一応の自己弁護をしておくと、「やってしまった」と思わなかったわけではないのだ、多分。
「後家、お前これで飛ばれたの何回目だ」
「うーん……三回目?」
「五回目だ」
「もうそんなだっけ? ボクそういうの覚えてられなくて」
「お前ッ……! はあ……わかった。お前、もう出ていけ」
オーナーから告げられた言葉の意味を理解した頃には、彼——後家兼光は店の外へと放り出されていた。突き飛ばされて思わず尻餅をつく。飛ばれた分はお前がきっちり払えよ、と怒鳴るのが聞こえて、それからすぐに、ああ雨だ、と思った。玻璃の色をした目に、曇った雨空が映り込む。どこへ行こうかと考えて、どこへも行けないことに気がついた。たった今、後家の唯一の居場所だったところは、目の前でなくなってしまったのだから。半分くらいは、ボクのせいかなぁ。店の外装をぼんやりと見つめながら、彼は他人事のようにため息を吐いた。
後家兼光という男は、生きるのが少し、いやかなり、下手くそだったのだと思う。学校の成績は可もなく不可もなし、大学では農学部に入ったものの、よくいる苦学生と相成り、結局中退してしまって、今や底辺ホストである。いや、もう「元」が付くのかもしれないが。
契約していた古アパートも、ちょうど今朝がた延滞のしすぎで追い出されたし、いわゆる夜の世界というやつに入ってからは友達と呼べるような人間もいない。職は先ほど失ったばかり、ついでに今は土砂降りの雨。
「うーん……八方塞がりってやつかも?」
笑い事じゃないけど。雨水を吸って肌に張り付くワイシャツがやけに気持ち悪くて、しかしどうすることもできずに、適当な店の軒先に座り込む。どうせ服は全て水に濡れてしまっているから、あまり気にならなかった。
「えー……ほんと、これからどうしよう」
思ったよりも呑気にその言葉は響いた。それ以上にこの状況が可笑しくて、笑い声が漏れてしまう。まさか二十代も前半にして路頭に迷うことになろうとは、さすがの後家兼光でも想定していなかった。
雨は無情にも彼の鼻先で降り続ける。傘を差しながら行き交う人々は、こちらなど見向きもしない。まるで、この世界から自分一人が消えてしまったかのように。このまま、雨に流されて溶けていきそうな心地がしていた。
「ねえ」
消されてしまった輪郭を、耳に飛び込んできたその声で取り戻す。急激な実在感に、少しだけ眩暈がした。一、二度瞬きをして、声がした方向を見上げる。最初に気がついたのは、その瞳だった。あ、ボクと同じ色。同じ、薄曇りの空のような、玻璃のような、青。白にも銀にも見える長い髪が、この大雨の中ふわりと広がって、淡く発光しているようにさえ見えていた。背筋がぞっとするような、残酷なまでの美しさが、そこにある。
だからつい。魔が差してしまった、のだと、思う。
「……ね、おにーさん何してる人?」
常ならば絶対に軽くあしらってしまったであろうその呼びかけに、思いつきのように言葉を返してしまった。嘘だ。思いつきなんかじゃない。何かに惹かれるようにして、ほとんど無意識に出た言葉だった。
「同業? ……は違うか、こんな綺麗な人、一度見たら忘れそうにないし」
「うるさ……」
「えー、辛辣」
妙に早鐘を拍つ心臓を無視して、平静を装い捲し立てる。どう見たってホストクラブのキャストなんかやっていなさそうなその男の、どこにあるのかもわからない興味を惹きたくて、後家は場違いな明るさで声をかけ続けた。どうも、この人は言葉少ななタイプに思えたから。
「ていうか、びしょ濡れじゃん」
「あはは、ちょっと追い出されちゃって」
「ほら」
ようやくまともに言葉を紡いだと思ったら、今更そこなのか、と思うような指摘をする。不思議な男だ。どこか浮世離れしている。真っ赤な雨傘をこちらに差し向けるその所作は、まるで絵に描いたように洗練されている。それなのにどこか雑に感じたのはきっと、傾げられた傘の先を伝って、雨粒がこちらへと落ちてきていたからだ。さっきまで雨に降られていたのに、今はその雨粒の一つ一つでさえ気になってしまう。それなのに、意識は嫌にふわふわと浮ついていた。
「入れてくれるんだ。見かけによらず優しい?」
「やかましーよ。ついでにほら、手」
「え?」
どこか落ち着ける場所まで傘に入れてくれるだけだと思っていたものだから、予想外の言葉に素の驚きが漏れる。
「捨てられた子犬みたいだから。おれが拾ってあげる」
素性も、名前すらも知らない怪しい男。恐ろしく美しい人。こんな深夜にこの街を悠々と歩いているなんて、とても堅気とは思えない。わかっている。頭では全部、わかっているのに。
「ね。来るでしょ」
目を細め、薄く妖艶に笑う男から、視線を逸せない。こちらが彼の手を取ると信じて疑わないその表情は、底知れない魅力があった。半ば誘導されるようにその手を取る。指先が震えたのは、見ないふりをした。
「……仰せのままに?」
「よくできました」
にこりと笑うと、その男は軽々と後家を引っ張り起こす。うわ、びしょびしょだ、なんて言いながら、自然に傘の柄をこちらに押し付けてきた。持て、ということらしい。きっと本来、こんな時間に一人で出歩くような立場の人ではないのだろう。頭の片隅でそんなことを考えながら、後家はそっと傘を傾けた。
これ以上道を踏み外すことなんてないと思っていたのに、どうやらそうではなかったらしい。ボクはどうも、とんでもない人の手を取ってしまったようだ。そう気づいたときにはもうあの手を取っていたのだから、それもまた仕方がないけれど。
雨が徐々に弱くなっていく。ここに自分を閉じ込めていた檻が、どこかへ消えていくような錯覚がした。