カメコ松くん「ココさんってたまにすごい顔しますよね」
挨拶もそこそこに、玄関先で開口一番に投げつけられた言葉が体を石像にした。
「……すごいってどうすごいのさ小松くん。文面だけだと侮辱にもなるよ」
「全然貶すつもりじゃなくて、とにかく、すごいんです。自覚ないんですか???」
小松くんは首だけでなく、目も上に向けてまで視線を合わせようとしながら言った。
律儀な彼と同じ目線の世界を想像しかけ、思案を打ち切る。目が高いところにあることは、それだけで危険区において大いなるアドバンテージとなる。いち早く危険に気が付けるし、体が大きければ、きっと食材に手招きされてうろちょろするだろう彼をさっさと抱え込んで守ることだってできるのだ。
気軽に触れられる立場でも体質でもないので、それも夢の想像に過ぎないのだが。
「ココさん、今してます」
小さな手(といっても世間一般的に見れば通常サイズだろう)が人差し指をゆるく張ってボクを指す。
「ん……何をだい?」
「だから、すごい顔ですよ」
ハント先で遭遇した珍獣でも見るように目を剥かれては、意味不明と首を傾げるしかなかった。
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進展のない立ち話をしていても埒が明かないので、小松くんを部屋に通し、紅茶を淹れ始める。
すごい顔とは、どんな顔だ?
朝起きて洗顔するときや、歯を磨くときなど、鏡で己の顔を確認する機会は人並みにあって、占い師という職業の性質上、それなりに気を遣っているつもりだ。始めたての頃は顔や体についた生傷を包み隠すことなく客を出迎え、それで客の電磁波が乱れて占いを外すことがよくあった。客商売は身だしなみが大事だと失敗からボクは学んだ。
人が家に来るなら尚更。5分おきに鏡の前に立って、整えた身だしなみを整え直し、掃除した部屋を再度掃除するくらいには気を遣う。しかし、準備に気力を使いすぎた反動か、客人が使った食器や、帰るときにずらしていった椅子の角度など、机周りをしばらくそのままにしてしまうのだが。三日ほど放置して小松くんの電磁波の残り香が薄れてから、やっと片付ける気力が復活する。
ボクはいわゆる気遣いの人ってやつなのだろう。少なくとも、同じく客商売の人間で、じっと座ってもてなされるのが落ち着かない様子の客人にだけは、部屋の隅の埃のひとつも見つからないようにしてきたのだから。
すごい顔ってなんだ? ボクはどんな顔をしているんだい小松くん?
考え事をしていたせいか、適さない温度のお湯を茶葉に注いでいた。
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「それで、さっきの話だけど」
尋常じゃない手汗で落とさないよう、カップをしっかり握って紅茶を──もとい、色だけが出て茶葉の風味を損ねた渋いお湯を啜った。
ボクに続いて小松くんも紅茶を飲む。このままではとても出せたものではなかったので、客に出すティーカップには果汁やスパイスを混ぜ、なんとか飲めるものにした。味は良くても香り高い茶葉の原型はほとんど留めていない。
「わぁ、美味しい……これって」
「その話は後でね。人の顔指さしてすごい顔してるだなんて、言われた側は平気じゃないんだよ」
「あっ……すみませんでしたココさん!」
カップの中身について聞きたそうなのを手の平で制すると、温まった顔が青くなる。自分の無礼さを恥じたか、小松くんは机に打ち付けんばかりの勢いで低頭した。そういうことじゃない。
「ああ、うん……分かってくれたならいいんだ。でも、ボクが今キミに求めているのは謝罪じゃなくて、説明。説明だよ小松くん」
「説明、ですか?」
小松くんは言われたことを反芻し、おずおずと上目遣いでこちらを窺った。
「すごい顔……は、すごい顔なんです。って言っても自覚無いんですよね?」
「日常生活において自分がどんな顔してるかなんて、逐一把握してる人の方が少ないと思うよ。舞台に立つ役者じゃあるまいし」
紅茶色のお湯を啜った。
どんな顔をしているかなど把握していないとは言ったが、今自分がほんの一瞬だけ渋い顔をしたことは確信していた。
「それで、ボクがどんな顔してるって?」
カップを持ったまま、これだけの毒を取り込みながらなんて涼しい顔をしているんだ、と誰かに言われたときの表情筋の動きを再現しながら再度聞く。
小松くんは腕を組んで悩ましげに唸る。
「うう、説明が難しいです。とにかくすごいんです」
やはり、小松くんの説明は要領を得ない。
渋いだけのお湯をさっさと視界から消し去りたくてカップを呷った。
「そこまですごいすごいって漠然としたこと言われると、俄然気になってきたよ」
あークソ渋い。渋みがまとわりついて舌の奥が痺れる。叩きつけたいのを堪えてソーサーにそっと置き、身を乗り出す。
「他人にどう見られようとどうだっていいけど、キミから変に思れるなら早いところ自覚しておきたい。教えてくれ小松くん、キミが異常に感じるときのボクはどんな顔してるんだい?」
「あ……実はその、すごい顔ってひとつだけじゃなくて、」
しどろもどろな返答に胸中が毛羽立つ。
どうしても言わないならば電磁波を視るまでと顔を寄せると、小松くんの頬が赤らみ、電磁波がとっ散らかって何も読み取れなかった。
「今! 今してます! そのうちのひとつ!」
小松くんは顔を逸して人差し指の先だけこっちに向ける。
詰め寄った分だけ逆効果になるようだ。浮かせた腰を椅子に据えると、途端に手持ち無沙汰になってティーカップを持ったが、忌々しい中身はついさっき自分で飲み干したところだった。
深い意味もなく脚を組んだら、小松くんは机に両手をついて椅子を立った。何か存在しない意図を汲み取ってくれたらしい。
「そこまで見たいって言うなら、ボクにも考えがあります」
ソーサーとティーカップが振動して、ちゃりと鳴る。
「品が無いよ小松くん。して、その考えってなんだい?」
「ボクが密着カメラマンやって、決定的瞬間を激写してココさんに見せます。今日一日ヒマなんで!」
「ん……と言うと、今日はずっとうちに居てくれるのかい?」
「はい! 明日仕事あるんで、ずっととはいきませんけど……最終便までは粘るつもりです」
「そんなこと気にしなくていいのに。うちにはキッスがいるんだから、明日朝一番で送ってあげられるよ」
まるで会話が聞こえていたかのように、外でキッスが一声鳴いた。
小松くんは無言で携帯電話を手にしてレンズをこちらに向ける。ピピッ、と撮影直前の音が聞こえて、反射的に手を翳した。
「あー! なんで隠すんですかココさん! 今、すごい顔してたのに」
「フラッシュ撮影は禁止。ボクの目は良すぎるから」
「そうでしたね、すみません……気が付かなくて」
携帯電話をいじり始め、「危な」と小松くんの口から呟きが漏れる。連絡手段としての用途が主であるらしいそれを、あーでもない、こーでもないといじくり、何度か机の上を撮影することをフラッシュが出なくなるまで続け、突然に動作を停止した。
「えっ、写真撮るのはいいんですか?」
「良いも何も、やるって言ったのは小松くんじゃないか」
中身の入っていないティーカップをソーサーごと持ち上げ、柄を眺めるふりして小松くんの顔を透かし見る。提案したのはそちらだというのに、まるで意外だと言わんばかりの呆け様であった。
「どうぞ、一日よろしくね。密着カメラマンさん」
ソーサーの位置を下げ、軽く首を傾けて意識して笑む。
挨拶代わりにシャッター音が鳴った。
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決定的瞬間を激写すると豪語したカメラマンだったが、早々に行き詰まった。本職はホテルグルメの料理長なのだ、当たり前といえば当たり前である。お互いの近況報告が終われば、小松くんは机に体を投げ出してしまう。
「小松くん、写真はあんまり上手じゃないんだね」
伏せて置かれていた携帯電話を掴み、淹れ直した紅茶を啜りながら画面をさっと撫でる。
会話の最中に撮られたものはどれも手ブレがひどく、ボクより窓の外で羽繕いしている映り込みキッスのほうが良く撮れている。不思議なことが起こるものだ。
「いつでも撮れるように練習してるんです。ココさんがすごい顔するの、いつも一瞬だけだから」
「すごい顔って、言い方どうにかならないかな」
携帯電話から時計に目を移すと、昼時を過ぎようとしている。
「ボクはこれから昼食にするけど、小松くんは?」
色んな人の連絡先が入っている多機能カメラを差し出すと、小松くんは「もうそんな時間でしたか」と受け取った。
「グルメフォーチュンで気になるお店があったので、そこに行こうとしてました」
「そう。じゃあ小松くんの分も作るよ」
「ボクも手伝います」
小松くんは返された多機能カメラを机に置いてついて来ようとする。
自分にとって使い勝手の良いように拵えたキッチンで、隣に彼が立っているなど、想像するだけでも楽しい光景だ。しかし。
「ダーメ。キミは今日一日、料理人じゃなくて……ボクの、カメラマンだろ? どうしてもキッチンに入りたいなら、カメラを持っておいで」
今日一日はボクの密着カメラマンになる。それは小松くんが自分で宣言したことだ。
「そうでした。ボク今日は、ココさんから密着カメラマンに任命されてるんですもんね」
一部分を強調した言葉は否定されなかった。小松くんは携帯電話を手に、少し離れて着いてきた。
一日分の暇つぶしに良い遊びを見つけたぞ! と思っていることを湧き立つ電磁波が物語る。政治家の結婚式や、それに使う食材を取りに行く命懸けのハントやらで、ずっと気を張りつめていた小松くんにはいい息抜きになるだろう。
形はどうあれ、小松くんが今日一日だけはボクのものでいてくれる。その事実が胸の中心にジワリとむず痒いものを生む。
かしゃりとシャッター音が鳴った。
「撮れた……けど、正面じゃないから分かりにくいなー……」
撮影した画像を確認するカメラマンに悟られぬよう自分の顔に触れたが、どんな表情をしているのか毛の先ほども理解できない。サニーほどの触覚があれば分かっただろうか。
「時間がちょっと遅いから簡単なものにするけど、いいかい? カメラマンさん」
「はい! ココさんの料理はなんでも美味しいので」
カメラマンは画面から顔を上げて、にっこり笑う。華美とは遠い。
ニコニコマナティよろしく戦意を削いでしまう力があるに違いない、まるで無邪気なその笑顔こそ、写真におさめるべき眩しいものだとボクは思う。
どれ、ここはひとつカメラを奪い取ってやろうかと考えたが、小松くんの息抜きに水を差してしまうので堪えた。
かしゃかしゃ聞こえる。小松くんは手当たり次第連写しているようだった。
「調理してるところを何もせずに見ているのは落ち着かない?」
「当たりです」
小松くんは唇をにゅっと突き出した顔をしている。
ずいぶんとまぁ、不満げにしているものだ。今の彼を見たら誰だってそう感じるはずだ。ぶすくれた声で話すのが、どうも可笑しくて笑ってしまうと、むすっとしたまま写真を撮られた。
ボクのすごい顔とやらを撮って見せるつもりが、小松くんは写真を撮る行為自体が楽しくなってきたのかもしれない。
試しに片目を瞑ってピースサイン。かしゃかしゃ聞こえた。
娯楽に使っているところを見たことがない、小松くんの携帯電話には、まだたくさんデータが入る余地があるはずだ。そこへボクの何百枚単位の写真が雪崩れ込んで、容量を食っていくとはまるで、ボクが小松くんの脳の一部分を食べているようではないか──
妙な連想ゲームを行いながら包丁を使っていたせいだろう。小松くんが自分の脳を刺し身にしたものを箸でつまんで、一枚ずつボクに食べさせてくれ
る場面が頭の中で上映される。映像の中のボクは甲斐甲斐しく差し出される餌に、下顎の犬歯の先を見せつけて食らいつき、ぴったり固く閉じた口を下品に舌なめずりする。濡れた唇が恍惚と吊り上がるのを見て包丁を置いた。
「小松くん、考え無しに撮るのやめなよ」
かしゃかしゃ聞こえる。いっぱい伸ばしてボクの顔を撮る腕が視界の端に見えた。
どんな顔をしているなんて、自分ではわかりっこない。だからこそ、こんな汚い想像をしている最中の顔を見られたくなかった。
「あんまり撮ると、後で写真の整理大変だろ?」
納得してくれたようで、シャッター音が止まった。
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当初予定していたより種類も量も少なくなった、切った食材は米と牛乳とチーズで混ぜこぜにした。レシピも何もない、行き当たりばったりで味付けしたリゾット風のもの。
腐っても美食屋の舌で整えたそれは、一流シェフが食べても問題ない味には仕上げられたようだった。小松くんの顔を見れば分かる。
「ココさんって調味料を計らないで、途中で味見しないでも、こんなに美味しいものが作れるんですね」
「ひとりで作って食べる分には、さっと作ってさっと食べるこういうものでいいでしょ。小松くんだって、家でもフルコース作るわけじゃないだろ?」
もっともらしく言ってはみたが、本当はもう一品、二品くらい用意するつもりだった。ボクを石像にした小松くんの言葉に、思いの外、調子を狂わされている。
呑気に昼食をとる小松くんはというと、充電コードに繋いだ携帯電話を気にしている。
「考え無しに連写しても、撮れませんよねぇ……」
「ボクがどういうときにその顔をするか小松くんも分かっていないんじゃあ、お手上げだよ」
「ですよねぇ……」
食べ終えた食器を脇によけて、小松くんは机に上半身を投げ出してしまう。既視感のある丸まった背筋が、振り出しに戻ったことを嘆いていた。
「手がかりは本当に何もないのかい?」
「はい……ほんと、なんでもない時に出てくるんですもん」
下から睨めつけてきたってボクには無意味だ。小松くんは子ねずみに威嚇されて怖がる稀有な人なのだろうか。
机に両肘をつき、こちらも視線を合わせるつもりで背中を丸めた。立っていても座っていても見下ろすことになる、小松くんの顔を真正面に見る機会はなかなか無い。洞窟の砂浜へ続く穴を降りたとき以来だろう。
誰に話すことでもないが、あの日以来、背中をベッドに沈めていると、小松くんの体温や肩にかかる重み、思ったよりある握力など思い出してしまって眠れなくなるため、横向きかうつ伏せで寝ることが増えた。
顎の下に敷いた腕をちょっと伸ばしてやれば小松くんに届く。
頭で思ったときには、既に小松くんの顔に手の形をした影がかかっていた。
小松くんはぎょっと目を剥いて、転がるように椅子をおりた。
「あー! 今してたのに!」
レンズをこちらに向けて悔しそうに叫ぶのを聞きながら、勝手に動いた手をまじまじと見つめる。
ボクは今、何をしようとした?
「今みたいに、ほんっとになんでもない、ふとした瞬間に出てくるんですよー! その顔するならするって言ってくださいよココさん!」
「解ってたらキミにカメラマン頼まないよ」
「……ごもっともです」
小松くんの怒り肩がしゅんと萎む。
このままずるずると時間を浪費していくのもいいが、すごい顔とやらを一秒でも早く自覚して根絶してしまいたい。
机に軽く腰掛け、また勝手に動き出さぬよう腕を組む。
「いつ出てくるか分からないなら、会話とかで引き出してみたら? カメラマンの腕の見せ所だよ小松くん」
「ボク、本業料理人ですけど……」
最初の勢いはどこへやら、小松くんの声は弱々しい。難解すぎるシャッターチャンスに心が折れかかっているのだろう、このままでは帰ると言い出しかねない。
異常は早期発見速やかに除去したいが、取り除くべき異常に自覚がない今、小松くんに帰られては困る。しかし、あからさまに「帰るな」と言うのは不自然ではないか。
何かうまいこと引き留められる手はないものか。片膝を折って抱え、冷静に物事を考えるため視線は床へ。
かしゃりと聞こえた。
「また、おかしな顔をしていたかな」
「いいえ。今はしてませんでした」
「それなら、どうして撮ったんだい」
答えがない。首を横に向けると、レンズがこちらを見ていた。
「教えてくれなきゃ分からないよ小松くん」
腕を解いて尻の後ろに引き、体重を手に預ける。かしゃりと鳴る。レンズの向こうの目は画面に夢中なようで、頬が少し赤い。
「話しかけても無視するなんて、いくらキミとボクの仲でも無礼にあたると思うけどな」
指先に当たったものをなんとなく手に取る。米の一粒も汁一滴も残さず食べ終えた皿だ。
小松くんが使った皿で顔を半分隠し、片目だけでレンズを睨む。かしゃりと鳴る。
「友人から無言でシャッターを押され続けても、キミは平気なのか」
皿を重ねて離れたところに置き、天板に踵をかけていた方の膝の裏に手を添えて脚を持ち上げると、かしゃりと鳴る。
「それならボクも今度やってあげよう。キミの笑い顔や、食べているときの顔なんかを撮ってやりたいと思っていたところさ」
一旦視線を外す。見せつけるつもりでゆったりと脚を組み、そこへ交差した腕を置いて腰を畳む。
「文句ないだろ? カメラマンさん」
目線をレンズに戻すと、かしゃりと鳴った。
「あの、ココさん」
「ん……なんだい小松くん」
「ココさんって、写真撮られるのお嫌いなのかと思ってました。メディア露出少ないし」
「ああ、そのこと」
小松くんが退屈しないようポーズを取っていたのがバレたらしい。露骨にやりすぎたと心の中で反省しつつ、小松くんが立つ側の椅子を45°回して座り、机に置いた片肘で頬杖ついてお答えしよう。
かしゃりと鳴ったのを左耳が捉える。
目線をレンズにやって、意識して微笑みかける。かしゃりと鳴った。
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ボクの記憶の中で、レンズの向こうにある人の目というのは、いつも実験動物を見る研究者のものだった。
カメラマンは防護服をしっかり身に着け、対するボクは紐ひとつの結び解きで脱ぎ着ができる服で、撮影場所は床から壁まで真っ白な隔離室の中。それとたまにベッドの上。体の調子について質問が投げかけられるけれど、咳や嘔吐で腫れ上がって塞ぎかかっている気道ではまともに答えられもしない。幻覚症状のある毒を服用したときは、たくさんの目玉を持つ化け物に囲まれている気がして最悪だった。
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「うん。嫌いだよ」
一言だけ答え、額に垂れる髪をなで上げる。シャッター音はしなかった。
「ボク、すごく無神経なことしてたんですね」
今日のカメラマンは、まるで自分が辛い目にあったかのように悲しい顔をする。ボクが知るカメラマンの中に、誰もそんな顔するやつはいなかった。
「何も言わずに撮るなんて、無神経じゃなくてなんなのさ。どういうつもりでシャッターを押していたのか、聞かせてもらえるかい」
椅子をさらに45°回し、肩をすくめるように手の平を差し出す。
レンズは床を見ており、小松くんは悲しい顔のまま黙っている。言葉を組み立てているところなのだろう。ボクは姿勢を崩さずじっと待った。
しばらくして、小松くんは意を決したように息を吸った。
「撮ろう、撮ろうって思って見ていて気が付いたんですけど、ココさんのすごい顔って、ボクがなにか特別なことをしなくても出てくるんです。
これは、ココさんっていう人がもつ個性みたいなものなのかもしれないなって思いました。
だったら余計なことしないで、ココさんがココさんらしく、自分の意志で動いているところを撮れば、自然と撮れる気がしたんです。
……あっ、最初はかっこいいなーって思ったから撮りましたけど」
鏡が無いので確認できないが、客商売で培った鉄壁の微笑みは無残にも崩れ去ったはずだ。
ボクがポージングをとっている間、小松くんはずっとボクのことを考えていたと言う。どうしたらすごい顔とやらが撮れるのかに頭を悩ませ、ボクが指図されることなくやった一挙手一投足から目を離さず、シャッター音を鳴らしていた。
小松くんは愛してやまない食材や包丁、フライパンをキッチンに置いて、ココという人間と真面目に向き合っていたのだ。
このカメラマンはどこまでボクを喜ばせるつもりなのだろう。
「まるでカメラマンみたいなことを言うんだね。小松くん」
静かに椅子を立ち、カメラマンへと近付く。
防護マスクを剥いで、かさかさした顔を手に滲む毒で潤してやろうか。強化ガラスをぶち割り、息も絶え絶えの体から発せられているとかいう有害な気体をプレゼントしてやろうか。グルメ細胞にエネルギーを吸われて枯れ枝のようになった腕を、レンズの向こう側へ何度伸ばそうとしたか分からない。
勝手に腕が動いた先程と違い、明確な意思をもって手を伸ばす。
小松くんに触りたい。あたたかい電磁波を発する体温を抱きしめたい。息をすると心臓がじくじくと疼いた。
此処から先は毒の1mlも出すことが許されない。レンズの向こう側へ手を侵入させたとき、カメラがシャッターではない音を鳴らして振動した。
「トリコさんからです」
すみませんと早口で言い、小松くんはボクから離れて携帯電話を耳に当てた。
ボクは頬を包むつもりで丸めていた指を握りしめた。
「はい、もしもし──ってハント!? 今からですか!?」
うっすら聞こえるトリコの声によると、リーパーヒクイドリの若鳥と卵が狙いらしい。樹齢100近い巨木をひと蹴りで粉砕する強靭な脚力を持ち、最大35メートルの体躯に見合わぬ機動力で獲物の命が尽きるまで追いかけ回してくるという。巨大な鎌状の鋭い爪のついた脚から繰り出される蹴りは喰らえばまず助からない。成体は筋肉の塊で筋っぽくて食えないが、10メートル手前の若鳥と米俵サイズの卵は美味である。以上、電話口のトリコによる説明終わり。
蹴られたら内臓をぶちまけるどころかスライスされちまうぞと危険性を説かれ、小松くんはぎゃあぎゃあ叫ぶ。しかし、電磁波は行くつもりでいる。
ボクは素早く携帯電話を取り上げた。
「小松くんは今日一日忙しいんだ。一人で行け」
「ん? ココもいるのk」
通話終了。電話口で何か言いかけていたのは無視した。うんともすんとも言わなくなった携帯をいじってカメラを起動し、小松くんに突き返す。
「今日一日だけ小松くんはボクの……密着カメラマンやるって言ったろ」
かしゃりと鳴った。
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だいたい見せたい顔は撮れたと言う小松くんとキッチンに立ち、出来上がった夕食を机に並べた。主食に主菜、副菜、汁物がきちんと別の皿に盛られており、昼食と違って見た目も綺麗だ。
小松くんは美味しい、美味しいと食指を進めているが、ボクは渡された携帯電話の画面に気を取られてそれどころじゃない。
「ボクってこんな顔できたんだ。知らなかったな」
焦がした砂糖をメープルシロップ漬けにしたものを口に突っ込まれた心地になる蕩けきった目尻に、笑っているのかなんなのかよく分からない形に唇を歪めた横顔。
飢えて涎を垂らす肉食獣のごとく暗くぎらついた眼差しに、口元だけを吊り上げた不気味な薄ら笑いで包丁を握るボク。
この世でいちばん美しい景色を見つけたぞと言わんばかりに瞳を潤わせ、緩む頬をどうにもできないのに、泣くのを堪えるように唇を引き結んで手を伸ばすボク。
瞼を気持ち下げたせいで目に光が入らず、緩むところのない表情筋がそのまま余裕の無さを表している正面の顔。
根絶するつもりでいたそれらを目の当たりにして頭を抱えた。恋愛相談に来る客にそっくりだ。
「小松くん」
口に入れたものを慌てて飲み込む、少し苦しそうな返事があった。
「この顔見てて、小松くんはどう思った?」
「どう、と言いますと」
「気持ち悪いとか、怖いとか……そういうのだよ」
ちょっと走ったくらいじゃ乱れない心拍が、両手に橦木を持った人が大勢集まってトチ狂ったように連打しているレベルで早鐘を打つ。
「うーん、なんていったらいいか……ドキッとすることはあります」
小松くんはスープを一口含んだ。
「ココさんって、ボクのこと……どう思ってるんだろうなーって」
「そう。じゃあ、ボクが小松くんのことどう思ってるか、予想を聞かせてもらえるかい」
バゲットをちぎって食べていた小松が激しく噎せるのを聞いた。飲み物を勧めて落ち着くのを待ち、今度は顔を見て再度聞いてみると、小松くんは頬を赤らめて視線を泳がせた。
「好き、なのかな……と予想しました」
ボクも概ね同じ意見だ。
開口一番でぶつけられた言葉に翻弄されていつもしないミスをした。小松くんについて思案すると、他人の手で思うままに捏ね回されるように胸が苦しくなる。そして小松くんに撮られたすごい顔。これだけ材料が揃っていて、そのうえ素材の味を活かす彼にまで言われては、もはや認める他ない。
「もしそうだとしたら、小松くんはイヤかい?」
「べつに、イヤとは言ってません」
何もない床を見ているが、小松くんの言葉に嘘はないと電磁波が言っている。
「小松くん。キミ、案外洞察力あるよね」
伸ばした手は、今度こそあたたかい電磁波の発生源に触れた。