泥んこ紳士にキスをして「ワルイージさーん!」
草原の奥まった場所にある秘密の特訓場に彼女が現れる。
大きな鍔の広がった日除け帽に、オフショルダーのキャミソール式のロングサマーワンピース。どちらも眩いほどの白で、彼女のきめ細かい麗美な肌と相まって光って見える。
もう九月に入ったが、数日前の先月と相違ない暑さで、その格好は全くの見当違いではない。
華奢な肩に小型のクーラーボックスを提げてこちらに手を振って近づいて来る。
タイヤ引きによる体力作りをしていた彼はその足を止め、手を振り返した。腰とタイヤを繋げたロープを解き始める。彼女の元に行きたいという焦りから少し手間取ってしまった。
ロープから解放され、野に放たれた動物の如く彼女に走り寄った。
「よお、今日はどうしたんだ?」
「差し入れをお持ちしました。冷たいお飲み物とサンドイッチです」
「ほう、そいつは味の採点をしてやらねえとなあ」
「何故、手作りだとお分かりに?」
「オレのような変わり者を愛してやがんだ、コンビニやチェーン店で済まそうなんて短絡的な事考えねえだろ?」
「ふふっ、面白い考え方ですね。ただ愛する貴方に手作りのものを振る舞いたかっただけですよ」
「その考えの方が洒落てるだろ?」
いつもの調子で吸い寄せられるように季節外れの小米雪のような肌へ触れる寸前。そこで手が止まり正気に戻る。今の自分の手が泥と土にまみれた汚れものだと気づいたからだ。
こんな手じゃ触れられないな、と少し寂しげに引きかけた手。次の瞬間、それが彼女の両手でぎゅっと握られる。彼女にしては強い力で胸の方に引き寄せられ、一歩よろけて鼻と鼻が近づく。息が掛かる距離で、彼女は泥の付着した顔へ柔和に微笑む。
「帰ったらまずお風呂に入ってくださいね、約束ですよ?」
「相変わらず母親っぽいなあんたは」
「母親ですから」
こんな時に見せる冗談めいた強い彼女の笑みは、心を自然と高揚させる。
数秒も互いを見つめ合えば、彼女がそこから更に一歩詰めてその影は一つに重なる。
汗と泥の中触れ合う唇は、『汚れた貴方でも受け入れる』と言外に伝えていた。
(おわり)