白昼の白――真っ白い何かが、視界にひらめいた。
「こんにちは~~! 今年も遊びに来ましたぁ~~!」
うら若き乙女もかくやという華やいだ声音で宣言したのは、御年五十を疾うに超えたらしい我が社の社長である。
百六十センチに届くか届かないかという小柄で可愛らしい見た目に反して、中身は社内きっての男前であり、そして我が社の歩く最高意思決定機関なのだ。
「……どうも」
そんな社長の言葉に対して絶妙な間をもって返事を返したその人――キメツ商事の品質管理担当者である冨岡さんは、例によって人目を引くブースゲートの傍らに佇んで、僅かに頭を上下させながらごく短い歓迎の言葉を口にした。
冨岡さんの属するキメツ商事と、パワフルすぎる社長が率いる我が社とは、四年前の今日この日――年に一度催される大規模な化粧品関係の展示会をきっかけとして取引が始まった。
お互いの関係を簡潔に説明するなら、製品の開発・製造はキメツ商事、販売は我が社という、いわゆるOEMの取引先という立ち位置にあたる。
初めて先方と名刺交換をさせてもらった時は、まずはお試し程度の感覚でしかなかったというのに、今となってはキメツ商事製の商品第一弾である「カプセルイン美容液」は我が社の主力製品の一つとなっているのだから、合縁奇縁とはよく言ったものだとしみじみ思ったりもする。
「冨岡さん、こんにちは! お久しぶりです」
約一年ぶりの邂逅となる冨岡さんに同行の社長と上司に続いて声を掛ければ、一年前とほとんど変わらない「ああ」という平板な相槌が返ってきた。
彼の変わらなさが面白くて、わたしは思わず口角が持ち上がるのを感じながら「今年も楽しみにしてきました」と言葉を続けた。
「あ、冨岡さんは今年も白衣なんですね」
去年のことを大脳皮質に刻まれた記憶の中から引っ張り出しつつそう言えば、目の前に佇む冨岡さんは一瞬の間をおいて先ほどと変わらぬ「ああ」の相槌を打った。
「俺たちは今年も白衣の着用を命じられている」
「そうなんですね! やっぱり、白衣を着てらっしゃると『いかにも研究職』って感じがします」
一年前のフィ……フィナ……、何とかという数列と黄金比、イザヨイバラの話を思い出しながら、わたしは冨岡さんの言葉にやや前のめり気味で合いの手を入れた。
普段は言葉少なな冨岡さんの、いつもと変わらぬ穏やかな声音。いつもよりも少しだけ饒舌に説明をしてくれる言の葉。それから、まだ折り目のついたおろしたての白衣。それらがまるで昨日のことのようにありありと脳裏に蘇っては消えていく。
漂白された真っ白な白衣の裾がひらひらと視界の端にひらめいていたことを思い出していると、冨岡さんは「俺たちが白衣を着てブースに立つのは二度目だが――」と抑揚の少ない控えめな音声で語りだしていた。
周りの雑踏に容易く掻き消される殆ど独り言と同じレベルの言葉を聞き漏らすまいと、左右の耳に神経を集中させたところで、冨岡さんの背後にそびえるブースの入り口から「皆さん、ようこそお越しくださいました〜」と社長に負けず劣らずの華やいだ声が聞こえてきた。
冨岡さんの同僚で化粧品類の開発を一手に引き受けている胡蝶しのぶさんが、やはり昨年と同じく新品の白衣に身を包んで、冨岡さんの背後からひょっこりと姿を現した。
「あ、しのぶさんだ! 今年もお世話になりまーす!」
「は〜い! こちらこそ張り切ってお世話させていただきま〜す」
開発側の話を聞くのが何よりも好きという社長にとって、開発の長であるしのぶさんは特にお気に入りだ。
「今年もしのぶさんのお話が聞けるのを、すごくすごく楽しみにしてきました」「光栄です~」と、小柄な女性二人できゃあきゃあと盛り上がっているさまは、まるで女子学生がガールズトークをしているようでどことなく微笑ましく見える。
「今回も御社におすすめの製品を多数お持ちしておりますので、ゆっくりご覧になっていってくださいね」
社長と旧交を温め終えたしのぶさんはわたしと上司に向けてそう言い、わたしの斜め前に立つ上司は「すごく楽しみです」と当たり障りのない返事をした。
もう少し気の利いたことを言えばいいのにと思うわたしの心中を知ってか知らずか、しのぶさんはにっこりときれいな笑みを浮かべてこちらへ目を向けると「担当の煉獄も間もなく参りますので、もうしばらくこちらでお待ちください」と言葉を継いだ。
しのぶさんのその笑みに何となく含みを感じたのも束の間、「あ、来ましたね」としのぶさんはわたし達の背後、ブースの入り口とは反対側に視線を送りながらつぶやいた。
「所用で外しておりまして、お待たせして申し訳ありません。皆様、ようこそいらっしゃいました」
闊達な声とともに見慣れた明るい髪と精悍な顔立ち、そしてスーツ姿が近づいてくるものだと――思っていた。
『今年も趣向を凝らした展示になっているから、楽しみにしていてくれ』
いつものコミュニケーションアプリにそんなメッセージが届いていたのは昨夜のことだった。
それはてっきり、宇髄さん渾身のブースや展示パネルのデザインのことか、あるいは展示する製品そのものに関してを指しているのだと思っていた。
だから、こんなの、わたしは全然全く聞いていない!
「わー、煉獄さんも白衣なんだ!」
「似合ってるじゃん!」
まぶしく光を反射する裾をはためかせながら、人ごみの間を縫って近づいてくる煉獄さんの姿といったら、絵になるとかならないとかいう次元を超越している。
その場で卒倒しなかったわたしを誰か褒めてほしいレベルで、格好良くて、格好良すぎて、正視ができない。
「何着ても似合うとかずるいよなー」
「恐縮です」
上司の軽口にソツなく応じながら煉獄さんはわたし達の一団に合流すると、何を思ったかわたしのすぐ左脇で足を止めた。
思わず小さく「ひっ」と息を呑み、一年前の展示会での出来事がふと脳内にフラッシュバックする。
キメツ商事のブースを後にする間際、しのぶさん、冨岡さんと交わした何気ない雑談――。
『白衣って、何か格好いいですよね。五割り増しくらいで格好良く見える気がします』
『あら。つまり普段は、あまり格好よく見えてないってことでしょうか。白衣着ててよかったですねぇ、冨岡さん』
『俺に振るな』
『あああ……。しのぶさん、そういうことではなくて〜〜!』
『ふふ、冗談ですよ~』
ひらひらと華奢な手をひらめかせながら笑っていたあの時のしのぶさんの表情と、先ほどの何か含みのある笑みを浮かべていた表情とが、脳裏で重なったのは気のせいだろうか。
身体の左側に顔を向けることができず、正対する位置に佇むしのぶさんへと視線を注げば、それはもうきれいな「にっこり」という擬音がふさわしい笑顔で返された。
「では、そろそろ移動しましょうか。――胡蝶」
「はぁ〜い。さ、皆さんこちらですよ〜」
煉獄さんから目配せされたと思しきしのぶさんは、なぜか一層笑みを深くして踵を返し、一段の先頭となって歩を進めた。水面で連なるカルガモの親子よろしく、先導するしのぶさんの後ろを社長、上司、冨岡さんと続いて、宇髄さん肝入りのデザインと思しきホログラム加工の施されたアルミ材で組まれたゲートへと吸い込まれていく。
「我々も行きましょう」
聞き慣れた低音が耳に届くと同時にやんわりと腰のあたりを促されて、わたしは機械仕掛けの人形か何かのようにぎこちなく一歩を踏み出した。
――その、瞬間。
「俺は五割増し……いや、二割増しくらいには、格好よく見えているだろうか?」
なんて。
どこか笑いを含んだ声と呼気が耳元を掠めて、わたしはまた短く息を呑んだ。
その瞬間を過たず、煉獄さんは長い脚を存分に活用して大きく一歩を踏み出すと、半歩足を進めた中途半端な姿勢で硬直するわたしの正面へと回り込んだ。
まるで残像のように、目にも眩しい白衣の裾が、視界の端でひらりと舞う。
「格好、よすぎ……です……」
そう力なく呟きながら、わたしは両の手で顔を覆った。顔が、頬が熱くて、心臓は忙しなく拍動を繰り返していて、今が仕事中でなければわたしは間違いなく叫びだしていたと思う。
化繊の擦れる音、それからふっと、小さく息を吐き出す音が耳元でしたのを最後に、そこから先の記憶はない。