ダイ君のご飯事情 01 ポップ特製ホットミルクwithほんのちょっぴりのブランデー ロモスの港を出航し、デルムリン島を経由してパプニカへと向かう巨大な帆船が、夜の海の波間を割って進んでいく。
ダイは舷に手をかけながら潮風を全身に受けていた。陽の高いうちは水平線の向こうに見え隠れしていた故郷の島影も、今はもうない。
それでもダイは星の位置を頼りにデルムリン島のあるであろう方角をひたすら見つめていた。夕食を摂り終えて寝室へと案内された後、寝支度を整えて部屋を抜け出してから、ずっとこうしている。
郷愁の想いに囚われているのかと尋ねられれば、おそらくダイは首を横に振るだろう。まだ幼い子どもの精一杯の強がりでもって。
ぶるりとダイは小さく身を震わせた。我知らず己の二の腕を撫で摩る。装備を外して上着はシャツ一枚の軽装だ。さすがに身体が冷えてきたらしい。
「おおーい、ダイ。何やってんだー?」
声をかけられて、ダイは振り返った。船室から甲板へと続く扉を開いて手をかけたままの体勢のポップが視界に入る。
ポップはダイと同じく寒さに震えて自身の両の二の腕を摩りながら、舷の側に佇む探し人の元へと足早にやって来た。
「こんなに寒いのに甲板に出て……何やってんだ、ダイ?」
「うん……ちょっと」
「島……デルムリン島の方角を見てたのか?」
「………うん」
「そっか……もう全然見えなくなっちまったな」
「……………うん」
視線を伏せたダイを見やって、ポップは小さく息を吐いた。慣れ親しんだ地を飛び出し、数日後に訪れた郷愁や、親元を離れたという実感を伴った心細さにはポップにも覚えがある。
あの時は師であるアバンにさりげなく励まされたりフォローを入れてもらったりしていた。そのアバンはもういない。ならばこの小さな弟弟子の心に寄り添うべきは自分ではないかと、ポップは目を閉じて頷く。
「あぁ、寒ぃ……。すっかり冷えちまったな」
寒さに熱を失って氷のように冷たくなってしまっているダイの手を取ると、ポップはそのまま引き寄せて、背中から覆い被さる形で腕の中に小柄な身体を閉じ込めた。擽ったそうに身動ぐ身体をぎゅっと抱きしめる。ぴったりくっつくと少しだけ寒さがマシになった気がした。
「こんなに冷えちまって。風邪引く前に部屋に戻ろうぜ」
「……うん、その方が良さそうだ」
こくりと頷くダイを伴って、ポップは甲板を後にした。
「ん…おおっと?」
与えられた個室へと戻る途中、ポップは厨房の前を通りがかって足を止めた。そっと扉を開いて隙間から中を覗き込む。灯の落ちた部屋には誰もいなかったが、つい先程までは厨房を担当する乗組員がいたのだろう。部屋の中はほんのりと暖かく、竈の火も完全には落ちていなかった。
不意に立ち止まったポップを怪訝そうに下からダイが見上げている。
「ポップ……どうかした?」
「いや、ほら。厨房が開いてる」
「そうだね」
「ちょいと使わせてもらっても問題ねぇかな」
「……うん?」
「へへへ、おまえさ、ポップさま特製のホットミルク……飲んでみたくないか?」
「ほっとみるく……」
温かなミルク。寒さに震える身にとって、なんと蠱惑的な響きだろうか。
ぱあぁぁっとダイの顔が輝いた。
「飲みたい! ポップ特製なんてすごいよ!」
「そうこなくっちゃな!」
ポップは厨房への扉を開くと、ダイを連れて中へと入った。
メラでランプに火を灯し、氷室になっている小棚を開く。僅かな冷気が溢れたが、目当てのものを取り出してすぐに扉を閉めた。ヒャドの使い手が氷室の氷が溶けないように定期時に確認はしているだろうが、長い時間開けっぱなしにしておくのは気が引ける。
「それ……ミルクの瓶?」
ダイの問いかけにポップはにやりと口端を上げて笑った。
調理器具の並ぶ棚を確認してミルクパンを探す。棚に何度も視線を走らせたが、そもそもそんな小ぶりな可愛い大きさの調理器具など、大男の集う帆船の厨房にはなかった。船乗りはよく食べるのだ。
仕方なく棚の中で一番小さい鍋を取り出して竈にかける。燻った炭にメラの炎をちょいと乗せてやれば、あっという間に黒ずんだ塊は赤々として熱を取り戻し始めた。
そこそこ鍋が温まり始めたところで、ポップは手にしていた瓶の中身を鍋へと移す。白くて少しばかりとろりとした、新鮮なミルクだ。
「わぁ……!」
温められたミルク特有の甘い香りが周囲に漂い始めた。ダイは目を閉じてくんくんと鼻を鳴らしながら、小刻みに甘い匂いを味わった。甘くてふわふわしていて、なんだか幸せな気分になる。ブラスと離れる寂しさや不安が、薄れていくような気がした。
ポップは食器棚からマグカップを取り出すと、器用に直接鍋からミルクを注ぎ入れた。ダイ用のマグカップにはなみなみと、自分のものにはお付き合い程度に。
「へへへ、ちょい待ち。お子ちゃまなおまえにはアレも必須だよな」
「アレ?」
そう言いながらポップは適当に棚を開けていく。少し大きめの引き戸に気づき、おそらくここだろうとあたりをつけて開けてみれば、然もなんそこには砂糖の入った壺があった。
洗い物干し場に転がっていたスプーンを使い、山盛り二杯の砂糖をダイのカップに落とし入れて混ぜる。ミルクに砂糖の甘い匂いが加わり、ポップには少々くどいほどの甘ったるい香りが周囲に舞い始めた。もっともダイは強くなった甘い匂いにうっとり目を細めている。
「…………ポップ、できた?」
「まぁだ、まぁだ。ん〜、あるかな〜? ……いやいや、ないなんてことないだろぉ……」
砂糖の入った壺を棚に戻し、ポップは改めて物資棚を見渡した。
長く陸を離れる海の男たちならば、必ず持ち込んでいるはず。そうにらんで棚の中を覗き込んでいたポップは、お目当てのものを見つけてにんまりとほくそ笑んだ。
「ひひひ、絶対にあると思ってたぜぇ………!」
「…っ! それって……!」
「ふっひっひ! あったまるぜぇ……?」
ポップの手にした瓶を見てダイは小さく息を呑んだ。首は長いがぽっちゃりと丸底の瓶の中では、ポップの手の動きに合わせて濃い琥珀色の液体が揺れている。水のようにアルコールを嗜む海の男たちにとって、常飲するには羽目の外しにくい、少しばかりお高めのブランデーだ。
「お酒じゃんか。おれたちまだ飲んじゃ駄目だぜ?」
「なぁに、ホットミルクに……ほんのすこぉし垂らすだけだ」
格段にコクが出るうえに非日常感を味わえるため、特別な日のホットミルクには欠かせないのだ。
「いいのかな……」
ポップは躊躇するダイの背中を大袈裟に叩き、眉尻の下がった弟弟子の顔を意地悪気に覗き込む。
「おめぇはやめとくか?」
「う………」
ダイは言葉に詰まるとポップが手にしたブランデーの瓶をじっと見つめた。
子どもは飲んではいけない。そう言われると飲みたくなってしまうのが人の常だ。子どもには禁じられた酒という飲み物はどんな味がするのだろうか。ダイとてふと思い出した折には気になっていたのだ。
飲んでみたい、そんな好奇心がむくむくと幼い子どもの心に育っていく。
「飲んでみたいかも……」
「そうこなくっちゃな!」
籠絡したダイの背に手を置き、ポップはカップを置いたテーブルまで戻った。もちろん片手にはブランデーの瓶がある。
「ぶい、えす、おー、ぴー」
「おっ、読めるじゃん。VSOPたぁ…これまた熟成度のお高いイイものだなぁ」
「じゅくせいど?」
「発酵させるために樽に入れて置いておく年数な。長く置いておくほど美味いブランデーになる」
「へぇ………」
相槌を打ちながらも、ダイの視線はポップの手元に釘付けだった。今のダイにとって、ポップはダイの見たことのないものを生み出す手品師なのだ。
ポップは瓶の蓋を開けると、まずは自分のマグカップへとブランデーを垂らして回し入れた。入れすぎるとホットミルクの旨みが台無しになってしまう。風味づけ程度でいい。
「お酒の……匂いがする……」
どことなく頬を染めて、ダイはすんすんと鼻を鳴らす。嗅ぎ慣れない強い香りは、胸に吸い込むだけで酔いそうだった。
そんなダイを穏やかに見守りながら、ポップはスプーンのつぼの縁にすれすれまでブランデーを満たした。それをダイのマグカップに垂らし、くるりとスプーンを回してかき混ぜる。
「ちょびっとだけだね」
「おまえは初めてだからな」
すっと自分の前に差し出されたマグカップにダイは視線を落とした。いつもの温かく甘いホットミルクではない。ポップ特製、お酒の入った禁断のホットミルクだ。
そっと両手でマグカップを包む。
ちらりとポップを見やると、何の躊躇いもなくマグカップを傾けていた。鼻に抜ける僅かな酒精を愉しんでいるらしく恍惚とした表情をしている。
ダイは意を決するとマグカップに唇をつけた。そっと傾けると少しずつホットミルクで口の中が満たされていく。
「おい……しい……! ポップ、これ、すごく美味しいよ!」
満面の笑みを浮かべるダイの頭に手を置き、ポップは癖の強い髪をくしゃくしゃっと撫で回す。ダイのお気に召したらしいこと、寂しさを紛らわせられたこと、冷えかけた心を温められたこと。ホットミルクを作ってよかったと、ポップは内心で安堵の息を吐いた。
「お口にあったようで。そいつは良かった。熱いからな、舌を火傷しないよう気をつけて飲めよ」
「うん!」
ダイはこくりこくりとホットミルクを飲んでいった。マグカップを傾ける手を止められない。
甘くて温かいそれはダイの凍えた身体を解してくれた。少し遅れてブランデーが身体に火を灯してくれる。直接ブランデーを飲んだ時のような焼けるような熱さはなく、ミルクと混じってゆっくりとじわじわと冷えた身体を温めてくれた。
あっという間にホットミルクを飲み干し、ダイはぷはっと息を吐いた。満足してマグカップをテーブルに置く。腹はくちたし、もうちっとも寒くない。
「ご馳走さま、ポップ。ありがとう、すごく美味しかった!」
「どういたしまして」
身体が温まったせいかダイは眠気を感じ始めた。目蓋がどんどん重くなってくる。
そんなダイを背中越しに見やって、ポップは手早く鍋とマグカップを洗った。ブランデーもきちんと元の棚に戻して証拠隠滅を図っておく。
「ダイ、眠いのか? 部屋に戻ろう」
ポップの言葉にダイは小さく頷く。
ホットミルクのおかげか、さてはて眠くなったせいか。すっかり指先まで温かくなったダイの手を取り、ポップは厨房を後にする。おねむな弟弟子を暖かな寝台に放り込むことが、次のポップの使命だった。