Attractionそういえば10歳のとき、誕生日の週の日曜は家族で遊園地に行こうって約束をしたのに叶わなかったな。
そんなことを思い出しながら、乙骨は廃墟となったテーマパークを駆け抜けていた。
今朝のホームルームはいつも以上に騒がしかった。まず五条が教室のドアを開けると、その場で校門への移動が告げられる。ここで全員強制参加の1000メートル走が繰り広げられ、到着した校門にはいつものセダンではなくワンボックスカーが待ち構えていて、一人ずつに五条のお手製のしおりが渡されてから乗車した。
「で?今日はなんだ?」
渡されたしおりをシートバックポケットに突っ込んだ真希が助手席に座った五条に訊ねる。
「みんなで遠足だよ!しおり!読もう!?」
運転席に座った補助監督が体を竦めるほどの五条の声にさえ、車内は何の反応も返ってこなかった。ワンテンポ遅れてしおりを開いた乙骨が小さな歓声を零して場が辛うじて和む。
「て、テーマパークですか?」
「そう!緑に囲まれて、綺麗な景色も見られるテーマパークだよ〜」
乙骨だけが「そうなんだぁ」と反応を見せるが他の3人は五条に一瞥投げて無言のままだ。
「ん?なになに?分かった!移動時間暇だよね!」
一人で気を取り直した五条がウノとトランプをすぐ後ろの座席の狗巻に渡す。五条が前に向き直ってから暫くするとダウトの声が聞こえてきた。
「顔に出すぎ。憂太」
「何で自分からダウトしたいって言い出したんだ?」
「しゃけ」
「うぅ、ババ抜きとダウトくらいしかやったことなくて……」
生徒たちが随分と楽しそうで五条も機嫌が良くなる。自分の手札が分かるから駄目なのではないかという話になり、次に彼らはインディアンポーカーをすることにしたらしい。途中サービスエリアで休憩を挟みつつ出発から1時間半経って漸くしおりに書かれていたテーマパークに到着した。乙骨以外はこのテーマパークが既に閉園していると知っていた。しかし全員が車から降りると入場ゲートの遥か上空を見上げる。かなり高度がある帳が降ろされていた。
「今日はここでフォーマンセルね!」
バックパックを肩に担いだ五条は4人を帳の中に案内する。4人は揃って再び上空を見上げる。何となく空がグニャリと歪んでいたり濁っているように見えるが、そこには確かに呪霊が佇んでいた。
「はーい、この呪霊は超大型巨人タイプで見ての通りの透明の状態で祓うと数日後に復活しちゃうんだよね」
五条の説明を聞きながら乙骨はしおりを見返す。閉園していると知らなかった乙骨は密かに残念に思っていた。園内の全体図が載ったページを開くと中央に大きな巨人が横たわっている。正確に言えば横たわっているのは巨人ではなく普通の人で入園する自分たちが小人という、とあるおとぎ話をモチーフにしたテーマパークだ。およそ40万平方メートルの敷地内には、巨人のオブジェがあるメインエリアで、この巨人のオブジェの上に呪霊が佇む。今乙骨たちがいるヨーロッパの町並みを再現したタウンエリア、メルヘンな色合いで組み立てられたアトラクションが並ぶファンタジーエリア。広大な敷地を活かした牧場エリアが人工の川で区切られメインエリアを取り囲んでいる。
「透明化を解かせるにはどうやら人間が楽しーく、遊んで喜んでる必要があるみたいでさ」
「すじこ?」
「楽しんでる人間を襲うってことか?器ちっせえな」
「なのでみんなにはここで楽しく訓練してほしいと思ってます!」
くるりと4人に向き直った五条の陽気さに逆に嫌な予感を覚えるようになっている真希たちは怪訝な面持ちになる。
「みんなには僕を捕まえてもらう。みんなが鬼で僕が子ね。ちなみに僕が使うのは無下限と体術、そのための六眼だけ。呪言対策もしないし瞬間移動もしない縛りにしよう。攻撃でも何でもしてきていいよ。もちろん無下限の上から触った、武器が当たったで大いに結構。僕を捕まえられたら好きなもの奢ってあげる」
五条が肩に担いでいたバックパックを乙骨に渡す。中身を確認するとヘッドセットなどが入っていた。
「最終的にはあのデイダラボッチの呪霊を祓うってわけか」
真希の例えが言い得て妙で、乙骨はもう一度透明化して直立不動の呪霊を見上げる。京都で一緒だった先輩も呼べば一瞬で解決出来たかもしれないなどと考えながら、真希たちとミーティングを始めた。
「ランナーは憂太だな」
「分かった。頑張るよ」
普段の演習の時と変わらない返事に真希たちは表情を微かに緩める。
「私はピザと天いちで」
「しゃけ、すじこ」
「棘は牛タンか。俺はそうだな、焼肉かな」
ミーティングを行っている4人を背に五条は、足取り軽くパーク内を進んで行く。
「先生」
乙骨が刀袋のストラップを押さえながら小走りで近づいてくる。
「ちなみにここの建造物は……」
周囲を見渡す乙骨の様子に五条はその先の言葉を察した。
「あ!ちゃんと許可もらってるからじゃんじゃん壊しちゃって大丈夫」
「そうですか」
乙骨が安堵の表情を浮かべると五条は綺麗な弧を口元に描く。
「みんなと一緒の任務は久しぶりだね」
単独任務が許されない4級の時は乙骨がサポート役に回っていたが、面識がなかった術師ばかりだったし、単独任務ができる2級になってからは本当に単独任務ばかりだった。実質2級以上の任務にも駆り出されていて、実力は特級だと周囲には知れ渡っている。
「はい。よろしくお願いします」
その時ヘッドセットから準備が整ったとパンダから通信が入る。このパーク内に
で1番高度があるファンタジーエリアの回転ブランコの天辺にパンダが到着したのだ。真希と狗巻は乙骨から離れて左右に展開した小さな鶴翼の陣。
「じゃあ……」
五条が地面を踏みしめる音を捉えた乙骨がその一挙一動を逃すまいと虎視する。音も立てず流れる仕草で刀袋を掴む彼がさっきまでそこにいた人物と同じだなんて五条だってたまに信じられなくなる。
「始めよっか!」
火蓋を切った五条が乙骨たちに向かって来たので、追撃から邀撃に咄嗟に態勢を変えた3人の表情が険しくなった。
「逃げねぇのかよ!」
『吹っ飛べ!』
狗巻が五条と乙骨の間の地面に穴をあける。回避するか直進するかの判断は一瞬。その一瞬で乙骨が道端に放置されていたフェンスを五条に投擲する。当初の進路を阻んでフェンスを飛び越えさせると真希がそれに合わせて跳んでいた。構えた大刀を振りかぶると同時に五条の背後には乙骨が追い付き、挟撃を仕掛ける。
「おぉ!派手にやってるなぁ」
ドォンという爆発音と共に土煙が上がる。パンダはバックパックに入っていた双眼鏡を覗きながら耳を動かす。
「よく見えなかったけど北東方向かな」
『パンダァ!ちゃんと見とけ!』
「て言われてもなぁ。ここからじゃ大まかな方向しか分からんし。憂太が追跡してるから何とかなる」
パンダの返事に真希が舌打ちする。
「追い付けても逆に憂太の邪魔になるしな」
「昆布」
土埃を払いながら残された狗巻が相槌を打つ。初動で五条を一瞬でも止められなければ、真希たちができることは少ない。
「悟の進路に近ければ牽制掛けるくらいが精々ってとこか。上に行くぞ」
「しゃけ」
見渡すために家屋の屋根に上ると確かに北東方面に土煙が連なっていた。建物が容赦なく崩れ、時折空に遮蔽物が吹き飛ばされていった。その様子は更に離れたパンダも捕捉していたが、もはやパンダは双眼鏡よりも頭上の透明化した呪霊を注視していた。
薄っすらとその頭頂部が輪郭を朧に映し始めた時、一際大きな轟音が鳴り響く。メインエントランスが粉砕された音だ。ノイズ音に混じって遠くから五条の声が近付いてくる。遠隔で聞いているだけなのに体が竦むような威圧感を感じた。
『憂太、なに?随分と雑じゃん』
ヘッドセットから聞こえてくる―普段と変わりないペラペラに薄い巫山戯た口調ではあるが、余りに冷たい声にパンダが毛を逆立てた。
ガードで直撃は避けたとはいえ五条の裏拳を喰らった乙骨の口元には血が滲んでいた。
「もしかしてみんながいるから猫被ってる?」
クッション代わりになった瓦礫から起き上がる乙骨の表情は、五条と対峙するいつものそれよりも浮足立っているように見えた。
『憂太?』
「……ごめん。ちょっと先生と二人で話したいから音声切るね」
乙骨がヘッドセットの電源を切ると、更にその表情が和やかになり五条は完全に毒気を抜かれた。
「すみません。確かに集中が足りなかったです」
「珍しいね。どうしたの?」
五条も普段の授業と変わらない応答になる。乙骨は目を泳がせて何かを言い淀んでいた。こういうじれったいのは五条が嫌いな態度の一つだが、相手が乙骨なので急かす言葉をぐっと飲み込む。
「……あの、勘違いかもしれないんですけど」
漸く決心がついた乙骨の言葉を五条は辛抱強く待った。
「……もしかして……た、誕生日プレゼント、だったりしますか?」
最後の方の声は裏返ってか細すぎて、五条には届かなかったが、途中までの言葉で何とか推測する。
「……は?」
思わず出てしまった声は昔のガラの悪さが滲み出ていたが、そんなことさえ気付かず五条は乙骨を見つめる。彼は感情が顔に出やすいし、それを眺めて面白いなと思うことは多々あれど、こんなに居た堪れない気持ちになることはなかった。こんなに色づくのかと驚く程に乙骨は顔を赤く染めていた。五条の返事にもなっていない声に乙骨は羞恥を紛らわすように一層の挙動不審となる。
「すみません!勘違いしてました!じゃあ、続きを…」
乙骨の余りの狼狽ぶりに、何故か羞恥心が伝播してきて五条もむず痒くて仕方ない。
「待って待って!自己完結しないでよ!気になって夜も眠れないじゃん!」
距離を置いてジェスチャーを交えて話している2人を、比較的近くにいた真希が双眼鏡で見ていた。
「……何やってんだ?あいつら」
そんなふうに言われているとは知らず、2人の問答はまだ続いた。
「誕生日プレゼントってどういう意味?」
五条の問いに乙骨の頬は更に赤味を増した。美味しそうと食指が動くのと破裂してしまいそうで心配になるのとこのまま眺めていたい気持ちが綯い交ぜになり、五条はすん…と真顔になる。
「……あ、あの、実は近々誕生日が来るんですけど、あ!パンダくんと近いんです!」
「うん」
もちろん五条は知っているが今はただ相槌を返すだけに留める。
「今までずっと単独任務だったけど、今日はみんなと一緒に出掛けられて、テーマパークで遊べて、凄い楽しいし嬉しいと思ったので。僕がいつ任務が入るか分からないですし…」
落ち着きなく話す乙骨に五条は閉口してしまう。まさかそんなことを考えるとは思ってもみなかった。こんな寂れた、というか潰れているテーマパークで。みんなと遊ぶって言っても任務で、つまりそれは呪霊の祓除で、何なら3発くらい理不尽に殴られているわけで。
五条の沈黙に乙骨は更に言葉を連ねた。
「だとしたら、僕なんかのために用意してくれたのなら……終わっちゃうのがもったいないなと思って……しまいまして……」
その言葉に五条が身動ぐ。
(試されてる?)
鬼ごっこという任務の途中で、自分は捕獲される側なのに、何の警戒もなしに乙骨に近づこうとしたことに密かに驚愕した。どうしてこうもペースを乱されるのか五条には不可思議で堪らない。
「憂太」
五条は嘆息の後に教師として名前を呼ぶ。
「憂太は自分なんかのためって言うけど、僕は毎日憂太のために、僕ができることをしているつもりだよ。憂太のために色々準備して、これから生きていくために必要になることを教えて伝えてる。でもそういうのってさ、僕だけじゃなくて、今日だけじゃなくて。憂太もみんなも、毎日そうなんじゃない?」
五条の言葉に乙骨がその大きな瞳を瞬かせる。俯いては五条を見上げるのを繰り返して、はらりと落ちた前髪を耳に掛ける仕草が五条の視線を誘導した。
「……そう、ですね」
ふわりとぱちぱち。
この眼で以てしても視えない心が綻んだように思える瞬間。シャボン玉が目の前で弾けたような感覚。
それを捉えた五条は拳を握り締める。
乙骨がヘッドセットの通信をつけて、真希たちがいる方向へ体を向ける。静謐を湛えた彼の横顔に、五条のスイッチも切り替わった。
「真希さん、狗巻くん。パンダくんと合流してくれる?うん。多分もう通信出来ないと思うから、後はお願いしていい?」
くるりと体を翻し、ヘッドセットを外した乙骨に五条が人差し指でちょいちょいと合図を送る。風を切る音の後、2人はそこにはいなかった。タウンエリアを更に北上して牧場エリアに移動している間も苛烈な攻防が繰り広げられた。
2人が牧場エリアを戦場と変えている間、回転ブランコの頂上にいる3人はおぼろげに輪郭が現れた呪霊を見上げていた。
「随分とはっきり見えてきたな」
「ツナマヨ」
「はっ、人が楽しんでいるときに実体化するなんてみみっちい縛りだな。本当は透明化を解かずに逃げ出したいくらいのはずだぜ。この呪霊」
真希が人の悪い笑みを浮かべた時、背後で立て続いて爆発音が轟き、遅れて爆風が押し寄せる。真希と狗巻がパンダの陰に身を潜めた。
「……っにしても今日の憂太はなんか大味だな」
パンダが爆風を受けながら首を傾げる。
「確かに。いつもはもっとコンパクトだよな。どうしたんだ?」
「高菜」
真希と狗巻がパンダの背中に凭れて上を見上げる。
「ま、何にしても早くこいつが祓えるならいっか」
彼らの視線の先には、地面に貼り付けにされた巨人のオブジェに似た、青い顔が浮かんでいた。
牧場エリアはなだらかな斜面が広がり、その上にはパークを見渡せるレストランが存在していた。営業していたときは触れ合い体験や乳搾り体験など出来て、牧場エリア唯一のレストランであるここではバーベキューが出来たそうだ。展望の特等席であったウッドデッキテラスが今乙骨の衝突により粉砕された。衝突とはいえ上手く着地していた乙骨が反撃に飛ぶ。考え事をするかのように顎に手を添えた五条がその斬撃をレイバックで躱し、序でに足元を掬って肘をこめかみに打ち付ける。先程のレストランとは反対側に吹っ飛んだ乙骨がタウンエリアとの境目にあった橋搭に直撃する。
「今度は何か焦ってる?前の憂太みたいで捻り潰すのは楽しいけど」
崩れた橋搭から人影が出てきたと思うと五条の目の前に突如乙骨が現れる。
「出来るんだ!?」
瞬間移動。と言外に含ませて問いかけたときには乙骨の指先が胸元まで伸びていた。五条が白い歯を覗かせると伸ばされた手を逆に掴んで空いた腹部に下から膝を突き上げる。そのまま掴んだ腕を軸に地面へと叩きつけた。間違いなく乙骨の肋骨を数本折ったが、五条の予想通り立ち上がった時には反転術式で治していた。それでも内臓から逆流した血を飲み込む事ができず乙骨は血を吐き出す。
「いつ出来るようになったの?」
「今……です」
口元を拭う乙骨はもう瞬間移動をしようとはしなかった。代わりに五条から距離を取るために後退する。
「……っ」
乙骨が静かに右手を空に上げる。五条の刹那の動揺が離れた乙骨にも伝わり微かに眉尻を下げた。動揺を瞬時に収めた五条は今度は上空を見上げて感嘆する。
「……拡張とも付喪とも違う。みんな呪力で直にやってるの?」
乙骨の背後の上空には無数の瓦礫が浮いていた。それこそタウンエリアからの瓦礫までもが集結し、砂埃を撒き散らして暗雲を作り出していた。
「物量作戦でも試したくなった?」
遠隔、しかもこんなに無数の物に呪力を宿して操作するなんて普通ならコスパが悪くて考えつかないだろう。
「一つでも、小さな欠片でも意図的に当てられたら捕まえたことになりますか?」
「そうだね〜」
呑気な五条の返事に乙骨が腕を振り降ろす。豪雨のように降り注ぐ瓦礫を五条は足場として、空へと駆け登った。五条を狙った瓦礫が瓦礫に衝突しデブリを撒き散らす。遠くから眺めている真希たちが突如の帳内の暗雲と彗星を見て言葉を失っている頃だった。
乙骨が急拵えで作り出した呪力量と物量の豪雨の中、五条はまるでダンスを踊るかのようにデブリを避け、降り注ぐ瓦礫の上で硬い靴音を鳴らす。
「リカ!」
自らも豪雨の中に飛び込んできた乙骨がリカとともに五条に迫り、躱されては瓦礫を操作し、リカとの挟撃を繰り返す。熾烈な攻め手を繰り出す乙骨の平静さに五条はニヤついた。五条や乙骨の足場が次第に狭まり鉄骨や鉄筋が多くなり始めた。徐に、まるで道端の石ころを拾うように五条は降り注ぐ鉄骨をいとも簡単に拾い上げて振るい鉄筋を打ち上げる。鉄筋はその先にいた乙骨によって再投擲されるが、それは五条の脇を狙ったところで避けられてしまう。
「今のはボウル!ノーコンだなぁ!」
「狙ったのはデッドボールですよ」
全ての雨が降り注ぎ終えて、地上にはコンクリートの山に鉄骨や鉄骨が突き刺さった針の山が築かれていた。残された塵が上空を漂う中、五条と乙骨が地上と変わらず向き合っていた。ふと五条は乙骨の顎から滴る水滴に気付く。汗だった。反転術式を施していない。先程までいたリカがいない。理解した瞬間、ゾッと悪寒が走る。
「リカをどこに飛ばした?」
この程度で乙骨の呪力が尽きるわけがない。
「先生……」
朦朧とした意識の中で乙骨が言葉を振り絞る。
「さっきの……ごめん…なさい」
くしゃりと乙骨の表情が歪み、五条は包帯の下で目を瞠る。呪力が尽きる時に、他人に生死を委ねる時に、そんなことを言うのか。もしかしてこれは3ヶ月前の意趣返しなのか。そんな疑問が脳裏を過ぎ去る。
乙骨の体が傾くと真っ逆さまに墜ちていく。その下には針の山が、剣山のごとく華を添えるのを待ち構えていた。
「このっ!」
舌打ちして五条が乙骨を追い駆けて墜ちる。このまま乙骨が串刺しになるのだって自業自得だと見捨てることもできる。乙骨の瀕死となればリカが召還されて反転術式を用いるだけの呪力は戻ってくるはず。即死でない限り助かるし何かの保険もあるはず。多分、だから、こんな賭けに乗ることはない。
然し、然しだ。
理屈が体についてこなかった。
膝下まで実体化した呪霊がぎょろぎょろと周囲を見回していた。すべてが実体化されないと動けない縛りのようだ。
「これって今度は俺たちがこいつと鬼ごっこする番だったりするか?」
「フォーマンセルって言った時点で悟はそのつもりだったのかもな」
「明太子ぉ」
狗巻がネックウォーマーを外して回転ブランコの屋根の縁に向かう。
「あぁ、今度こそ初動で止めてやる」
真希も続いて大刀を構えてパンダに頭上を指すサインを送る。このとき3人はもう少し時間が掛かると思っていた。しかし突如完全に実体化された巨人の呪霊が咆哮を上げた。3人は動揺することなく反射的に動き出す。
『折れろ』
狗巻が膝を折って跪かせる。駆け寄る真希を上空へ投げたパンダは振り向きざまにゴリラ核に転換し激震掌で腹部を貫く。上空へと跳んだ真希が脳天から叩き割って祓除は完了した。そして突如現れたリカが一瞬で3人を抱えて直後に巻き起こった爆風の盾となった。
「もう絶っ対憂太と鬼ごっこしない」
五条は不貞腐れた面持ちで背負った乙骨に聞こえないと知りながらつらつらと文句を垂れ流して、牧場エリアの抉られた斜面をゆっくり降りていく。
呪霊が完全な具現化を果たした瞬間は、五条が乙骨に捕まった瞬間でもあった。
縛りのため瞬間移動が出来なかった五条が、乙骨の足首を掴んで鉄骨に突き刺さる既の事で引き上げ、無下限の腕で抱え込んで何とか乙骨が串刺しになるのを阻止した時に意識がないはずの乙骨の腕が五条の首に回された。
「……っ、クソガキ!」
捕まったからには縛りは終わり、五条は湧き上がる感情をそのまま針の山にぶつけて塵芥へと変えたのだ。
「まー、でも中途半端な環境と条件はよくなかったね。そこは僕も反省する」
首元に回された乙骨の腕がビクッと揺れて、背中から小さな呻き声が聞こえる。
「目が覚めた?」
ずり落ちた乙骨を背負い直すと、乙骨はがっちりと掴んでいた己の左手首を放して五条の肩に手を添える。
無下限があるから息苦しくもなんともなかったのに。
「すみません。降ります」
「ダメダメ。僕におんぶされた憂太をみんなに見てもらいまーす」
「え〜?」
乙骨は情けない声を零して五条の耳元に顔を近づける。
「ちょっとそれは、やめてほしいです。降ろしてください」
困り声にどんな表情を浮かべてるのか容易く想像が出来て、五条はすっかりご機嫌になった。このまま本当におぶって行くつもりだった。
「僕はもう歩けますから、歩かせてください」
「……そう?」
乙骨を降ろして、振り返りもせずに歩き始めると乙骨がその隣に並んだ。
「最初からリカに9割預けてたでしょ?」
掛けられた言葉に乙骨の視線は抉られた地面から五条に移るが、五条は真っ直ぐ前を向いたままだ。
「先生が他の術式を使わないと言ったので僕も合わせました」
「何で?ハンデだよ?」
呆れた五条がポケットに手を突っ込む。中を探って取り出したのはいちご味の飴。片手で包装を開けると口の中に放り込む。
「……実質僕も特級ですから、そのハンデは受けられません」
ガリガリと飴を噛み砕く音が続いて乙骨はそれ以上言葉を重ねることを控える。
「そっか」
嚥下音の後に素っ気無い言葉が返される。
「憂太のさっきのごめんなさいはチャラにするね」
「……??はい」
五条が乙骨の端末にデータを送信する。
「憂太に任務のプレゼント」
送られた任務概要のメールには全国各地からの任務依頼がずらりと並んでいた。窓からの報告と共に凄惨な現場写真も添付されている。
「分かりました」
呪詛師の抹殺が7割の任務概要を一通り流し読みした乙骨は、そう言って承諾の返信を打つ。何か思い付いたようで乙骨は隣の五条を見上げた。
「これって先生宛ての任務だったりしますか?」
「そうだったら?」
「嬉しいです」
本心から笑う彼が視界の端に映ると、五条はピタリと立ち止まった。
「憂太」
「はい」
乙骨も五条に合わせて立ち止まる。既にタウンエリアまで戻ってきていて、もう少しでエントランスに辿り着く距離だった。
「車もう一台呼ぶ?すぐ近くに待機させてある」
「お願いします」
乙骨の即答に、五条はメッセージで待機させていた補助監督を呼び出す。
「別に焦ってやることはないからね?」
「分かってます。ちゃんと終わらせてきますよ。あ、先生」
「ん?」
「真希さんはピザと天いち、狗巻くんは牛タン、パンダくんは焼肉が良いそうです」
嬉しそうにそう伝える乙骨に、五条は見縊っていた自分を少し恥じた。
「了解。憂太は?何がいい?」
乙骨が望むならキャベツ農家と売買契約するのも吝かではない。そんな突拍子も無いことを考えながら乙骨の返答を待つ。
「僕は……」
躊躇した様子を見て、もしかしたら寿司や海鮮系かも知れない。狗巻が魚卵が苦手なのでちょっと言いにくくて、悩んでいるのかな?などと推理していた。
「先生からは毎日貰っているので、大丈夫です」
「……そ、そんな答え出せちゃう?」
「え?」
余りに予想外の答えで思わず心の声が溢れてしまった。本当に満足そうな表情を浮かべている乙骨に、五条は堪えきれなくて笑みを零す。
「はははは!憂太って本当にさぁ……」
急に肩を掴まれて身体を竦めた乙骨の目の前が突然黒に染まる。
「……先生?」
抱き締められていると漸く理解した乙骨が恐る恐る声を掛けると、更に抱き締めている腕の力が増した。
「僕も毎日憂太から貰ってる。毎日嬉しい」
余り聞いたことのない声音に、乙骨は無意識に背伸びした。もっと近くでその声を聞いてみたくて。もう少し近づけば片方の胸にしかない心臓が、左右で一つになりそうな気がして。
「今日は憂太にいいことを教えてもらったよ。僕にも万有引力が働いてるって分かった。これって結構凄い発見なんだよね。忘れちゃわないように覚えておくよ」
「は、はぁ」
(凄い発見て何がだろう?)
疑問を思い浮かべた乙骨がいつまで経っても重ならない心臓に気付く。二人の間には無限があった。心音も体温もそれを乗り越えて五条に届くことはない。
寂しい。それはとても寂しい。
そんな気持ちを無自覚に乙骨は表情に出していた。抱き締めている対象が背伸びしていることに気付いた五条が、確かめるように少し体を離して乙骨を覗き込む。自分の手札がどれだけ威力があるのかまるで分かっていないなと、五条は先程のポーカーを思い出した。
「ねぇ、それ、強請ってる?」
「え……?」
乙骨のまあるい後頭部に手を添えた五条がもう片方の手で乙骨の両目を覆う。視界を遮られた乙骨は僅かに後ずさるが、五条は手を添えたまま離さない。
「?せん…せ……?」
見えない分を補うように他の感覚機能に意識を注ぐ。零した吐息が間近で反射されるのを感じて乙骨は硬直した。
(す、凄い近くにいる感じが……)
衣擦れの微かな音。頬を撫でる吐息。ふわりと鼻腔を擽る香り。不安など微塵もない暗闇なのに、心拍数が跳ね上がる。どうしていいか分からず唇を引き結べば、鼻先でくすりと笑う気配がした。
そこには無限はないかもしれない。
確かめたくて、深く考えずにいた乙骨のスニーカーの赤のラインが地面から浮いた。
スマホの振動がローテーブルに反響し、五条の意識が引き戻される。帰宅してからソファに身を委ねて随分と呆けていたようで、夜空の月が天頂まで昇っていた。
スマホを手繰り寄せて確認すると、小さな失笑が溢れる。画面には乙骨の任務報告を知らせる通知が表示されていて、タップすると4件の報告書が添付されていた。
「半日で4件か、怖いね〜。このペースなら間に合っちゃうかな」
肩を震わせて笑う五条がスマホを手放し、寝室にあるウォークインクローゼットのドアを開く。
私服の奥に支給されている黒服がずらりと並び、そこには照明をつけなくても一目でわかる白の制服が混じっていた。
「これが本当の誕生日プレゼントって知ったらどんな顔するかな?」
前から少しずつ慣らしてはいたものの、特級がどんなものか、任務がどんなものか知り尽くした後で渡すのだから、悪い大人だと思う。
待ちきれない。
どういうことだろう。
このために外堀を埋めていった。
囲い込みも、全部自分が先手のはずなのに。
アドバンテージは自分にあるはずなのに。
クローゼットを閉じた五条が窓際まで進み月を見上げる。
今もこの月の下、何処かにいる乙骨が急に隣に現れて『捕まえましたよ。先生』なんて言ってきそうで怖い怖いと嘯いた五条の、それはそれは嬉しそうな笑顔がガラスに映る。
(憂太の誕生日、1番待ち侘びてるの僕じゃん)
毎日、毎日待ち焦がれている。
隣に君が来るのを。