ダイ君とポップの七色のキャンディー「わぁ、綺麗だなぁ……!」
すぐ隣の頭ひとつ分低い位置から上がった歓声を耳にして、おれはぶらぶらと街の通りを往く足を止めた。それから目を輝かせる相棒の視線の先を追う。
小さな勇者さまの関心を射止めたのは、焼けた黒ずみや剣戟の跡が刻まれて傷んだ箇所を出来合いの木片で貼り付けて直した手押し屋台に並べられた、幾つものガラスの小瓶だった。所々細い蔓草模様で装飾された何の変哲もないただの小瓶だが、中には色とりどりの飴玉が詰め込まれている。
赤、青、緑、黄、桃、紫、そして白。七色の飴玉だ。おれには色からだいたいの味を想像することができる。小瓶同様に飴玉も巷にありふれたフルーツ系のものだろう。
もっとも、姫さんが見れば安堵に胸を撫で下ろすだろうなと、おれは美しくも勝ち気な、けれども己に課された王女としての役目を誠心誠意務める少女の姿を思い浮かべた。復興途中のパプニカの市に、ついに嗜好品の飴玉が美しいガラスの小瓶に詰められて並びだした。その報はどれほど彼女の疲れた身体を労ってくれるだろうか。
「ポップ、これ何?」
「何って…飴玉じゃねぇか。子どもの頃よく食べたぜ」
「あめ、だ…ま……。これが………飴……」
ぽかんと口を開けて飴玉の入ったガラスの小瓶を見つめていたダイは、何度か目を瞬かせると、急に得意げな顔をして胸を張った。
「おれ、知ってる! 昔じいちゃんに読んでもらった本に出てきたんだ。口の中に入れると溶けていく甘い食べ物だってじいちゃん言ってたな」
「へぇ。おまえのじいさん本当にまめだよな」
拾い子に絵本の読み聞かせまでしていたのかあのじいさん。魔法の特訓は厳しかったってダイのやつは言うけれど、なんだかんだ言ってもじいさんは優しいし、こいつが可愛くてしかたないんだろうなぁ。
そんなことをおれが考えている間も、ダイはそれでなくても大きな瞳を更に大きく開いて、陽の光を通して煌めく飴玉を飽きずに見つめていた。
「レオナが持ってる宝石くらい綺麗だよね、これ」
「………それ、絶対姫さんの前では言うなよ………」
おそらく姫さんはおれの目ん玉が飛び出すくらい価値のある宝飾品を身につけているはずだ。飴玉と同列に綺麗だなどと口にしようものなら、姫さん本人は気にせずとも、周囲のお貴族サマ方に侮られる要因になる。
「一応言っておくが、姫さんのアレは飴玉じゃねぇからな」
「それくらいわかってるよ!」
さすがにぷくりと両頬を膨らませたジト目のダイに抗議される。
そんな子どもっぽい様が異様なほど似合っていて、おれはたまらなく可愛く思えた。いつも勇者として頑張るダイの、等身大の姿だ。
いつの間にか側までやって来ていた屋台の店主と思われる壮年のおっさんも、そんなダイの様子を目にして満面のにこにこ笑顔だった。
そう言えばと、おれはそんな様子のダイを視界に収めながら考えた。こいつはデルムリン島で唯一の人間として育った子どもだ。島には当然だが市販の菓子の類はなかっただろう。たぶん飴玉を口にしたことはないんじゃないだろうか。
そう思い至れば、世界にたったひとりの弟弟子であり、絶賛片恋中であるダイのために、おれがすることは決まっている。
「おーい、おっちゃん。これ、ひとつ」
「まいどあり、5Gだよ! 袋に入れますかい?」
「いや、そのままでいいよ。ありがとさん」
おれは手前のガラスの小瓶をひとつ手に取った。そしてそれをダイの手に持たせてやる。小さな手に持たされた小瓶は、きょとんと目を丸くしたダイの姿になんだかしっくりと馴染んで見えた。
一方でおれの突然の行動にダイは戸惑い、渡されたガラスの小瓶と当のおれの顔を交互に見やっている。
「気に入ったんだろ? ポップ様からのプレゼントだ」
「えっ、でも、悪いよ……」
「飴、食べたことないんだろ?」
おれの問いにダイは小さく頷いた。やっぱり。存在を知っているだけで、実際に食べたことはなかったんだな。
「おれも久しぶりに飴玉でも舐めたい気分なんだ。一緒に食おうぜ」
「う、うん! ありがとう、ポップ!」
ぱっとダイが顔を輝かせた。ガラスの小瓶を天にかざして、中の飴玉の色を光を透かして見ては頬を綻ばせていく。よほど飴玉を手にしたのが嬉しかったのか、くるくると小瓶を回しては万華鏡のように生み出される様々な色の光を飽きずに見つめている。
ダイの『初めて』の時間を一緒に迎えられる―――それは俺にとっても喜ばしいことだった。
こんこん。
パプニカの城内の一室、おれにと用意された部屋の扉をノックする音が夜のしじまを細やかに破った。
「ポップ、……いる?」
遠慮がちに部屋の扉が開かれて、隙間からひょっこりとダイが顔を出した。手には昼間に買った飴玉の入ったガラスの小瓶が大切そうに握られている。まるで宝物みたいに。それを目にしただけで、おれの心がほっこりと温まるのがわかった。
おれは手にしていた魔道書―――師匠から大量に渡されたもののひとつだ―――を閉じて顔を上げると、寝台の縁に腰掛けたまま、指先でちょちょいとダイを手招きした。
「へへっ、お城に戻ってから用事で別れちゃって結局食べられなかったろ? 今から一緒にどう?」
「今からか? いいぜ」
小走りに駆け寄って来たダイは、おれが隣を指差して座るように仕草で伝えると僅かに難色を示した。寝台の上で物を食べるのを躊躇してだろう。怪物だらけの島で育った野生児と思わせて、こいつはこういうところある。
「いいから。食べくずが落ちるわけじゃねぇしさ」
「……わかった」
「先に食べなかったんだな」
「一緒に食べようって約束しただろ。それにおれも最初の一口はポップと一緒がいいって思ったんだ」
ダイがおれの隣に腰を下ろしながら笑った。
一緒に食べようなんて、半ばダイに飴玉をやるための口実だったんだけどな。こいつは本気にして、おれと一緒に初めての飴玉を食べるっていう経験を共有することを望んでくれているのか。そう考えると、心のどこかがくすぐったくなった。
おれが開封を促すと、ダイはやたらと真剣な表情になってガラスの小瓶の蓋に手をかけた。きゅぽっと空気が漏れる間抜けな音がして蓋が外れる。
「わぁ……小さくて可愛いなぁ。なぁなぁポップ、ポップは何色の飴がいい?」
小さくて可愛いのはおまえの方だ。よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、飴玉に夢中になっているダイの機嫌を壊しそうなのでやめておく。
飴玉はおれの小指の爪ほどの大きさしかなかった。洒落たガラスの小瓶に入っていることからも、食べ応えより見栄えを優先して作られているのは間違いない。
「何色でもいいぜ。まぁその一番上の赤色からいっとくのが常套ってもんだろうけど」
「よぉっし!」
ずいぶんと気合を入れてダイはガラスの小瓶を傾けた。
ころりころりと、赤色の飴玉と、それと一緒に青色の飴玉が転がり出てくる。おそらく苺味とソーダー味だろう。
もちろん初めて飴玉を食べるダイには、誰もが簡単に予想できるそんなお決まりなどわからない。何味かなぁなどと呑気に言いながら、楽しそうに手のひらの上を転がる飴玉の動きを見つめている。
「ポップはどっちがいい?」
「そーだなぁ……ダイ、おまえはどっちがいいんだ?」
自覚があるのかないのかわからないが、どうにもダイは自分の欲しいものややりたいことを抑えつけて、時には捨てていくきらいがあるようにおれは思う。出会った頃はもっと……もっと我を出していたはずだ。いつからこうなったのかなんて考える余地もない。おれたちがダイを『勇者』にした時からだ。
だからおれは、少しでもダイに自由に自分の望んだものを選び取れるようにしてやりたかった。せめてこんな、遊びの時くらいは。
「えっと……じゃあ、おれはこっちの青色にしてみてもいい?」
「オーケー。じゃ、おれは赤いやつな。いっせぇの〜で〜、で口に入れようぜ」
おれの手のひらに赤色の飴玉を乗せながら、ダイが頷く。
お互いに掛け声をかけて、おれたちは口の中に飴玉を放り込んだ。
「あま……くて……美味しい!」
「んー。予想どおり苺だな」
「おれは……ううん………? 何味だろう??」
ころりころりと舌の上で飴玉を転がしながらダイは小首を傾げている。ダイの中でソーダーの概念がいまいち固まっていないせいか、飴玉から飲み物のソーダーへと辿り着かないようだった。
百面相の様相で飴を舐めているダイが面白おかしくて、おれは吹き出してしまった。そんなおれを横目にダイは眉根を寄せながら懸命に飴玉を転がしていたが、やがて諦めたのか小さく息を吐く。
「ダメだー! わかんないや!」
「じゃあ代わりにおれが当ててやるよ」
「ポッ……んぅっ……!?」
おれはダイの両の二の腕をとると、そのまま向き合うように身体を引き寄せた。突然のおれの行動についていけず、ダイはされるがままだった。何をされるのかなんて理解もしていないこいつが我に帰る前に、おれは飴玉を舐めていたせいで薄く開いていたダイの唇に自分のそれを重ねた。
びくんとダイが小さく身体を跳ね上げさせたのが、こいつの腕を掴んだ手から伝わってくる。
唇の隙間から舌を忍び込ませた。ダイの口腔が戦慄くように震えて、けれど入り込んだおれの舌を傷つけまいと、懸命に口を閉ざすのを避けているのがわかった。
「…っ……はぁあ………ん、ぅんッ……」
身を引こうとしたダイの背に腕を回して、おれは何も知らない小さな子どもを、おれという檻の中に閉じ込める。その分近くなったおれたちの距離は、そのまま口づけの深さと重なった。
飴玉とダイの気遣いのおかげで閉じきれずにできた緩んだ上顎と下顎の間の空間は、おれの動きをますます大胆にさせる。
驚いて固まっているダイの舌を絡め取り、おれは優しくその表面を自身の舌先で撫でてみた。慣れない感触にぞくりと鳥肌が立つのがわかる。それはダイも同じらしく、半袖のシャツから出ている肌が粟立っていた。
「ポッ……プ………あぅ………っ」
「目ぇ瞑ってくれよ、ダイ」
「目……っ?」
「そう。おまえすっげぇ目を見開いててさ、瞳が零れ落ちるんじゃないかって心配になる。だから」
ちゅっと唇を啄んで少しばかり離れる。ダイが息継ぎできなくて苦しそうにおれの上着の裾を掴んだからだ。まさかそんな可愛い訴え方をしてくるとは思わなかった。何も知らない綺麗なままのこいつでいられるように大切にしてやりたいって想いと、何も知らないこいつを無茶苦茶にして暴いてやりたいって最悪な感情がせめぎ合う。
ダイの唇の端から流れる銀糸を親指の腹で拭ってやった。おれとこいつで生み出したものだ。顎まで濡らすそれが気になっていたのだろう。ダイがほっと息を吐く。
じっと見つめていると、ダイは眉尻を下げながらもゆっくりと目を閉じてくれた。飴玉なんかより綺麗なこいつの琥珀色の瞳が隠れてしまうのは残念だけど、見開かれた瞳に映るおれの姿が隠れてしまうことには安心した。きっと悪魔みたいな顔をしてるんだ。おれがこれからこいつにしようとしていることを鑑みればなおさら。
瞳を閉じたダイの唇を再度塞ぐ。噛みつきそうになる情動を必死で抑え込んで、せめて表面だけでも優しくあろうと努めた。
またさっきと同じことをされるとわかっていて、ダイは瞳を閉じた。つまりはおれと口づけを交わすことを受け入れたんだ。いや、違う。ダイは、選んでくれたんだ。
「ダ、…イ……!」
「……んんッ……ぽ………ぷぅ……」
おれの舌先が唇に触れると、おずおずといった様子でダイは自ら唇を開いてくれた。そこから小さくても温かなダイの口腔に潜り込む。おれは迎えてくれたダイの舌を吸い上げ、そっと歯を立てた。やわやわと甘噛みし、何度も何度も絡ませ合う。
溢れそうになる唾液をダイがこくんと飲み込んだ。嚥下の動きに合わせて、まだ喉仏の姿も窺えない幼い喉が動く。
熱に浮かされたように、上気したダイがぼんやりと目を開けた。潤んだ瞳に映るおれの影は歪んでいて、どんな顔をしてダイにこんなことをしているのか、自分でもわからなかった。
上顎をくすぐってやると、ダイはうっとりとその快楽を享受し始めた。気持ちいいんだろう。続きをねだるようにおれへと凭れかかってくる。体の芯が溶けてしまったみたいに、ダイの身体が傾いていくのを、おれは湧き上がる歓喜に満たされながら見つめた。
小刻みに震えていたダイの手が、確かめるようにおれの背へと回された。それはおれにとって、ダイの許しそのものだった。
この行為が嫌ならば、ダイはおれを突き飛ばすなり蹴り飛ばすなりすればいい。それができるだけの力のあるやつだ。それをしないで、おれの背を抱くということは、ダイもまたこの行為を望んでいるということだ。
ダイの口腔を弄る動きを止めて、おれは最初の目的だった飴玉を舌先で包み取った。そのまま自分の口に引き入れて、小さくなったそれを舐める。
「ん! ソーダー味だな」
「……そぉだぁ味?」
「飴玉。あの青いやつはソーダー味だったのさ」
腕の中に閉じ込めたダイごと、おれは横向きに寝台へと倒れ込んだ。少しばかり向きを変え、抱き合ったままダイを背中から寝台に押し倒す。半ば小柄なダイの上に乗り上げる形になってしまったが、特にダイは痛みや不便を感じている様子はなかった。絵面としては自分より小さな子どもを押し潰している最悪の図だが、鍛えた身体はおれごときの重さなどでは堪えないらしい。
「ソーダーって、あのぱちぱちする水のことだろ?」
「ああ」
「えぇー?! あれはこんなに甘くなかったし、口の中が爆発しちゃうんじゃないかってくらいすごく痛くなったのに!」
信じられないとばかりにダイが吠える。ロモスの戦勝会で初めて炭酸水を飲んだダイときたら、口の中が爆発してしまうと軽くパニックになったのだ。皆の笑いを誘ったそれは、和やかな雰囲気ではあったけれど、ダイ自身にとっては笑えない思い出となっていたようだった。
「戦勝会とか夕食時に供される炭酸水は甘くないけどよ、世の中には甘いソーダー水だって存在してンのよ」
「甘い……ソーダー…………」
「言っとくけど、炭酸……ぱちぱち成分は変わらずにあるからな」
「…………わ、わかってるよ…!」
ぶすっと膨れっ面になったダイに、内心笑いつつもう一度口づける。今度また一緒に飲もうと誘うと、ダイは顔いっぱいに笑顔を咲かせて大きく頷いた。
そんな可愛い反応を返してくれたダイの鼻先におれは軽く口づける。それから上着の裾から手を滑り込ませると、びくんと大きく小さな身体が揺れた。そのまま筋肉を纏った柔らかな腹部を撫で上げながら、胸の上のふたつの尖りのうちのひとつに辿り着く。指先でそっと押し潰すと、鼻にかかったみたいな甘い声色の混ざる息が漏れた。
「もう少しだけ先に進みてぇけど、この辺にしとかないとな」
「……もう少し…先……?」
「ん。おまえはまだ子どもだからな。この先はちっちぇえ身体には負担が大きいんだ。もうちょい大きくなるまで待とうな」
「おれ鍛えてるから、別に平気なのに」
「外じゃなくて身体の内側とか心の話だから」
「…………?」
「いーの、いーの! その時が来たら、ちゃあんとおれが教えてやっからさ」
「……わかったよ、ポップ。ちゃ…ちゃんと教えてくれよな!」
人と隔離されて育ったからこそ純真無垢そのもののであるダイに、飴玉を食わせ、人肌の温もりを教え、快楽に染まることへの禁忌を取り払い、俗世に引き摺り込んでいく。
もう躊躇はしない。疚しさだって感じない。ダイの『初めて』はどんなものでもおれが全部貰うんだ。ダイだって望んで、そして選んでくれたのだから。
何も知らない無垢な人の子に禁断の果実を食べさせ、知識ある世界へと堕とした御伽話の蛇みたいに、きっとおれは笑ってるんだろう。
でもそれは、おれにとって間違いなく幸福の笑みだった――――。
ああ。
青い。
あの日あいつが選んだ青い飴玉みたいに、澄んで輝く青い空だ。たなびいていた白い雲は爆風でひとつ残らず吹き飛び、ただただ青さばかりが目の前に広がっている。
手を伸ばす。でも届かない。あの時は簡単に腕の中に閉じ込められたのに、あいつは自ら望んで檻の中に入ってくれたのに。結局ダイは抱えた大切なものを全て捨てて、檻から出て行くことを選んでしまった。
蹴られた胸部がじんじんと痛む。渾身の力で蹴りやがったな。息すら引き攣っちまうじゃねぇか。
落ちる。
地上へ向かって落ちていく。
誰かがおれを受け止めてくれたけれど、何も覚えてない。ただもう一度あの青い空へ向かって飛び立とうとトベルーラを唱えようとして果たせず、からっ欠になった魔法力を命そのもので補おうとしたところで意識を失ってしまったことだけは鮮明に覚えている。
「ばっかやろう……」
呟くと同時に、おれは目を覚ました。頭がやたらと痛いし、身体は重い。けれど意識だけは急速に浮上していくのがわかった。混乱している記憶をなんとか整理し始める。
あぁ、そういえばあの時、先生が側にいたのを思い出した。先生が何か魔法を使ったのも。あれ、ラリホーか何かだったのかもしれない。もしかしたらおれ、手がつけられないくらいに暴れていたのかもな。大人しくさせるために催眠呪文をかけられてしまうくらいに。
そう言えばダイも親父さんに同じことされたって言ってたな。大人ってのはみんな子どもに対してそうするもんなんかな。
まだ少しぼんやりした視界に飛び込んできたのは、見覚えのある天井だった。確かカールの砦だ。あのあと一度ここへ戻ってきたみたいだった。
あれからどれくらいの時が過ぎた? ダイは、ダイは無事なのか? 軋む身体をなんとか騙し騙し起き上がった。ダイを探さなくては。
こんなところで寝ている場合じゃねぇ。あいつが捨てちまったものを全部返してやって、それからあいつがひとりで『初めて』を迎えることのないように、おれの腕の中に再び閉じ込めなければ。
地を踏む足はまるで力が入らなかった。ずるずると掴んだ敷布を引き摺りながら、ぺたんと寝台脇の床に座り込む。
立ちあがろうと地につけた手のひらのその指先に、不意に固いものが当たった。いったい何だろうかと探ってみれば、寝台の下から転がり出てきたものがある。それは小さなガラスの小瓶だった。中には色とりどりの飴玉が入っている。
「………っ!!」
おれは無我夢中になってそれを拾い上げた。
初めてダイと一緒に飴玉を舐めたあの日から、おれたちは毎晩一個ずつ飴を舐めた。お行儀良くそれぞれ一個ずつ舐める日もあれば、あの日みたいに熱を分け与えながら舐める日もあった。食べ慣れないダイを揶揄いながら味の当てっこをして、ささやかなゲームも楽しんだ。
けれどもそんな日々は長くは続かなかった。大魔王との戦いが激しくなるにつれ、ゲームを楽しむような時間は取りにくくなり、更にはおれたちは別行動をとることが多くなったからだ。
あんなに煌めいて見えた飴玉が、今のおれにはくすんで見えた。ダイと一緒に見た時は洒落て綺麗だと思ったガラスの小瓶も、今のおれには普通の何の変哲もないただのガラスの小瓶だった。
「………ん? 何か……入ってるな」
ガラスの小瓶の中に飴玉以外のものが入っている。目を凝らして覗き込んでみたところ、小さく折り畳まれた紙のようだった。
おれは蓋を開けると、首を傾げつつ飴玉に半ば埋もれていた紙を摘み出した。そっと紙を広げてみる。
『また ここへもどってこられたら つぎは みどりいろ』
文字を書くのに慣れていない者の、辿々しい筆跡。お世辞にも褒めるところを探すのが大変な達筆具合だった。
ダイだ。
ダイの書いた文字だ。
ダイが残したメモだ。
決戦前の最後の夜、おれはしるしを光らせることができず、森の中で夜通し途方に暮れていて、結局砦のこの部屋に戻らなかった。
ダイは飴玉の入ったこの小瓶を抱えて、おれが部屋に戻ってくるのを待っていたんだろう。なかなか戻らないおれのことを、きっと翌日の戦いに備えて身体を休ませるために必要な時間ギリギリまで待って、果たせずにこのメモを残したんだ。
「次っていつだよ……ばかやろう………」
途切れることなく涙が溢れてきた。やけに熱く感じるそれが、おれの手やガラスの小瓶を濡らしていく。
「ごめんな……ごめん、ダイ」
ダイはいったいどんな気持ちでおれを待っていたんだろうか。どんな気持ちでこのメモを残したんだろうか。そして―――どんな気持ちで、このガラスの小瓶のことも青い空を駆け上がりながら手放したんだろうか。
おれは足に力を込めると、ふらつく身体をなんとか地に立たせた。手にガラスの小瓶を握りこみ、ぐっと奥歯を噛み締める。
「ダイを探すんだ。あいつがひとりぼっちで『初めて』を迎えることのないように。緑色の飴玉だって、あいつが初めて食べる時は、おれが一緒にいないと」
あの凄まじい爆発では、ダイが必ず生きているという保証などない。そう言うやつもいるだろう。でもそんなこと、おれには関係ない。
今ならあいつの親父さんの気持ちがよくわかる。十一年探し続けた我が子を目の前にして、どんな手段をとってでもその小さな手を掴もうと、我武者羅に腕を伸ばしたその気持ちが。
「親父さんは生死もわからないダイを十一年間探し続けた。親父さんにできたことがおれにできねぇわけがねぇ……!」
ダイ。
ダイ。
おれのダイ。
絶対におれが見つけてやるぞ。
おれは揺るぎない固い誓いを胸に抱き、手にしたガラスの小瓶とともに一歩を踏み出した。この一歩一歩が、ダイの元へと続くと信じて。