Redline 第五章 真純からの返信はその日の夕方に送られてきた。確証はないという前置きで、sevilla の入信者を対象にクスリを売り捌いているという噂があること、VRゴーグルが関係すること、入信すると皆性格が変わったようになるということ。情報源は真純の学友、またその周辺から聞き込んだ内容、ということが送られてきた。
この内容を見た志保はいつものソファーに深く沈み込んだ。
例のハッピーパンダが関わっていることは明白だった。志保が解析した結果、あのVRゴーグルには洗脳ができる映像が入っていると疑われていた。しかしそれを解析し切る時間がなかったので不明確なままだった。電子ドラッグといって仕舞えばそれまでであったし、試すにしても危険が高すぎる。
こんなことを降谷に相談してしまえば、自分で試すと言い出しかねない。志保にとってはそれだけは回避したかったのだ。
志保は殻を張った。
これ以上、シェリーとしての自分を知られたくないと、殻を張った。より厚く、殻を張る。
誰も信じていないわけではないが、宮野志保と生きていくため、シェリーとしての宮野志保は知られたくなかった。これ以上、失望させたくなかった。
志保は、成川潜入捜査用の入信基準を満たしそうな情報をでっち上げると、降谷たちが詰める会議室へと戻った。
会議室のホワイトボードの前では、成川が真剣な面持ちで風見の説明を聞いていた。
(一体いつまで潜入捜査の勉強してるの?)
志保の準備は整ったので、あとは成川へ辻褄合わせを叩き込むだけだと思っていたからだ。しかし、あの様子では今日は無理だろう、と早々に諦めることにした。
「あの様子だと、私の番は明日かしら」
会議室前方の司令部でラップトップへ向かう降谷に志保が声をかけると、そうだな、と顔を上げる。
「今日叩き込んでも寝たら忘れるだろう」
二人の視線の先は風見と成川だったが、降谷の言葉に思わず降谷へと視線を移す。
「え、ちょっと。降谷さんの中での成川くんの評価ってそんな感じなの? ひどくない?」
「そうか? まだまだひよっこだからな」
ひよっこ。確かに成川は今年配属されたばかりの新人に変わりはないので、ひよっこには間違いないのだが、きっと降谷にとっては風見にさえひよっこと言いかねない。そうなると、成川は卵から孵ったばかりで目も見えていないひよっこだ。
「降谷さんから見たらみんなひよっこでしょ」
「そうかもな。さ、帰るか」
パタン、とラップトップを閉じて立ち上がった。その時だった。開け放たれた会議室の入り口の扉をコンコンとノックする人物。視線を向ければ赤井が立っていたので、降谷はあからさまに怪訝な表情に変える。これはもはや、条件反射なのだろう。
「降谷くん、ちょっといいか?」
「帰るところだ。明日にしてくれ」
赤井を無視するかのように帰り支度をし始める降谷だが、赤井はお構いなしに降谷の元へとやってくる。人の話を聞いていないのはもはやデフォルト。そんな赤井と降谷のやりとりをいつも見ている志保にとって、これももはやデフォルト。日常。
「本国からの報告で、sevillaの活動が活発化しているとのことだ。もちろん、薬の件も上がっていて、君たちの言う『ハッピーパンダ』と同じものなのか照合したいとのことだ」
降谷の前、志保の側に立つ赤井に、ため息を一つついて、で? と聞き返す降谷。
「言いたいことははっきり言え」
「解析結果の共有を要求する」
まがいなりにも合同捜査なのだから、資料共有の要請は妥当だろうと思われる赤井の提案に、降谷は渋々片付けたラップトップを再度開くことにする。
「とりあえずジェイムスに送ってくれないか?」
「そうするつもりだ」
必要なデータを圧縮して鍵をかけると、署内ツールでデータの共有を行う。
「今送った」
「じゃぁ伝えてくる」
用は済んだ、とまたFBIの執務室に戻る赤井の背中に志保が声をかける。
「帰らないの?」
「あぁ、先に帰っていてくれ」
片手を上げてひらひらとさせる赤井の背中に、先に帰るわよ、と投げかける志保。
「意外と仕事熱心なのね。まぁ、このまま喫煙所に行くんでしょうけど」
「本当に、緩急のつけどころがわからん奴だ」
俺たちは帰るか、と降谷は赤井のせいで開いたラップトップを再度しまい始める。赤井が来日して以来、やっと志保と二人きりになれる夜に、降谷は少しばかり浮き足立っていたが、誰も気がつきはしないだろう。
降谷の愛車で帰路に着く。この助手席に座るのも久しぶりだ、と志保は気まぐれな赤井に感謝してシートに埋もれる。眠り始めた夜の街をかける。そんな雰囲気たっぷりの窓の外をよそに、車内の話題は夕飯の話。二人だけだし、車を置いて外食でもしようか、この時間ならいつものBarが空いてるはずだ、そうしましょ。そんな他愛もない会話。
十分足らず走らせただけで、志保の家まで着いてしまう。車があると本当に便利だな、と思う反面、歩かなくなったな、とも思う。いつ契約したのか知らないが、志保の家の近くの立体駐車場に車を停めると、二人並んで夜の街を歩く。
志保の指先が居場所を求めて降谷の指を掴む。冷えた志保の指に気がつくと、降谷は何も言わずにトレンチコートのポケットに自分の左手ごと押し込めてしまう。志保がチラリと顔を上げて降谷を伺うが目線はまっすぐと前を見ていた。その横顔が凛々しくて、頼もしく思える。そして、この横顔が好きだ、と思う。
ふふ、と小さく笑って降谷にくっつく志保に、降谷がどうした、と釣られて小さく笑い合う。
「なんでもないわ」
「変なの。酔ってる?」
「まだ一滴も飲んでませーん」
やっぱり変だ、何それ、と笑い合う。
冬空の下、お互いにくっつき合いながら笑い合って、白い息を上げながらまるでほろ酔いの如く歩く二人。
しばらく歩くと、降谷が突然足を止める。
「志保さん、大変だ」
「え?」
何かと思って降谷の視線を追うと、目当ての店の扉にぶら下がる、『CLOSE』の文字を見つける。店の扉の向こう側は真っ暗だった。
志保は左腕の腕時計を確認するが、いつもなら営業中のはずの時間。だっていつもなら二十四時までは営業しているのだから。
「今日、お休みだったのね?」
「そうみたいだね?」
二人、店の前で立ち尽くす。
この時間で他にやっている店、と思い志保は降谷のポケットから手を取り出して、回れ右。
「あっちのラーメン屋ならまだやってるはず」
そう言って、志保がズンズンと歩いて行くので、降谷はそれに着いて行く。今度は志保が無言で、ズンズンと歩いて行く。そしてしばらく歩いたところで突然立ち止まると、ん、と右手を降谷に差し出す。
「寒い」
寒いから手を握れ、ということか。素直に手をつなげない志保の仕草に、はいはい、と手を取って先ほどと同様にポケットに仕舞い込む。ツンなのかデレなのか、判断に迷うのはいつものことだが、今日の志保の様子はこれでもかなり甘えていると言っても過言ではない。職場で口を開けば喧嘩ばかりしているように見えるらしい二人なので、珍しい部類になる。いつもこうであればと思う反面、たまにだから愛おしく思うのだろうかとも思う。まぁ、降谷にとって、どんな志保でも愛おしいのは変わりないのだろう。
「販路は探れそうか?」
ラーメン屋のカウンターに二人並んでビールジョッキを仰ぐ。つまみはザーサイ。
すっかり忘れ去られたと思っていた販路の話を振られた志保は、返答に詰まった。正直なところ、販路の特定に行き詰まっていたからだ。末端から遡れば容易に辿り着けるだろうとたかを括っていたが、そうは問屋が卸さない。辿っていた糸が、あるところでパタンと途切れてしまうのだ。国内流通の要が追えきれないのだ。
「正直なところ、行き詰まり中よ。肝心なところでブラックボックスになっちゃうのよね。一体、どんな隠れ蓑なのかしら」
末端の販売元は特定できている。しかし、それを遡って辿ってみても仕入れ元がわからない。よほど用意周到なのか、なにか重要なことを見落としているのか……。ここから先は志保の領分ではなかった。
「誰か張らせてみるか……」
「そうねぇ、それがいいかも。ネットで買うと宅配で届くってことは分かっていて、出荷元はこの間報告した通り。その出荷元への仕入方法が宅配なのか手渡しなのかコインロッカーから回収なのか……。末端も転売が横行してるから、本当に末端かも怪しいし……。どちらにしても人の手が必要そうねぇー」
完全にお手上げの様子の志保とは変わって、ここからはやっと自分の領分とする降谷。うまいこと役割分担ができていると思うのだが、それに気がついているのだろうか?
「ま、そういうことはこっちの仕事だろうな」
「よろしくね」
やっと自分の手から離れたことに志保は満足したようだった。
そしてそれを待っていたかのタイミングで、ラーメンが二人の前に置かれたので、この話題は終了し、夕飯にありついた。
志保と降谷が家に着くと、赤井がすでに帰宅していた。玄関を開ければリビングからの灯りが漏れていたのだ。徹夜ないし深夜の帰宅を予想していたので、意外と言えば意外だった。
「帰ってたのか」
「あぁ、おかえり」
赤井はリビングでロックグラスを傾けていた。その横には乾き物とウィスキーの酒瓶。部屋中に充満している香りから推測すると、あれはサキイカ。
「ただいまー」
志保は流れるように赤井の座るソファの斜め向かいの床にぺたんと座り込むと、何食わぬ顔でサキイカに手を伸ばす。
「秀もこう言うの食べるのね」
「サキイカとウィスキーってどういう味覚してるんだ?」
文句を言いながら、ローテーブルを挟んで赤井の前に立つと腰を屈めてサキイカに手を伸ばす。
「君たち、人の夕飯を食べ過ぎだぞ」
赤井の文句もなんのその。降谷は冷蔵庫から缶ビールを二本持ち出し、志保の前のローテーブルに置く。そして赤井の向かいに座り込めば、宴の始まりだ。志保と降谷が缶ビールを開ければ、誰ともなく、お疲れ、と乾杯をする。
「これが夕飯とか、いつもどんな食生活してるの? 何か作る?」
作ろうか、と提案をしていながら動く気などさらさらない志保。もちろん、降谷も動く気はさらさらない。
「いや、これで十分だ。ナッツもある」
赤井はソファの上に置きっぱなしにしていたコンビニの袋の中から、ミックスナッツの袋を取り出すとポンとローテーブルの上に差し出す。
「極端に少食になるよな」
赤井が差し出したミックスナッツの袋に、なんの躊躇も断りもなく手を出すと勝手に封を切る降谷に、それを待ってましたと言わんばかりにナッツをつまむ志保。
「少食っていうか粗食ね」
「その粗食を奪わないでくれ」
「あら、意外にケチなのね」
「ケチだな」
二人からケチ、と言われて赤井は釈然としない。だって、この二人は夕飯を食べてきている。自分より早く帰った二人が、自分より遅く帰ってきているんだから、そうだろう?
「……君たち、食べてきたんだろう?」
「それとこれとは別だ」
「そう、別」
何を言っても暖簾になんとか。志保と降谷はお構いなしにサキイカとナッツをつまみにビールを仰ぐ。きっとこれはもう何を言っても自分の夕飯が減っていくのは止められない。仕方ない、と諦められるのは長男ゆえなのか、年下二人が弟妹のようにさえ見えてしまう。血縁の弟妹と比べると、随分と図々しいが憎めないのだ。
翌日。志保は成川へ昨日のうちに作り上げた偽物の経歴について説明をしていた。ちょっとマイナーな研究会の参加履歴ににオープンソースへのプルリクエストの記録。志保が描いた経歴は、学生の頃から外部の勉強会にもカンファレンスにも積極的に参加する、外交的でコーディングが好きな青年だった。
「この辺、あなたが出したプルリクだから内容は理解しておいて。あと、入信テストの過去問も手に入れたから目を通しておいてね。このくらい解けるでしょ?」
会議室に置かれていたモニターに志保が用意したそれらを映し出し、その横で成川は食い入るようにモニターに向かう。モニターに映るそれらは決して難しいものでもないし、特別なものでもない。自分が学生時代に通ってきた道だし、理解もできる。
しかし。
「これ、昨日のうちに作ったの?」
「えぇ、そうね。ちょっと法は犯したけど」
警察官の前でさらりと言ってのけるのは、どういう神経をしているのだろうか。ここまでさも当然のように言い退けるのだから、自分の上司はこういうことを黙認しているのさろう。いつも、そうなのかもしれない。
「そんな顔しないでよ。証拠は残していないんだから、誰も私を裁けないわ」
成川の疑念が顔に出ていたのか、志保は眉尻を下げながら申し訳なさそうに、その割には自信に満ちた顔で、志保は言い放ったのだ。確かに、証拠が残っていないのであれば誰もそれに気がつけないし、取り締まることもできない。だから、裁けない。志保の言うことはもっともだし、きっと真実なのだろう。
そんな人物と自分は、同じ大学で同じ教室で講義を受けていたのかと思うと、背筋が伸びた。
学生の頃から、他とは違う、頭ひとつ、いや、ふたつは飛び抜けていることくらいわかっていた。万年二位、は生まれ変わっても追い抜けないということもわかっていた。いつも志保の背中を見ていた自分だから、わかっていることだった。わかっているつもりだった。
それでも、現実の彼女はもっと先を走っていた。
「今日中に理解しておいてね。入信試験は今日の十九時だから」
成川は志保の言葉を頭の中で反芻する。今日中の理解。今日中。試験は、……今日?
「今日!?」
すっとんキョンな声を頭のてっぺんから出すと、周りの視線を一斉に集める。
成川のその反応に、志保はきょとんとする。だって、そのくらいの無茶振り、公安ならいつものことなのだから。
「そうよ? 今日。このくらいの内容、成川くんならいけるでしょ?」
確かに、この内容を今日中に詰め込むことはできるだろう。しかし問題はそこではない。
「え、いや……うん……」
歯切れの悪い成川に、大方、心の準備ができるのかという不安があるのだろうということを志保は理解していた。初めての潜入で、しかも時間がない。不安なのはわかっていた。
でも、それが彼の仕事なのだ。
「わからないことがあったら聞いて。じゃぁ、よろしくね」
突き放すような言い方に、ちょっと意地悪だったかとも思ったが、ここは彼の乗り越えなくてはならない試練なのだと、志保はその場を後にした。
志保は次の作業指示を仰ごうと降谷の元を伺うと、FBI連中と降谷の周りに群がっていた。何か動きがあったことは明白だったため、志保はそこにそろりと近づく。
群がる円の外側で聞き耳を立てようとすると、それをめざとく見つけるのは降谷だった。顔も上げずに、ちょうど良かった、と声かける。
気配だけでわかったのかと感心する一方、そっと聞いていたかった志保は、見つかってしまった、と罰が悪そうでもあった。
「昨日、FBIに例のハッピーパンダの解析結果を送っただろう?」
「あぁ、一致したの?」
「そう」
やっぱり。と心の中だけでつぶやく。真純からの情報では米国にも sevilla の拠点はあったので、想定の範囲内だった。
さて、米国がどう動くのか。
「こっちは危険薬物としての摘発が可能という報告が来ているので、いつでも摘発可能だよ」
ジェイムスの発言に、公安陣営が揃って眉をひそめる。だって、日本での摘発はまだ難しいのだから。
「足並みが揃わないわね」
「日本でも法は犯しているんでしょう?」
そう疑問をぶつけるのはジョディーだ。確かに彼女の言うように法は犯している。しかし。
「こっちはせいぜい薬事法か麻向法くらいでしか裁けないのよ。リタリンの亜種だって扱いだから、無免許販売とか罰金刑が関の山ね。法改正しないと、そちらとの足並みとは揃わないわ」
一同、口をつぐむ。そして、うーんと唸り始める。それは例の薬物が『ハッピーパンダ』だと判明してからの課題だった。日本では取締まれる法律が緩い。公安が狙っていたそれとは随分とかけ離れていた。
どうしたものかとてんを仰ぐ風見だったが、沈黙を破ったのは難しい顔をした降谷だった。
「いや……麻特法で行こう。手続きを頼む」
麻薬特例法。国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図ることなどを目的とする法律。
米国が動けるのであれば、日本もそれに追随できる。今はそれに賭けるしかない。
降谷の言葉に一同の表情が明るく、いや引き締まったのは言うまでもない。各々やるべきことが明確化し、動き始める。本国に連絡をすると、FBIはあてがわられている執務室に戻り、残ったのは、日本陣営。
降谷は上に掛け合ってくる、とまた席をはずす。風見とその部下たちは上からの承認が降りた際にすぐに動けるよう準備に走る。取り残された志保は、ひとまず休憩でもしようかと、休憩室へと足を向けた。