旅の恥は掻き捨て、結局のところ通常運転 夜も深まった頃、遠くから聞こえてくる波の音にロナルドは耳を澄ませる。空気にたっぷりと含まれた潮の香りは、ついさっき舌鼓を打った魚料理の数々を思い起こさせた。大浴場から上がった後の浴衣姿には夜気は少々冷たいぐらいだったが、それが何だか心地好い。
ロナルド退治事務所には、時折遠方からの依頼が舞い込んでくることがある。今回は海鵜捕獲場に巣を張った下等吸血鬼を退治するため、電車を乗り継ぎ北関東某所へやって来たのだった。
退治はつつがなく終わり、依頼者である地元組合から報酬とは別に民宿に食事付きで明日の日没まで滞在できるよう取り計らわれた。その民宿というのがしっかりしたホテル並みに立派だったので、気後れしたロナルドは最初辞退しようとしたのだがドラルクがさっさとチェックインの手続きをしてしまったので厚意をありがたく頂くことになったのである。(クソ砂は一度殺した)
「ロナルド君、そこにいたのか」
「……おう」
宿泊部屋に付いている広々としたテラスでぼんやりと海を眺めていたロナルドに、背後から声がかかる。浴衣にクラバットを合わせるという独特の格好をしたドラルクが、腕を組んだままこちらへ歩み寄ってくるところだった。その肩なり頭なりに可愛いアルマジロがいないことに気付き、ロナルドは僅かに首を傾げる。
「ドラ公、ジョンは?」
「マッサージの途中で寝ちゃった。カラオケが大盛況だったからねぇ」
「あれは凄かったな……伝説の目撃者になった気分だったぜ」
民宿に併設されたカラオケルームに目を付けたドラルクが依頼人や他の宿泊客も巻き込んで始まったカラオケ大会は、最終的にジョンの単独ライブと化した。期待には応えたい気持ち(と、恐らくはドラルクにマイクを握らせたくない気持ち)から十数曲を歌い抜いたジョンの姿は、正にスーパーアイドルのような輝きであったとロナルドは思い返す。
「結局、君も私も一曲しか歌わなかったが……まぁいいか、面白かったし。今日買った特産品も明後日には事務所に届くから、どう調理してやるか考えるのが楽しみだ」
「はしゃぎ過ぎんなよクソ砂おじさん、帰るまでが仕事だぞ」
「食事に温泉に海鵜にテンション上がりまくってたのは何処の五歳児だったかねぇ?」
「うるせぇ帰ったらステーキ重が食べたい」
「ジョンの体重と相談だ肉食ゴリ造」
そんな軽口を叩き合う最中、一瞬強く吹いた潮風にドラルクが一部砂と化しながら身震いする。
「はー、冷たっ。君、こんな場所にずっといたの?」
「大した寒さじゃねぇよ」
「感覚マヒしてるんじゃないか、いっくらバカが風邪引かないからって」
「あ?」
ロナルドが反射的に飛ばした拳で完全に砂山となったドラルクだったが、再生するや否や今の殺害シーンが無かったような態度で手を伸ばしてくる。銀色の髪を梳く骨張った両手に、ロナルドは二発目を繰り出し損ねる。
「っ、おい」
「あー、潮でベタついてる。折角温泉に入ったのに勿体ない」
「……いーだろ別に、帰ったらどうせすぐ何かでベチャベチャになるんだ」
「ちっとも良くないわ。外面が全てとは言わんが、君はもう少し見た目の価値というものを理解した方がいい」
ロナルドの毛先をくるくると弄んでいたドラルクの指が、頬をなぞる。手袋をしていないせいで赤い爪が視界にちらつき、身体にぞくりとしたものが走るのを感じる。
「……そういえば、部屋の内風呂も使わないと勿体ないよねぇ」
こちらの意識など見透かしているのだろう、ドラルクは牙を見せて妖しく笑う。
「ドラ、こう」
「ねぇロナルド君」
――洗ってあげようか。なんて、それだけで終わらす気など全然なさそうな囁きに。
こくりと頷いたロナルドもきっと、旅の非日常に浮かれているに違いなかった。