指についたものを舐める バレンタイン当日の夜。支部で帰り支度をしていた時、杁に家に来ないかと誘われた。その瞬間、コイツが季節行事を大事にするタイプだったことを思い出す。
まずい。バレンタインは女性が用意するものだと固定概念に囚われていて、自分は何も用意していない。そういう行為では自分の方が受け入れる側だが、女になったわけではないとずっと思っていた。
「……俺はチョコを用意してないぞ」
後ほどガッカリさせてはいけないと正直にバレンタイン行事をする用意がないと告げる。そうしたら、杁はただおかしそうに笑って「ホワイトデーに三倍返しを期待してる」と言った。
***
バイクに乗って杁の家にやってきた。かねてより俺を招く予定があったのか、想像よりも部屋は散らかっていない。だからといって綺麗ではないが。俗に言う妥協点である。
「ほら」
リビングのソファに座っていれば、キッチンから戻ってきた杁が、俺の隣に座り小さな箱を指し出した。雑でもなく、丁寧でもない手つきで指し出された小さな箱。それを受け取れば、寸前まで冷蔵庫に入っていたのかひんやりとしていた。
「ん……礼を言う」
「さっそく開けても?」と尋ねれば「どーぞ」と間延びした声が返ってくる。
真っ白の箱に、自分の髪色と同じ色のリボン。どこにでも売られていそうなパッケージだが、中に入っているのは世界でここにしかない価値のあるもの。貴重で、少なからず想いが詰まっているだろうチョコレート。そのせいで、ありきたりのリボンにすら愛着が湧いて、慎重に解いてしまっていた。ゆっくりと、まるで宝石箱を開けるように蓋を持ち上げる。
小さな箱に入っていたのは、丸い形のトリュフチョコレートだった。茶色のココアパウダーと真っ白なパウダーシュガーがチョコレートをコーティングしている。見つめるだけで、舌の上に甘さを感じた。
「……」
「なんだよ」
チラッと杁を一瞥すれば、目が合う。俺の反応を伺うように俺を真っ直ぐ見つめていた。
「……食べていいか」
「どーぞ」
さっきと同じ言葉。しかし、どこか浮き上がっているようにも思えた。
茶色のトリュフを素手で摘まんで口に運ぶ。一口。全てを入れる。
「ん……」
舌の上に乗せれば、ココアパウダーのふわりとした感覚がした。遅れて濃厚なチョコの甘さが溶け出してくる。美味い。甘すぎず、上品な甘さ。
「美味い……」
「そりゃーよかった」
杁が安心したように頬を緩ませる。
「なんだその腑抜けた顔は。俺がお前が作ったものに不味いと言うはずがないだろう。馬鹿か」
杁が作る料理が不味かった試しがないので、当然このチョコも美味いものだと思って口に運んでいる。
「なんだそれ、不味くても上手いって言うのかよ」
「お前が作る料理にハズレはない」
「はっ! そうかよ」
はっきりと言い切ってやれば、今度は弾けるように笑った。
そうだ。そうやって嬉しそうに笑っていたらいい。
杁の笑顔は、なんとなく……胸を温かくさせる。自分が初めて恋に出会ったようなそんな気分になるのだ。くすぐったい。この気持ちがずっと続けばいいのにとさえ思う。チョコも杁が作ったものであれば、格別なものに思えるのだ。ハンデッドになってから初めて知った感情。アライバーだった時も手作りのチョコはもらっていたが、その感情は霧掛かったようにぼんやりと霞んでいた。
「もう食わねぇのか」
「いや、食べるが……」
——もったいない。
ポロリとこぼれる躊躇の言葉。
箱の中のチョコは先ほど一つ食べたので、その分一つ減ってしまっている。また一つ食べたら当然その分減ってしまうのだ。今日はもう一つある別の味を食べて、残りは後日ゆっくり食べるのもいいかもしれない。甘い酸っぱい喜びを長時間かけて味わった方が得策な気がする。
「好物は最後まで取っておきたい派でな。まぁ、もう一個くらいはここで食べて、残りは明日食べることにする」
「へぇ……そんなに俺の作ったチョコは好きかよ」
「……まぁ、好きだな」
そう言って、ココアパウダーが付いたままの指を白いトリュフに伸ばした時だった。
ふいに手首を掴まれ、ゆっくりと杁の顔の方に引き寄せられる。何のつもりだと声を上げそうになって息を呑んだ。歓喜とは違う、別の眼差し。チョコレートがとろけてしまいそうな熱を帯びた瞳。
その瞳に見つめられて、ゾクゾクと甘美な痺れが背中を走った。動けない。そのまま茶色の粉がまぶしてある指先が、口の中に吸い込まれていく。
「……っ」
人差し指が柔らかい唇に挟まれ、ぬるりとしたものが指先に当たった。唾液を纏った舌にココアパウダーを丁寧に舐め取られる。舌が這った場所から、じわじわと熱を帯びていくような感覚。
伏せられた灰色の瞳の上で、長いまつ毛が妖艶に揺れている。その光景から目が離せなくなっていた。息をするのも忘れてしまうようなひと時。指先しか舐められていないのに、身体の奥が熱せられているような気がした。
チュッと控えめなリップ音のあと、ようやく指を解放される。
「好きなんだろ?」
杁がご機嫌そうに目を細める。
ニヤニヤと笑う姿に全てを理解した。さっきの俺の他意のない言葉を自分の都合のいい方に曲解したのだ。むしろ、最初から俺がそう言うように仕向けとしか考えられない。
「……チョコがな」
火照った頬を俯かせながら、吐き捨てる。
「そんなにチョコが気に入ったのなら、味が混じんねぇようにしろよ」
「……っ」
それは口実でしかないだろうと思っているのに、反論の言葉は口から続かなかった。