【夏五】シンデレラ 軽やかなベルの音と同時に扉が開いたときから、店内の視線はずっとひとりの男に釘付けだ。
細長い店内をさらに半分に割るような長いカウンター。店内にはこのカウンター席が7つしかない。私とは反対側に座っている、デート中らしきカップルの彼女は、まるで芸術作品のような横顔にうっとりと見惚れている。ただ、彼氏の方も同様なので、浮気だなんだの喧嘩には発展することはないだろう。
「マスター、いつもの」
少し不機嫌そうな声で告げられた注文にも、ひとりカウンターの向こう側に立つ壮年の男は気を害した様子もなく、はいはいと頷く。小洒落たバーのマスターというよりは、このあたりを縄張りにしているヤクザと言われた方が納得してしまいそうな強面である。その見かけにビビって引き返す者もいると聞いたが、2人のやり取りを見るに、どうやら常連であるらしい。
――失敗したな。まさか、彼が来るなんて。
とはいえ、そそくさと逃げ出すのは少々面白くない。注文した酒も、まだ一口分しか減っていないのだ。
「はいお待たせ」
18時から開店するここは、当然酒を楽しむ場所である。しかし男の前に当たり前のように出されたのは、どう見てもクリームソーダだった。向こうのカップルも目を剥いている。
はるか昔、まだ子供の頃に食べた記憶はある。緑色のソーダの上にバニラアイスが乗っかっていて、ご丁寧に天辺にはサクランボまで付いていた。
男は早速アイスクリームに齧り付き、ソーダを啜った。こんなところまできて注文するほどの好物なのに、顔はずっと不機嫌に顰められたままである。
好きなものを食べているときくらい、嬉しそうな顔をすればいいのに。余計なお世話が頭を過ぎる。
「随分久しぶりじゃないか。忙しそうだね」
洗ったグラスを拭きながら、マスターが近況話を持ちかける。
「そりゃもう。上がクソだからさ」
ブツブツ文句を言いながらも、アイスを掬う手は止まらない。
「今日もこれから仕事」
「…そりゃ、ご愁傷様」
聞くつもりはなくても、椅子2つ分空けて隣に座っていれば嫌でも耳に入ってくる。
カウンターに置いていたタバコに手を伸ばす。すでに3本は灰皿に潰していたが、久しぶりのヤニの味に体はすぐに次を求めるのだ。同居する子供の為に控えていたが、今日ばかりはその衝動を我慢することをやめた。
この距離で、男が気づかないはずはない。しかしこちらへ一度も視線を向けることはなく、存在を無視することに決めたようだった。
ならばこちらも遠慮する必要はない。
その後も、当たり障りのない話は続いた。主に男が愚痴を吐き出して、マスターが本当に聞いているのかいないのかわからない相槌を打つ。流石に仕事の詳細を語ることはしないが、今もしっかり振り回されているらしい後輩の話が出たときは、少しだけ同情した。この男の相手はさぞかし骨が折れるだろう。
クリームソーダのグラスは、あっという間に空になったが、追加注文をするつもりも帰るつもりもないらしい。次の仕事とやらまでの時間潰しなのかもしれない。
もう一杯くらいならいいかとマスターを指で呼び、おかわりを注文するついでに、もうひとつ付け加える。
「彼に、シンデレラを」
視界の端で、微かに身じろぎしたのがわかった。マスターは少し驚いた顔をしたが、すぐに畏まりましたと答えた。
オレンジジュース、レモンジュース、パインジュース。3つがシェイクされて、グラスに注がれ、男の前に差し出される。
「…酒、飲めないんだけど」
視線は相変わらず前を向いたまま、文句だけが飛んでくる。
「知ってる。それはノンアルだから大丈夫」
飲むか飲まないかは自由だけど。男はオレンジ色のカクテルをしばらく睨んでいたが、やがて恐る恐る口に運ぶ。警戒MAXの様子に、笑いが込み上げた。
――君が恐れるものなど何もないはずなのに。
一口、二口。口には出さないが、甘口のカクテルはお気に召したようで、結局は飲み干してしまった。
グラスが空になったとき、壁時計の針はちょうど0時を刺そうとしていた。グラスを一気に空にして、立ち上がる。数枚札を置いて、タバコをポケットへ戻す。
魔法の時間はおしまいだ。
「お釣りはいらないよ」
「…ありがとうございました」
外へ出るには、男の後ろを通らなければならない。
男は、相変わらずこちらを見ようとはしなかった。その頸が、目の前に晒されている。淡い明かりを反射して輝く髪は最後に見たときよりも短く刈り上げられていて、出会ったばかりの頃を思い出した。
ほとんど無意識に、手を伸ばしていた。触れられるはずはないと思っていた、のに。
短いけれども、柔らかな感触。あのときと、変わらない。
常に機能しているはずの術式は、この手を弾くことはなかった。
「――――じゃあね」
湧きあがった感情が形になる前に、店を出る。
「マスター、これおかわり」
扉が閉まる直前に、少しだけ明るくなった気がする声が聞こえた。
「夏油様、いかがでしたか」
外で待っていた車に乗り込むと、待っていた菅田が尋ねた。
「んー期待はずれだったかな。あまり役に立たなそうだ」
「そうですか」
彼女は――彼女も、と言った方が正しいか――夏油の言葉を疑わない。すぐに、じゃあ次の候補を探しますと続ける。切り替えが早いのも、彼女の美点だ。
夏油があのバーを訪れたのは、あのマスターがこちらにとって使えるかどうか確かめる為だった。
あの男は他人に隠し事を語らせることができるという風変わりな術式を持つ呪術師だった。自分より力が弱い相手にだけ発動できる、という条件付きではあるものの、その力を活かしてあらゆる情報を手に入れ売りさばく情報屋である――という噂だった。術式を使える相手が限られているとはいえ、呪術界にも猿どもの社会にも顔が広い。味方に引き入れれば役に立つと考えて来てみたのだが。
計画は白紙である。こちらが声をかける前に、すでに向こうに属していたことがわかった。それがわかっただけでも収穫である。知らずに誘って、こちらの情報が向こうに筒抜け、なんてことにならずに済んだ。
それに。
「行きつけを、奪ってしまったら可哀想だからね」
「?なにか」
「いや、なんでもないよ」
触れた右手を見つめる。ほんの一瞬の邂逅。その名残を、そっと握りしめた。