Much Ado About Ring 朝日が差し込む部屋の中心、ベッドの上で佇む彼女の髪が光に透けている。少し乱れたワンピースタイプの寝間着から伸びる白い足がやたらと眩しい。爪先から体の中心に向かって視線を運ぶと、胸の前で両の手のひらを水でもすくうようにくっつけていた。不思議に思い彼女の手元をよくよく凝らして見てみれば、その上には金の輪の途中、赤い石が光を反射し、これでもかと輝いていて――己の全身から血の気が引いていく。
「煉獄さん! 大変です!」
俺の気配に気づいた彼女がぱっと顔を上げた。眉尻を下げ、今にも泣きだしそうな子供みたいに声が震えている。正直、泣きたいのはこっちだ。しかし悟られてはいけない。ばれないように深呼吸をする。冷静に。こういう時こそ冷静であれ、煉獄杏寿郎!
「……ど、ど、ど……どうした?」
「指輪、拾っちゃいました」
それは俺がサプライズでプレゼントしようと隠していた指輪だな!!!!!
彼女の誕生日というものは、俺の中でいっとう特別な日でもあり、どんな風に祝おうか――と考えることすら、幸せをもたらす素敵な一日でもある。今年は少し張り切って、ドレスコードのあるレストランで食事をして、一流ホテルのスイートルームに宿泊した。
クイーンサイズのベッドに二人向かい合い、彼女の体温を噛み締めながら眠るだけでも俺からすれば十分至福なのだが「誕生日の特権」として、普段は恥ずかしがり屋の彼女からお誘いをされてしまえば、一心不乱、無我夢中になるのも無理はなかった。
結局、彼女を悦ばすどころか俺が大変いい思いをさせてもらい、お互い精魂尽き果てる頃には、既に午前三時を回っていたと記憶している。その後、心地よい気だるさを感じながらも一足先に目を覚ました俺は、昨夜我を忘れて欲望をぶつけたにもかかわらず、どこか燻る熱を冷ますべくバスルームへ向かった。健やかな寝息を立てている彼女を残して。
「私たちの前に泊まっていた方たちのものでしょうか……」
こんなに綺麗な指輪……と漏らした彼女の声は、明らかに意気消沈していて持ち主の心を憂いていた。濡れた髪から落ちる水滴など構っていられない。何とかしてあの指輪を取り戻すための策を練る。なぜならあれは本来なら、今、彼女の左手の薬指にあるはずのものだからだ。
出会った頃から飾り気のない、素朴ささえ感じる彼女に恋に落ちてから理由をつけては赤や橙、金の色の小物を贈った。その度に、最初の方こそ恐縮していた彼女だったが、じきに「これを着けていると、煉獄さんが側にいてくれるような気がするんです」とひとつひとつを嬉しそうに身につけるようになった。
彼女の纏う色に己の色が増えていく。俺の独占欲――いや、彼女への執着に近いかもしれない。そしてなによりも、俺の色に染まっていく彼女は、本当に可愛らしくて、いとおしいと思う。
そして、彼女の手のひらの上にある指輪も、そのうちのひとつだ。彼女が眠っているうちに左手の薬指にはめて、目が覚めた彼女が気づいて、という段取りは完璧のはずだった。昨夜、予想外の彼女からのお誘いに盛り上がり過ぎた己を恥じ、頭を抱える。
「ちょっと、フロントに電話しますね。こんなきれいな指輪、持ち主の方が絶対に探してると思うので……」
「いや! 待つんだ、後でもいいと思うぞ!」
「でも、落し物は早く届けた方がいいって言いますし……」
「俺たちの前に泊まっていた人の落し物なら、きっともうフロントに連絡がいっていると思うぞ! 後にしよう! ほら、きみもシャワーを浴びておいで!」
「ですが……」
困惑からか、彼女はその場から動くことはしないものの、俺の顔と手のひらの上の指輪、そして内線の電話機へ視線をせわしなく行き来させている。そもそも、なぜ彼女は指輪に気付いたのか。ベッドボードに置いたスマートフォンの下に隠しておいたはずなのに――思い当たることはただひとつ。尽き果てて眠る直前に、時間を確認したその瞬間。枕元へ落としたうえにあまつさえサプライズのことなどすっかり抜け落ちていたなど、言語道断、不甲斐なし。穴があったら入りたい――!
「やっぱり、電話します。だってこの指輪、リングアームにも赤い石がはめ込まれていて、きっと特別なものだと思うんです」
「その石はルビーだな!」
「えっ、煉獄さんわかるんですか? 宝石にも詳しいんですね!」
彼女の瞳が驚きで大きく見開かれていく。間違いなく墓穴を掘った。俺が選んだ指輪なのだから石の名前ぐらい知っていて当然だが、動揺のあまり石の種類を口走ってしまうなど。それまで動かなかった彼女が、静かに指輪を左手の手のひらに移動させて、右手を内線の受話器へ伸ばした。その動作に迷いはない。
「それならなおさら、私がこうして持っていていいものではありません。指輪も持ち主さんの元へ帰りたそうだし……」
これまでの付き合いの中で、俺だからこそわかることがある。確かな意志を持った彼女は、それを必ず遂行する。今、彼女は「指輪を持ち主の元へ返す」という使命感に駆られているに違いない。いけない。これはいけない。何としても取り返さねば。もうなりふり構っていられない。いっそこの際、サプライズなんてどうでもいい。
「待て、待つんだ!」
「へ?」
彼女が振り返り、俺の方をじっと見つめている。
「実は、その指輪は、俺のものだ!」
流れていた時間が一瞬止まったような気がした。彼女が再度、手元の指輪に視線を向けて、次に俺の方を見る。交じり合う視線がいたたまれない。それでも彼女から視線を逸らすことは、絶対にしない。
「そ、そうでしたか! へぁ、今、男性でも指輪とかつけますもんね」
そっかあ、煉獄さんのでしたか! とふにゃりと破顔していく彼女に、胸を撫で下ろす。なんとかフロントに預けられることは免れた。嫌な音を立てる心臓をひた隠しながらベッドに近づいて、彼女の方へ右手を差し出す。まるで大切なものを扱うように、そっと親指と人差し指で指輪をもった彼女が、静かに俺の手のひらに小さな輪を置いた。
「あ! でも煉獄さんが着けるなら、そのサイズだとピンキーリングですか?」
赤い石だから煉獄さんみたいで素敵ですね、と笑う彼女は、どうやら本当に俺の指輪だと信じているようで、全身から力が抜けていく。それでも、どこか安心したように笑う彼女が可愛らしくて、なんだかこれまでの焦りも動揺もどうでもよくなってしまう。小さくため息をつくと、彼女が不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「そうだな」
「やっぱり、小指に――」
「いや、きみの左手の薬指にぴったりのサイズだ」
そっとベッドに乗りあがって、彼女の前で膝をそろえる。髪も濡れているし、肩にはタオルもかかっていて、なおかつバスローブ姿で本当に格好がつかないと思う。
手のひらの中の指輪を握り込む。彼女の細く白い指先に合う、純金でできた華奢な平打ちのアーム。俺が選んだ石は、燃えるように赤いルビー。丸爪で留められたセンターストーンとは別に、アームにも小さいながら石がひとつ埋め込まれている。ひどい独占欲だと思う。他の誰かから見えるところでも、見えないところでも、俺の色を身に着けていてほしいなど。
右手の親指と人差し指で指輪の優しく持つ。首を傾げている彼女の左手をとった俺の手は、柄にもなく震えていた。おそるおそる彼女の方を見やると、うるんだ瞳が揺れたかと思えば、くしゃりとうれしそうに細められる。
小さな指輪が、彼女の左手の薬指、その根元へ向かって、ゆっくりゆっくりと進んでいく。