とんとん拍子も困りものもう少し、猶予期間を下さい。
◆◆
「横暴すぎるだろくそ姉貴ぃ……」
待ちに待った昼休み。
わくわくと胸を踊らせながら、弁当箱の蓋を開いた。玉子焼きにウインナー、ハンバーグにぴりっとアクセントのあるきんぴらごぼう。そして、彩りにプチトマトとレタス。これぞお弁当!なおかずが、ところ狭しとぎゅうぎゅうに詰められていた。
配置のバランスの悪さと、焦げてしまっているおかずの多さにくすりと口元を綻ばせる。タコもどきにすらなっていないタコさんウインナーが、堪らなく愛おしい。
妻の指導の元、おたおたと覚束ない手つきで奮闘していた後ろ姿を思い出し、食べてもいないのに頬が落ちてしまう。
「ゆーちゃんの『初』手作りお弁当。いただきま……」
天にも昇る心地で、愛妻ならぬ愛息子弁当を食べようとしたところに、地獄の底から響いてくるような禍々しい声が聞こえてきたのだ。
私らしくもない、職場だというのに盛大に舌打ちをしてしまった。仕方ないだろう。折角の幸せな気持ちに水を差されたのだから。
剣呑な視線を突き刺したりもした。誰にって、今まさに訪れようとしていた至福の時間を、よくも邪魔してくれたうつけ者にである。
ぎろりと、睨み付けるのは隣のデスク。整理整頓をしろと注意を受けること多々な、乱雑に資料の積み上がった机に突っ伏して一人の男が唸っていた。
「穏やかじゃないな。何だ、また彼女さん絡みの悩みか?」
怨念たっぷりな呻き声が聞こえていたらしい同期が、机に顔面からダイブした体勢のままぎりぎりとデスクマットに爪を立てている後輩を見下ろした。
「六月って、何かイベントあったか?」
「さあ?ジューンブライド、くらいしか思いつかないな」
「俺もだ。でも結婚式のプランで悩んでる、じゃないよなぁ?今からじゃ間に合わないだろうし」
「そもそもプロポーズすらまだできてないって、この間の飲み会で愚痴ってなかったか?」
同期と二人、首を捻る。彼女いない歴=年齢だったこの後輩は、晴れて交際が叶った嬉しさに舞い上がるが余り、ついつい彼女に格好の良いところを見せようと暴走する傾向があるのだった。
ホワイトデー、そして誕生日絡みでお悩み相談室を開催した記憶もまだ新しい。
「あー、じゃああれか?どうかっこよくプロポーズするかで悩んでるとかか?」
「うーん……そもそも、そんなロマンチックなことで悩んでる声じゃなかったような?」
あーでもないこーでもないと推測を交わしているところに、議題の主が参戦してくる。
「……違います。彼女は関係ありません」
のろのろと起き上がった焦燥の色も濃い後輩の顔には、くっきりと総務の山田主任の印鑑が転写されていた。
「あ、そーなの?」
「はい。彼女は全く一切これっぽっちも関係ありません!」
きっぱり断言する後輩に、私は同期と顔を見合わせた。彼女さん関連ではない。なら、我々が出る幕ではないな。そうだな。
目線で頷き合って、では解散。同期は喫煙所へ、私は可愛い息子の手作り弁当を、今度こそ大切に味わおうとしたのだったが。
「ひぇっ」
「先輩方っ、お願いしますっ!」
箸ごと手を凄い勢いで握られた。衝撃で震えた箸先から、ウインナーがぽろりと落ちる。あ、あ、ゆーちゃん力作のタコさんウインナーがっ!
ころころ転がっていくウインナーの行方にばかり気を取られていた私の代わりに、後輩の鬼気迫る視線に目を居抜かれた同期が小さく悲鳴を上げた。
「うっ」
「先輩方、お子さん居られましたよねどうか、どうかその豊富な経験からお持ちの知恵を、未熟者の私めにお借し下さい!」
娘が呆れも露にため息を吐く。気が弱い、押しに弱い……ごもっとも。
私のこの性質が見事遺伝してしまった息子も、よく娘とリカ(飼い猫)からどつかれているっけなぁ。
「しっかりしろよ」
「にゃおおん」
ただ、私と違って息子の押しの弱さは、専ら悟様に対してのみ発動しているようであったけど。
「えーと、君のお姉さんのお子さんの、一歳の誕生日がもうじきだと」
「……はい」
痛いくらいにぎゅうぎゅうと手を鷲掴みにされ、怖いくらい真剣な眼差しで懇願されてしまっては私に断るという選択肢は存在しえなかった。泣く泣く、愛息子弁当に暫しの別れを告げる。ごめんね、ゆーちゃん。後で絶対大切に味わって食べるから!
面倒見の良さが部下からの人望が篤い由縁な同期と共に、後輩のお悩み相談室をみたび開催する運びとなったのだった。
「成る程。で、お姉さんのお子さん……君にとっては甥っ子くんだな。その甥っ子くんの、プレゼントを何にすべきかで悩んでいる、というわけか」
「はい……正確には、無理難題なリクエストを吹っ掛けられまして、どうしたら殴られな……じゃなくて、角が立たない穏便な断り方ができるのか、全く思いつかなくて」
頭を抱えているのだと項垂れる後輩の、口から抜け出たエクトプラズムの幻覚が見えた気がした。
姉という存在は、かくも恐ろしいものであるらしい。一人っ子の私には分からないけど、ぶるぶると戦慄く後輩の肩を同期が力強く叩いていた。分かる、と。確か、同期は末っ子で、上に姉が二人いるんだったな。
それにしても。
「無理難題、って」
「そんな、とんでもないリクエストだったのか?」
「ええ、そりゃあもう!横暴の極みですよ」
ギィィ、椅子を回転させる音も重々しく、机に向き直った後輩がハイライトの消えた目でPCを操作する。だから会社のPCを使って、仕事に関係のないサイトの閲覧は控えろと……注意する気は最早起きなかった。
カチカチとマウスを操る後輩の横顔から、虚空へと視線を投げる。
甥っ子くん、一歳なのか。可愛い盛りだよな。つい、息子と娘の幼少時を思い出して目元と口元を和ませた。
「パパ、帰りにケーキ買ってきて!生クリームのワンホールを一つと、ゆーちゃん用のを一つお願いね!」
声を弾ませた妻からの電話に、私は首を傾けた。
はて?今日は何かの記念日だっただろうか。
息子はめでたく、先週一歳の誕生日を向かえたばかり。私と妻の誕生日は遠く、結婚記念日でも婚約記念日でもプロポーズした日でも交際をはじめた日でもない。皆目検討がつかなかった。
頭の中に疑問符を乱舞させたまま、頼まれた通りに買い物をして帰宅した私は、妻の声が嬉色に溢れていた理由を知ったのだった。
ケーキの箱を落っことさなかった自分を誉めたい。
本社への栄転が決まったことと、何より待望の第一子が生まれたことを機に思い切って購入した自宅のリビングで、絶世の美少年と愛くるしい幼児が戯れていた。
「にーに!」
「そう!にーにだよ、ゆーた♡」
「にーに、にーにっ」
「すごいぞ憂太、完璧だ!ゆーたは賢いなぁ、天才だよ♡」
神秘的なアクアブルーの瞳を愛おしげに蕩けさせた本家ご長男様の膝の上で、きゃっきゃと声を立てて笑っている息子は、確かに今。
喋ったぁぁぁぁっ
人間、本当に驚いた時は却って声が出なくなることを実体験した瞬間だった。
「お帰りなさい。ふふ、びっくりした?」
「あ、ああ……って、え?いつから……」
「お昼過ぎからよ。悟くんと一緒にあんよの練習を頑張ってた時にね、いきなり「にーに」って喋ったの!」
嬉々としてその時の状況を話し、最後を「安心したわ」と締め括った妻の気持ちは痛いほど私にも理解できた。
大概の育児書に書いてあった。
『赤ちゃんが意味のある一語文──初語を話すようになるのは九ヶ月~一歳半頃です。個人差が大きいため、余り心配し過ぎないようにしましょう』
しかし検診や児童館、ご近所で顔を合わす同じ月齢の子どもたちは皆、すでに話しはじめていて、私も妻も気を揉んでいたのだった。
無事に一語文を話してくれたことに、妻同様安堵の息を吐きながら、一方で落胆のため息を溢してしまう自分がいた。
分かってはいた。逆立ちしたところで、父親は母親には敵わないと。理解、していた。でもほんの少し、一マイクロミリ……いや、ナノミリくらいは期待していたのだ。
息子の愛らしい声で『パパ』と、呼んでもらうことを。
私の仄かな期待はしっかりと外れた。息子が初めて確たる音にしたのは、順当に『ママ』──ではなく、まさかまさかの『にーに』だったのだ。
あの頃から憂太にとって、悟様は『トクベツ』だったんだなぁ。
ちょっと、哀愁に浸っていた私の意識を同期のドン引きした声が引き戻してくれた。
「うっわ、これは……」
「ね?オーボーでしょ」
一つ、ゆっくりと深呼吸をする。心を落ち着けていざ──あれ?二度あることは三度あると、覚悟を決めていたのだけど。
後輩が表示した画面には先々月と、先々々月と同様にばーん!と悟様の麗しきご尊顔が映し出されては、いなかった。
カラフルなデザインも可愛いホームページに、ずらっと並んでいるのは乳幼児向けの服やおもちゃ。過去の経験から、つい後輩の悩み=悟様が出てくるものだと思い込んでしまっていたが、そういえば、此度の後輩の相談内容は彼女さん絡みのものではなく、甥っ子くんの誕生日プレゼントについてであったのだ。
「悟さん、今度は海外のジュエリーブランドのメインモデルをするんだって!」
我が家の夕飯の席で、世間話でもするような気軽さで行われる情報漏洩。ぽやぽやと花を飛ばして息子がもたらしてくれた最新版にも、悟様が子ども向け商品をメインに扱う企業のモデルを勤めるというリークはなかったことを思い出して、変に気負った自分が恥ずかしくなったのだった。
「スタイが一万円超えって、うそだろ?」
「うそだったらいいんスけどね……」
スクロールされていく画面に並ぶ、服や靴、おもちゃたち。どれもがとても可愛いデザインだけど、お値段は大変に可愛くないものばかりであった。
0が一個、下手をすれば二個間違っているのでは?疑いたくなる商品の数々に、蛙が潰れたような声が出てしまった。
「何でカバーオールが十万円もするんだ」
ぎよっと目を剥く私の隣で、同期も有り得ないと天井を仰いでいた。
子どもの成長は驚くほど早いのだ。あっという間にサイズアウトしてしまうではないか。
「悟くん、気持ちは嬉しいのだけど
……すぐに大きくなって着れなくなっちゃうから、もったいないのよ」
憂太に似合うと思って♡
比喩でなく、山のようなベビー服を贈って下さった悟様に、強めに苦言を呈していた妻の姿が脳裏に甦っていた。いまだに畏れ多くて、冷や汗が止まらなくなる光景である。本家次期当主様に物申すなんて、私にはとても真似できない。けれど、蚤の心臓な私とは対極的に意外と強心臓な妻は、悟様に対して遠慮も躊躇もなく、言うべきことは言ってのけてしまうのだ。
バランス取れててお似合いだと、評したのは誰だったっけな。
「判って頂けましたか、先輩方?ぼうくn…姉の要求がいかにむちゃくちゃなのかを」
「あ、ああ。えーとつまり、お姉さんがリクエストしてきたものってのは、このサイトに載っている商品のどれかってことなのか?」
頬が引き攣ってしまうのを抑えられなかった。わなわな、震える指先でPC画面を差して確認すれば、後輩は重々しく頷いた。
口角をふっと歪め、浮かべるのは虚無感に満ちた笑み。
「ええ、その通りです。こちら、ベビー・キッズ向け商品の老舗ブランドでして」
これがプレゼンだったら要指導確定。覇気のない口調で、表情もどんよりとさせながら説明してくれた。
「甥っ子くんの一歳の誕生日、来月でしょ?プレゼント、何にするか決めたの?」
後輩自身は綺麗さっぱり忘れていたらしい。覚えていてくれた、しっかり者な彼女さんに涙を流して感謝したという。姉貴にコロされるところだったって、いやどんだけ怖いの君のお姉さん
姉は怖いが甥っ子は可愛いらしい。
三番目に、自分のことを呼んでくれたのだ。『にーに』と。
嬉しそうに微笑む後輩に、ぎりぎりと心の中でハンカチを噛み締める。いいなぁ。
私なんて、八番目にやっとだったんだぞ。娘は順当に二番目だったけども。
おもちゃがいいかな。服がいいかな。
うきうきで彼女さんと話し合い、今度の休日に一緒に選びに行こうと約束した、まさにその時だった。
一通のL◯NEが届いたのは。
ナイスタイミングと、いっていいのか悪いのか。
LI◯Eの送信者は、話題のお姉さんであった。
『プレゼントはこれでヨロシク☆』
簡素な文面。ハートマークで何十にも囲まれたURLに、何故だろうか、背筋を嫌な予感がひしひしと這い上ってくる。
恐る恐るリンクを開いた後輩は、次の瞬間、スマホを力いっぱい叩きつけていた。
「ふっざけんなっ!」
「……そんなに、とんでもないリクエストだったのか?」
「そりゃー、もう!目ん玉飛び出て顎外れてスマホの画面粉砕しましたよ」
ふっと。意味深な流し目をされ、どきりと心臓が跳ねた。
因みにこれです。該当の商品を後輩がクリックする。画面が切り替わる数秒間が、やけに長く感じた。
鼓動が、一段と早くなる。ホワイトデーは給料三ヶ月分だった、誕生日は給料の半分。果たして今回は──。
月収の七割が吹っ飛んでいった。
同期の手から滑り落ちた缶コーヒーが、床に激突する派手な音が響いた。蓋開けてなくて助かったな。
「三十万ですよ!三十万っ買えるわけねーだろ、ふざけんなクソ姉貴っ!」
エキサイトしちゃった後輩は、素の口調が出てしまっていた。窘める余裕は、私にも同期にもなかった。二人して、憑かれたように、PCの画面に釘付けとなってしまっていたのだ。
カラフルな文字で商品名が綴られている。
『赤ちゃんわくわくおでかけセット』
カバーオールに帽子、靴下と靴、そしてマザーズバッグの五点セットであった。
白を基調とした、シンプルでありながらさりげなくあしらわれている動物のシルエットや耳、尻尾が可愛いデザインに、何故だか見覚えがあった。んんんんん?
同期が複雑そうに顔を歪める。
「幼い子どもにこそ上質のものを、って考え、理解できなくもないんだけどな。特に靴は。うちも、子どもたちのファーストシューズはオーダーメイドで作ったんだ」
「マジすか?」
「確かにな。私のところも、息子と娘のファーストシューズは、オーダーメイドだったよ」
「ええっ」
おい何だ、その意外ですって顔は。同期には感心した風情だったのに、失礼だな。私だって、愛する息子に娘には親として出来得る限りの最良のことをしてやりたいと思っているし、最愛の子どもたちためなら我が身を犠牲にすることを厭いはしないのだ。
二年前だ。一時的な地方支社への出向。転校先に馴染めず、日に日に憔悴していく息子の姿に私は、早期の本社への帰還を願い出る決意を固めた。聞き入れられなかったら、退職も辞さない覚悟だったのだ。
仲のいい同期、可愛い後輩。君たちと今も、共に働けているのは、偏に憂太を一時的に引き取り、メンタルケアまでも一手に引き受けて下さった悟様のお陰なのである。
「しかし、スタイやスモック、ましてやロンパースや靴下となると……言葉は悪いが消耗品だろう?それにこの額は、な」
私が物思いに耽っている間にも、同期と後輩の談義は続いていた。
横から手を伸ばしてマウスを操作する。メニューバーからカテゴリーを呼び出し、選択した『ベビー・キッズファッション小物』のページをスクロールしながら、同期が低く呻いた。
「やっぱり、有り得ないですか?」
「あくまで自分は、な。正直、下着や靴下に0五つを出そうと思えないよ」
「うっえ……だから何で肌着が二万円もするんだよ」
俺のシャツなんて、しま◯らで買った五百円のヤツだぞ。ぎゃおうと吼える後輩の、頭越しに何気なくPCを覗き込んで私は、危うく叫びそうになった。
『デリケートな赤ちゃんの肌にも安心、オーガニックコットン100%使用』
そんな謳い文句が踊る商品ページに載っている、これからの季節に最適そうな涼しげな薄水色のロンパース。胸元にあしらわれている、金色の王冠を被った白い羽の生えたたまごの刺繍に、見覚えがある!すっごく見覚えがある
「憂太に似合いそうだな~と思ったんだ♡」
満面の笑顔の悟様が持ってこられた、両手の指では足りない数の紙袋で。
「かんわいいでちゅねぇ、ゆーたちゃん♡よく似合ってまちゅよ~」
雲の上の存在だった。一瞥されただけでびしっと背筋が伸びる、威厳のある風格は見る影もなく。デレデレに相好を崩壊させられた本家先代当主様の周りに、山のように積み上がっていた箱で。
畏れ多くも現当主様に直々にあやして頂いている息子が、着せて頂いていた真新しいカバーオールにほどこされていた刺繍で。
見た覚えが、数えきれないくらいあったのだ。
「ところで、この羽の生えたたまごは何なんだ?」
「このブランドのロゴマークらしいです」
……たぶん、数秒気絶していたと思う。十余年越しに知った衝撃の事実。いや、当時から察してはいたけどね。五条家御用達のお店の品物が、0が三つで済むわけがないことぐらい。
分かってはいたけれど、改めて大変に高価なお品を頂いていたことに血の気が引いた。
おどけた調子で娘が言う。
「ゴジョーさんがお兄ちゃんに贈ったプレゼントの総額、東京都の予算くらいは超えてるんじゃない?」
うん、超えてるな。息子だけでなく娘にも、妻にも、悟様を筆頭に現当主様と先代当主様、そして奥方様方に頂いてしまった贈り物の総額となれば、国家予算を超えてしまっているのではなかろうか?
くらくらと、思い至ってしまった途方もない可能性に目眩がした。
「大丈夫か、乙骨?具合でも悪いのか、顔色悪いぞ」
「あ、ああ、すまん」
よろける私を同期が支えてくれた。後輩が、心配そうに見上げてくる。
「大丈夫ですか、先輩?すみません、長々と俺の下らない悩みになんか付き合わせてしまって」
「気にするな、平気だ。ちょっと、立ち眩みをしただけだ。腹が減り過ぎてしまったのかもな」
おどけたように肩を竦まる私に、同期がチョコレートを渡してくれる。低血糖ではないんだが。
気遣いを無碍にもできず、礼を言ってチョコレートを口に放り込んだ。甘かった。
「それで、結局のところどうするんだ?お姉さんのリクエスト通りにするのか?」
「いやいやいやいや、まさか」
打てば響く勢いで否定して、後輩は高速首振り扇風機と化した。だろうね。
「三十万なんて!社会人三年生に出せるわけないじゃないですか」
社会人そろそろ20年生にも簡単には出せないよ。
「そもそも、高級ブランドの服着るような家柄かって話なんですよ?親父も姉の旦那も、極々普通のサラリーマンな家庭だってのに」
「はは、まぁそう言ってやるなって」
「だって本当なんスもん。三十万もする服着てイ◯ン行くのかよって」
着て行ってたよ、イ◯ン。
ふたごコーデというのだったか。悟様とお揃いの服を着せてもらった憂太が、よちよちと歩く。
「憂太、アンパ◯マンカートと普通のカート、どっちがいい?」
「え、あー……にーにっ!」
「ん、抱っこがいいのか?」
「んーん、にーにっ、あゆく」
「一緒に歩きたいのか?いいぞ」
この上なく愛おしそうに息子に笑いかけて下さる悟様に、周りの、特に女性が何人も顔を両手で覆いその場に蹲っていた。尊い、呻くような声もちらほら聞こえていたっけ。
悟様と手を繋いでえっちらおっちら。息子は始終楽しそうにはしゃいでいたけど、大変にお美しい悟様のご容姿も手伝って店中から大注目を集めてしまっていた。
「あれ、◯◯ブランドよね?すっごい、大富豪じゃん」
「青年実業家、とかかな?」
目敏い女性客が、ひそひそ囁く声が聞こえてきてとてつもなく居たたまれなかった。冷や汗で溶けそうだった、むしろ溶けて消えてしまいたかった。
ああ、お揃いといえば。私の回想モードはまだまだ続いた。
「あれ、お兄ちゃんどうしたの、それ?」
年頃の女の子の観察眼はかくも鋭い。
私なんて、娘が指摘するまで全く気がつかなかった。
息子の足の薬指で、シンプルなシルバーの指輪がきらきらと、室内灯の光を受けて煌めいていた。
足用の指輪ってあるんだ。驚いた記憶はまだ新しい。
「悟さんが、プレゼントしてくれたんだ」
幸せそうにえへへとはにかむ。悟さんとお揃いなんだよ。
頬をほんのり上気させ、うっとりと瞳を細めてつま先の指輪見つめる息子の顔は、完璧に恋する乙女のものだった。
「うっ」
あんなに甘かった口の中がしょっぱくなってしまった。無性に甘いものがほしくて、弁当箱から玉子焼きを一つ摘まんだ。我が家の玉子焼きは、ふんわり甘くて美味し──とんでもなく塩辛かった。
食後のつもりだったコーヒーの缶を開けて、焼けつく喉を慌てて潤す。砂糖と塩間違えたなゆーちゃん。
「げほがほうぇっ」
「ホントに大丈夫なんですか先輩っ医務室行きます?」
「だい、じょうぶ、だっ……ごほっ、ちょっと、横に、入った、だけだ、っ……は……」
「無理はするなよ?しんどかったら、ちゃんと言えよな」
「ああ、ありがとう」
波打つ背中を擦ってくれていた同期は、いくぶん落ち着いた私に麦茶のペットボトルを手渡してから後輩へと向き直った。
「しかし、いいのか?お姉さん直々のリクエストを却下しても」
「問題ないです。たぶん姉も、その一の方はどだい無理だって分かってた上で言ってきてまスんで」
「その一?」
「はい、実は姉からのL◯NEは二通ありまして」
するするとカーソルを動かし、ブックマークしてあったリンクをクリックする。ぱっと切り替わった液晶ディスプレイの向こうから、とんでもない美貌の青年が微笑みかけていた。不意打ちは勘弁して下さい、悟様。
せっかく治まりかけていた咳が、ものの見事に復活する。
「げっほぐほうぇっほ」
「うわぁぁぁっ、センパーイっ」
「……お前やっぱり医務室行け」
「かはっ、へい、きだ……うぇ、っもんだ、いない、から……っ」
「えええ、ホントにホントですか?」
「っ、ああ……すまん、びっくりさせて……っはぁ」
ひとつしゃっくりをして、呼吸を整えた。本家ご嫡男であり、息子の最愛の人が映るモニターを目線で示しながら確認する。
「その、お姉さんからのもう一つのLI◯Eと、このサイトが関係あるのか?」
「はい。二通目の『今回は、これで許してあ・げ・る☆』っつー、くっそ腹立つほどウエメセで締め括ったL◯NEに書いてあったURLが、ここだったんです」
苛立たしげに舌打ちをする。何でわざわざ波風を立てるような書き方をするかな、お姉さんも。
「……そうなのか。でも、このブランドって、確か宝石専門じゃなかったか?」
情報源は妻と娘だ。イギリスだったかフランスだったかの由緒あるジュエリーブランドで、海外セレブやロイヤルファミリー御用達だとか何とか、二人が話していた記憶を頭の箪笥から引っ張り出す。
宝石と乳幼児が結びつかなくて首を捻る。同期も怪訝そうに片目を眇めていた。
「ご存知でしたか!そうです。ジュエリー専門ではあるんですけど、此の度あの『五条悟』をメインモデルに起用した記念とかで作られた──この!」
びしっ!後輩がPCモニターの一点を指差した。
休日でごった返していた渋谷のスクランブル交差点。突如としてブラックアウトした電光掲示板に、どよめきが起こった。すわ何事かと、人々の注目が十二分に集まったタイミングを見計らっていたかのように、ぱっと電光掲示板が息を吹き替えしたのだ。
スクランブル交差点に面した、全ての電光掲示板に映し出されのは国宝級の、絶世の、類い稀なる、生きた天使等と称される花の顔。
白いふわふわの毛並みのテディベアに頬を寄せ、甘く微笑む悟様と、何の心の準備もなく対面することになった女性ファンが、幾人もその場で昇天したといわれている。瞬く間にトレンドを埋め尽くしていった『尊い』『尊死』の二文字は、半月経った今も尚、上位に居座っているという。
渋谷を震撼させた、件のジュエリーブランドのメインビジュアル。悟様、の手にされているテディベアを、後輩はばんばんと叩いた。
「『五条悟』イメージのテディベア!これこそが、我が愚姉が真に求めてきたものなんです」
成る程。道理で既視感があったはずである。白い毛並みに水色の瞳、額にちょこんとサングラスを乗っけたテディベアは、悟様に扮していたのか。そういえば「僕だと思ってかわいがってね♡」と、仰られていたな、悟様も。
「テディベアなら、まぁ、甥っ子くんの誕生日プレゼントとして違和感はないか、な?」
眉間に皺を寄せて唸る同期よ、気持ちは分かる。サングラス、着ている服のボタン、耳に付いているタグ。細かな装飾品の数々に、子ども、それも乳幼児に与えて良い品には到底見えなかったのだ。
「より正確には、こっちのバースデーベアですね、姉貴が要求してきたのは」
「「バースデーベア?」」
私と同期の綺麗にハモったおうむ返しに、一つ頷いて後輩は悟様ベアの真上へとカーソルを移動させた。
替わった画面には、色とりどりの服を着た小さなベアが並んでいた。
「そっス。分かりますか?この十二個のベア、服の色もですが、ほらここ!首輪に嵌まっている宝石も各々違うでしょ?」
「あ、ホントだ!ひょっとして、誕生石になっているのか?」
「ご明察です、先輩」
「ああー、だから『バースデー』ベアってわけか」
納得。
これなら、誕生日のプレゼントとして、ありといえなくもない……かも?
断言できないのは、やはり付属品の多さがネックだからである。
「『甥っ子』へのプレゼントとしては相応しくないって思いますよね、やっぱり?」
「まあ、な。あの、カバーオールや靴のセットの方は、値段は兎も角『甥っ子くん』へ贈る物だと思えるが、こっちのベアは、その」
「ご推察の通り、息子の誕生日祝いは建前で、本音は自分がほしいんですよ。姉貴、『五条悟』の大大大ファンなんで」
あ、やっぱり。
夏油くんと、漫才コンビ『祓ったれ本舗』としてデビューした当時からのファンであるらしい。開催されたライブは全て皆勤。ファンクラブの会員ナンバーは一桁で、黎明期に発売された限定グッズをほぼほぼコンプリートしているのが自慢なのだそうだ。
「例の、限定三セットのみ販売された『祓本ベア』を唯一、手に入れられなかったことに未だに未練たらたらでして」
お姉さんが、我が家の祓本ベアの惨状を知ったら憤死しそう……いや、殴り掛かられそうだな。
リカ(飼い猫)の度重なる猛攻を受け、夏油くんベアは修復不可能なまでに崩壊。悟様ベアは、妻の縫製技術を以てしても、継ぎ接ぎ痕を隠せないくらいに引き裂かれてしまっていたのだった。
「俺としては、あくまで可愛い甥っ子にプレゼントを贈りたかったんですよ。それで、買えないのは分かっていても往生際悪く、どうにかできないものかと、知恵を引き絞ってみましたが……」
「三十万は厳しかったか」
「ええー、宝くじで一発逆転でもしない限りは逆立ちしたって無理ですね」
「そうか、なら?」
「はい。ありがとうございます、先輩方。話を聞いて頂けたお陰で、踏ん切りがつきました」
一礼する後輩の顔に、迷いの色はなかった。同期と目と目を見交わして、どちらからともなく破顔した。お疲れ様、君もな。
三度目の正直。不完全燃焼に終わった第一回、第二回のリベンジを達成できた。達成感に包まれながら、後輩のお悩み相談室はお開きとなったのだった。
「しかし、三十万のインパクトのせいでかわいく見えてしまうが、この一〇cmほどの小さなベアが五万とは……」
「止めて下さいよ、先輩!決心が揺らいじゃいますから……」
「すまん、つい」
肩の荷も降り、やっと落ち着けた私は改めてゆーちゃん作のお弁当を開けた。今度こそ、美味しくいただきます。
「姉貴、強請れるものなら強請りたかったのは、たぶんこっちだと思うんですよ」
「こっち、とは?」
「この、トプ画で『五条悟』が持ってるやつです」
ご飯、芯が残っていた。冷めていないところに入れてしまったのだろう、プチトマトとレタスはしなしなになっていた。要修行だね、ゆーちゃん。それにしても、何故に妻は突然、憂太に家事を教え出したのだろうか。
「バースデーベアと違って、こっちのベアはたった十個のみの数量限定品なんですよ」
「十個まぁ、三セットよりはまし……じゃ全くないな。シビア過ぎないか?」
タコさんらしきウインナーを口に運ぶ。生焼けだった。表面は焦げ焦げなのに何故。
「阿鼻叫喚の地獄絵図だったそうです」
「然もありなんだな」
きんぴらごぼうは美味しかった。これだけは妻が作ったものなので、当たり前であった。
「激戦を見事勝ち抜いた猛者は、何と一週間前から並んでいたとかとか」
世の中には凄い人もいるものだ。仕事や食事、風呂やトイレはどうしていたのだろう。
「このベア、姉貴だけじゃなくて、彼女も欲しそうにしてましたねー」
彼女さん、悟様の大大大大ファンだもんね。さぞかしお姉さんと話が合う──わけではないようだった。
「同担拒否だかとか何だとか。顔を合わせたら最後っスよ!自分の方がいかに熱心なファンであるかを侃々諤々とまくし立てて収拾つかなくなりますし、グッズの数やらライブの席の場所、果ては『五条悟』と目が合った回数とか、しょーもないことで延々と競い合ってます」
据わった目をして、つらつらといかに仲が悪いかを並べる。
嫁(予定)と小姑の関係は、早くも暗雲が立ち込めている模様であった。
「流石に十個限定ではな、諦めるしかないよな。もう販売も終わってるみたいだし」
「それもありますが、一番の理由は値段ですかね。さしものごうつく姉貴も躊躇したみたいです」
マウスを手にした後輩が、開いたままになっていたトップページを飾る、品のある笑みを湛えた甘いマスクの悟様をクリックする。
光回線の素晴らしさよ。一瞬で切り替わった『限定ベア、発売のお知らせ』と題された画面。
ひゅっ。息を詰めたのは私か、同期か。二人共であった。
「ね?こんなの……買えるわけねーだろふざけんなバカヤローっ」
景気良く、後輩が机へと顔面を衝突させる。昼休みも終わりが近づき、課内には同僚たちが戻りはじめていた。額を机に打ち付け、喚く後輩へと怪訝そうな視線が集まってくる。
先輩として、注意しなければならないのは分かっていたが、私も同期も金縛りにあったように動けなくなっていた。
瞬きも忘れて凝視する。ディスプレイの中央やや下に並んでいる0は、いちにいさんしいご……。
一年分のボーナスが飛んでいってもまだ足りなかった。
昼下がりの、穏やかな空気を擘く悲鳴が私の、同期の口から迸った。
同期は純粋に値段への驚愕から。私は、今朝見たばかりの光景と相俟って二重の意味で絶叫した。
防護を、完璧な防護策を徹底的に行わなくては!
◆◆
「無事に任務完遂しました、先輩!」
歳を重ねても、憂鬱なのは変わらない月曜日。
出社した私を見つけた後輩が、笑顔も晴れやかに報告してくれた。
「買えたのか!よかった、心配していたんだぞ」
「ありがとうございます。はい、彼女にも協力してもらいまして、朝の三時からスタンバイしたので、余裕でした」
「三時って」
それは朝ではなく夜ではないのか。
後輩が、来る甥っ子くんの誕生日プレゼントとして、私と同期を巻き込んですったもんだした末にチョイスした『バースデーベア』は、0の多さに度肝を抜かれた『限定ベア』とは違い、通常販売品であった。とはいえ、店舗が保有する在庫数は無限ではないのである。完売の場合は受注販売致します。混乱を避けるため、ブランドからそうアナウンスがされていたけれど、受注販売の方では手元に届くまでに最低一ヶ月はかかってしまう。甥っ子くんの誕生日は七月上旬だ、間に合わない。
確実に入手するために、発売日である一日の早朝から頑張って並び、首尾良くベアを購入できたと後輩は語った。
ほっと、最後の肩の荷を下ろした。昨日は一日中、はらはらしていたのだ。
「買えませんでしたぁぁ」
もしも、号泣した後輩からの電話があったら、一肌脱ごうと。親戚特権だ。悟様にお願いをして融通を効かせて頂こうと、考えていた。
「これで一件落着、だな」
「ああ」
ふわりと爽やかな香りが鼻先を擽った。香ばしい湯気の立つレモンティーを運んできてくれた同僚女性に、軽く会釈をして温かなティーカップを受け取ったのだった。
「先輩、ちょっといいですか?」
今日の卵焼きは甘かった、甘過ぎた。じゃり。殻も混ざってしまっていた。もう少し頑張りましょう、だなゆーちゃん。
昼休み、亀の歩みではあるものの、着実に上達していなくもない愛息子弁当に舌鼓を打っていた私へ、おずおずと後輩が声を掛けてきた。
「朝早くから付き合ってもらったし、甥っ子の件で色々相談に乗ってくれたり気を使ってくれた彼女に、お礼をしたいと思いまして」
「お、いい心掛けだね~」
「食事か、プレゼントか、小旅行というのもありかな?何にするかは、決めているのか?」
「はい。品物は、もう決めてます」
ブックマークから呼び出したのは、白いテディベアと戯れる悟様がインパクト絶大な例のジュエリーブランドのホームページだった。え、まさかまさか──
「ひゃくはちじゅうまんの限定ベアを──」
「なワケないでしょ!笑えない冗談は止めて下さい、先輩方」
後輩の言葉を借りるなら目玉飛び出て顎が外れた、たいっへんに高価な悟様ベアは、慣れないDIYを頑張って作った強化プラスチックに覆われた棚の中に、慎重に大切に安置させて頂いていた。
「にゃおおおん」
鋭い爪も牙も、決して通りはしない。強化プラスチックに守られている悟様ベアを、それでもリカ(飼い猫)は虎視眈々と狙っていた。
透明なプラスチック板は、たった半日で爪痕だらけになっていた。帰ったらもう一枚、重ね貼りをしておかなくては!
「昨日、ベアを買った後に、少し店内を見て回ったんです」
可愛い、彼女が目を輝かせて見つめていた。ガラスケースにの中では、小さな指輪がきらきらと照明を反射していた。
「小さい指輪?ピンキーリングか?」
「惜しいです、先輩。この指輪を嵌める場所は小指じゃなくて、足の指なんですよ」
「ああー、トゥーリングっていうやつか?」
教えてくれたのは娘だった。冷たい声音が心に痛かった。娘は絶賛反抗期中である。一方で、息子には一向に訪れる兆しもないのが、それはそれで心配でもあった。
言い当てた私に、後輩が目を瞪る。
「詳しいですね、先輩。俺なんか、彼女から教えてもらうまで、足用の指輪なんてものがあることさえ知らなかったのに」
「いやいやいや、私も全然詳しくなんてないさ!たまたま、むす……子どもが持っていたから、知っていただけで」
「先輩のお子さん、女の子でしたっけ。やっぱり、女の子はファッションとかアクセサリーの流行にはビンカンですね~」
トゥーリングをつけていたのは、娘じゃなくて息子なんだけどね。
開いた『リング』カテゴリを私たちに示しながら、後輩が話を続ける。
「ご覧の通り、値段も割りと優しいのがありますし、これからサンダルやミュールを履く機会も増えるので、丁度いいかなぁ、と」
「きっと、彼女さんも喜ぶよ」
「だと、嬉しいんですけどねー」
照れ臭そうに頬を掻く後輩が、とても微笑ましかった。後輩の恋が実ることを、私も同期も願っているのであった。
自嘲気味に笑う。
後輩は祝えるというのに、息子の恋の成就を喜んでやれない自分は、どうしようもないだめな父親である。
ごめんな、憂太。
「なっなななっ」
同期に耳打ちされた後輩が、すっ頓狂な悲鳴を上げる。テ◯東のマスコットキャラがどうかしたのか?
頭をぶんぶんと連獅子よろしく振り回すものだから、脳震盪を起こさないか心配になってきた。
「むっ、無理っスよ!そんな大それたコト、できませんって!」
「そんな弱気でどうする?ここらで一つ、男を見せてみろよ」
「どうしたんだ?」
顔を茹でダコのように真っ赤にして狼狽える後輩の姿を楽しそうに眺めて、同期はくつくつと愉快そうに喉を鳴らす。
「いやな、プレゼントしたトゥーリングとやらは当然薬指につけてもらうんだろうって、訊いていたんだ」
「だから、しませんしできませんって!先輩」
からかわないで下さいよぉ。涙目の後輩と、チェシャ猫のような笑みを浮かべた同期を交互に見遣った。
話が見えない。怪訝そうに眉を寄せる私の目の前に、ぬっと同期がスマホを突き出した。
「手と同じように、足の指にも意味があるのかと調べてみたら、ほら」
「……意味を持たせたい場合は、両足の同じ指に嵌めましょう……薬指にトゥーリングを嵌める意味は、手と同様に『既婚者』を示します──はえ」
既婚者既婚者ってあの既婚者だよな、結婚してる人って意味の
「な?これは是非とも、彼女さんには両足の薬指に嵌めてもらうべきだと思うだろ!」
「で・す・か・ら!できないですってまず、左手に贈る方が先じゃないんですか婚約すっ飛ばしていきなり既婚の証をつけるのは、おかしいでしょ」
「結婚の確約、って意味でいいんじゃないかなー、と」
「よくないですよ!」
柔和で、歳よりも落ち着いた雰囲気を持ちながら、冗談ごとやおもしろいことが大好きなのだ、この同期は。
そんな同期に完全に遊ばれている後輩を、助けてやる余力は私には存在しなかった。
頭の中をぐるぐると、いつかの夜の息子と娘の姿がエンドレスリピートしていた。
「トゥーリングってやつよね?実物初めて見た!綺麗ね~あ、デザイン微妙に違うんだ」
「うん。えっと、右が悟さんの、左が僕の瞳をイメージした石になってるって、悟さんが……」
恭しく掲げ持ったつま先を見つめ、ほぅ……と満足そうに息を吐いた。
「うん、ぴったりだ。痛くない、憂太?」
「ちょっと違和感がありますけど、大丈夫です」
「そっか、良かった……ホントは、こっちに贈って、僕だけの憂太にしたいんだけど、まだできないから」
そっと、左手の薬指にキスを落とされる。
「すみません、後一年半だけ、待って下さい」
「うん。でも、待ちきれそうに、ないから」
すっと身を屈め、先ず右足の薬指に。次に、左足の薬指に。順に、自らの手で嵌めた銀の指輪へと口づけていく。
「憂太が、僕のものだって証が、ほしいんだ」
「それが、この指輪?」
「そう。左手の薬指に指輪はなくても、もうとっくに、僕だけの憂太。そして、憂太だけの僕だ」
ふわりと、抱き締められる。柔らかく、耳朶が食まれた。
「片方だけだとファッションだけど、両方だと意味を持つんだよ」
「んっ」
するり、滑り込んでくる、低めた囁きが鼓膜を叩いた。
「薬指の意味は──」
左手と、一緒だよ。
どんな遣り取りを思い出していたのやら。
心から幸せそうに、深い愛情の滲んだ眼差しで二つの指輪を見つめていた。
今なら分かる。あの子は間違いなく、指輪の『意味』を理解していた。
ひどく大人びた表情を浮かべる息子が、私の知らない憂太に見えて。
ぎゅっと、苦しいほど胸が締め付けられたのを、鮮明に覚えている。
「ゆーちゃんと、一緒にいられるのも、もう少しだけかもね」
妻の、寂しげな呟きの通りなのだろう。
ずっと、あどけない子どものままでいてほしいと願うのは、親の我が儘にすぎない。
子どもは確実に、日々日々成長していっているのだ。息子も、娘だって例外ではない。
私からすれば、まだまだ頼りない子どもの憂太は、だけどしっかりと、未来を見据えているのだ。
「……憂太」
胸の奥が震えた。言い様のない寂寥感が襲ってくる。
目頭が、焼けつくように熱くなり、ともすれば涙が溢れそうになるのを、懸命に堪えた。
親として、一番に願っているのは憂太の幸せだ。
悟様と手を取り合って、共に未来を歩んでいくことが、憂太にとって最良であるのなら。
心から祝福し、笑顔で悟様の元へと送り出してあげたい。この気持ちに、偽りはない。
でも──ああ、でも。
少しだけ、ほんの少しでいいから時間を頂戴。
驚くほどの早さで成長していくきみに追いつけない、不甲斐ない父親で、すまない。
巣立っていく憂太を、曇りのない笑顔で見送るために。
新しい一歩を悟様と踏み出す憂太を、心の底から言祝ぐために。
心の準備をする時間が、ほしいんだ。