『TETSUとピザ』 誰からの便りも送られてこない二人のおうちのポストを、普段の“仕事”として覗いた譲介がピザの広告を発見。ちょうど家主不在時でもあったのでカレー味のピザを頼む。生地の耳にソーセージも入れちゃう。やがてインターホンが夕飯の到着を告げる。オートロックを解除して玄関で待機していると、外から聞き慣れた杖の音が耳に届いた。和久井さんですか?と初めて聞く声が尋ね、聞き慣れた声がそうだと応じる。配達と帰宅が重なったのだ。開けるに開けられなくなったドアが向こう側から叩かれる。この場にいなかったふりは通じないだろう。いま開けますと大きく返事をして鍵と鎖を外せば、玄関扉は恭しく主人の帰還を迎えいれた。
片手に杖、片手に八角形の平たい箱を抱えたTETSUの前に、靴を脱ぐに使う腰掛けを用意する。椅子を放した両手は、ほらよと渡された箱で満たされた。ほかほかだった。すんなり引き渡されたことに驚き、却って言葉に詰まる。座って屈んだ背中に、お金を、と声をしぼり出す。もう片方の靴に取りかかり、振り向かぬ背中が坦々と、てめぇの食費はもともとオレ持ちだ。杖を支えに膝が立つ。仕事を果たした椅子を廊下の隅へ。それからTETSUは洗面所に。譲介はドアを開け放ったままリビングのテーブルにピザを置き、蓋を開け、ほのかに立ち昇る熱を嗅いで、ようやくピザが一枚しかない事実に気がついた。それもMサイズである。生地のふちに包み込まれたソーセージがカロリーを補うと言えど、はたして自分より体格のいい大人が半分で間に合うだろうか?
注文の到着を待つ間に沸かしておいた薬罐を火にかけ直すと同時にドアの閉まる音。飲みものの用意もそこそこ、先に取り皿を運ぼうとキッチンスペースから踏み出すも、同居人の足は食卓を素通りして、くつろぎ用のソファに腰を定めた。そちらで食べるのかと合点して皿と箱をソファの前のローテーブルに移す。こちらを仰いだTETSUが見える方の眉を上げ、何だ?と疑問を発する。譲介もまた首を傾げて、
「火を見ているので。先に食べていてください」
蒸気を吐き始めた薬罐の前に戻り、ソファの肘置きから微動だにしない肘を見つめ、そうか手づかみはしないのだなとハッとして、箸とフォークどっちがいいですかと質問を飛ばせば、首が僅かに振り返り、長い前髪に表情を隠して、しかし笑いは声に顔を出していた。「ガキより先に食わねえよ」
それから所望された箸と、コーヒーをふたつ、変わり種の食卓に運んだ。
ふらふらと何処かに出かけてはゆらゆらと戻ってくるTETSUの滞在時、共に食卓を囲むのがこの“家”での習慣だった。足りなかったら冷凍庫から出しますと告げつつ家主用のカップを渡せば、湯気に掌をあぶられる位置で受け取り、冷たいままで?と口の端を歪めるので、冷凍庫から冷凍食品を出して温めて提供しますと丁寧に言い直させていただいた。嫌味を捩じ込む隙間を見つけるのが得意な大人から身ひとつ離した左隣に譲介は座った。TETSUの目の前に置いた箱と皿はすでに卓の中ほどにずらされていた。ほのかなる熱の切れめを箸で裂く。さっそく一枚を皿に取れば、ようよう動いたTETSUが三角の尖端を噛みちぎり、あぶらっこいと呟いた。
「でも、それが旨いですよ」
「若さにまかせて不健康な食事しやがって。オレが見張ってないといつもこんなか?」
この人は幾つなんだろうとふと譲介は気になった。
「あなたも、年寄りには見えません」
「ひとを見る目を養えよ、坊や」
「十七になりました」
「ふぅん? 未成年は区別がつかねえな」
「身体測定の結果を見せた時に、身長が伸びたこと、知ってるじゃないですか」
熟さぬままこぼれ落ちた抗いは、鼻息ひとつで吹き散らされた。耳まで肉が詰まってやがると聞こえよがしな保護者の文句をテレビを点ける音でかき消す。
見たいものはなかった。ただ前に消したチャンネルのまま、映った番組を画面に漂わせる。流行りの菓子を求めて旅する番組で、今晩はイタリアの特集らしい。現地の人々のインタビューが字幕付きで流れた。コーヒーを干した口がふたつ隣で開いた。
「いい加減な翻訳だ。これで言葉を覚えるなよ」
「わかるんですか、」
「医者は乞われりゃ世界中飛び回るもんさ」
だからと言って現地語の理解が必要だとは限るまい。他国から招聘するとなれば尚のこと。客人に通じやすい言語が会話に用いられるのではなかろうか。けれど、譲介は外国に出たことがない。思いつきは想像でしかなく、イタリアに赴きマフィア版ロミオとジュリエットを観てきたと豪語したTETSUが言うのならば、本当なのだろう。TETSUの思い出話は元気がよすぎて、狭い世界で生きていると自覚する譲介には要領を得なかった。ただに彼が楽しかったと全身で語るのに耳をすませた。アメリカ全土のバイオテロを防いだとかいう話もあったっけと続けて記憶がよみがえる。
「特に得意なのは何ですか?」
「日本語だ」
譲介は答を求めるのをやめた。
箱に残った二切れをTETSUが近づけて寄越した。
「親切な配達員だったぜ。オレが後ろからひょこひょこ付いて来るんで、エレベーターを開けて待っててくれやがった」
「それで、機嫌がいいんですか」
「ハァッ? いつ、オレの機嫌を見抜けるようになったんだ?」
「……すみません」
舌打ちと溜め息。今度はTETSUもはぐらかさなかった。
「謝らせたかったワケじゃねえよ」
促され、皿もカップも空の人の隣で食べたピザは冷めていた。お喋りをしたからだ。長いお喋りを。冷えた脂がねばついて、譲介の歯は余分の事には使われなかった。
二杯目を飲むかと聞かれ、口は詰め込んだ最後の一切れでいっぱいだったから、頷いた。
視界は揺るがずテレビに据えたが、背後のキッチンスペースをゆっくりと動く三つの足音に聴覚は支配された。
やがて、コーヒーが届けられた。譲介の分だけ。譲介はぽかんと見上げる瞬きで尋ねた。TETSUは去り際に肩をすくめた。
「年寄りはもう寝る時間だからな」
「あなたは、年寄りには見えません」
「そうか?」
オレは、
その唇が、舌が、歯が、喉が、形作った数個の音を譲介は記憶に刻みつけた。いつものように。いつもの思い出話のように、事実かどうか確かめるすべはなかったが、譲介と初めてずっと一緒に居てくれる大人から教わることを彼は本物だと信じた。
両手に抱えた熱の名残りで少年は、喋り疲れた喉をうるおした。
再び、また明日、長いお喋りを楽しみたかった。
『share my pizza with T』