながら小さくため息をついた。
     ……あの人、さっきから何してるんだろ。
     会計の間、斜め前のコーヒーマシンの前でじっと立っているスーツのおじさんが気になって仕方がなかった。おじさんはぴくりとも動かずにひたすらマシンを見つめている。もしかしてコンビニコーヒーの買い方分かってないのかな。
    「そこで待ってても何も出てこないですよ」
     すれ違い様にそう声をかけるとおじさんは驚いたようにこちらを振り向いた。三十代くらいだろうか。目はぎょろっとしていて鼻が高く、オールバックにしているけど幾筋か前髪が額に垂れている。なんか真っ黒で死神みたい。正直怖い。声をかけてしまったことを少し後悔する。
    「レジで先に支払いしてカップをもらうんです。それをここにセットしてボタンを押す」
     恐る恐るそう説明すると、おじさんはああ、とため息に近い驚きの声を漏らす。なお表情はほぼ変わらない。
    「ありがとう」
     地を這うような低い声でぼそりとお礼を言われてほっとするよりも怖さが勝ってしまう。いえ、とだけ返してそそくさとコンビニを出た。おじさんが何か言いたげにしていたけれど振り返る余裕はなかった。


     この世の何もかもがつまらない、くだらない。そう思いながらいちごジュースの紙パックをつぶす。深夜のコンビニのイートインコーナーに座っているのは私だけだ。ガラス越しに見える夜空は濃いあずき色をしている。
     今日会ったおじさん……パパは最悪だった。食事だけの約束だったのにやたら私をホテルに誘いたがった。愛想笑いを貼り付けて適当にあしらいながら逃げるように別れてきたものの、肝心のお金をもらいそびれてしまった。彼氏、機嫌悪くなるだろうな。
     情けない気分で相手の連絡先をブロックし、ぺちゃんこの紙パックを手に立ちあがろうとすると隣に誰かが座ってきた。あ、と思わず声が漏れる。この前のコーヒーのおじさんだ。
    「こないだはどうも」
     相変わらず無表情のままぼそぼそと喋る人だなと思う。手にはコーヒーの入ったカップ。今回はちゃんと買えたみたいだ。
    「お陰で恥をかかずに済んだ。教えてくれてありがとう」
     いえ、そんな別に。つられて私までぼそぼそ喋ってしまう。あんな大したことない親切にわざわざお礼を言われたことが無性にたまらなくて、目の奥がつんとした。今日みたいな最悪な出来事の後だったせいだ、きっと。
     急に涙目になった私を見てもおじさんは動じなかった。何かを察したのかスーツのポケットから名刺ケースを取り出し、中の一枚を目の前に突き出す。勢いで思わず受け取ってしまった。白いそっけない紙には日車寛見という文字が印刷されている。
    「ひ、くるま?」
    「ひぐるまだ。ひぐるまひろみ」
     ひぐるま、ひろみ。口の中でその名前を繰り返す。弁護士なんだ。こんなに陰気そうなのに。
    「礼という訳ではないが、もし気になる事があれば事務所に連絡してきなさい。……あとこんな時間に子供が一人で居るのは良くない」
     こども⁉︎思わずおじさん……日車さんの顔をまじまじと見てしまう。そりゃ私は童顔な方だけどそれはあんまりじゃないの。
    「私、二十一だけど」
     動揺のあまりタメ口で返してしまったが日車さんは気にも留めず、子供とそう変わらないだろうと呟く。この人からしたら二十一歳も子供扱いなんだと軽く衝撃を受ける。日車さんは冷めかかっているであろうコーヒーをぐいと一気に飲み干すと椅子から立ち上がった。
    「とにかく早く帰るんだぞ」
     コーヒーカップをダストボックスに捨てて立ち去ろうとするのを慌てて呼び止める。あの。
    「あたし……私、大体夕方にここに買い物しに来るの。だから、」
     日車さんはじっと私の目を見つめると軽く頷く。そしてくるりと背を向けてコンビニを出て行ったのだった。


     その日から日車さんとは時々コンビニのイートインコーナーで会うようになった。勿論約束なんてない、どちらともなく偶然に任せた待ち合わせ。
    「そのジュース好きなのか。いつも飲んでるが」
    「まあね。日車さんこそコーヒーとか栄養ドリンクばっかりじゃん」
    「そう言えばそうだな」
     他愛のない会話。私が体に悪そうなジュースを飲んでいても何も文句を言われないし面倒臭いお説教もされない。見た目のイメージと違って日車さんと喋るのは楽だった。そもそも人と話したり弁護するのが仕事だから当然なんだろうけど。
     一度面白半分でひろみちゃん、と呼んでみたら困ったような顔でその呼び方はやめてくれないかと言われた。えー可愛いのに、と言いながらこの人いちいち反応が面白いなと思った。私が知っているおじさん達とは全然違う。
     私の服装や雰囲気、話す内容からどうやってお金を稼いでいるのか日車さんは薄々気付いているようだった。でもそのことに触れられはしないまま会う回数だけが重なっていった。

     
    「……なんかあったの?」
     何度目の待ち合わせの時だっただろう。日車さんがひどく疲れ切った様子で久しぶりにコンビニに現れた時、思わずそう声をかけてしまった。いつもくたびれた感じだけどその日は特に表情が暗かった。いつも着ているスーツはよれよれでネクタイも珍しく緩めている。
     私がまじまじと見つめてしまったからだろうか。いつもの事だと言い日車さんはネクタイを締め直す。普通のおじさんなのに妙にその仕草が色っぽくて目が離せなかった。思わずこの人を少しからかってみたくなる。ちょうど昨日「ハズレ」のパパに当たって苛立っていたせいもあったけれど。
    「慰めてあげようか?」
     いつも他の男の人にするみたいに上目遣いで腕にそっとしがみつく。目立たないようにさりげなく。するとたちまち日車さんの眉間に深いしわができた。やんわりと体をはがされる。
    「俺は君の客じゃない」
     ……俺? その顔とキャラで俺? 拒絶されたことも忘れて思わず吹き出してしまった。
    「何がおかしい」
    「ふふ、俺だって。なんか全然俺って感じじゃないじゃん。私って言うなら分かるけど、違うんだ、ふふっ」
    「……箸が転んでもおかしい年頃か」
    「はし……何?」
     いや何でもない、と日車さんは少し恥ずかしそうに口ごもった。
    「とにかくもうこんな真似はやめた方がいい。いつかろくでもない事件に巻き込まれるぞ」
     初めて立ち入ったことに触れられてがっかりしたようなほっとしたような気分になる。
    「今さらお説教? いいよ別に。どうでもいい」
    「彼氏に知られたらまずいんじゃないのか」
     彼氏。かまをかけられたことに苛立ちながら投げやりに返す。
    「その彼氏がやれって言ってるの。でも絶対やらせるな、金だけ巻き上げろって。稼いでくるまで家に帰って来るなって。笑っちゃうよね」
     日車さんの顔がますます険しくなる。なんだか怒られているみたいで私は早くこの話を終わらせたかった。
    「でも別に平気。あたしバカだからさ」
     いつもするみたいにへらへらと笑ってみせると日車さんは険しい表情を崩さず言った。
    「馬鹿じゃない」
    「は?」
    「君は馬鹿なんかじゃない」 
     日車さんは繰り返した。
    「もしそうだとしても今まで教育を受けたり教養を身に付ける機会に恵まれなかっただけの事だ。君はまだ若い。これから色々覚えていけばいい」
     こんな風に言われるのは初めてのことで言葉が返せない。
    「あと君が彼氏から受けているのはDVだ。相談窓口の連絡先を教えるからここで専門家に事情を話した方がいい。できれば家を離れて一時保護してもらうのがベストだが」
     DV? 私が? ドラマの中でしか聞いたことのないショックな言葉が心の中で鳴り響く。
    「えっ、でも今の彼氏に殴られたりとかしたことないよ? 大体DVって結婚してる人のやつでしょ?」
    「相手と住居を共にしていればDVとして認められるんだ。それに暴力を振るわれなくても暴言や行動の制限、経済的な支配もDVに含まれる。……財布にちゃんとお金は入っているのか」
     お金は全部彼氏が預かってるから小銭くらいしか持ってない。正直にそう答えると日車さんはため息をついた。
    「腹は減ってないか」
    「え、……まあ、わりと」
    「あまりここで長話をすると迷惑だから一旦出よう。話は何かつまみながら聞く」


     日車さんが連れて行ってくれたのは小ぢんまりとした雰囲気の小料理屋だった。いつもパパ達に連れて行ってもらう高そうなお店とは違うけれど何か落ち着くな、と思った。
    「……おいしい」
     運ばれてきた温かいおでんを口にして思わず本音が漏れてしまう。強張っていた気持ちが少しずつほどけていく。
    「今の時期には丁度良いだろう。ここの一品は何でも美味い。まあ酒は程々にしておくように」
     私のグラスにビールを注ぎながら日車さんが言う。それからお酒の勢いもあったけれど、まるで吐き出すように彼に色んなことを打ち明けた。いわゆるパパ活のこと。同棲している彼氏のこと。お金のこと。私の下手くそな説明もきちんと最後まで聞いてくれて足りない所を補ってくれる。こんなことは初めてだった。
    「その、パパ活自体はいつから始めたんだ?」
    「……二ヶ月位前かな」
    「まだ日が浅いのは幸いだな……今からでも止めた方がいい。それが彼氏の意向なら尚更だ。前にも言ったがその内厄介事に巻き込まれる。最近そういった案件が増えているんだ」
    「でも……」
     情けなさで泣きそうになって黙り込んだ私を日車さんはそれ以上追及しなかった。
    「前に名刺を渡しただろう。公的機関に相談するのに抵抗があるならまず俺の所に連絡するといい」
     そう言ってビールのグラスを傾ける。
    「弁護士ってこういう仕事も受けるんだね」
    「まあな。相談は早い程良いが当の本人は中々事態の深刻さに気付きにくい。第三者が如何にすぐ介入できるかにかかっているが結局タイミングというか運次第……神頼みに近い所もある」
     弁護士が神頼みって。思わず気が抜けてしまう。
    「日車さん、神様とか信じてるわけ?」
    「信じてたらおかしいか」
    「おかしくはないけど……私は神様がいるなんて考えたこともないな。どうでもいい」
     もし神様がこんな人生を歩ませているならとんでもなく性格が悪いと思う。知らず知らずのうちにしかめっ面になっていたのだろう。日車さんの口端がほんの少し上がる。
    「……俺が信じている神様は女性で、目隠しをしているんだ」
    「どういうこと?」
     日車さんはぷち、と枝豆の皮をむく。
    「目に見える物事に惑わされないためにな。でも見たくない物に目をつぶっているようにも取れる」
    「神様なのに?」
    「ああ。俺はつい見てしまうから厄介だ。君を放っておけないのも結局はそういう性分だからなんだろうな」
     そう言ってむいた枝豆を口に運ぶ。
     性分。その言葉に妙にがっかりしてしまう自分がいた。


     お店を出る前にお札を何枚か手渡された。ご馳走になった上にこんなのいいよと断ったけれど、返すのは君が自立してお金に困らなくなってからで構わないと半ば無理矢理押し付けられた。彼氏に見つからない所に隠しておくようにと念を押した上で。
    「……疲れてるのに今日は色々ありがとう」
    「相談料は出世払いだ。高くつくぞ」
     そう冗談めかして言うと日車さんは私をタクシーに乗せ運転手に行き先を告げる。みるみる遠ざかっていく日車さんを窓越しに見つめながら彼の言葉や表情を何度も何度も思い浮かべた。


     女はいいよな。
     それが彼氏の口癖だ。着飾って男と食事するだけで何万も貰えてボロいよな。俺も女に生まれて荒稼ぎしたかったわ。
     そんな言葉を投げられるたびに私はへらへらと笑ってみせる。平気だと言い聞かせるように。それがおかしいことだと少しずつ分かり始めたのは日車さんとかかわるようになってからだろうか。
     今日、いつものようにパパと会うことを初めて拒否した。もう限界だった。つまらない自慢話に相槌を打つのも媚びたように笑ってみせるのも体に無遠慮に触れてくる手を気分を害さないようにあしらうのも。
     パパの連絡先を全てブロックしアプリを削除する。彼氏には当然問い詰められた。日車さんのことを言えるわけもなく、ただもう嫌になってと恐る恐る切り出すと顔のすぐ横で鈍い音がした。壁に叩きつけられたマグカップがごろんと転がる。ダサいロゴがプリントされた、もらいものの分厚いマグカップ。割れないんだ、めちゃくちゃ丈夫じゃんと他人事のように思った後、じわじわと逃げなきゃ、という気持ちがわき上がってきた。
     気がつくとスマホを握りしめて玄関を飛び出していた。上着も持たずに。


     いつのまにか何度も行き慣れたコンビニの前まで来ていた。中に入ろうにも財布がない。店の向かいの植え込みの前にしゃがみ込み、スマホケースのカード入れに挟まれた日車さんの名刺を取り出す。こんな深夜につながるわけがないと思いながらもすがるような気持ちで事務所の連絡先をタップする。
     2コール目で電話はつながった。
    「日車さん?」
    「……君か。どうした」
     たすけて。やっとそれだけを口にする。
    「今外か?動けるならいつものコンビニで待っていてくれ」
     いるよ、いつものコンビニ。ずっと待ってた。何度も頷きながら名刺の文字を指でなぞった。


     事務所が近いのだろう。十分ほどで日車さんは駆けつけてきた。怪我はないかと開口一番に聞かれる。大丈夫と答えると安堵の表情を浮かべる日車さんを見て、この人もこんな顔できるんだと思ったら自然に涙が溢れて止まらなくなった。
    「ごめんなさい日車さん、迷惑かけて。ごめんなさい」
     私はぐしゃぐしゃの顔でそう繰り返す。
    「いいんだ、いいから。謝らなくていい」
     なだめる日車さんのスーツの袖をそっと握りしめる。いつかからかって腕を絡めた時とは違う切実さで。彼のしわの寄った袖を見つめながらこの人のことが本気で好きなのかもしれないと思った。


     日車さんがすぐに相談窓口につないでくれたお陰で私は専用の施設で一時保護されることになった。相談員の人との面談などはあるものの基本的に暇というか時間だけはたっぷりあって、何日かの間久しぶりに何もせずぼんやりと過ごした。スマホは入所時に預ける仕組みなので彼氏は勿論日車さんとも連絡は取れなかった。
     彼氏のことは正直気にならないわけではなかった。あんなことをされたけど情はまだ残っていたし自分がいない間家事とか大丈夫だろうかと思ったりした。でもそれ以上に日車さんの存在は大きかった。彼の一言ひと言が私を立ち止まらせ、違う場所へと連れて行ってくれるような気がした。
     私は日車さんとどうなりたいのだろう。恋人?恩人?どの言葉もしっくりこない。彼の周りには透明なうすい膜のようなものが張られていて決して触れられない。色々助けてくれるけど誰かの心に踏み入ったり踏み入られることはしない。そんな気がした。
     もし彼に助けられる関係以上のことを望めばすっと身を引かれてしまいそうで、想いを告げるだなんて大それたことはできそうになかった。


     保護されて一週間が経った頃日車さんが施設を訪ねて来た。まさかこんなすぐに会えるとは思わなくてあたふたしていると元気そうだなと目を細められた。人気のない談話室で私たちは向かい合って座る。上下スウェット姿で化粧もろくにしていない姿を彼に見せるのは恥ずかしかった。
     私が施設で過ごす間に日車さんは色々と動いてくれており、その報告をされた。彼氏とは直接連絡を取って事情を伝え、私の自宅の荷物を引き渡すよう交渉したらしい。
    「大丈夫だったの?」
     恐る恐る聞いたら日車さんは平然と問題ないと答えた。
    「最初は警戒心丸出しだったが名刺を出してからは大人しいもんだったぞ。お陰で話がスムーズだった」
    「そうなんだ……」
    「でもまさかあんなに年上とは思わなかったが。俺とそう変わらないんじゃないのか」
     外面だけはいいからなあいつ。弁護士という肩書きだけで怖気付いたんだろう。いつもはあんなにえらそうなのに。そう思ったらあの家に戻るのがだんだん馬鹿馬鹿しくなってしまう。第一引き渡しをOKしたということは私は用済みになったのだろう。
    「ここに居られるのはあと一週間ほどだが行くあてはあるのか」
    「それなんだけど、大阪の友達の所に少しの間ルームシェアさせてもらおうかと思ってて。ここから大分離れてるけど中学の時仲良かった子だし。……帰る実家もないしね」
     そうか、と日車さんは頷いた。
    「相手と物理的な距離を取るのは良い事だ。引越しも含めて協力できる事はするからまた相談してくれ」
    「……ありがとう」
     ああ、これで日車さんとも離れることになるんだな、と思った。
    「何か言いたそうだな」
     日車さんの表情がいつになく柔らかい。私の言葉を待ってくれていると思った。
     一度でいいから私と寝て欲しいとごねれば今の日車さんなら困りながらも受け入れてくれるかもしれない。でもそういう形で無理矢理この人の心に残ろうとするのは何か違う気がした。
    「頭をなでて」
     やっとそれだけを口にする。今まで父親を含めた男たちに一度もしてもらえなかったこと。
     日車さんは一瞬驚いた目をして、周りに誰もいないことを確かめてからゆっくりと私の頭に手を伸ばした。
     日車さんの大きくて乾いた手が髪に触れる。ためらいがちになぞる指先は温かく、髪を滑るたびに頭の芯がぼうっとしてすごく気持ちが良かった。なんだか自分が小さな女の子になってしまった気分だった。
    「日車さん、」
    「君には幸せになる権利がある」
     そう言って日車さんはほんの少し口のはじっこを上げた。その顔を見て好き、という言葉を思わず飲みこんでしまう。代わりにそうだね、とだけ呟くのがやっとだった。


     施設を出てからは家に戻ることなくそのまま大阪の友人宅へと引っ越した。諸々の手配は全て日車さんがやってくれた。家賃を折半しているとは言え友人の家を占拠し続けるのも申し訳なかったので、一人暮らしする資金を稼げるような仕事を必死で探した。しばらくして幸いとあるメーカーの事務職の空きに滑り込むことができたので、私はそこで一生懸命仕事を覚えた。
     初めてのお給料が出た時は奮発して焼き肉を食べに行った。あまり無駄遣いはできないのでお手頃な焼き肉ランチを。思っていたよりお肉が薄くて少なかったけど美味しかった。思い切ってグラスビールも頼んでゆっくり味わいながら飲んだ。自分で稼いだお金を自分のためだけに使えるってこんなに幸せなことなんだと思った。
     ビールを飲みながら日車さんと一緒にご飯を食べたことを思い出す。借りたお金、返さなきゃ。日車さんに会いたかった。


    「なんか東京の方大変みたいやね」
     昼休憩中、職場の談話室のテレビを見ながらあかりちゃんが呟いた。画面の中はめちゃくちゃになった街が映っている。あかりちゃんは総務部で働く女の子で私より一つ年下なのにすごくしっかりしている。新米の私を色々手助けしてくれて今では一緒に遊びに行くほどの仲良しだ。
    「岩手の方はさすがに影響出てへんみたいやけど」
     私を気遣うようにあかりちゃんは言った。とっさに日車さんのことを思い浮かべたけれども東京だしまさかね。そう自分に言い聞かせて飲み終わったいちごジュースの紙パックをつぶす。
     その日の晩、借りたお金を返すために日車さんにラインを送った。でもそれに既読がつくことはなかった。


     その週末、あかりちゃんと京都に日帰りで遊びに行った。彼女はパワースポット巡りが好きで色々な神社やお寺を連れ回された。
    「ここの神社、縁結びで有名なんよ。彼氏できるようにお願いしよ!」
     屈託なく笑うあかりちゃんの言葉に頷きながら心の中で彼氏はもうしばらくいいかな、と思う。でも、そこの境内で私は生まれて初めて神様にまじめにお願いをした。
     日車さんが幸せでありますように。あの人がどうかこれから笑って生きていけますように。
     全然縁結びのお願いじゃないけどいいよね。叶うならここの神様が日車さんが信じている神様にそう伝えてくれますように。
     そうやって私は長い間、いるのかいないのか分からない神様に向かって手を合わせて祈り続けた。
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