Redline 第四章 翌朝。志保はいつも通り六時には起床し、降谷と朝のランニングへと出かける。コースはいつも通り、皇居を一周。降谷のペースだと二周は出来るのだが、志保と一緒に走るときは志保に合わせている。ゆっくり目のペースで二人のだけの会話を楽しむことがメインになっている。
今日の会話のメインは、昨日のこと。家に帰ってからは食事だのなんだのでゆっくり会話をする時間はなかった。
「変な隠しファイルを見つけたから今日朝一で報告に行こうと思っていたの。工藤くんはあなた達の領分だからって興味ないみたいで」
「ちなみにどんなファイル?」
「企業名と数値の一覧ね。で、そのファイルが入っていたのが『sevilla』って隠しフォルダの中だったんだけど、これがね」
真純に口止めされていたことを思い出した志保は言い淀む。
昨夜、寝る前にベッドの中でスマートフォンで調べた結果、確かに『sevilla』という新興宗教が存在することを確認している。その『sevilla』は日本発祥であること。信仰神はイシドールスなのだから、なんとも安直なネーミングだ。真純の言った通り、若手エンジニアの中で流行っているらしく、インターネットを介して広まっているのか拠点は世界中に点在していた。もちろん、真純の居るイギリスも例には漏れない。エンジニア向け勉強会やカンファレンスを積極的に開催しており、協賛している企業も少なくない。入信基準も厳しいらしく、それなりに実績なければいけないのだと言う。例えば、エンジニアとしての活動ないし登壇経験、PullRequestの数、コントリビュート数、テストもあるとかないとか。これならばホワイトハッカー協会の方が入りやすい、とまで思った。
そこを紐づけて話すべきなのか、真純の件もあるので黙っておくべきなのか、思案する。まだ、この新興宗教を一致しているとも限らないし、何より不確かすぎる。志保の第六感だけが警戒をしている。そんな状況。
「これが、『sevilla』なんて地名しか思いつかなくって」
志保の答えは隠すことだった。
まだ不確かすぎる。こんな不確かな状況で捜査に水を刺すわけにはいかない、と言うのが志保の判断だった。
降谷は、志保の一瞬の迷いに気がついていたが、ここは流すことにした。流すというよりは、泳がす、と表現した方が適切だろうか。
「そうか、後で見るよ。その様子だと、工藤くんの推理は働いていないんだな」
「そうなの。一瞬調べて、興味ないーって。子供みたいだったわ」
「美味しそうな謎じゃなかったんだろうな」
「謎に味なんてあるの?」
「さぁ? 今度彼に聞いてみたら?」
「自分で言ったんでしょ!」
二人はケタケタと笑い合いながら朝のランニングを楽しんだ。帰ればいつものように赤井が起きてきていてコーヒーを淹れているのだろう。いつも自分の分しか淹れないので志保と降谷に文句を言われる。それでも毎朝自分の分のコーヒーを、好みの濃さで淹れて朝の一服にまどろんでいる。そして降谷が朝食を用意する横に並んで、志保は自分の弁当の準備をする。そんな彼らの日常。
会議室のプロジェクターに映し出された、昨日志保が見つけた表計算ファイル。それを見上げるのは降谷、風見、そしてなぜかこの場にいる赤井。
「ね? なんだかわからないでしょ?」
志保の言葉に、何も言葉が出ずに唸るだけの大人が三人。皆一様に首を傾げている。企業名とその横に並ぶ謎の数字。後一つ何かキーになるものがあれば、と思うがそううまくはいかないものだ。
「販路とか関係ないかも知れないんだけど、隠しフォルダに入れないといけない何かなのよね。しかも毎月」
わざわざ隠しフォルダに入れてまで管理したかったもの。そして誰かの手によって初期化されていたラップトップの中に入っていた情報。
これだけで十分美味しそうな謎なのに、今なら真純からのスパイス付きなのに、と昨夜興味を示さなかった新一のことを恨めしく思っていた。
「風見、これ、誰かに探らせておいてくれ」
「その必要はないかもしれねぇぜ?」
会議室に颯爽と現れたのは、新一だった。
そして、捜一の捜査結果から、ラップトップの持ち主がセヴィリャの信者だと告げられる。
「容疑者の男の名前は新藤裕司。三十歳。仕事はシステムエンジニア。学生の頃からセヴィリャに入信しているらいし。ちなみに、『sevilla』って、セヴィリャとも読むらしいぜ?」
自慢げにそう告げる新一には、もっと先のことが見えているようだった。きっと、セヴィリャのことも調査済みなのではないだろうか。
この時、志保は状況の理解が追いついていなかった。公安の追っているものと、捜一が追っているものと、まるで別々のものだと思っていたからだ。
「ちょっと待って。話を整理させて」
多分、この場で状況が理解できていないのは志保だけだ。志保が一旦、状況整理を申し立てる。
「捜一が追ってるものと、降谷さんたち公安が追ってるものは一緒ってことでいいのよね?」
新一の表情はあからさまに今更感が滲み出ていたが、そういえばちゃんと説明をしていなかったなと降谷が口を開く。
「正確に言うと、捜一が追っているのは、原宿の悪夢の犯行理由で、容疑者は君の言う『ハッピーパンダ』を所持していたことは判明している。公安が追っているのはその『ハッピーパンダ』の販売元、製造先、もろもろ全てだ。結果として捜一の捜査線と公安の捜査線はぶつかっている。その先はまた分岐するがな」
本当に分岐させるつもりがあるのか、公安部の性質上疑問は残るが、状況は理解できた志保。
降谷が、公安の追っている事案の真相を言ったか言わないかはその時の志保にとっては気にしなかった。案の定、その場にいた風見はそれを汲んでいたし、新一も何か別の裏があることは察していた。
しかしそれは、志保自身も全ては伝えていないのだから、お互い様なのだ。
「状況は分かったわ。で、FBIはどう絡んでくるの? FBIも同じものを追ってる、という認識でいいのかしら?」
「そうなるな」
赤井の肯定に、ふーん、と気のない返事をする志保。
昨日の真純からの連絡といい、ことトントン拍子に進みすぎている違和感を感じながらも、とりあえず今の状況を飲み込み考える。セヴィリャという新興宗教が胡散臭い、と表現していた真純の言葉だ。何が胡散臭いのか、突っ込んで聞かなくてはならなくなった。志保の考えでは、まだ、その新興宗教と『ハッピーパンダ』は紐づけられていない。紐づいたとして、捜一が追う『竹下通りの悪夢』との関わりはなんのか。
やることが多くなりため息を一つつく。
「話、戻していいか?」
天使が通ったところで、新一から声が上がる。そういえばそうだったと、気がついた志保が、どうぞ、と続きを促す。
「俺が推測するに、これって所謂『お布施』じゃないか?」
「別にお布施や献金は法的になんら問題ないだろう。それをわざわざ隠しフォルダに隠す意味は?」
降谷のもっともな返答に、そうだよなーと、頭の後ろに腕を考えて悩むふりする新一だったが、いいことを思いついたと風見と降谷を交互に見やる。
これは嫌な予感しない、降谷。
「そこで、公安でこの宗教のこと調べらんねーかなーって思って。ほら、お得意の潜入捜査とかさ」
「そうやって公安を便利屋みたいに使うのは君くらいだよ」
「風見、誰か行かせてくれ」
風見はメガネのブリッジをくいっとあげると、了解です、と返事をし、あたりを見渡した。公安部の中でエンジニアに適正のある人物など居たか? と思考するが、パッとすぐに出てきそうにはない。学歴からさらうしかないか、と自身のタップトップを開きに行こうとした時だった。
「はい! 自分、行きます! 自分、電子工学部だったので多分適任です! あと年齢的にも!」
勢いよく手を挙げたのは成川だった。どこから聞き耳を立てていたのか知らないが、突然現れたので全員の注目が集中する。
確かに、専攻がそうならば適任だし、年齢的にも若い信者が多いという点で適任だ。しかし、それでも問題はある。
「……成川、君、潜入経験は?」
「ない、です……」
初潜入を一人で、というのはいくら降谷でも気が引けるのか考え込んでしまう。考え込む降谷の横で、同じく考えこむ風見。
「誰しも初めてあるだろう。何がそんなに問題なんだ?」
至極当然のことを言い放ったのは赤井だった。確かに誰にでも初めてがある。それが成川にとって今回なだけで、何が問題なのか、といういいようだ。そんなに過保護なのか、とは口にしはしないが含まれている気がして怪訝そうに赤井を睨むのは降谷、と風見。
渋い顔をしている大人たちの横で、志保は逆に適任だと思ったのだ。『万年二位の成川くん』は、一番になれなくても二位だった。志保に次ぐ成績だったことは確かで、志保はそれだけで成川の能力は使えると思った。
「成川くんが潜入するなら必要な材料は揃えておくわ。入信基準は満たしていなさそうだから」
いいでしょ? と辺りを見渡すと、皆一様に渋い顔をしていた。それに納得いく訳がなく。
「何よ、この私がフォローするって言ってるんだからそれだけで十分じゃない? それとも私のフォローじゃご不満かしら」
腕を組んで少し頬を膨らませて怒る様子の志保に、降谷は頭を振る。
「そうじゃない」
「じゃぁ何よ」
「なんで、君は入信基準について知っているんだ? 僕たちはこのセヴィリャという宗教を今初めて知った。それなのに君はあたかも以前から知っている、さも当然かのように入信基準という言葉を出したよな?」
「そのくらいの情報知ってるわよ。私だってそのくらいのツテはあるわ。仕事柄、情報なんていくらでも入ってくるのよ」
「でも君たちは昨日あのファイルを見つけた時、『sevilla』について何も知らなかった。 そうだろう?工藤くん」
「あぁ、そうだな。降谷さんの言う通りだ。宮野、お前何か知ってるんじゃないか?」
「志保」
赤井まで志保に話すようにその名前を呼ぶ。ほんの少し前まで注目を浴びていたのは成川だったはずなのに、一瞬で注目は志保に集まる。
この状況下で黙っている方が難しい。いや、頑固な志保なことだから、黙っていることはできるかもしれない。真純との約束がある手前、情報源を出すわけにもいかない。そこを省いてどう説明するか。否、黙り込むか。
「……全部は言えないけれど、タレコミがあったのよ。日本以外の国で、セヴィリャという新興宗教が若い世代の間で流行っているけど、なんか胡散臭いってね。だから、私なりに調べたの。でもちょっとよ。昨日の夜、寝る前に本当に少し調べただけだから、確証もないし。私の性格知ってるでしょ? 確証がないことを言いふらしたくなかったのよ」
志保の言葉に、この場にいた人間のうち、降谷と赤井、新一は確かに志保の性格ならば、とこれ以上疑うことはないと思った。タレコミ、というのも気になったが、多分、今言わなければ追求しても吐くことはないということもわかっていた。これが精一杯の譲歩だということを理解していた。
だから、仕方ないな、と降谷が一つため息をつく。
「新一くん、君の盗聴器を貸してくれ。ヘッドセットだとバレやすい。宮野さんはとりあえず、その入信基準を満たすような情報を揃えておいて。風見は成川に潜入捜査のイロハを今から叩き込めるだけ叩き込んでおけ。以上」
成川の表情が明るくなり威勢よく返事しをし、風見はメガネのブリッジをクイットあげて了解しましたと返事をする。その向かいで志保が腕まくりをして今までプロジェクターに繋いでいたラップトップを片付ける。落ち着いた場所で作業がしたいので、降谷の執務室を借りる算段だ。
「俺は?」
取り残された赤井が降谷へと指示を仰ぐが、
「俺は自分で考えろ。FBIの指揮官は俺じゃない」
と突き放されてしまう。
じゃぁ、と赤井はとりあえず一服してくると会議室を出て行った。
「まったく、自由なやつだな」
降谷の独り言が聞こえたのか、赤井が振り返らずに手を振り返す。そんな後ろ姿が少し寂しそうに見えた、といえば嘘になるがなんとなく構ってやりたくなり、降谷は赤井の後を追い、二人で喫煙所へと消えて行った。
『胡散臭い』の詳細を聞かないと、と志保は真純に電話をかけようとスマートフォンのディスプレイを覗く。時刻は午前十時。まだ向こうは夜中だ。こんな時間に電話はいくら従姉妹でも失礼か、とスマートフォンをジャケットのポケットに仕舞い込む。
ゆっくり席に座って、メールでもしよう、そうしよう。そう考え中がら、勝手知ったる庁舎をめぐり、降谷がいつも使っている執務室へとやってくる。中を伺うと職員がちらほらとデスクに向かっている。志保の席は、ない。ないが、志保の特等席は、ある。
失礼しまーす、といつものように志保は入室し、部屋奥の二人がけのソファーへと陣取るのだ。この位置からだと室内を見渡せるし、すぐ横には降谷と風見のデスクがある。会話がしやすいこの席にいつも、志保は荷物を広げている。
さて、と、まずはスマートフォンを取り出し、真純にメールを打つ。
例の件、調べられるから、あなたの知っている情報を頂戴。できるだけ詳細に。この後に及んで出し惜しみはなしよ。
こっちは、公安が動いていて潜入捜査も決まったから、材料が欲しいの。
よろしくね。
送信ボタンを押下すると、スマートフォンをジャケットのポケットに戻し、ラップトップを開く。そして、まずは成川翔という人物について、志保は調べることにした。
庁舎の喫煙所はいつも誰かが居るくらいに繁盛している。その証に、ヤニで黄ばんだ壁紙に自動販売機。たまに消火が不十分でヤニの嫌な匂いが充満していることがある。こんな所でさえタバコが吸えるなら天国、と喫煙者は思うのだからその神経がわからない、と降谷はいつも思う。
降谷自身、タバコを吸うことはあるが付き合い程度だ。別に吸いたくて吸ってるわけではない。未だ古びた習慣を引き継いでいる警察という組織では喫煙所でしか得られない情報がありすぎるのだ。
「一本くれ」
先に火をつけた赤井にそう言って手のひらを出すと、無言で箱とライターが手の上に置かれた。日ごろ吸わない割には慣れた手つきでタバコを一本取り出すと、火をつける。
いつも思うがこれの何がうまいのか。
そんなことを思いながらも煙をちゃんと肺にまで入れるんだから、大概だな、と思う。別に今だって、吸わなくてもいいはずだ。しかしこのタバコ臭い空間にいてそれを吸わないというのは損をしている気持ちになるのだ。
「志保さんのこと、どう思う?」
赤井がタバコを咥えながら、喫煙所内の自動販売機で缶コーヒーを購入する。なぜかタバコとコーヒーはセットなのだ。
「あー……あれは何か知ってるだろうなぁ……色々と」
「だよなぁ……」
赤井から見ても、何か隠しているのは明白だった。それを話さない、話してもらえないことに腹が立つ。話てもらえない、自分に。
志保はいつもそうだ。何か知っていても、困っていても、他人を頼ることは滅多にない。甘えるということを知らないのだ。それは恋人である降谷にとっても同じことで、初めのうちはそんなに頼りないのかと凹んだりもしたが、今ではそれは宮野志保という人間なのだと理解をしている。それでも、理解をしていても、少し寂しいことだなと思ってしまう。
これでも話すようにはなったと思う。しかし、やはり完全に頼ってくれているわけではないのが現実だ。
「その分だと、まだ志保の心を完全に掴んだわけではなさそうだな」
痛いところをついてくる。
従兄弟だかなんだか知らないが、無自覚でマウントをとってくるのことに腹が立つ。しかし、赤井の言葉は今の降谷にとって図星以外のなにものでもなかった。
「傷を抉るな。第一、お前も人のことは言えないだろう」
「まぁ、そうだな」
旨くもないタバコを吸いながら、いつもなら誰にも話さないようなことを話すというのは、存外悪くないのかもしれない。自分と同じ目線で会話をできる人物が貴重なことくらいわかっていたが、それを認められないのは長年恨んできてしまったせいだ。
赤井が悪かったわけではないと知った後も、今更仲良しこよしというのも癪に障る。そう、癪に障る存在。それが、降谷とっての赤井秀一という男だった。