この世でいちばん、尊いもの 息子の誕生日に、何か欲しいものはあるか? と訊いて、返ってきた答えに驚愕した。
「父さんが、欲しい」
はじめて頬に添えられたこの手の、大きさと暖かさを覚えている。遠い遠い記憶のなか、よくこうやって触れられた。
音をなくした部屋の中で、ふたり。わたしは目を凝らすように、瞳の綺麗に澄んだ男を見つめた。汗がふきだす。胸がはやる。当然の背徳感と驚き。それから、魂が震えるような喜びに挟まれて、心がどうにかなってしまいそうだ。
「……はじめ」
どれくらい黙っていたか分からないが、ひとこと、名前を呼ぶのが精一杯だった。
* *
基は、八年前に結婚した女性の連れ子だった。
最初に出会ったのは彼が十歳のころ。少しきまずそうに、だが丁寧にあいさつしてくれた姿を今も覚えている。その時のわたしは、こみあげてくる涙をこらえるのに必死だった。なぜならずっと、彼を探していたからだ。
──わたしには、前世の記憶がある。
物心ついてから三十が近くなるまで、居るかどうかも分からない前世の想いびとを探し続けていた。だがそう簡単に見つかるはずもなく。やさぐれた気持ちで過す日々の中、たまたま入ったレストランで、ある女性に出会った。
メモとペンを手にオーダーを聞きにきた彼女の顔を見た瞬間、都合の良い幻覚を見ているのかと思った。その人があまりに、わたしの尋ね人に似ていたからだ。
小さな身体。白い肌。通ってはいるものの全く高さのない鼻梁に、涼しい目元。口元の高さで真っ直ぐに揃えられた髪は、艶やかで深い色をしていた。
「つきしま……?」
思わずそう、口走っていた。
「はい……? あの、どこかでお会いしたことがありましたっけ? あなたみたいな華やかな人、一度見たら忘れないと思うのにな」
首をひねりながら笑った彼女は、わたしの探している人の生まれ変わりではなかった。けれどこの奇妙な出会いをきっかけに、二人は友人になった。
真面目で働き者な彼女は二つ年上で、若い頃にろくでなしと結婚して離婚し、今は息子と二人暮らしをしているのだと言った。
「見た目はわたしにそっくりで、ちっさくて不細工でね。でもスポーツ万能で、うちの手伝いもよくしてくれる。すごくいい子なの」
少し気難しいところがあるけど……と言われた息子にはすぐ、会わせてもらえた。
そして、とうとう見つけたのだ。彼を。
「月島基です」
「鯉登音之進といいます」
ペコリと頭を下げられるのにつられて、自分も同じようにする。
『──幼少期のわたしですか? とんでもない悪ガキでしたよ』
第一印象は、記憶に残る彼の言葉とは違った。が、月島少年は二人っきりになった隙をみてわたしを捕まえ、こんな事を言ってのけたのだ。
「いっておくけど、母さんをいじめたら、ただじゃおかない」
「──!」
先世の記憶はやはり無いのだろう。そもそも他人の空似かもしれなかった。だがわたしはこの時、間違いなく彼こそが、探していた月島基だと確信した。
「わたしと君のお母さんはそのような関係ではないぞ!」
鋭く流された視線を前に、わたしは手のひらを彼に見せながら口を尖らせた。
「お母さんはもう男はこりごりだと言っていた。それとわたしにも、ずっと忘れられない人がいる。だからわたし達は本当ただの友人なんだ。だからな、よければ君も、わたしと友達になってくれないか?」
誓って、よこしまな気持ちなどなかった。純粋に、この子の側にいたいと思ったのだ。
「……はじめ」
「ん?」
彼は顎を引いてしばらく黙ってから、ぽつんと言った。
「はじめでいい」
「そうか、うん。はじめ……、はじめ!」
嬉しくてそれを繰り返す。
「うん」
「はじめ! わたしの事は、どう呼んでもらってもかまわんぞ!」
年甲斐もなくついつい声を弾ませると、彼は顔を逸らして『へんな人……』と呟いた。
こうしてわたしは基とも、友人になったのだ。
──以来、仕事のない土日や彼女の帰宅の遅い平日の夜などは、基と過ごすことが多くなった。
彼女はその度に感謝しつつも、目の前で繰り広げられるわたしたちのやりとりに「どっちが面倒を見ているか分からない」と笑った。
というのも、朝はパンと卵と牛乳と、いくつかの果物を手に、腹を空かせて小さな友達をたずねる。彼は「しょうがないコイトさんだ」とため息をついて、フレンチトーストやら目玉焼きやらを焼いてくれた。昼も基の作ったチャーハンを食べて、夜はお礼に食事をご馳走する。
わたしが役に立つのはゲームや運動の相手と、勉強を教えられることくらいだったが、基は「やぶさかではない」なんて難しいことばを使って楽しそうにしていたし、わたしはわたしで今生で一番、満ち足りた気持ちで日々を過ごしていた。
だが、そんな幸せも長くは続かなかった。彼女に病が見つかったのだ。
肉親に縁が薄い彼女だったが、友達は多かったので、面会の時間にはいつも誰かしらがおり、病室は常に花であふれていた。病の見つかった時にはすでに助からない状態であったせいもあるのかもしれない。
わたしは毎日、彼女のマンションから離れた病院まで、基を送り迎えした。とはいえ病室はそんな状態だから、しばらくは夕方の職場が病院のタリーズになった。
入院してひと月くらい経った頃だろうか。病院からうちに着いたのに、基は車に乗ったまま、降りようとしない。
「はじ……」
立てた膝に顔を埋めて、基は泣いているみたいだった。わたしは無言で、丸まってしまった背中をさすり、かっかと熱を持つ頭を撫でた。
まだ宵の口なのにどっぷりと暗く、心身共に底冷えのする霜月だった。
「なぁ……基。わたしが最初に、君のお母さんとはそういう関係じゃないと言ったの、覚えてるか?」
うめくような声で、是の返事が返る。
「それは今も変わってないんだが──……」
ひと月ほどの間、わたしには妻がいたことになる。
* *
その後のわたしは元夫というより、無償の後見人のようなもので、彼女が残したものは当然全て基の財産とした。ありがたいことに今世でも金には全く困っていないのでな。
基との関係は少しずつかたちを変えていった。
二人きりで頑張ってきた親子だ。基の悲しみは彼にしか分かりえず、わたしに出来ることはあまりに少なかった。
よく目を光らせて、声をかけて。ずっとそばにいると振る舞いで伝えてやる。
「わたしには基がいないとダメだ」
それから時折こうやって甘えれば、彼はため息をついて「本当に面倒くさい父親ですね」と、困った顔で笑ってくれた。そういう時にわたしは、かつて愛した男の面影を感じずにはいられなかった。
「うちに引っ越してくるのも歓迎だが、電車通学になってしまうし、基は生活力があるから、今の家にずっと住んでもいいぞ。迷惑じゃなければわたしが毎日、基に会いにゆく」
こう提案したが、それには首を振られた。
「コイトさんといっしょが……いいです」
「──そうか」
肩を抱いてやると、基はそのまま静かに涙を流しはじめた。
だらんと垂れた腕をかるく引く。と、小さな身体はわたしの脚に乗りあげる形で抱きついてきて──彼は初めて、わたしの前で声をあげて泣いた。
「ね、父さん、って呼んでいい?」
そう聞かれたのは、一緒に住むことになって数日後のことだったように思う。
「もちろん良いが──別にコイトさんのままでも構わんぞ?」
器用に卵焼きを折りたたんでゆく手もとを覗き込みつつも、白いほっぺたをつっつく。
ちなみにわたしの仕事は、大根おろしだ。
「ずっと……この人はどうしてこんなに良くしてくれるんだろう、って思いながらも、コイトさんが帰らなければいいのにって、思ってた。母さんのことは悲しいけど、コイトさんが一緒にいてくれて、毎日嬉しい」
基は火を止めて、本当にありがとう、と頭をさげた。
──この時の気持ちは、一生うまく言い表せそうもない。
「礼を……それを言わないけんのはオイん方じゃ。いっしょにおってくれて、あいがと」
わたしたちはぎこちなく抱き合いながら、お互いを想い合う言葉を重ねた。基の前で薩摩弁が出るようになったのも、基が学校行事のプリントを手渡しでくれるようになったも全部、この日からだった。
この日の卵焼きは火の入りすぎでモサモサしていて、放置されて辛味を増した大根おろしが口に痛かったのも、忘れがたい。
回想がつい長くなってしまったが、こうしてわたしたちは友人から、少しずつ家族になっていったのだ。
現世で添い遂げる事を夢見ていたわたしではあったが、出会ったその時から、基と一緒にいられればそれだけで嬉しくて、その成長をそばで見守っていられることが何よりも幸せだと思うようになっていた。
勉強もスポーツも抜け目なくできる息子だが、最終的には語学と柔道をえらび、優秀な成績をおさめて、同級生に先んじて進学先をきめてみせた。あの幼かった彼が、この春からは大学生になるなんて。感激も一入で、先日の彼岸では、彼女の墓の前で洟水を垂らして盛大に泣いてしまったのだった。
『あたん息子は、立派に育っちょっじゃ。安心したもんせ』
そう言って手を合わせたばかりなのに。どうしてこんなことになってしまっているのだろうか。
「父さんと俺との結びつきは、血よりも濃い。父さんは俺の大切な家族で、守り育ててくれたこと、本当に感謝してる。……けど、それと同じくらい、あなたを恋しく思ってしまう。どうしようもないんだ。俺に触れて、抱きしめて。一緒になりたい……そういう想いだ」
「いつからだ」
「いつから……かな」
わからない。と首を振る基は、わたしの髪を二度、三度と指で梳く。
「でも思い出したのは、本当に最近ですよ、鯉登少尉殿」
──瞬間、身体中の血液が逆流するのかと思った。
「つきしま……?」
「はい」
目を剥いて、基の顔を見る。いつもと何も変わらない。けど、そうせずにはいられなかった。
「本当に、お前なのか? 月島」
「はい」
考えるより先に、わたしはその胸に飛びついていた。
胸の奥が燃えて、けしんでしまいそうだ。月島……、月島。本当に、逢えた。
「……ばかすったれ」
「はい。すみません。あなたはずっと、覚えておられたのですね」
「そうだ。──もどったのなら、すぐに言わんか」
「すみませんでした」
まともな父がいなかった月島には、わたしという父がいることが実に幸せなものであったらしく、どうせなら成人するまで子供でいたいと思ってしまったのだという。
「わたしはその父としての倫理を、失うかもしれなかったんだぞ」
「俺としてはそれを見るのも吝かではありませんでした。けど、やはりそうはなって欲しくなかったので」
月島はわたしを軽々と抱いて、そのままソファに腰をおろした。
「記憶を取り戻した時、あなたがしてくれた事の一つ一つを思い出して、俺は俺として生まれた幸せに窒息しそうになりました。ただただ、嬉しくて、有り難くて」
「そうか」
「そばにいてくれて、ありがとうございます」
首元にうずめられた顔がすりすり、肌に擦れる。短い毛の感触に混ざる湿り気に、こちらの涙腺までじわんと緩んだ。
「誕生日おめでとう」