空に誓い2「ご、ごめん。散らかってるから、適当に座ってて」
共に玄関から入った五条悟より早く、乙骨憂太は家の中に急いだ。その途中、脱ぎ散らかしたままの服などを抱えて、洗面所に放り投げる。
仲介所で悟とパートナー契約を結んだ後、まさかそのまま一緒に住むことになるとは思っていなかった。仲介所のオーナーであった夏油の話では、悟はここ数年あの仲介所に住んでいたらしい。迷惑じゃないなら連れて帰ってと言われたのだが、それ以前に悟が憂太を抱きしめたまま、一瞬たりとも離れようとしなかった。そんな状態で、「じゃあ、また後日」なんて言えるはずもない。
仲介所を出るときは流石に腕の中から解放してくれたが、その代わり肩を抱いてずっと密着して歩いていた。外を歩くとき、再び悟はその瞳を黒い布で隠してしまった。彼曰く、「憂太以外に見せる理由は無い」らしい。それでも、長身に白い立派な耳と尻尾を持つ悟には、まるで獣の王の様な風格さえ感じさせ、外を歩くと注目の的だった。そんな彼に肩を抱かれて歩くのは、まるで悟に『自分の物』と主張されているようで恥ずかしく、なるべく周囲と視線が合わないよう、俯きがちに急いで帰宅した。
そうして今に至るのだが、玄関を開けた瞬間に家の中が荒れ果てていることを思い出して慌てた。言い訳にしかならないが、普段はもっと片付いている。一緒に暮らしていた里香は綺麗好きだったし、家事は分担していた。
最愛の人が亡くなったというのに、現実は悲しむ時間を長くは与えてくれない。
あらゆる手続きや申請で、あっという間に様々な書類で溢れかえる。憂太同様、里香にも身寄りがなかったので、あらゆる手続きを憂太が行った。だが、手続きの度にまだ婚約者だった憂太は書類上は里香とは他人としか見られず、すべての手続きが非常に煩雑だった。
手続き等の忙しさで気がまぎれる、なんて話も聞いたことはあったが、それは憂太には当てはまらなかった。あらゆる手続きで自分が里香と他人であることを思い知らされ、胸を抉った。一つの手続きが終わるたびに投げ捨てるように書類を置いていたせいで、室内も荒れ放題だ。
そんな書類を一塊にして部屋の隅に運んでいると、悟に肩を叩かれた。
「ご、ごめんなさい。すぐに片付けるから」
振り返ると、いつの間にか悟は黒い目隠しを外していた。何度見ても、青空を閉じ込めたような瞳は吸い込まれそうなほど美しい。
「いいよ、そんなの。それより」
すっと、悟の長い指が部屋の隅を指差した。
そこにあるのは、真っ白な骨壺と、里香の好きな赤と白の花。それに気づいて、憂太は慌ててそこに駆け寄る。
「ごめん、里香ちゃん。ただいま」
骨壺に向かって手を合わせ、憂太はほんの僅かに笑みを作る。
憂太の左手の薬指には、シルバーに小さなイミテーションの石が埋め込まれた指輪がある。婚約したその日、小さな雑貨屋店で里香とお揃いで買った数千円の安い指輪だが、これが二人にとっての婚約指輪だ。
施設育ちが理由とは思いたくないが、互いになかなか就職先が決まらない時期があり、金銭的に余裕もなかった。それでも、お揃いの物が欲しいと二人で選んだ大切な指輪だ。
(里香ちゃん。この家で一緒に暮らそうと思うけど、いいよね)
許可を求めるのではなく、確認だった。都合のいい考えかもしれないが、それで自分が前を向けるなら許してくれる、そんな気がした。
「あ、ちょっと待っててね、今飲み物を……」
そう言いながら振り返って、言葉に詰まった。憂太のすぐ後ろに居た悟も、静かに手を合わせていた。
「あ…………」
自分以外の人が、はじめて彼女の死を悼んでくれた。そんな気持ちになり、必死に一人で立っていた足元がぐらりと揺れ、瞼が震える。
「憂太はこっち」
「え、なに?」
手を繋がれ、連れていかれたのはリビングの先にある寝室だ。セミダブルのベッドがギリギリ置けるぐらいの広さしかない部屋だが、ベッドの上にも物が散乱していてここ数日そこで寝た記憶もない。
そんな雑多な物を悟は布団ごと持ち上げて全部下に落した。
「ひぇっ……、な、なに?!」
急に持ち上げられ、なにもなくなったマットレスの上に下ろされた。そうして、余計な物を退けた布団を上にかけられたかと思うと、悟も同じベッドに入ってくる。
「え、えっと……」
なにがなんだか分からない。だが、戸惑っているうちに抱きしめられ、悟の広い胸の中に顔を埋める格好にされる。
「眠るまでここにいるから」
「あ……」
「眠っていいよ、憂太」
耳元で低く響く声が優しくて、心が震える。
ぶわりと膨らんだ感情が、涙になって溢れ、声が震えた。
「……ありがとう」
「うん」
それしか、言えなかった。
男二人が一緒に眠るには狭すぎるベッドで、胸に空いた穴を埋めるように、包み込んでくれるぬくもりがある。一人じゃない。それだけで、自分は不幸じゃないと思える。
ふわりと柔らかな尻尾が身体の上に乗り、ぽふぽふと足を擽られる。まるであやされているようだと、少しだけ笑えた。笑ったり、泣いたり、まだ自分の感情は動くのだ。
生きている。でも、一人じゃない。
そのぬくもりを感じながら、憂太は静かに目を閉じた。
ゆっくりと浮上した意識の中で、無意識に手を動かす。
それなのに、そこにあるはずのぬくもりを感じられず、憂太はがばりと跳ね起きた。
「さ、悟さん……?」
布団の中にも寝室にも、悟の姿はない。
あれは、自分の都合のいい夢だったのか。ずっと感じていたぬくもりが身体から消えていくようで、思わず自分の身体を抱きしめる。すると突然、寝室のドアが開いた。
「ごめんね。起きる前に戻るつもりだったのに」
「悟さん……」
居た。それだけで、まだ涙腺が緩みそうになる。
すると、駆け寄ってきた悟に抱きしめられた。
「大丈夫。ここに居る」
「あ、すみません……、こんな……」
「謝ることじゃないだろ」
悟の尻尾がぴしりと揺れた。こんな可愛らしい怒られ方があるのかと、悟の腕の中で小さく笑う。
「ところで、なんでさん付け?」
「え、なんとなく……?」
「なんとなくなら、つけなくていいでしょ」
こんな風に触れ合っていると感じないが、黙って立っている悟には気品が感じられた。狼族ゆえの存在感なのか、その凛々しい姿に加え、おそらく年上であろう容姿からさん付けで呼んでいたのだが、それは必要ないと悟に言われる。
「憂太はパートナーで、対等でしょ」
「じゃ、じゃあ。悟……?」
「それでいい」
改めて名前を呼ぶと、満足気に首元に頬を寄せられた。嬉しそうに尻尾を振る姿に、憂太も微笑む。
感情表現が豊かな尻尾は見ているだけで癒される。気持ちが落ち着くまで抱きしめあっていると、突然ぐーっとお腹が鳴った。
「あ、ごめん……」
「良く寝た証拠でしょ」
ほら、と促されて窓の外を見ると、レースのカーテン越しに広がる景色は、すっかり夜だった。慌てて壁の時計を見ると、帰宅からすでに十時間も経っていることに気づく。
「僕、そんなに眠ってたの……?」
「そ。やっと少し顔色よくなったね」
顔を上げた悟に、よしよしと頭を撫でられた。
「食事の用意はできてるから、おいで」
「食事って、悟が?」
「あたりまえ」
手を引かれてリビングへ行くと、部屋はあたたかく、出汁のいい香りがした。
「しばらくまともに食べてなさそうだから、雑炊とスープね。食欲あるなら、アイスもあるよ」
リビングのテーブル前に座らせられ、キッチンに行った悟が手早く食器に盛り付け、食事を運んでくれた。ほかほかと湯気をたてるのは、白身魚と葱の入った雑炊と、刻まれた野菜がたっぷり入ったスープ。こんなメニューが作れる食材が、家にあったはずがない。
自分が寝ている間に、材料を買いに行き、自分のために作ってくれたのだろう。また涙腺が壊れたように、涙がにじむ。
「泣く前に食べなよ。冷めるでしょ」
「うん。ごめん。ありがとう」
ずびっと鼻をすすりながら、レンゲを使って雑炊を食べる。出汁の優しい味とあたたかさが空っぽの胃に染みわたり、ぽろりと涙がこぼれた。
「泣くか食べるかどっちかにしなよ」
「無理。泣くけど食べるよ」
ずびずび鼻をすすりながら、ゆっくり味わうように食べる。トマトやキャベツなど、たくさんの野菜が小さく刻まれたスープはトマトの酸味がきいていて、一口食べるたびに忘れていた食欲が浮かび上がった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらも、食べている間悟はずっと隣に座ってくれていた。泣いて手が止まりそうになると、尻尾にぴしぴしと腕を叩かれ、もっと食べろと促される。そうしてお腹いっぱいになるまで食べる頃には、涙もすっかり止まっていた。
「憂太、満足した?」
「うん。もうお腹いっぱいだよ」
「じゃあ、今度は僕の番ね」
そういうと、悟はごろりと横になって、憂太の膝に頭を乗せた。ぴくぴくと動く耳に誘われている気がして頭を撫でると、悟は満足気に目を閉じる。
自分より一回りも大きな人が、こうして膝に頭を乗せて甘えている。そんな姿が可愛くて、あたたかくて、憂太はぽつりと呟く。
「悟。うちに、来てくれてありがとう」
「憂太は僕が居て嬉しい?」
「うん。嬉しいよ、すごく」
世界で一番不幸なのでは、そんな風にさえ思っていたのに、今はすごく胸があたたかい。里香を亡くした悲しみは一生胸に残るだろうけど、それでも、一人じゃないというのがこんなにも救いになるなんて知らなかった。
あの時、仲介所に入らなければ、悟に出会わなければ、きっと自分は今も味のしない冷たい食事を流し込み、何時間経っても眠れない布団で丸くなっていただろう。そんな姿が容易に想像できる日々を過ごしていたからこそ、今こうして悟と一緒に過ごしていることの方が夢のようだ。
「じゃあさ、ご褒美ちょうだい」
「ご褒美?」
「うん」
そういうと、伸びてきた腕に後ろ頭を掴まれた。そのまま屈むように顔を下に下げられ――唇が重なった。
「なっ……! んんっ!!」
慌てて頭を上げると、追うように身体を起こした悟にまた唇を塞がれる。
そのまま抱きしめられ、何度も角度を変えて唇を舐められた。
「うん。ごちそうさま」
「っ、い、今……なんでっ……」
「なんでって、獣族にとっての一番のご褒美は飼い主からの愛情だよ。愛情表現っていえば、キスとかセックスとか、いろいろあるでしょ」
「――――っ!」
声にならない叫びを上げて、憂太は堪らず立ち上がった。そのまま逃げるように洗面所に飛び込み、内側から鍵をかけてしゃがみこむ。
(里香ちゃんとしか、したことないのに……)
はじめてのキスの相手は里香だし、最後のキスの相手も里香だと思っていた。
それが、こんな形で別の相手のキスをすることになるなんて夢にも思わなかった。
(お、おまけに……、せ、セックスって……)
獣族が求めるのは愛情。それは知っていたが、その表現方法なんて考えたこともなかった。あんなに可愛く見えていた悟の姿が、急に自分より大きな獣に思えて心臓がドキドキする。
「ど、どうしたらいいんだよ……」
今更悟と離れる気なんか微塵もない。そもそも、パートナー契約を結んだ時点で、生涯悟の側にいると心に決めている。でも、こんなこと予想だってしていない。
すると、コンコンと洗面所のドアがノックされ、憂太は飛び上がる様に驚く。
「憂太? 風呂入るなら一緒に入ろうよ」
「は、入りません!」
真っ赤な顔で叫んで、堪らず両手で顔を覆う。
「ど、どうしよう……」
一人と一匹の生活は、まだはじまったばかりだ。