姉が腐女子だった件進捗
人は誰しも人には言えない秘密をもっている。かく言う俺も、幼馴染に友情を越えた感情を抱いていた。ただそれは心の奥深く、自分でも容易には開けないように幾重にも鍵をかけて押し隠している。そんな俺の前で今、見てはならない光景が広がっていた。
ーーー幼馴染を溺愛中♡
ポップな書体で書かれたタイトルを見て、それから固まっている姉を見た。五歳離れた、今年高校を卒業する姉が、青ざめた顔で俺を見返す。
「あ、あのね!青宗!!これはね!?」
身振り手振り激しく、その敏捷さが異常さを物語っていた。おっとりと言えば聞こえはいいが、どん臭くていつもふわふわしているような姉なのだ。その姉が見たことも無い動きで本を隠した。見られてはいけないものを見られた、姉の赤音の顔にそんな心の声がありありと浮かんでいる。
「…男と男だったよな。今の。」
「…。」
隠されるまでの数秒で、表紙の絵もタイトルも俺の脳裏に焼き付いてしまっている。制服を着崩した不良っぽい男と、きっちりと制服を着た優等生っぽい男ーーーそいつらが身体をからませ、こっちを見ている絵の構図。二人の間に漂う空気感が「ワケあり」なのは、明白だった。つまりこれは、と思って死にそうな顔をしている赤音を見た。
「お前はそういうのが好きなんだな。」
批判でもなんでもなく、ただの感想だ。一瞬見た不良っぽい男がなんとなく俺に似ているだとか、優等生っぽい男が幼馴染のココに似ているだとか思いはしたが今それを言ってはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。
「…引かないの?」
ほとんど泣きそうな顔で、でも心無しかほっとしてもいるような声で赤音は訊ねてくる。
「ただの漫画だろ。」
感情が顔に出ない性質でよかったと思う。このまま何もなかった風にやり過ごせば、姉の秘密を知らんぷりできるーーー
「違う!」
そう思ったのに、赤音は珍しく声を上げて否定した。漫画の表紙よりもむしろ滅多にない赤音の大声に驚く。
「これはね、ただの漫画じゃないの。ロマンなの!」
「ろまん…」
何言ってんだこいつ、と眉がひくつく。人がせっかく見て見ぬふりをしようとしたにも関わらず、率先して穴を広げていくことに俺は困惑する。
「見てると心がときめくし、お互い好きなのにすれ違ってるところはもうキューンって切なくなっちゃうし」
「待て。赤音、お前さっきから何言ってるんだ?」
「え?」
ココ曰く俺と瓜二つの顔がキョトン、と目を見開く。
「青宗にもこの漫画の良さを知って欲しいの。」
さっき見たこともないスピードで隠した漫画を堂々と見せて寄こし「可愛いでしょ」なんて言っている。秘密とはひた隠すから秘密であって、大っぴらにひけらかすものではない。少なくとも俺の中ではそういう認識をしている。だがーーー
「だって青宗とはじめくん見てるとこの漫画みたいで、胸きゅんが止まらないんだもん。」
どうやら姉は違うらしい。俺はやっぱり見てはいけないものを見てしまった。男同士の漫画を、ではなく姉の本性を、だ。
「青宗ははじめくんのこと好きでしょ?」
「…赤音は?赤音はココのことどう思ってんだ?」
開き直ってぐいぐいくる赤音を躱すべく、俺は質問し返した。確かに俺はココが好きだ。でもそのココは赤音のことを想っている。それこそ泥沼三角関係で漫画が一本描けそうな状態なのに、当の赤音は露ほども知らない。
「可愛いよね。はじめくん。」
「…それだけか。」
「青宗のお世話してる時も可愛いし、私には猫かぶってるのに青宗には素直なのも可愛い。頭良くてツンってして見えるのにね。」
俺が聞きたかった答えとは微妙に違う。そしてこの微妙なズレは、ココの想いとは交わらない類のものだ。
「男が好きな女に可愛いなんて言われても喜ぶわけねぇだろ。」
「好きな女…?」
ハッとして口元を覆った。つい余計なことを言っちまった。でもすぐさま思い直す。変なことを言っている赤音に現実を見させるにはちょうどいいのかもしれない、と。
「それはない。」
「…え。」
またしても大声で赤音は否定した。それはもう必死な剣幕で、だ。
「それはね、解釈違いっていうの!推しに好かれなくていい!私は推しの幸せをそっと見守りたいの!!!だから、はじめくんが青宗と仲良くしてるのをそーっと見られればそれで満足。いや、幸せなの!!」
俺はポカンと口を開けたまま呆然と赤音を眺めていた。推しってなんだ?とか、見守るだけでいいってなんだ?とか、聞きたいことはたくさんある。たくさんあるが、今言える言葉はひとつしかない。
「言ってる意味がわからねぇ」
「え?どうして?私はね、青宗とはじめくん推しなの。推しと推しが仲良くしてるのが最高に幸せなの。つまりそういうこと、ですっ!」
鼻息荒く高らかに宣言してみせた赤音は握りしめた漫画を俺に押し付け「読んでみて」とのたまった。
「え。イヤだ。」
「どうして?!」
またしても赤音は叫ぶ。この数分間で取り乱した赤音を見過ぎている。この女、本当に俺の姉か?と混乱する俺を赤音はぐわぐわと揺らす。
「カズくんはね、はじめくんなの!で、アオトくんは青宗なの!!」
「赤音…マジで何言ってんだ…?」
漫画の読み過ぎで頭がおかしくなっている赤音に冷ややかな視線を送る。だが赤音は全く引く様子がなかった。ピタリと動きを止め「わかった」と、赤音が一歩距離をとる。さすがに冷静さを取り戻したかと嘆息したのもつかの間、予想だにしないことを言ったのだ。
「青宗がはじめくんとイチャイチャしてくれたら、欲しいって言ってたバイク買うお金出してあげる。」
「…は?」
「こないだ言ってたでしょ?欲しいバイクがあるって。」
確かに言った。でも、赤音はバイクに乗ることもそれ以前に俺が不良チームにいること自体否定的なのだ。それが今はどうだ?欲しいよね、ととてつもなく悪い顔で唆してくるではないか。
「…何企んでんだ?」
「企んでるんじゃなくてお願いしてるの!部屋で二人っきりとか、ベッドで二人で寝転んでるのとか。それを隣の部屋からこっそり見守りたいの。」
こんなにも他人からの頼みを聞かなかったことにしたいと思ったことは無い。血の繋がった姉でなければ問答無用でぶん殴ってやるのに、無意識で握った拳はただただ宙を彷徨う。
「本当は誘い受けして欲しいとか色々思うけど、さすがに青宗には無理でしょ?」
「ァ?」
赤音の言っていることはまるでわからないが、本能的に喧嘩を売られていると俺は受け取った。
「無理じゃねぇ。」
「え!本当?!」
花が咲いたように笑顔満面の赤音が、もう一度「本当?」と繰り返す。売られた喧嘩は買うのが不良の本懐だ。それが例え実の姉であっても、だ。
「要はココを誘惑すればいいんだろ。それ見てお前が大人しくなるならやってやる。」
幼馴染だからなんでも出来るーーーそうタカをくくって安請け合いしたことを後悔するとはこの時俺は考えてもいなかったのである。