冷やし中華をはじめまして まだ4月の下旬と言うのに、春を飛び越えて真夏日を叩き出したある日。慣れない暑さのせいか、どこかぼんやりとした頭で今夜の夕飯の献立を考えた。
朝晩は冷えるだろうと思って持ってきた羽織が、今日ばかりはお邪魔虫である。日が落ちればいくぶんか涼しくなるかと期待していたが、日中暖められた空気は冷めることがない。その証左として、駅の改札を抜け外に出た私の肌を撫でる風は生あたたかい。
汗の滲む肌に貼り付いたブラウスを憎たらしく思いながら、襟元を軽くつまんでぱたぱたと揺らし、中に空気を送りこむ。その場しのぎでも誤魔化しでも構わない。はぁ、とため息を吐いたところで、鞄の中のスマートフォンがぶるりと震えた。
『今、駅に着いたところだ。きみは?』
「わたしも、改札を出たところですよ、と」
『見つけた。そこで待っていてくれ。一緒に帰ろう』
振り返ると、黒い人の群れの中で特徴的な色の炎が揺れている。杏寿郎さんだ、と思ったら自然と足が動いていた。今歩いてきた道を戻ることなど、なんてことない。
杏寿郎さんと付き合いはじめてから2年、一緒に暮らしはじめてから4ヶ月が経つ。大好きな人と同じ場所に帰ることができる幸せを噛みしめながら、杏寿郎さんに向かって手を振ってみた。いつもはつんと凛々しい眉と目尻がふにゃりと下がって、心臓があまく締め付けられる。
「杏寿郎さん、お疲れ様」
「ありがとう。きみもお疲れ様」
杏寿郎さんの穏やかな声色に、温泉に浸かったときのように、全身の疲れが吹き飛んでいく。ゆるむ心も表情も悟られないよう唇を引き結んでいると、私が何を考えているかを察したのか、杏寿郎さんは小さく吹き出した。
「俺も、家に帰る前にきみの顔が見られてうれしい」
「……もう、私の方がうれしいです」
「いや、きみが知らないだけで俺の方がうれしい」
蒸し暑さを吹き飛ばすような清爽や笑顔を向けられたかと思うと、杏寿郎さんは私に右手の手のひらを差し出した。それもまた嬉しくて、左手を重ねる。体を反転させて杏寿郎さんと同じ方向をむけば、節榑だった指が私の指を絡めとった。
「そうだ、杏寿郎さん。スーパーに寄りたいです。晩御飯がまだ決まってなくて……」
「いいぞ! 店についたら一緒に献立を考えよう」
暫く歩いて、家の近くにある私たち御用達のスーパーに入る。生鮮食品を扱っているだけあって、店内は冷房が効いていていささか過ごしやすいが、温められた体には物足りない気もした。しかしそれ以上に、繋いでいた手の熱さが離れてしまうことの方が寂しいが、致し方ない。
「杏寿郎さん、なに食べたいですか? 私、暑いからさっぱりしたものが食べたいです……」
「確かに、今日は急に暑くなったからな」
「でも、お素麺や冷やしうどんな気分でもなくて……」
冷蔵庫には作りおきの副菜と、茄子とトマトがあったはず。一先ず、献立のアイデアを探すために青果売り場から鮮魚や精肉売り場へと足を向けていく。杏寿郎さんも、左右を見渡しながらお買い得なものや献立のヒントとなるもの探してくれている。
それでも、暑さでぼんやりとした頭では素材を集めて一品にすることすらままならない。
「あ……」
「どうした?」
視線の先には、麺とスープが一緒になった冷やし中華セットが、コンテナにうんと山積みにされている。近寄って手にとり値段を見てみると、賞味期限が近いこともあってか、ほとんど底値に近い状態だった。しかも、たれは醤油味。黒酢入りなのでさっぱり食べられる。
「杏寿郎さん。まだ4月ですが、私たちは一足先に冷やし中華をはじめませんか?」
「今日みたいな日にはぴったりだな! ぜひ冷やし中華をはじめよう」
2人で顔を見合わせて吹き出した。どうにもおかしくて、肩を震わせながら小さく声をあげて笑ってしまった。それは杏寿郎さんも同じだったらしい。二人してひとしきり気がすむまで。それはもう、目尻が涙でうるんでしまうまで。
「はー、すごい笑っちゃった。杏寿郎さん、具材選びにいきましょうか。何か外せないのありますか?」
「キュウリと焼豚だろうか。きみのおすすめは?」
「私は紅生姜とマヨネーズが外せないです」
「マヨネーズ? からしではなくて?」
「えっ、杏寿郎さんマヨネーズかけて食べたことないんですか? 逆に私はからしで食べたことないんです。からしの冷やし中華ははじめましてですね!」
「我が家ではもっぱらからしなんだ。じゃあ、きみの冷やし中華と俺の冷やし中華、途中で交換しよう」
「やった! 杏寿郎さんのお家の冷やし中華の味、楽しみです」
買い物かごに放り込まれていく、今夜の冷やし中華の材料。少し早い「はじめまして」は、お互いのことをひとつ知る、素敵な夜をもたらした。