斎土はじめて物語(仮) つき合い始めて四回目のデートは、家デートに決めた。
三度目のデートでは休日の博物館へ行った。土方は刀剣に興味があるらしく、ケース越しに重要文化財の銘刀を見下ろしていた。その赤い目の輝きだけで、斎藤は幸福と劣情を覚えた。
ちょっとランクの高い居酒屋で気分よく酔い、「女じゃねぇんだから」という言葉を振り切って玄関口まで送った。靴を脱いだ土方は上がりかまちで振り返り、屈んで斎藤に触れるだけのキスをした。
「あの、期待してもいいんですか」
「野暮言うな」
からかうような形の笑みを作る土方を、その場で押し倒してしまいそうになったが、斎藤はありったけの自制心を発動して耐えた。
「あの、次は、土曜日に、うちで……」
「楽しみだな、掃除手伝ってやろうか」
「結構です!」
狼狽する斎藤が可愛いとばかりに、土方は高い位置からもう一度キスをした。それ以上のことは今は望めない、と判断して、斎藤は頭を下げてドアを閉めた。
嬉しさと悔しさが、同時に湧き上がる。
九歳の差は埋めがたい。斎藤はまだ二十代で、土方は三十路だ。積み重ねてきた人生経験が、そのまま子供扱いに直結している。
甘やかされるのも決して悪くはないが、男なのだから頼られたいし、かっこいいと思われたい。
来週末、なんとか斎藤のテリトリーに誘い込むことは成功した。そのことがどんな意味を持っているか、わからない土方ではないだろう。
掃除機は休日にかけているし、シンクに洗い物を溜めないように心がけてはいる。しかし、ユニットバスの洗面台周りは頻繁に掃除しているわけではなく、ひげが散らばっている。
風呂に入るであろう土方に、至らないところを見せたくはない。
風呂に入るようなことをする、と思ったとたん、頬が無性に熱くなる。顔面筋が緩んでいることも自覚し、「帰りの電車内では抑えよう……」と誓うが、うまくいく自信はなかった。
待ちに待った土曜日、一張羅を着て最寄駅前の銅像の前に向かったら、既に土方が待っていた。斎藤も、待ち合わせ時間の十分前に到着したのだが。
「すみません! お待たせしちゃって」
「五分くらいしか待ってねぇよ」
「いや、でも」
「遅刻するよりゃいいだろ」
そう言った土方は斎藤に視線を向けて、うっすらと微笑んだ。
「似合ってんぞ」
「馬子にも衣装って言いますからね」
「そこまでは言ってねぇよ」
土方は不意にかがんで、斎藤の耳許に唇を寄せた。
「彼氏がおめかししてんのはいいもんだな」
もう、この人は!
いつでも余裕ぶって、斎藤を子供扱いするのだけは許しがたい。しかし同時に、意志の伝達をこれほどつややかに行える男がいるのかと思えば、寒気に似たものが背筋を駆け上がる。
帰途のコンビニでビールと発泡酒とポテトチップスと沢庵を買った。僕が出します、と言う前に、土方は店員にスマートウォッチを差し出した。
大人の男を演出する作戦が早々に頓挫し、肩を落とす。
「稼ぎ考えたら当然だろ」
慰めのつもりだろうが、今の斎藤にはむしろ逆効果だ。
築十五年、四階建てのマンションにはエレベーターがない。三階の部屋へ入る前に土方の顔を見れば、普段よりわずかに血色がいい。階段を登ったせいだろうか、それもこれから起こるであろうことに、少しは何かしらの期待をしているのか。
後者ならいい、と思いながらドアを開け、土方を先に通す。1DKの七畳相当の部屋にはベッドとローテーブルと、いわゆる『人をダメにするソファ』がある。
斎藤がソファを勧めると、土方はベッドを一瞥してからソファに腰を落とした。斎藤はローテーブル越しの正面のクッションに座る。
斎藤の恋人は顔がいい。顔だけではなく、全身も魅力的だ。
知っていたはずの事実を反芻する。
まばたきしたら音がしそうな長さの睫毛、それに縁取られた赤い瞳には、色気と純粋さが同居している。通った鼻梁の下にある薄い唇の柔らかさを、もう斎藤は知っている。
あぐらをかいても、なお長い脚を持て余しているのが見て取れる。
完璧すぎて、このまま彫像か何かになってもまったく違和感がない。
――とも思うのだが。
やはり、好きな人をより理解したいと思ってしまうのは、男の――人間のどうしようもなく愚かで、しかたのない欲求だ。
服の上からでもわかる、体脂肪率の低い身体を抱きしめたい。男にしてはくびれた腰を引き寄せたら、この人はどんな顔をするのだろうか。押し倒して首筋に唇を落とした時の感触と反応が知りたい。
既にいっぱいいっぱいの斎藤に、土方は口を開いた。
「映画か動画でも見るか?」
「は、はい」
確かに、デートなのにいきなりベッドへなだれ込むのは、明らかにムードが足りない。まるで身体だけの関係のようだ。
土方をそのように扱いたくはないし、そのように思われたくもない。それに、いきなりがっつくのはいかにも余裕がない。
「何か、見たいジャンルあります?」
「任せた」
任された。
責任重大だ。たかが二時間とはいえ、静かな密室で過ごす初めての時間を、斎藤はしくじりたくない。
ベッドシーンの多そうな恋愛ものでは気まずくなるかもしれないし、動物ものでは逆にムードがない気もする。YouTuberが喋る動画も、他の人間に土方の耳を奪われる気がして悔しい。
悩んだ結果、斎藤は学生時代に見たアクション洋画のタイトルを挙げた。特に劣情を刺激するシーンはなかったと思う。
土方は「あぁ、あれか」とうなずいた。
「見たことあります?」
「いや、気になってるうちに上映が終わってな、結局見られずじまいだ」
それなら、と斎藤はテレビのリモコンを手に取ってサブスクリプションを立ち上げた。斎藤の加入しているサービスでは見られるようだ。
映画を選択して再生が始まるまでの待ち時間に、土方は手招きしてきた。
「そっちじゃ見づらいだろ、こっち来い」
「えっ、でも、その」
いきなりの誘いに、言い淀む。そんな斎藤にじれったくなったのか、土方は己の隣の空間をぺしぺしと叩く。
斎藤はクッションを尻に当てたまま立ち上がり、土方の隣へ移動した。
(……いい匂い、する!)
石鹸やシャンプーや柔軟剤などとは明らかに違う。さわやかでいて、奥まったところに大人の男の色気がある。専門用語を知っていれば、香りの種類なども言い当てられたかもしれないが、残念ながら斎藤は香水についての解像度が低い。
(いい匂い……)
ただそれだけを感じる。
土方にとってはただの身だしなみかもしれないが、己と逢うのにこのような支度をしてくれたことが、何より嬉しかった。
映画が始まる。のっけから怪獣が暴れ、世界が破滅の危機であることが告げられる。主人公は怪獣を倒す決戦兵器のパイロットに志願し、厳しい訓練を通じて他のパイロットたちとの友情を築く。
一度観た映画だから、斎藤は筋を知っている。発泡酒を開け、ちびちびと飲みながらそっと隣の土方を盗み見る。
土方も、ビールを傾けながら映画を観ている。
土方に残念な角度などはないのだが、横顔は特に美しい。鼻梁のラインが引き立つし、頭の形のよさもわかる。ざっくり撫でつけられた癖毛の、前髪が一筋二筋額に落ちているのが、たまらなく色っぽい。
――色っぽい。
そう自覚してしまうと、映画が目に入らなくなる。必死で土方から目を逸らし、なんとか映画に集中しようとしても、うまくいかない。
悪戦苦闘する斎藤の指に、冷たいものが触れた。
(……ひっ)
土方の指が、斎藤の手の上を這っている。
硬い指先が手の甲の骨をなぞり、指を伝って爪をくすぐる。
頭が沸騰した。
手のひらを返し、歓迎する姿勢を示す。手のひらの中心をこちょこちょと長い指が滑る。ぷっくり膨れた指先同士が触れ合い、押しつぶし合う。
意図は明らかだ。
斎藤は伸びてきた手を握り、思い切り引き寄せる。土方は抵抗しない。
間近にある赤い唇が、食欲を刺激する。おいしそうだ、食べてしまいたい。嚥下して消化して、胃袋で取り込みたい。そうすれば、斎藤以外に知る者はいなくなる。
勢い込んで唇を重ねたせいで、歯が当たる。ふふ、と至近距離で笑声がかかり、赤い唇がほころぶのを己の唇で感じる。
「まだガキだな」