角羽尻尾なディーノ君(竜父子+ポップ)序章
その手は、墨のように黒く澱んで、どこまでも広がる空間から、突如として腕だけ生えたように伸びてきた。指先は赤黒い血で濡れ汚れ、ひたりすたりと滴り落ちては、水面のように波打つ地面へと吸い込まれていく。びちゃん、と高い水音が、聴覚をつんざいて響き渡った。
絶対にこの手に捕まってはいけない。
本能的に悟り、ディーノは地を蹴って走り出した。走って、走って、全力でひた走った。
手が追って来る気配を感じて、ディーノは耐え切れずに肩越しに背後を振り返った。ひとつだったはずの手の数が、時間の経過とともにどんどんと増えていた。
その手のどれもがディーノへと伸びてくる。凝り固まった悪意を乗せて。
恐怖に滲んだ視界を振り払って、ディーノは駆け続けた。
ディーノの背には竜の翼がある。まだ幼生体であるディーノの小柄な体格に見合った小さな小さな翼だ。ディーノはまだ上手く飛ぶことができなかった。この小さな翼ではまだ十分な浮力を得ることができないのだ。
ディーノの身体を空へと導いてはくれないのに、背中から広がるこの翼は、追って来る手たちにとっては獲物と己の距離を詰める格好の的だった。
そしてそれは尻尾も同じ事だった。いつの間にか追いついたひとつの手によって、翼を掴み捕らえられ、更に追いついた手に尻尾の先をわし掴まれる。
力任せに後ろへと引き倒されて、ディーノは背中から地面へと転がった。何度かもんどり打ち、脳震盪を起こして一瞬意識を飛ばしてしまう。
その間にも追いついてきた無数の手たちがディーノの小さな体に群がってきた。手たちはディーノを拘束するために手足や尻尾を押さえ、助けを呼ばぬように口を塞ぎ、空への逃亡を防ぐために小さな翼を折った。
痛みと恐怖に震えて涙を零すディーノのことなど目にも留めず、その手は小さな顔ごと掴むようにして頭部を地面に縫いとめた。
幾つかの手が角にかかる。そのまま角を頭からもぎ取るか、さもなくばへし折ろうとしているのだと気づき、ディーノは声にならない悲鳴を自分の口を塞いでいる指の隙間から迸らせた。
「助けて、父さん――ッ!!」
叫んで、そしてディーノははっと目を覚ました。
心臓が痛いほどに脈打ち、どっと汗が噴きだす。そっと視線を巡らせれば、岩壁に囲まれた洞穴の中だった。ふかふかの草で作った寝台の上に身を横たえている。ここが夢の中ではなく、昨夜眠りについた巣の寝床だとわかると、ディーノは小さく息を吐いた。
まだ周囲は暗いが、あの怖い手たちはどこにもいない。身体だってちゃんと動かせる。まだ小さな震えが止まらない手を目の前まで持ち上げてじっと見つめていると、不意にその手が温かなものに包まれた。
顔を上げれば、ディーノの様子に同じく目を覚ましたらしい父のバランが、その大きな手で震える手を包み込んでくれている。
「どうした、ディーノ?」
窺うように尋ねられた。低音で力強く、でも優しい。ディーノが世界で一番好きな存在の声だ。恐怖と緊張があっという間に解けて溶けていく。
「怖い夢でも見たか?」
「……うん」
隣に横たわる父の、自分とは違って大きく厚い胸に、ディーノは顔を埋めた。すんすんと匂いを嗅げば心が落ち着いてくる。ディーノはそのまま甘えて身を寄せていった。
バランもそんなディーノの様子に思うところがあったのだろう。何も言わずに息子の小さな身体を抱き上げると、自身の腹の上に乗せて寝かせ、あやすように背を撫でてやった。
「目を閉じて眠れ。夜明けはまだ遠い」
「…うん……、でも……」
目を閉じて眠りに落ちたら、またあの怖い手に追いかけられる夢を見るかもしれない。今度こそ角を折られるかもしれない。———話にしか聞いたことのない、昔はたくさんいたという、仲間たちのように。そう考えてしまうと、恐怖に身が竦んでしまって、とても眠れそうにない。
「おまえが寝つくまで、こうして背中を撫でていよう。怖い夢は私が追い払ってやる」
「……本当?」
「あぁ。安心して眠るといい」
「うん!」
父の大きく暖かな胸に顔を埋め、ディーノは深呼吸するとそっと目を閉じた。父の手が背中や頭をゆっくり優しく撫でてくれる。その心地よさは、ディーノの心を落ち着かせ、安堵で満たしてくれた。
悪戯げに頬や目尻を親指で拭われて、ディーノはいつの間にか自分が泣いていたことに気づいた。父は何も知らぬげを装って涙を拭ってくれていたのだ。
父から一心に注がれる愛情と慈しみは、大きなゆりかごとなってディーノの意識を包み込み、深い場所へと沈めていった。
すやすやと寝息をたて始めた息子を両腕に抱きしめ、バランは眼前の旋毛に顔を埋めた。
癖が強そうに見えて、実のところは艶やかで柔らかなさらさらとした髪質は、亡き妻ソアラのものに似ている。髪質だけではない。ディーノは顔立ちも気性も母親にそっくりだった。
バランにとって、太陽であり光であった人。ディーノはその血を分けた忘れ形見であり、この世界に残された、たったふたりきりの同種族だ。
人間のような姿に、大きな竜の翼、尾、そして角。バランとディーノは、人間も魔族も竜も一目おき、栄華を極めた半人半竜の一族の末裔だった。そう、人間が欲に絡めとられて堕ちるまでは。
一族の角には万病を癒す不思議な力があった。その力は死者すら甦らせる程だったという。人間は半人半竜の一族の角を欲した。薬としてだ。
寿命を迎えた者、運悪く命を落とした者。初めはそういった者たちから角を得ていた人間たちは、いずれ年月を経て半人半竜の一族を狩るようになっていく。
心優しく穏やかな気性の持ち主が多かった半人半竜の一族は、少しずつその数を減らしていった。もともと長寿の一族ゆえに生まれる子が少ないこともあり、種の維持を保つことが難しくなるまで追い込まれるのに、そう長い時間はかからなかった。
腕の中のまだ幼いディーノは、バランにとっての唯一であり全てだ。
その最愛の我が子を脅かし傷つけるものを、バランは許すつもりなど欠片もない。
「人間ども……我が一族に手をかけただけでは飽き足らず、この子までも私から奪うつもりか」
バランは喉の奥から唸り、両の瞳に憎しみの色を滲ませると、まだ明ける気配を見せない夜の帷を睨みつけた。
1
とん、という地面を蹴る音に続いて、翼が広げられる芯の強い硬い音が響く。
巣穴のある岩山の崖縁から落下した身体は、僅かの間に浮遊感を得たあと、ぐんぐんと雲を目掛けて翔け上がっていった。青い空を横切り、鳥の群れとすれ違い、広大な森を眼下に見納め、雄大に流れる川に沿って飛行し、ぐんぐん目的の場所へと近づいていく。
身体いっぱいに風を受けながら、眼前に広がっていく景色に、ディーノは目を輝かせた。
「寒くはないか、ディーノ」
父の問いかけにディーノは勢いよく首を横に振って答える。
「全然! もう春も半ばで風も柔らかいし、こうやって父さんとひっついているんだもん。ちっとも寒くなんかないよ!」
言い終わらぬうちに、ディーノはくしゅんと小さなくしゃみをした。父の苦笑が降り落ちてくる。
バランは腕の中の息子を抱え直すと、なるべく子どもの柔肌と冷たい風が接する面積が少なくなるように気遣った。春を迎えて花々が咲き誇る季節になったとはいえ、高高度で切る風はまだまだ冷たいのだ。
小さく鼻を啜ったあと、ディーノは上機嫌で景色を眺めている。父の腕の中はディーノにとって、何よりも安心できる居場所なのだ。ディーノの父への信頼感をバランは嬉しく思うと同時に、そろそろひとりで飛べるようにならなければならない年頃なのだが、と心の中で嘆息する。
季節をふたつほど遡った頃からバランはディーノに翼を使って浮遊する練習をさせているが、残念ながら現在まで上手くいったことはない。歳のわりに小柄なディーノは、まだ翼が育ちきっていないのかもしれないと、バランは推測している。
もっと大きく成長させねば。
これまで考えていたことを実践する時がきたのだと、バランは覚悟を決めて腹をくくった。
目的地上空までやって来たバランは、大きく翼をはためかせると、軽く旋回したあとゆっくりと地上へと下降していった。
そこは森の中の開けた場所だった。背の低い草や木に囲われていて視界も良い。太陽の光が降り注ぐそこには、小さな赤い実のクサイチゴやナワシロイチゴ、ラズベリー、ヤマモモが周囲の木々や草木に実っている。毎年この季節にふたりがやって来る食事場だ。
バランは地面に両の足を着けると、降ろしてくれと言わんばかりに手足をバタつかせて身動ぐディーノを無視して、周囲の様子を探った。人間にの手による危険なものが仕掛けられた様子はなく、飢えた肉食の獣の気配もない。
バランは息を吸うと竜もかくやの咆哮をあげた。念のためにディーノに危害を加える可能性のある獣を追い払うためだ。ビリビリと殺気混じりの空気が広がっていく。
そこまでしてようやくバランは腕の中の息子を解放した。食い気に負けて一目散に木の実へと走っていくディーノは、我が子ながら愛らしいが、もう少し警戒心を身につかせねばと再び嘆息する。
「父さん、見て! たくさん木の実が生ってるよ!」
「……今年も実りが豊かでなりよりだ」
ディーノはさっそくクサイチゴを摘んで口に入れた。濃厚な甘さとほんの僅かの酸味が口いっぱいに広がっていく。
「美味しい!」
「そうか。よかったな」
「ほら、父さんも! 食べて!」
クサイチゴをひとつ摘んだディーノが、満面の笑顔で駆け戻って来る。小さな指を口元に差し出されて、バランは何度か目を瞬かせた。いわゆる、あーん、という幼児のような行動に応えるか一瞬躊躇し、期待に満ちた息子の目に屈して結局口を開く。
口の中に広がるクサイチゴの甘酸っぱさと、鼻に抜ける芳香は、甘いものが苦手なバランも納得するに足るものだった。
「美味いな」
「でしょ!」
両腕を腰に当ててふふんと胸を張ったディーノに対して、おまえが手をかけて育てたわけではなかろうに、などとバランは大人げない言葉をかけはしない。ディーノは今年のクサイチゴの第一発見者なのだ。少なくとも、このふたりきりの世界では。
「さて、ディーノ。私は少し離れた場所で別の食糧を見繕ってくる。おまえはこの周辺にいて遠くへ行かないようにな」
ラズベリーへと手を伸ばしかけていたディーノは、バランの言葉に琥珀色の大きな目を瞬かせた。
「父さん、どこへ行くの?」
「すぐに戻る」
ディーノの問いに答えることなく、バランは背中の羽根を広げる。竜骨の間に張られた黒いビロードのような膜が太陽の光を反射して輝いた。
父の姿が見えなくなるまで見送ったあと、ディーノは小首を傾げながら手にしたラズベリーを小さな口へと放り込んだ。
父が戻ってくるまでに、そう長くはかからなかった。ディーノが手のひらいっぱいに積み上げたラズベリーを腹におさめた頃には、手に何かを持って戻って来ていた。父の様子を特に気にすることもなく、ディーノは手近にあったクサイチゴへと視線を向ける。
「ディーノ」
「……?」
名を呼ばれてディーノは父へと振り返った。その瞬間口元に生温かく柔らかな、けれど血のにおいの混じったものを押し当てられる。
「……むぐ……っ?!」
「肉だ。食べなさい、ディーノ」
「んうーーーーーっ???!!!」
ぶんぶんとディーノは首を振って逃れようとしたが、バランはそれを許さなかった。ディーノの後頭部に空いた左手を当てがい、ぐいぐいと肉の塊を押しつける。
ディーノは生まれてこのかた、果物や花しか食べたことがなかった。甘くて瑞々しいそれらは、優しくディーノの胃を満たしてくれた。父が時折り動物の肉を食べていることは知っていた。それが当たり前なのだということも識っている。ディーノたち半竜半人の一族は、子どもの頃は果物や花を食み、長ずるにつれて捕食した動物を食べるようになるのだ。
一族の習性を本能的に識ってはいても、命を失った動物の一部を口元へ運ばれたのは初めての経験だった。
生温かなそれは、先ほどまで生きていた証左だった。父の指の間を、自分の口元から顎へと、伝い落ちるものが何であるのか。ディーノは言われずとも分かっている。
血のにおいが鼻腔から潜り込んで肺へと至ることが、ディーノにはどこか非現実的で気味の悪いものに思えた。ディーノの意思とは関係なく、視界が滲んで歪んでいく。
目尻に涙を浮かべ始めたディーノを目にして、バランは仕方なく肉を掴んでいた手を引いた。
「ふむ……。少し急いてしまったか」
驚きに身を固くしているディーノを横目に、バランは手にしている肉を己の口へと放り込んだ。
この肉はここから数キロ離れた川辺にいた齧歯類の小動物だった。肉質は硬めだが脂身は少なく、初めて食べる肉にはちょうどいいと判断したのだが。
何度か咀嚼し、だが飲み込む事はせずに、バランはディーノを抱き上げた。ディーノが正気に戻る前にとばかりに、己の唇とディーノのそれを覆い重ね合わせる。舌で閉じた小さな唇をこじ開け、生まれた隙間から肉を移し入れた。それからディーノの喉の奥へと、己の舌で肉を押し込んでいく。
「んぐ……ぅッ!!」
痙攣するように、びくんびくんと小さくディーノが身を震わせている。ぴんと張った幼い造形の指先を視界に入れてしまい、バランは少しばかり憐憫の情を湧かした。ディーノはあまり肉類を好まぬ性質なのかもしれない。一族の中にはそういう者も一定数はいたと記憶にはある。
しかし果物や花ばかり食べていては成長に必要な栄養素が不足するのも事実だ。ある程度は食べられるようにならねばならない。
「筋は噛み切ってある。食べやすくなっているはずだ」
こくんとディーノの喉が動いて肉が嚥下されたのを確認すると、ようやくバランはディーノの唇を解放した。身動ぎひとつしなくなったディーノをそっと地面に下ろすと、さすがに息子の挙動が心配になってきて、膝を折って顔を覗き込む。
「ディー……」
「……っ、ぐえ…………ッ!!」
一瞬顔を苦しげに歪めたのち、ディーノは身体をくの字に折り曲げて、胃の中のものを一斉に吐き出した。先ほど押し込んで無理矢理嚥下させた肉も、ここへ来て食べたクサイチゴやラズベリーも、胃液とともに全て吐瀉物となって地面に広がっていく。
「ディ、ディーノ……っ!!」
涙をぽろぽろと零しながら咳き込み、嘔吐に苦しむディーノの姿にバランは天地がひっくり返る勢いで慌てることになった。まさか初めての肉食をここまで拒むとは、さすがのバランも考えていなかった。
汚れた口元を手の甲や親指で拭ってやり、口直しにとクサイチゴを差し出す。
「ううう〜〜〜」
「すまなかった、ディーノ。おまえがここまで拒否するとは思わなかったのだ」
「ひどいよ、父さん…………」
「おまえもそろそろ肉を食べ始める年頃だと考えたのだ。身体をしっかり作って、飛べるようにならねばと……」
「うううう〜〜〜! 父さんなんかもう知らないっ!」
ぷいっとバランから顔を背けたディーノは、ふらつく身体のまま唇を引き結んで森の中へと入っていく。
「ディーノ!」
「ついて来ないでよ! ぼく、怒ってるんだから! 本気だよ!」
鬱蒼と生い茂る野草を分け入って森の奥へと進んで行くディーノの小柄な背中を、バランは長い長い溜息を吐きながら見送った。
幸いこの周辺の獣は追い払ってある。ディーノの気が済むまで、気配を見失わないように注意しつつ放置しよう。
バランは少しばかり肩を落とすと、息子を迎えに行った際の土産にするべく、クサイチゴを摘み始めた。
初めて食べた肉は、凝り固まった諦念と怨嗟の味がした。生き物は、常に何かを食べ、何かに食べられて命の輪を廻している。そんなことはディーノも百も承知であったし、自分自身もその和の中に組み込まれていることとて理解していた。
別に父は悪くはないのだ。
いつまでたっても空を飛べぬ息子を心配してのことだと、それもディーノはわかっていた。
翼はあれど空は飛べず、小さなまま成長しない自分が悪いのだ。
ただ、とてもびっくりしたのだ。
血の滴る赤い塊を口元に押し当てられたこと、無理矢理飲み込まされたこと。血に塗れた父の手も、顎を伝う感触も、そして、父の大きな口に噛みつかれた———とディーノは感じていた———ことも。何もかもが初めてで驚いたのだ。驚きすぎて、身体がついてこなかった。
俯きながら、とぼとぼとディーノは森の奥へと道なき獣道を進んで行く。どういうわけか、大型の獣どころか小動物すら出会わない。この森はいつもこんなに静かだっただろうか。
いつもいつも隣には父がいた。父と一緒だったため、森の様子などそんなに気にしたことがなかったのだと、今更ながらにディーノは気づいた。
気づいてしまえば、ひとりきりで暗い森の奥を歩いていることが寂しくてたまらなくなってきた。
「……やっぱり帰ろう」
父の元へ戻ろう。
未知の感覚に翻弄されて、無碍に八つ当たりしてしまったことを謝ろう。
そう考えた刹那、足元が崩れて平衡感覚を失う感覚に襲われて、ディーノは慌てて顔を上げた。ぐるぐる回る思考のなか、俯いて歩き続けていたため気づかなかったが、地面が陥没して大きな段差ができていたのだ。地盤沈下してできた数メートルの段壁の底へ吸い込まれるように、ディーノの身体は滑り落ちていった。
「……い、いったぁ…………っ!」
地面に尻餅をつきながら、ディーノは呻いた。
滑落していたのは数秒のことだったが、身体のあちこちをぶつけてしまったため打ち身だらけだ。なんとか頭は腕で庇ったものの、受けた衝撃のせいか眩暈がする。
くらくら揺れる身体を叱咤してなんとか立ちあがろうとしたディーノは、足首の鋭い痛みに声のない悲鳴をあげることになった。
「〜〜〜ッ!!」
どうやら足首を捻ったらしかった。よくよく見れば赤く腫れ上がり、じんじんと熱を持っている。立ち上がるのはなんとかなっても、岩壁に沿って登っていくのはディーノには無理そうだった。おまけに、岩肌は脆く、手をかければ簡単に崩れてしまう。
念のために翼を広げてみた。何度か羽ばたいてみて、なんとか浮き上がらないかと試してみるが、ディーノの小さな羽根は、やはりその小柄な身体を空へと導いてはくれなかった。
ひとりでは上に登れないという事実にディーノの心は打ちのめされた。幼い子どものように癇癪を起こして父を置いて飛び出したあげくがこのざまだ。情けなさに涙すら溢れてくる。
「あの時のお肉をちゃんと食べてたら……今頃飛べたのかなぁ」
そんなわけはないと分かっていても、そう考えずにはいられない。ディーノは鼻を啜った。
「ディーノ!」
突如頭上から降ってきた声に、ディーノは弾かれたように顔をあげた。
父だ。父の声だ。
「父さん!」
「大丈夫か、怪我はないか?」
翼を広げて、父が岩壁の底へと降りてくる。
追っていたディーノの気配が、ある一点から全く動かなくなったことを訝しんで、バランはここまで急行してきたのだ。道に迷ったか、不測の事態に陥ったか。何にせよ息子に何か起こったのだ。
地盤沈下した穴底で蹲るディーノの姿を視界に認めて、心の臓が凍りつく想いだった。見晴らしの良くない森のなかで、簡単にひとりになることを許した己をバランは罵倒した。
蹲ったまま駆け寄って来ないディーノの様子に、バランは息子の容体をすぐさま悟る。
「足を捻ったか」
父の言葉にディーノはこくんと頷いた。
状態確認のためにバランが赤く腫れ上がった足首に手をやると、ディーノは痛みに小さく息を呑んだ。歯を食いしばって悲鳴を堪えるさまに、息子の成長をバランは感じた。一昔前のディーノであれば、痛みとショックで泣いていたことだろう。
「父さん……その、ごめんなさい」
「……どうした、ディーノ?」
「父さんはぼくのためにお肉を用意してくれたのに。自分が嫌だからって父さんに酷いこと言った」
「……あぁ、そのことか。構わない。私も少し急いてしまった。おまえの心の成長を加味できなかったのは、私の過ちだ」
そう告げてバランは息子へと笑ってみせた。優しく頭を撫でてやり、傷に響かぬよう気をつけてディーノを抱き上げる。
どうして気づかなかったのか。痛みを堪え、他者を慮り、己の非を認められる。ディーノは間違いなく成長していた。心が成長すれば、いずれはそれに比して身体も大きくなっていくだろう。慌てることなどなかったのだ。
「巣へ帰ろうか。きちんと手当てをせねばな」
「……うん」
父の太い首に腕を回し、ディーノは暖かな首筋へと顔を埋めた。応えるように父が強く抱きしめ返してくれる。
父から注がれる優しさが、与えてくれる安堵感が、いつも以上に身に沁みたような気がした。
しゃん……しゃん……しゃん…………。
どこまでも一面の草が生い茂る光景が続くのを視界に収めながら、手にした杖に結び付けられた狼よけの鈴を鳴らし、男は街道を馬車で進んでいた。
街道とはいっても、荷馬車がようやく通れるくらいの幅しかなく、幾重にも重なった轍の跡が地面を剥き出しにさせてくれているだけのものだ。こんなものでも、この周辺ではまだまだ整備されているうちに入る。
男の目的地はこの先の山間の小さな村だ。男は行商人であり、街から町へ、町から村へ、荷馬車に乗るだけの商品を抱えて売り歩いている。どこへ行っても男は歓迎された。流通網が細いこの地域では、男のような存在は貴重なのだ。
今年の春はその山間の小さな村に辿り着くのが少し遅くなった。ここへくる途中の川にかかっていた橋が大雨で流されてしまい、迂回することになったからだ。いつもなら雪が溶けた冬の終わりに訪れ、春を迎える前に村を発つ。
男は何気なく空を仰いだ。天気が良くて、雲もまばらだ。
大きな鳥が青空を横切って飛んで行くのが視界に入った。翼を広げれば大人ふたり分くらいの長さはあろうか。この地域では見かけないほどの大きさの鳥だ。
「……いや、竜か? 翼の形が鳥とは違う…………尾もあるように見えるな」
竜であるのならば、爪や牙などの素材を入手できれば、ちょっとした小遣い稼ぎになるのだが。
道具袋から双眼鏡を取り出し、流れる雲に混じるようにして小さくなっていく黒い影を、男は手際よく捉えた。
「ふむ…………」
やがて視界に収めた存在を、男は記憶の引き出しから探り出す。商人としての師であった祖父や、大先輩たちから伝え聞く伝説の生物。
「オレにも一攫千金の機会が巡ってきたかもなぁ……」
荷台から緊急連絡用の伝書鳩の籠を御者台へと移すと、男はにやりとほくそ笑んだ。
2
「ポップ、おまえ、店番を放り出してどこへ行こうってんだっ?!」
父親の怒鳴る声を背中で受け流しながら、ポップは全速力で家を飛び出した。
向かう先は村を出た先にある大きく広がる野原だ。この季節には色とりどりの花が咲き乱れている。目的はそこに咲いているだろう薄い桃色の花だ。
「悪ぃ、親父! おれちょっと用事があるんだよ!」
「そんなこと言って昨日も一昨日も店の手伝いさぼりやがって!!」
「日暮れまでには帰る! 店じまいは手伝うから!!」
村の外へと続く門まで繋がる村一番大きな通り———せいぜい荷馬車が通れる程度の幅しかないが———を駆け抜けて、ポップは走り続ける。
ポップの提案に納得したわけではないだろうが、父であるジャンクの声は外と村を隔てる門が視界に入る頃には聞こえなくなっていた。諦めてくれたようだが、これは後が怖いというやつだろう。
「くっそぉ。いつもの行商人のおっさんが例年通りの時期に来てくれてりゃこんなことせずにすんだのによぉっ!!」
ポップには想い人がいる。
隣の家に住む幼馴染の少女で、ひとつ年上の気立のいい女の子だ。造作もよく、いわゆる美少女で、胸が大きければお尻の形もいい。気が強くて力持ち、けれどとびきり心の優しい片想い人だ。
そんな彼女の誕生日に、プレゼントを渡して告白しよう、と思いついたのが半月前。行商人から彼女好みの髪飾りかポーチでも買おうと計画していたのに、一向にやってくる気配がない。もう想い人の誕生日は明日だというのにだ。
仕方なくポップは野原で花を摘み、彼女の髪と同じ色の花束を作ろうと画策した。しかし、すぐに見つかるだろうと思っていた桃色の花がいっこうに見つからないのだ。日を変え場所を変え、もう数日の間、野原に通い詰めている。
「今日こそ、今日こそ見つけてやるぞぉぉぉーーーー!!!」
強い意気込みの盛られた雄叫びが、静かな村に響き渡った。
一年に一度、ソアラの命日に墓前に花を供えるのは、バランとディーノにとっては常のことだった。
父は必ず桃色の花を供える。昔その花を手に母へ求婚したのだそうだ。本当かどうかはディーノにはわからないが、父は嘘を吐く性質ではないし、そもそもこの事で嘘を吐く意味もない。
先日訪れた森を抜けた先には、広大な野原が一面に広がっており、この季節は色とりどりの花が咲いていた。バランとディーノはそこへ花を摘みに行くことにした。
巣を発ち、森を飛び越えて目的地に辿り着いたバランは、ゆっくりと地上へ降り立った。周囲を見渡し、危険がないことを確認すると、腕の中のディーノをそっと地面に下ろす。
「お花、摘むだけじゃなくて蜜を吸ってもいい?」
父を見上げながらディーノが尋ねる。
相変わらずの食い気優先にバランは苦笑した。
「……構わないがほどほどにな」
ディーノはあまり蜜を吸いすぎると腹を緩くするのだ。今のところディーノの主たる食糧は木の実や果物だけになる。そう考え至ったところで、数十メートルほど離れたところを小さな川が流れていたことをバランは思い出した。
ディーノをひとりにするのは、先日のこともあり不安ではあったが、見晴らしの良いこの野原であれば、自分の視界からディーノが消えることはない。問題はないだろうとバランは結論づけた。
「ディーノ、魚を食べてみないか?」
「……魚?」
「肉ほど血がでるわけでもないし、生臭くもない。柔らかくて美味いぞ」
「……………………わかった。頑張ってみる」
「いい子だ。ではこの周辺で花を摘んでいるんだぞ」
父の言葉に頷くと、ディーノはさっそく周囲の花を見渡した。赤や黄色、青、紫、白、橙色。様々な色は目につけど、桃色の花はなかった。白色の濃い桃色の花ならば咲いているのだが、探している鮮やかな桃色はなかなか目に止まらない。
「桃色の花、ないなあ」
「ふむ……やはり去年咲いていた場所に行かねばならんか」
「ぼく、もう少し探してみるよ」
「頼んだぞディーノ。ああ、あまりここを動かないように」
「わかってるってば」
再度忠告されて、ディーノは少しばかりへそを曲げた。とはいえど、先日のこともある。父のこのしつこさは愛情の裏返しなのだ。ディーノは不承不承頷いた。
青空へと吸い込まれていく父を見送ったあと、ディーノはその場に座り込んだ。周囲に桃色の花はない。
ひとまず適当な花へと手を伸ばし、手折ったそれを口へと運んだ。蜜の甘味と花びらの柔らかな食感が鼻腔いっぱいに広がってディーノを満足させる。何本か花の蜜を吸い、満たされたディーノは、目的の桃色の花を探すために立ち上がった。
「桃色の花……桃色の花……」
無碍に花を踏み潰さないように、注意深く足下に気を払いながらディーノはゆっくりと進んだ。どの花も美しく、綺麗で、美味しい。
母はきっとどの色の花を供えても喜んでくれるとディーノは思っている。それは父もわかっているだろう。桃色の花を求めるのは、父のこだわりなのだ。そしてディーノもまた、父のこだわりを叶えてあげたいと思う。
「桃色の花……桃色の花……」
「桃色の花……桃色の花……」
『痛っ………??!』
ディーノの頭部に衝撃が走った。瞼の裏で火花が散っている。何かにぶつかったようだった。そしてその何かは、ディーノ同様に悲鳴をあげている。ディーノは無機物に頭から突っ込んだのではなく、有機物———人間にぶつかったのだ。
ディーノと、そしてディーノにぶつかった人間の少年は、ディーノは頭部を、そして少年は鳩尾を押さえながら呻き声をあげるはめになった。
「ごめんなさい!」
「すみません!」
ずっと地面ばかり見ていたせいだろう。ディーノは前方からやって来る人影に微塵も気づいていなかった。そしてそれは相手方も同様のようだった。目を皿のようにして足下の花々を見ているせいで、顔を上げることもなくディーノにぶつかってしまったのだ。
同時に謝罪の言葉を発して顔を上げたふたりは、互いを視界に収めたのち、ひとしきり身体を強張らせ、絶叫をあげることになった。
「に、人間ーーーッ!!」
「りゅ、竜のお化けーーーーーっ!!」
「えっ?! 竜のお化けどこッ?!」
お互いを指差しながら絶叫したふたりは、けれどそれに続いたディーノの言葉に目を丸くした。
「いや、おまえだよ、おまえ! お化けはおまえ!!」
「ええっ!? ぼくお化けじゃないけど!」
「いや、どう見てもお化けだろ! その角! その羽根! その尻尾!!」
「違うよ! ぼくは竜のお化けじゃなくて半人半竜の一族だ!」
指を差して身を乗り出してくる少年の勢いに飲まれぬように、ディーノもぐぐっと胸を張って少年へと身を乗り出す。
「はぁ? 竜人〜〜〜〜?」
一方、ディーノの名乗りを聞いて、少年は胡散臭そうに眼前の相手を頭の上から足の爪先まで見下ろした。半人半竜の一族、つまり少年が竜人と認識しているそれは、彼にとっては架空の生物だった。
「竜人なんてお伽噺に出てくる薬を作る一族だろうが」
「だって、本当に半人半竜の一族だもん……」
「わ、わかった、わかった! わかったから泣くなってば」
口をへの字に曲げて目尻に涙を浮かべ始めたディーノの様子に、少年は慌てて言い募った。
良く考えてみれば、お化けなんているわけがない。百歩譲って存在を認めるとしても、こんな陽も高いうちから野原をうろついているわけがないではないか。
そういえばハロウィンも近い。仮装イベントにでも出場するつもりなのだろう。コスプレにしては上手くできている。村ではあまり見かけない奴だが、最近入村してきた家の子だろうか。少年は違った方向へと認識を改めていく。
「おまえ、名前は?」
「ディーノ!」
「おれはポップってんだ。よろしくな」
「うん、ポップさん。よろしく!」
「いや、さんは要らねぇけどよ……」
「わかった! じゃあポップ!」
「……おうよ」
応じてのち、ポップは改めてディーノを頭の上から足の爪先まで見やって眉根を寄せた。いくら上手いコスプレとはいえ、見た目が全裸に見えてしまうのはどうかと思ったのだ。
「ほら、これ、着ておけよ」
着ていた上着を脱ぐと、ポップはそれをディーノへと投げた。受け取ったディーノは緑色をした布の塊を手に小首を傾げる。
「これ、何?」
「パーカー貸してやるよ。おまえの衣装は上手いことできてると思うけどさ、やっぱ特定の会場外では節度ってもんがあると思うぜ?」
「……かいじょう?」
「…………着ないのか?」
パーカーを手にしたまま、裏表をしげしげ見つめていたり、上下をひっくり返したり、挙げ句の果てに空に翳したりしているディーノの様子に、ポップは榛色の瞳を瞬かせた。
「何してんだ」
「えっと……どうすればいいのかな……って」
ディーノは生まれてこのかた衣服というものを身につけたことはなかった。父であるバランも筋骨隆々とした竜体を惜しげもなく晒している。ふたりとも気温の変化というものをさほど気にしたことはない。それは他の動物たちも同様だ。自前の毛皮を持ち、己の体調に合わせて環境の方を合わせる。衣服など身につけない。
しかし人間は気温に合わせて布を身につけるのだと、ディーノは知識としては知っていた。ただ、衣服というものを、初めて手にしたのだ。
「どうって……ああ、羽根がついてるもんな。そのまんまじゃ着れねぇか」
そりゃそうだ、と独りごちながらポップは懐からハサミを取り出した。花を切るために持参してきたものだ。
ポップはディーノからパーカーを受け取ると、肩口に当てがって背中の位置を合わせ、翼のある周辺に切り込みを入れた。それからその切り込みに翼を通し、袖に腕を通すのも手伝った。ジッパーを胸元まで上げて完成だ。
「ほい、これでいい」
「服に穴が開いちゃったよ? いいの?」
「まあ、そのパーカーだいぶ小さくなっちまってるからさ。土に汚れてもいいように古着を着て来てたんだ。だから気にすんな」
「うん……うん! ありがとうポップ!」
へへっと笑いながらポップは鼻の頭を指で擦った。それからふと思い出したように周辺を見渡す。
「おっといけねえ……! 喋ってばっかいねぇで桃色の花を探さないと!」
「ポップも桃色の花を探してるのか?」
「い……色々と諸事情で桃色の花を探してんだよ」
ぷいっとポップが顔を背けた。気のせいかその頬は求めている花の色に染まっている。
「事情?」
「そんな細けぇことはいいだろ! おまえ見かけなかったか?」
「実はぼくも探していて……」
しゃん……しゃん……しゃん…………。
ディーノが事情を説明しようと口を開きかけた時、遠い場所から鈴の音が響き渡った。音の出所を探して見やれば、野原を横断するように伸びた街道———草まみれで轍跡が見えるだけの道と名乗るのも烏滸がましい道だが———に、ぽつんと黒い小さな影がある。荷馬車らしきそれは少しずつこちらへ向かって大きくなってきた。
「狼よけの鈴を鳴らす荷馬車……ってことは、あの行商人のおっさん、ようやくご到着ってことか」
「ぎょうしょうにん?」
「毎年春先に村に色んな物資を運び込んでくれる商人なんだ。あっ、ほら、ディーノ、おまえパーカーのフード被って座ってろ。村の外でコスプレしてるって大人たちにバレたら大目玉だぞ」
「えっと……」
「早くしろって!」
パーカーのフードなるものが何かを尋ねようとしたディーノは、ポップによって強制的にフードを被らされた。
角の形に歪になったフードを目にして、ポップは小さく舌打ちし、ディーノの頭を押さえ込むようにして地面に座るように促す。背の高い下草や花々も多いので、座ってしまえば街道からはディーノなどまともに見えないだろうと判断してのことだ。
ついでにポップは自分も座って蹲った。下手にここにいることを知られて、村で居場所を吹聴されてはたまらない。
しゃん……しゃん……しゃん…………。
すれ違う荷馬車には、特にこちらを窺っている様子はなかった。速度も鈴の音も何の変化もなく進んでいく。
村へと向かう荷馬車が、豆粒大の大きさになり、やがて視界から完全に消え去るまで、ふたりは蹲ってじっとしていた。もう大丈夫だろうと顔を上げ、それから互いの顔を見合わせて、どちらからともなく破顔する。
「へへっ、やったな!」
「うん、なんだか面白かった!」
「はは、ディーノ、おまえ顔に土がついてんぞ」
「ポップこそ」
互いの顔を汚す土を払い合って、再びふたりは笑いだした。背中を土につけて仰向きになり、ふたりの笑い声は青い空へと吸い込まれていく。
だがその笑い声も、不意に上空から翳り落ちてきた影にピタリと止まった。
「何がそんなに面白いのだ」
「ぎゃあああああ〜〜〜〜っ!! でたーーー!!! 今度こそ竜のお化け〜〜〜〜〜〜!!!!!」
「えっ?! お、お化けどこーーーーーッ!!!?」
ポップとディーノの絶叫が野原いっぱいに轟いた。
「誰がお化けだ、ディーノ」
「あ、父さん」
「へっ? 父さん??」
バランは面倒くさそうにポップを一瞥し、地上へ降り立つとディーノの腕を掴んで引き寄せる。
「人間、貴様ディーノに何をした?」
ざっと見たところディーノに危害を加えられた様子はないが、人間など信用に値する生き物ではない。
ディーノの頭に被されたフードを背中へと落とし、パーカーの裾をたくし上げ、身体のどこにも傷がないことを確認すると、ギロリとバランはポップを睨みつけた。
「ひぇっ……! そう睨むなよ。何もしてねぇって……!」
「そうだよ、父さん。ぼく、ポップとお話しして、ぎょうしょうにんって人から一緒に隠れてただけだよ!」
「行商人……だと?」
「そうそう。隠れてただけ。っていうかあんたもさぁ、いい年してんだから会場外でのコスプレは止めとけよ。あんた父親としてディーノを止める立場だろうが」
「……コスプレ」
「父さん、こすぷれって何?」
「人間、貴様、生まれついてのこの誇り高き我らの肉体を下賤な変装と一緒にするか。この世界でもっとも優美と謳われた半人半竜の一族の肉体を愚弄するとは……!」
憤怒のあまり髪の毛を逆立たせたバランは、今にもポップに掴みかからん勢いだった。鋭い爪が太陽の光を反射して煌めく。慌ててディーノはバランの腕を取って引き留めた。
「ええ〜〜っと。つまり、おまえらのそれはコスプレではない、と?」
「そうだ」
「半人半竜の一族……つまりはリアルに竜人だとおっしゃるわけで?」
「竜人などとはおまえたち人間が勝手につけた名だ」
「へええ〜〜」
目の前にいる生物は人語を解してはいても人外の生き物だ。牙も爪もあっという間に己を引き裂くことができる生命体なのだ。そして今、己はそういう種の親から、子にちょっかいをかけたと疑われて、敵意を持たれている。
ポップはふっと意識が薄れていくのを感じながら、逆らうことなくそのまま全てを投げ出した。泣き縋るディーノの微かな声を聞きながら。
ポップが目を覚まして最初に視界に飛び込んできた光景は、びちびちと尾を跳ね上げる魚を口の中に頭から突っ込まれて、両目に涙を浮かべているディーノの姿だった。
側でバランが何故こうなったかわからないとばかりに首を傾げている。
「いや……いくらなんでも、その大きさの魚を踊り食いするのは無理があるだろ…………」
「ポップ! 目を覚ましたんだ!」
喋ったせいで口の中に突っ込まれていた魚が地面へとこぼれ落ちたが、ディーノは気にすることなくポップの側へと駆け寄った。
「よかった! 急に後ろへ倒れちゃうんだもん。心配しちゃったよ……!」
「わ、悪い……ちょっと色々と衝撃的だったもんで」
ふとディーノの背後へと目をやると、地面に落ちて跳ねていた魚を拾い上げたバランが大きな口でひと飲みにしていた。
「意識が戻ったか人間。おまえはどこからこの野原へ来…………」
「あ〜、あんたは踊り食いできるわけだ」
「何?」
「魚。あんたにはできても、たぶんディーノにはまだ無理だ。焼いて身をほぐしてやれよ」
「焼く? 魚をか」
「そう」
バランはポップの言葉を咀嚼するように反芻していたが、残りの魚から一匹取り出した。手のひらの上に乗せ、火の魔法でを包み込む。
「……真っ黒に炭化したが」
「……適度なところで焼くのを止めてくれないかな」
呆れたようなポップの声に、バランは内心苛立ちながら再度魚を火で包んだ。魚の鱗が逆立ち始めたところで、火を止める。
「これでどうだ?」
「おお、いい感じじゃん」
鱗を落としてからの方が良かったなぁと思いつつ、バランから魚を受け取ったポップは、尾を摘み上げて持ち、魚の背を押して身をほぐした。少々行儀が悪いが、指先で身を取り上げ、それをディーノの口の中に放り込む。
「熱っ……!」
「ディーノ、大丈夫かッ?!」
熱々の魚の身に驚いたディーノが悲鳴をあげ、慌ててバランが側へ寄って来た。とんでもない過保護親父だとポップは思ったが、当然口には出さない。
「熱……熱っ……でも美味しい!」
「そ、そうか……」
「塩か何か調味料があればもっと良かったんだけどな。でもこれならおまえでも食えるだろ、魚」
「うん!」
「おお………ディーノが生まれて初めて……ついに果物や木の実以外の食べ物を…………!」
「あ、そういうレベルの話だったんだ……」
感動に抱き合う親子を横目に、ポップは軽く頬を引き攣らせた。何にせよこの親子に調理という革命を起こさせられたのなら幸いだったろう。
二匹目の魚に火を通しているバランと、父に寄り添って魚が焼き上がるのを期待で満ちた瞳で待っているディーノを、半ば生温かい視線で見守っていたポップは、周囲がすっかりオレンジ色に染まり始めているのに気づいた。見上げれば太陽は山間に沈み始めている。暗くなるまでそう時間はかからないはずだ。
「やっべえ!! 花! 桃色の花!!」
「どうした、人間」
「そうだった、父さんあのね、ポップも桃色の花を探しているんだって」
「……そうか」
「くっそお……もう時間がねえっていうのに……!」
ポップは慌てて立ち上がった。周囲の花を見渡せど、もう花の色を識別できるほどの明るさはなかった。
幼馴染の想い人へ渡す花束への道のりがポップには遠すぎた。どうすべきかと唇を噛み締める。
「人間。桃色の花が必要なのか?」
「あん? えっとまあ、ちょっと要り用で……」
「ふむ…………」
バランは目を閉じて考えこんだ。憎き人間とはいえ、この少年には借りができた。それも大きな大きな借りだ。火を通せば、おそらく魚だけでなく、ディーノは動物の肉も食べられるようになるに違いない。
ディーノが掴んだ指を軽く引っ張ってくる。見下ろせば、何か言いたげに口を噤んでいた。応えるように頭を撫でてやると、ディーノは花も綻ぶような笑みを浮かべた。
「わかった。人間、桃色の花が咲く場所に案内してやろう」
「へぁっ?」
「父さん!」
抱きついてきたディーノを腕に抱き上げ、状況を理解していなさげなポップの首根っこを掴み上げると、バランは背中の翼を大きく広げた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙?!」
ポップのこの世と別れを告げんばかりの悲鳴が薄暗い空気を割いて響き渡ったが、バランは気にも止めずに急上昇を続ける。軽く旋回して方向を定めると、桃色の花が咲く場所へと向かった。掴んだ人間が静かになったなとは思いながら。
「ポップ……、…ポップ! 着いたよ!」
一瞬意識を飛ばしていたらしいポップは、ディーノの声に現実へと帰ってきた。目を開けると周囲の薄暗さは飛び立つ前とさほど変わらないように思えた。山間に沈みかけていた太陽が、今は半ば以上を山間に沈めている程度だ。半人半竜の一族がどれほどの速度で空を飛べるのかはポップの預かり知らぬところだが、先ほどまでいた野原からはそう離れてはいないようだった。
ポップの目の前には切り立った崖がそびえ立っていた。両の足は地面に着いていない。崖の中腹辺りに浮かんでいるようだった。下を見てはいけない、という状況だろう。
「あそこだ、人間」
バランに告げられてポップは彼が指差す方へと顔を向けた。中腹の岩壁の間を割くようにして、たくさんの花が咲いている。ポップの目では花の色を明確に識別できないが、おそらく桃色の花が咲いているのだろう。
ゆっくりとバランが花の前へと移動する。両手が塞がっているので、詰むのは子どもたちに任せることにしたのだ。
ディーノとポップは頷きあうと、そっと桃色の花を手折った。
「ポップはさぁ、どうして桃色の花が必要だったの?」
大量の桃色の花を抱えて、野原を横切る街道の側まで送ってもらったポップは、同じく大量の桃色の花を抱えたディーノに再び尋ねられた。
「ぼくと父さんはね、母さんのお墓に桃色の花を供えるために摘んだんだ」
「おふくろさんのお墓……」
「昔ね、父さんが母さんに結婚してくださいってお願いする時に渡した花なんだって」
「親父さんがプロポーズの時に」
ポップは手にした花の山を見つめた。バランは桃色の花をディーノの母に渡して、その心を射止めたのだ。
「実はさ……」
ポップは桃色の花が必要になった経緯をディーノに話した。ディーノの両親の話を聞くほどに、桃色の花をマァムに渡すことに意味が加わったような気がして仕方なかった。バランにあやかって、自分も告白が成功するような気すらしてくるのだから、自分の単純さに呆れを通り越して安堵すらしてしまう。
「ああぁ! でもマァムに何て言って告白したらいいんだろう……! なぁ親父さん、あんた奥さんに何て言ったんだ?!」
「おまえなどに教える義理も必要もないわ」
「もぉ、父さんってば……」
どこか一歩引いた場所からポップを見る父に、ディーノは小さくため息を吐いた。父はおそらく人間が嫌いなのだろうと幼心に察する。しかしその理由がわからないほどディーノとて子どもではない。
「ねぇポップ、告白が上手くできそうにないなら、たくさん練習したらいいと思うよ!」
「はぁ? 練習〜??」
思わぬディーノの提案にポップは片眉を吊り上げた。そんなポップにディーノは満面の笑顔を浮かべる。
「うん! 明日の朝にまたこの野原で会おうよ。ぼくポップの告白の練習に付き合う。ぼくをその……マァム?って子だと思ってさ!」
「おまえを……? いやまぁ鏡に向かって練習するよりはマシか…………」
どのみち家の中どころか、村の中ですら練習などできないのだ。思春期真っ盛りのポップは人目が気になって仕方がない。だったらこの野原まで来てディーノ相手に練習しようとポップは思い直す。
「ディーノ、勝手なことを…………」
「じゃあ、ポップに母さんに告げた言葉教えてくれる?」
「……………………人間などに……冗談ではない!」
バランはポップに向けて牙を剥いた。ポップ個人には恨みなどないし、おそらく彼は善良な人間なのであろうことはわかっている。しかしあまりディーノを人間と接触させたくはないのだ。
今とて、ディーノが身につけている人間の衣服が気に入らない。ディーノの柔らかでしなやかな美しい線を描く肢体を隠すそれを、問答無用で剥ぎ取りたくなる。だがバランにとって忌々しいだけの人間の衣服を、ディーノは随分と気に入ったようだった。
あのあとポップに確認した話によると、花咲く野原のずっと向こう、山間にあるというポップの村は、ここ百年ほどの間にできたという。バランはこの野原の周辺には人間の土地はないと考えていた。だが彼が思うよりもずっと早く、人間は生息地を広げて人口を増やしている。人間の強かさには舌を巻かざるをえない。
「じゃあ決まりだね! ポップ、明日はさ、今日出会った辺りで待ち合わせようよ」
「わかった。んじゃ、明日はよろしく頼む、ディーノ」
「うん、任せて!」
子どもたちだけで進んでいく話にバランは嘆息した。ここまでディーノを連れて来るのはいったい誰だと思っているのか。
断固拒否しようとして、美味そうに焼いた魚を食べるディーノの顔を思い出す。ようやく肉食を厭わなくなった息子にもっと魚を食べさせたいという欲がむくむくとバランに湧き上がる。
魚を獲りに来るついでだと思えば、短時間なら付き合わせてやっても構わないかという妥協案がバランに浮かんできた。
おまけに、ディーノが拒否されることなど考えてもいない、真っ直ぐな瞳を向けてくる。琥珀色に煌めくディーノの瞳は、『友だち』との初めての約束に高揚していた。そんな息子に対して「駄目だ」の一言が言えるはずもない。
バランが諦めて頷くと、ディーノは顔いっぱいに破顔して、渋面を隠さないままの父に抱きつく。
「さぁ帰るぞ、ディーノ! 人間、我らのことを誰かに話したら……命はないものと思え」
抱きついてきたディーノをそのまま片腕で抱き上げると、バランは翼を広げ、ポップを睨みつける。
「ごめんね、ポップの住んでる村まで送ってあげられなくて」
「…………構わねぇよ。ここまで送ってもらえれば十分だ」
実際のところ、村まではここからポップの足でも小一時間はかかる。だが、これ以上このふたりを人間の住む場所へ近づけない方がいいだろうことは、ポップにもなんとなくわかっていた。
子ども向けのお伽噺では薬を作る一族として登場する彼らが、時とともに姿を消していることの意味。そして人間に敵意を隠さないバラン。
両種族の間に何があったのか。深く考えることをポップは本能的に避けた。
「……じゃあ明日な。おやすみディーノ」
「うん! また明日ね、ポップ!」
互いに手を振り合い、明日を約束して、ポップとディーノたちはそれぞれの帰路につくことになった。
しゃん……しゃん……しゃん…………。
時刻はそう、少しばかり巻き戻る。
太陽が天頂へとその身を押し上げ始めた頃、ようやく山間の小さな村に行商人の男は辿り着いた。村一番の大広場へと移動して、狼よけの鈴がついた杖を御者台に置き、さっそく荷解きを始める。
数週間の遅参となってしまったが、そんなことは些細なこととばかりに、男の荷馬車の周りには、鈴の音を聞きつけた村人が集まって来た。
「塩をわけておくれ」
「小麦粉はあるかい?」
「彼女に贈る装飾品が見たいんだけど!」
次々に訪れる村人たちの相手をしながら、男は時折り空を仰いだ。目当ての影はそこにはない。
「おっ? これ双眼鏡ってやつだよな! 買うとしたらいくらだい?」
道具袋に直し忘れて御者台に置きっ放しになっていたものを目敏く目にした見知らぬ村人に尋ねられ、男は人の良い笑みを浮かべて答えた。
「いやいや、それは売り物じゃなくてね。旅の途中で周囲を確認するのに使うんだ。遠くに危険な獣はいないか、先の道の状態は荷馬車が通れるものなのか、あとは……渡る前に橋の劣化具合とかを見たりもする。荷馬車ごと川には落ちたくないからね」
「へぇ。やはり長旅は大変なんだなぁ。この辺にも何か確認するような危険な場所でもあったかい? 村長に連絡しとかないと」
「いや危険な場所はなかったよ」
「そりゃあ良かった」
安堵に笑う村人に、男は目を細めて笑みを返した。
「この村に来る途中で野原を横切ったんだけど、花で溢れていて綺麗だったねぇ。これまでこの村には、春が始まる前に来ていたから…知らなかった。……見たことのない、とても珍しいものを……、拝ませてもらったよ」