ずっと昔の夢を見る。高い頻度ではないけれど、忘れた頃に襲い来るそれが、鯰尾藤四郎にとっては酷く不快だった。
「なんで、よりによって今なのかな」
うなされた夜に飛び起きて、寒々しい隣を見つめため息を吐くのは、これが初めてではなかった。同じ悪夢を見た夜に、黙って手を繋ぎ合う兄弟は今、ひとりで修行の旅に出ている途中だった。
なかなか修行に発つ踏ん切りがつかなかった鯰尾とは違い、彼の兄弟──骨喰藤四郎は、知らぬ間に決意を固めてしまっていたらしい。出立の朝、彼を笑顔で見送りはした。けれど、鯰尾の心中は複雑だった。だって、まるで骨喰に置いていかれたみたいで──そこまで思い返して、彼は頭を横に振った。燃えて記憶が何一つない兄弟は、一部の記憶がないだけの自分よりも、深く大きな焦燥を感じていたのだと、よく知っていたから。
今夜はやけに寒さが堪える。未だ帰ってこない彼を案じながら、鯰尾は早朝の二度寝を決め込むのだった。
骨喰が帰ってきたのは、その日の夕刻だった。直接迎えには行かなかった鯰尾は、出陣先から帰った後に自身の兄弟が帰還したことを知った。いや、正確に言うと、彼の修行が今日までだというのは主から聞いていた。けれど、鯰尾にはまだ、心の準備ができていなかったのだ。骨喰の変化を受け入れるだけの、準備が。
「ただいまー……」
「おかえり、兄弟」
「骨喰!」
惰性で口にした挨拶に返事があることが、こんなに嬉しいことだなんて、鯰尾はついさっきまで知らなかった。
(ああ、確かに違う)
一目見て、その雰囲気の変化を悟る。表情が幾ばくか明るくなって、どこか憑物が落ちたようだった。手に薄く力が入って、微かに指先が震える。それに気づかれないよう、鯰尾は平静を装って笑いかけた。
「強く、なったんでしょ?」
「ああ、勿論だ」
「明日、俺と手合わせしてよね」
ああ、と柔らかく笑う兄弟は、どこか懐かしいようで新鮮な、不思議な表情をしていた。鯰尾はその手をそっと引いて、骨喰と共に縁側に腰掛ける。夜の空気が冷たく二振りの頬を撫でていく。月がじっと兄弟の横顔を照らし出していて、鯰尾の目には、それがやけに神々しく映った。
「兄弟に、話したいことがあるんだ」
重ねられた手はそのままに、骨喰はぽつりと呟いた。本能のような何かが、聞いてあげるべきだと告げている。けれど、知らなくていいと思ってしまう心が邪魔をして、鯰尾はそれ以上を促すことができなかった。
「俺ばかりが話しているなんて、普段とはまるで逆だな」
「俺……」
「そのままでいい。聞いてくれるだけでいいんだ」
そうして彼は話し始める。どちらかと言えば寡黙な骨喰には珍しく、とりとめもない話をこぼれるままに口にしているようだった。大坂で見聞きしたこと、かつての主たちのこと、そして、あの戦火のこと。
「俺はずっと、自分もいち兄や兄弟たちと同じで焼けたから、記憶を全て失ってしまったのだと思っていた。でも、違ったんだ」
俺は、俺ひとり置いていかれてしまったのが、悲しかったんだ。どうしようもなく悲しくて、全てを忘れてしまったんだ。
鯰尾はそっと、顔を上げる。重なった手に、強く力が入ったのがわかった。骨喰の視線はずっと月に向けられたままで、なのにその言葉は、胸を灼くような熱さをもっていた。
「骨喰を、置いていったりしないよ」
「わかっている。俺だって、兄弟を置いていきたくない」
咄嗟に出た言葉に、彼は澄んだ笑みで返した。──ああ、骨喰はもう、過去を見、受け入れ、そしてきっと、優しく手放したのだ。固執するものではなく、彼自身を形作る物語として。何か肩の荷がすとんと降りたような、目の前がすっと開けたような、そんな気がした。
「骨喰」
「なんだ、兄弟」
「俺、明日から修行に行くよ」
骨喰は、静かにそうか、と頷くだけだった。彼はきっと、とっくにわかっていたのだろう。いつの間にか降り出していた雪が、やはりその横顔を淡く照らし出していた。
明朝。遠くで鶯が鳴いている。修行帰りの骨喰と手合わせをした足で、鯰尾はそのまま修行の支度をした。過去を見つめる旅に出る準備は、今度こそできている。何よりも、兄弟のすぐ隣に、誇りを持って立ち続けるために。
「いってきます!」
春はもう、そう遠くないところまで来ている。声高に叫んだ挨拶の向こう側で、兄弟が「待っているぞ」と笑っている気がした。