ディーノ君と北の勇者 ルーラによる着地音を響かせながら、ノヴァはレジスタンスの拠点となっているカールの砦から少し離れた地へと降り立った。
既に夜の帳が深く色濃く下りており、周囲の木々も砦も闇に紛れている。見上げれば星が薄く光っていた。雲がかかっているのだろう。明日は天気が崩れるかもしれない。ここから遠い前線の地まで影響がなければ良いのだがと、戦地で戦う者たちを憂う。
ノヴァは用心深く周囲を警戒しながら見渡し、邪なモンスターや魔王軍の気配を探った。特に気になる事象はない。小さく息を吐いてノヴァは砦へと足を向けた。
歩き出すと懐から紙が擦れる小さな音がする。ノヴァは瞑目して我知らず胸元に手を当てた。懐にはアバンへ手渡す手紙がある。あの竜の騎士から託されたものだ。
北の大陸マルノーラにあるオーザムの首都近辺の村から、謎の大きな柱が空から落ちてきたと情報が入ったのは、午後からの会議が開始されて間もなくの頃だったか。ピラァ・オブ・バーンだと当たりをつけて竜の騎士やアバンの使徒たちとともにすぐに向かえば、予想通りのものが天へと向かってそそり立っている。
黒の核晶は竜の騎士が速急に処理を施したが、新たなピラァの対処報告と、暫くその地に留まって魔王軍の動きを見ること、その後のための交代要員の手配の依頼は必須だった。いつまでも竜の騎士やポップなどの精鋭を見張り役として残しておくわけにはいかない。それらを手配する伝令として、ノヴァは今ひとり拠点の砦へと戻って来たのだ。
砦の正門を潜り抜け、詰所の兵士に声をかけてレジスタンスのリーダーである女王フローラ、そして副リーダーである先の大戦の勇者アバンへと先触れを頼む。そのまま謁見や会議に使用されている部屋へと向かえば、ふたりは準備を整えてすぐにノヴァを迎え入れてくれた。
「ご苦労様です、ノヴァ。報告を聞きましょう」
フローラに労われ、ノヴァは軽い敬礼の姿勢を保ったまま、これまでの経緯を説明した。フローラは頷き、すぐに手配を命じる。
「アバン様、竜の騎士バラン殿から手紙を預かっています」
報告を終えた後、ノヴァは懐からバランに託された手紙を取り出した。フローラではなく、アバンに手渡すように、という彼の意図はノヴァには見当もつかない。
不敬になるのではと危惧しつつノヴァが差し出した手紙を、アバンはちらりとフローラに目をやり、彼女が小さく頷いたのを確認したのちに受け取った。
「あぁ……、なるほど」
受け取った手紙を広げてざっと目を通したアバンは、得心したとばかりに微笑んだ。その微笑みは優しさと少しばかりの苦笑が混じったものだったので、ノヴァは目を瞬かせて小さく首を傾げた。
「バラン殿の細やかな気遣いには本当に頭が下がりますね」
「ふふふ。アバン、あなたに手渡すよう指示された手紙ということは……ディーノ君宛ての手紙でしょう?」
「ええ。ではノヴァ、お疲れのところ申し訳ありませんが、休む前にこの手紙をディーノ君まで届けていただけますか? 私とフローラ様は前線からの要請の対応を急ぎしなければいけませんから」
「えっ……?」
ディーノ。竜の騎士の息子の名だ。
ノヴァは彼とは話したことがなければ、当然面識すらもない。バランが初めて砦にやって来た日に、彼の腕の中に抱かれて眠っていたのを、ちらりと見たことがあるだけだ。
「ディーノ君は砦の一番奥の部屋です」
「しかし、バラン殿の許可のない者は、ご子息の部屋に入るのを禁じられて………」
「ええ。毒刃の一件から禁じられています。ですがノヴァ、彼はあなたにこの手紙を託した。つまりは……彼にディーノ君の部屋に入ることを認められたのですよ」
真っ直ぐで汚れのないノヴァの澄んだ性根を、決して言葉にすることはないがバランは気に入ったのだろう。
あの方がねぇ……とアバンがくつくつと楽しそうに笑うのを、ノヴァは釈然としないまま見つめる。
「そういうもの、なのですか?」
「そういうもの、なのです。では、頼みましたよ」
嬉しそうに微笑むアバンと、そんなアバンを困ったような呆れたような表情で見やるフローラに見送られて、ノヴァは部屋を辞した。
ディーノについてノヴァが知ることは多くはない。
戦況を左右する力を持つ竜の騎士のひとり息子であること、詳細は知らされていないが体を悪くしていること、ポップやレオナといった一部の人間と交流を持ち始めていること、先日毒刃を受け一命を取り留めたものの倒れ臥していること。
そのどれもがポップやアバン、または人づてに耳にしたものだ。リンガイアの将軍であり、レジスタンスの上層部主要メンバーである父のバウスンですら、数える程しか顔を合わせたことがないらしい。
砦の奥へ向かうほど人々が生み出す騒音から遠ざかり、静かになって灯りが減り暗くなっていく。気のせいか空気が重い。雰囲気のせいだと割り切ってノヴァは最奥の部屋の扉の前に立った。
扉の向こう側からは物音ひとつしない。数日前に解毒そのものは終えたが、元々体が弱いこともあって、後遺症からくる熱が引かないとは聞いている。おそらく眠っているのだろう。ノヴァは念の為そっと扉をノックをした。予想通り返事はない。
「失礼する」
ノヴァは声をかけてからディーノの部屋へと入った。窓が閉め切られているために明かりの入らない薄暗い部屋は、微かに薬の匂いがした。部屋そのものは賓客用のものだが、戦時に使用する砦の部屋の内装など豪勢なものではない。木造りの簡素な机と椅子、時代を感じさせる古びた物入れ棚には薬や薬草が所狭しと置かれている。小さな本棚にはあの竜の騎士とは無縁そうな物語集が並んでいた。
父子で使用できるように、寝台はふたつ備え付けられていた。そのうちのひとつ、壁に沿って位置取られている寝台の上で掛布が小さく膨らんでいる。ディーノが眠っているのだろう。ノヴァは極力足音を立てないよう気遣いながら寝台の側へと寄って行った。
「ディーノくん、眠ってい…………っ?!」
最後まで言い終えることはできなかった。鋭い気配を纏った視線を受けたとノヴァが感じた瞬間、視界の端で光るものを捉えたのだ。瞬時にノヴァは腰に佩いた剣を抜いていた。考えるよりも先に体が動く。戦士の性だ。
金属が擦れる音が静かな部屋に響き渡った。ノヴァは視界の隅で自身の抜いた剣が短剣の刃を受け止めていることを確認した。力が拮抗しているせいか、小刻みに刃が揺れている。短剣の持ち主は、先ほどまで眠っていると思っていたディーノだった。
「ディーノ……君………っ!」
「誰だっ?!」
掛布を跳ね除けて上半身を起こしたディーノは、苦しげに息を吐きながらノヴァを睨めつけてくる。青白い顔色のなか、瞳だけが爛々と金色に輝いて瞳孔が細く締まっていた。
「ディーノ君、落ち着いてくれ」
「きみは誰? 何の用でここに来たんだ?」
つい先程まで拮抗していたはずの力は、次第にノヴァが優勢になっていく。少しずつ短剣の刃を剣で上から抑え込みながら、ノヴァはざっとディーノの様子に視線を流した。
汗が伝う額には髪が張りつき、熱い息を吐く小さな唇は潤いを失って割れている。必死で息を紡いでいるせいか大き動く肩に合わせて動く胸部は、その動きに比してあまり膨らんでいない。上手く呼吸ができていない様子だった。一刻も早く短剣を手放させて安静にさせないとまずそうだ。ディーノが咳き込み始めたので、ノヴァは慌てて口を開く。
「ボクはノヴァ。リンガイア戦士団の長、バウスン将軍が一子だ」
「…………バウスン様の……?」
ディーノの表情から検が落ちていく。同時に短剣を押す力も緩んでいった。父であるバウスンの名に少しばかり警戒を解いてくれたのか、体力の限界が近いのか、あるいはその両方か。ノヴァにはわからなかったが、この好機を逃す手はない。
「君のお父上から手紙を預かっている」
「……父さんから?」
正確にはアバン宛ての手紙として預かったのだが、アバンがディーノに渡すように言ったのだ。おそらく間違った物言いではないはず。
ディーノから力が抜けていっているおかげで、なんとか利き手だけでも短剣を抑えられそうだった。ノヴァは気を緩めることなく、空けた左手でディーノへと手紙を差し出した。
「…………父さんの字だ………………」
ディーノはちらりとノヴァの手にした手紙に視線を向けると、小さく深い息を吐いてから、ゆっくりと刃をノヴァの剣に滑らせながら短剣を引いていった。ノヴァの剣からも少しずつ力が抜けていく。交わっていたふたつの刃が離れたところで、体力の限界点を超えたのかディーノの身体が前のめりに小さく傾いだ。慌ててノヴァはディーノの身体を受け止めた。
からんと乾いた音を立ててディーノの手から離れた短剣が床を滑っていく。護身用に常に枕元に忍ばせているのだろう。床に臥せがちだと聞いていたが、技量はなかなかのもののようだった。バランに仕込まれているのは明白だ。
「大丈夫かい? すまない、無遠慮に近寄ってしまって」
「ううん、こちらこそごめんなさい。知らない人のこと、どうしても警戒してしまって」
「無理もないさ。あんな事があったのだから」
ディーノの小柄な身体は、どこもかしこも熱をもっている。先ほどまで鋭い金の光を宿していた瞳は、その熱のせいか今はどんよりとした琥珀色に収まっていた。ぐらぐらと揺れる不安定な身体を支えながら、ノヴァはディーノを寝台に横たえさせ、手紙を手渡す。
「ありがとう、ノヴァさん」
「ノヴァで構わないよ。ボクもディーノって呼ばせてもらうから」
「うん」
ディーノが小さく笑みを浮かべた。今は熱のせいで弱々しいものだったが、きっと平時は太陽のような笑みを浮かべるのだろうとノヴァは考えた。その無邪気な大輪の笑みを目にすることができる相手は決まっているのだろうが。
ディーノは目を瞑って呼吸を落ち着けると、しばし置いてから手紙を開いた。最初こそ浮かんでいた笑みも、読み進めるにつれて萎んでいく。
「ディーノ?」
「父さん、今日は戻れないって」
「あぁ……。ピラァや魔王軍の動きを見張る者と交代しないことには戻れないんだ」
「戻るまでおとなしく寝てるように……って」
父さんはいつもこればっかりだ。ディーノの小さな声が聞こえてきてノヴァは内心苦笑いした。
「それだけ君のことを大切に想っておられるのさ」
「…………それは、わかっているよ。父さんはいつでもぼくのことを一番に考えてくれる。……それが時々歯痒いんだ」
バランは一度は自身を含めた地上中の命とディーノの命を天秤にかけて、ディーノの命を選んだほどだ。いつでもディーノを優先させる。たとえそれがディーノ自身が望むことではなくても、だ。
「父さんはもっと自分のことも考えてくれたらいいのに」
父には自身の幸せも追ってほしい。ディーノはいつもそう考えてしまう。
バランとは個人的な付き合いなど皆無であるノヴァからみても、バランにとってはディーノの存在そのものこそが彼の幸福なのは明らかだ。だが、それはディーノ本人には伝わりにくいものなのだろう。
「君は本当にお父上を敬愛してるんだな」
「うん、ぼくは父さんが大好きだよ。ノヴァは? ノヴァもバウスン様のこと、……好き?」
「いや、参ったな。……うん、ボクも父のことは尊敬しているし、大切に想っているよ」
ノヴァは床を滑り転がったディーノの短剣を拾い上げた。しっかりとした造りの上物のようだった。またディーノにとっては軽くて扱いやすい長さだろう。バランがディーノに合ったものを選定して与えたのは間違いない。
ディーノに短剣を手渡すと、彼は礼を言って枕の下に手を入れて探るような動きをみせてから鞘を取り出した。つまり目の前の荒事とは無縁そうな少年は、ノヴァが扉の前に立った時点で目を覚まし、音もなく短剣を鞘から引き抜いて、息を潜めて自分を訪ねてきた者の気配を窺っていたことになる。
「短剣の扱いはお父上から?」
「うん。父さんは剣術に長けてるし、とっても強いんだよ」
ぱっとディーノの表情が明るくなる。なんだかんだ言っても、やはり誰よりも強い父親の存在は子ども心にも自慢なものなのだろう。ノヴァ自身にもその心には覚えがある。思わず頬を緩めた。
「ではその強いお父上を信じて帰還を待たなければね。今、フローラ様とアバン様が急ぎで交代要員を手配しているよ。明日には戻ってこられるさ」
「……うん」
「…………お父上がいないと寂しいかい?」
沈んだ声音で手紙を胸元に置き目を閉じたディーノに、ノヴァはこのまま寝かせてしまう方がいいとはわかっていても声をかけてしまう。
遠征地に向かった父の帰りが遅くなることに、不安や寂しさを抱えてしまうことは、ノヴァにも幼い頃に覚えがあった。身を置く屋敷には大勢の者がいるというのに、父が帰らないとひとりきりにされたような気持ちになるのだ。おそらくディーノも同じ想いを抱えていることだろう。
「……寂しい。それにもう会えないんじゃないかって、そんなことを益体もなく考えてしまう」
「そう、だね。ボクも昔はきみと同じこと考えてたな」
遠征地から帰りが遅くなる。その意味を、理由を、是非を、つらつらと考えてしまうのだ。怪我を負ったのではないか、戦に負けたのではないか、万が一のことがあったのではないか。不安に心をかき乱されて、眠れぬ夜をいくつも過ごした。
ましてやディーノは、自身の身も黄泉路の側に置いている。今日ある命が明日もあるとは限らない。そんな日々を過ごしてきているのだろう。
「ノヴァも? バウスン様の帰りを待って?」
「あぁ。父さんは仕事柄そういう事がよくあって。大丈夫だって自分に言い聞かせながら帰りを待っていたよ」
「そっかぁ……ノヴァも…おんなじ…かぁ………」
とろりとディーノの大きな瞳が潤んでいく。起きているための体力が尽きてきたのだろう。呂律も回らなくなってきている。
「ようやく父さんが帰宅しても、家令から不在時の報告を聞いたり、色々指示を出したりするからさ。邪魔しないように、じっと部屋で父さんの帰りを待ってるんだ。身支度を終えた父さんが部屋を訪れてくれたら、飛びつきたいのをぐっと我慢して、大人ぶって帰還を言祝ぐキスなんかしてみせたりね。……ふふふ、懐かしいなぁ」
「帰還を言祝ぐ……キス? 大人がするものなの?」
「うん。優雅に手をとって……ね。もっともボクは勘違いしてて、普通は帰還した騎士が貴人に対してするものだったんだけど」
そう、例えば、武勲を挙げた騎士が主家の姫君にするそれを、ノヴァは勘違いして父にしてみせたわけだが。
大いなる勘違いを、バウスンは微笑ましく受け止めて礼を告げた後、間違いを正してくれた。当時のノヴァは火を吹くほど赤面したが、父はなんだかんだ言っても喜んでくれていたのを覚えている。無事の帰還を喜んでくれる子どもを、愛しく思わない親などいないということだろう。
「帰還を言祝ぎ、大人が…する……もの……」
見やればディーノは半分以上眠りの世界に旅立っていた。きちんとノヴァの話を聞いていたかは怪しそうだったが、高熱で弱った身体を無理に起こしてまで訂正することではないだろう。ノヴァはそう結論づけて、ディーノの肩まで掛布をかけると、額に浮かんでいた汗を布で拭ってやった。
部屋に入った時と変わらぬ顔色のまま目を閉じるディーノの容体は、おそらくノヴァが想像しているよりも芳しくないものなのだろう。アバンやマトリフといった医術の心得のある者がいても好転する様子をみせないのだから。
父の帰りを待つ小さな子どもに、せめて少しでも安らぎが訪れることを願いながら、ノヴァはそっと部屋を辞した。
翌朝は昨夜の雲を一つも残さずに青空が広がる気持ちのいいものだった。顔を洗い、身支度を整えたノヴァは、朝食前の鍛錬のために砦の正門へと足を向けた。時を置かずして、ルーラの着地音が響き渡り、向かった先が賑やかになる。
見やれば正門を抜けて進む一団がある。詰所から飛び出してきた見張りの兵たちが無事の帰還を言祝ぎ、そのうちの数人が砦内へと駆けて行く。上層部の者に知らせに走ったのだろう。
「ポップたちが帰ってきたのか」
フローラとアバンは、よほど急いでオーザムのピラァの対処要員を編成したらしい。まさか日も昇らぬうちに砦を発っていたとは。手前味噌になるとはいえ、これまで迅速に一団を率いてきたと自認しているノヴァとしても、想像していた以上の早さだった。
やはりまだまだ修行が必要だと痛感していると、帰還に沸き立つ一団からひとり足早に離れていく人影が視界に入った。バランだ。人間との馴れ合いなど不要とばかりにさっさと背を向けて砦の中へと入っていく。
それを無言で見送っていると、ポップたちの迎えのために砦から出てきたアバンがノヴァの元へとやって来た。ポップたちは詰所の兵士たちと帰還話で盛り上がっているため遠慮したのだろう。
「みな無事に戻ってきたようですね」
「はい。バラン殿は先にお戻りになられました」
「彼はまずディーノ君に顔を見せなければいけませんからね。……ディーノ君の容体も早く確認したいでしょうし」
「…………ええ、そうでしょうね」
アバンに気づいたポップたちが、兵士たちに手を振って別れ、こちらへと向かって来る。それを笑顔で迎えながら、アバンはノヴァに砦を指差し示した。
「ポップたちのために急ぎ軽食を用意してもらっています。ノヴァ、申し訳ありませんが、厨房に寄ってバラン殿の分を受け取って、部屋へ運んでいただけませんか?」
「わかりました」
伝令役として別れたノヴァに気づいて手を振ってくるポップやマァムに軽く手を振り返し、ノヴァは急ぎ砦へと戻った。厨房で水とビスケットを受け取り、足早に砦の最奥の部屋へと向かう。
昨夜はあれほど父の帰還を待ち侘びていたディーノのことだ。おそらく父の無事を心から喜ぶことだろう。父子の再会の場に水を差したくはない。できればバランが部屋に辿り着く前に追いつきたかった。
「戻ったぞ、ディーノ。具合はどうだ? 少しでも楽になったか」
「お帰りなさい、父さん………」
ノヴァの気遣いも残念ながら少しばかり遅かったようだ。部屋の中から微かに声が漏れ聞こえてくる。きちんと扉を閉めきれていないのかもしれない。
「あぁ、無理に起き上がるなディーノ。身体が辛いのであれば薬を飲んで横になりなさい」
ノヴァは扉の前に立つと逡巡しながら取手に手を掛けた。父子の再会の邪魔になってしまうだろうが、昨夕から水分の一滴も摂っていないバランに、ビスケットはともかく水は渡しておきたかった。よしっと気合を入れて腹をくくる。
「失礼し…………」
「どうした、ディーノ? こら、何をするつもりだ、もう大人だから大丈夫? 何の話だ手を離しなさい、少し落ち着けディ……………、ンむうぅーーーッ??!」
怪訝そうなバランの声が焦ったそれに代わり、やがて何かに無理矢理に口を塞がれたかのような悲鳴混じりのくぐもったものになった。それは時折ぷはっと息継ぎの音を交えながら、父子が攻防してたてる物音とくぐもった声とが、代わる代わる交互に繰り返すものへと変化していく。
ノヴァは扉の取手に掛けていた手をそっと引っ込めた。こめかみをやたらと冷たい汗が伝い流れていく。泳いでしまう目を止めることができそうにない。
扉の向こうで行われていることなど容易に想像できた。やはりディーノはノヴァの言葉を最後まで聞いて理解することなく意識を落としてしまっていたらしい。父の帰還を言祝いでキスをした、というノヴァの言葉だけが頭に残っていたのだろう。ノヴァがキスしたのは父の指先だったし、そもそも行為そのものが勘違いだったのだという言葉は、高熱に魘され、意識を混濁させ始めていたあの時のディーノの記憶には残ってないようだった。
ノヴァは極力気配を殺し、そっと後ずさった。今この部屋の中に入っていくわけにはいかない。
水分補給は大切ではあるが、何も今すぐに摂らなければならないものではないだろう。あの竜の騎士は屈強な体躯と十分な体力に恵まれていて随分と丈夫のようだった。多少水分補給が遅れたところで何ともなるまい。手にしたこの軽食を配給予定の本日の朝食に代えてから届けても問題はないだろう。
ある程度扉から距離を取ると、ノヴァはくるりと踵を返した。バランの父親としての名誉のためにも、ディーノの黒歴史をさらに色濃くしないためにも、これが最善の策なのは間違いない。