チョコのある暮らし 予定のない休日。そんな日は読みたいと思っていたミステリー小説を一気に読むことにしている。『ついでに注いでもらった』マグカップを持ちながらソファに座ると、一口コーヒーを飲んでローテーブルに置いた。癖が全くついていない文庫本の一ページ目を開く。帯には、『ファン待望の最新刊』という文字。
これまでのシリーズの記憶を思い出しながら、今回はどんな事件が起こるのだろうと予想しつつページを読み進めていく。沈黙の数時間。外の世界の情報を遮断し、物語の世界だけに没入する。
またしても主人公が不運にも事件に巻き込まれた。殺人現場は完全犯罪にしか思えない密室。この後どんなトリックが主人公たちを待ち構えているのだろうか。
目線を伏線の散りばめられた文章に落としたまま、コーヒーを飲もうと手を伸ばす。
しかし、一向にカップを傾けても口の中は渇いたまま。
「……?」
おかしいなと思いマグカップの中を覗き込むと、カップの底に黒い円が出来上がっているだけだった。本を読むのに夢中になっていたせいで、コーヒーを飲み干していたことに気づかなかったようだ。
ここで一旦コーヒーを淹れ直しに行くか、それとも……。
このまま小説を読みたい気持ちと、読書の御供は欲しいという気持ちがぶつかり合う。数秒間悩んだ結果、俺は半分以上読み進めていたミステリー小説に栞を挟んだ。
その瞬間、一気に現実に引き戻される。
ソファから立ち上がると、甘ったるい香りがふわりと鼻先を掠めた。
——なんだ、この匂い。チョコか?
マグカップを持ちながら、数時間不干渉だった奴の元へ向かう。
キッチンカウンター越しに見える奴の真剣な顔。その視線の先には、予想通りドロドロに溶けたチョコレートがあった。杁がそれをスプーンで器用に絞り袋に入れていく。
「お前はいつからパティシエになったんだ」
カウンターに肘をつき、中腰の姿勢で奴を見上げれば、杁は一瞬目を合わせてきたが、すぐに目を逸らされる。
「冨着が」
「なるほどな」
その名前だけで全てを理解した。どうやら大食いの奴にせがまれて作っているらしい。当然奴一人に配ることなんてことは考えられなくて、芋づる式で沖縄の連中がついてきたのだろう。一人分にしてはやけに多すぎるマカロンの数が、その事実を物語っていた。
「ご苦労なことだ」
自分なら進んでしようと思わない料理も、杁にとっては娯楽の一つ。
それなりに楽しみながら作っているのだろう。じゃなければ、友人に頼まれただけでチョコを作ったりしない。
「俺の分もあるんだろうな」
「あぁ、アレ」
顎で指し示す先には、炭の味しかしなそうな黒い塊。
「……おい」
「ハッ、冗談だ」
「んぐっ」
絞りたてのチョコが詰まったマカロンを、ググッと半開きの口に押し込まれる。わりと勢いがあった。チョコの甘さが咥内を占拠する。甘さ控えめとはかけ離れた味。
甘い。とにかく甘い。そして、でかい。
チョコの甘さが口いっぱいに広がり、それと同時にマカロンが口の中の水分を奪い取る。待て。だいたいこれって一口で食べるものじゃないだろ。
「ん、ん゙むぐ」
「あぁ? 何言ってっか、分かんねぇ」
「ん゙ん〰〰〰ッ! ん゙!」
空のマグカップを勢いよく突き出す。甘さしか感じていない舌が、苦味を欲していた。
「はいはい」
ヘラヘラと憎たらしい笑顔で、杁がケトルのスイッチを入れる。
それはもう見慣れた光景だった。