白菜と鶏ひき肉のそぼろ煮つい先日、目金さんが退院したらしい。
雷門中サッカー部監督の座を退いてからも度々選手達を気にかけ様子を見に来てくれる久遠監督と交わす世間話の最中、音無はそれを事後報告という形で知らされた。
目金さんが入院したと知らされた時は、その原因を聞き心底呆れながらもお見舞いに行くつもりでお見舞い品も用意はしていた。しかし、それを生徒たちに託したきりで結局目金さんのもとに行っていなかったと久遠監督を見送った後音無は一人考える。お見舞いに来なかったからといってとやかく言う人では無いと分かってはいるが、何もしないのは気が引ける。せめて快気祝いはしようと音無は近場で人気の洋菓子店でお菓子の詰め合わせを購入しアジトへと足を運んだ。薄暗いゲームセンターの奥にある扉を開くと、そこにはメガネハッカーズの一員である漫画萌__萌さんがいた。
「やあ音無さん。もしかして目金君に会いに来たのかい?」
PCの前に座りタブレット端末でイラストを描いていたらしい萌さんは此方の存在に気付くと柔和な笑みを浮かべて音無の目的を間髪入れずに言い当てた。
「ええ、そのつもりで来たんですけど……芸夢さんもいないんですね」
「二人とも今は家で療養中だからね」
萌さんは笑みを携えたまま眉を八の字にし『呆れています』といったポーズを取って見せる。
「目金君は退院したとはいえ体に蓄積したダメージは回復しきっていないし、ゲームきも目金君ほどじゃないけど相当無茶をしていたからさ。それで大事を取って数日の間メガネハッカーズの仕事は休もうって話になったんだよ」
「萌さんは休まなくて大丈夫なんですか?」
「僕?いやだなあ、あの二人に合わせていたら体がいくつあっても足りやしないさ。適度に手を抜かせてもらっていたんだよ」
「そもそも、僕が任されていたタスクはとっくの昔に終わらせていたしね」と、茶目っ気溢れる笑顔で萌さんはそう語る。
「という訳で、僕はここに訪れた人達にメガネハッカーズはお休み中ですって教えるためにこうして一人アジトにいるのさ。漫画家は執筆環境さえあればどこでも仕事が出来るからね」
「そうだったんですね。教えてくれて有り難うございます」
「いやいや、どうって事ないさ。……とは言え、まさか本当にここへ来る人がいるとは思っていなかったけどね。そうだ、もし良かったら目金君に直接顔を見せてあげてくれないかい?彼、休みなのを良い事に昼夜逆転生活を送っているみたいでさ。こういうのは音無さんに叱られたほうが目金君も堪えるだろうから」
そのお菓子も直接渡してあげればいいと笑い萌さんはタブレットに向き直る。音無は萌さんに礼を言い、アジトを後にした。
さて、萌さんからああ言われたもののどうしようかと音無は行き先を決めずに歩みを進める。今日はこのまま帰り後日祝いの品を渡してもいいのだが、目金さんはちゃんとした食事を取っているのかと我ながらお節介な疑問が脳裏に過ぎる。そもそも、今回入院する羽目になったのは限定フィギュアが手に入らなかったショックで食事がのどを通らなかった、なんて馬鹿げた理由が原因だ。入院中はフィギュアを渡すまでずっとベッドの上でうなされていたと生徒達から聞いているし、もしかすると点滴で栄養を取っていたのかもしれない。そんな弱った体に適した食事を目金さんは取れているのだろうか。
考えを巡らせながら黙々と歩いていると、音無の視界の端にスーパーが映り込んだ。自然と足が止まり、暫くの間入り口を見つめる。入るかどうか悩んだが、こうして立ち止まってしまった事が答えも同然だろう。音無は自身のお節介さに呆れたように溜め息をつき、けれど口角が緩く持ち上がっているのを自覚しながら、店内へと足を踏み入れた。
▽
スーパーでの買い物を済ませ、音無は迷いなき足取りで目金さんの家へと歩みを進める。メガネハッカーズにアジトが出来る以前、彼らが集う場として使われていたのは目金さんが借りたアパートの一室だった。当時、久遠監督からのお使いでよく足を運んだものだと懐かしい記憶に耽るうちに、いつの間にか目金さんの家の前に辿り着いていた。
インターホンを押してみたもののやはり反応は無く、少しの間悩んだ末音無はキーケースに付けていたスペアキーを手に取り、そっと家の中へと足を踏み入れる。申し訳程度に「お邪魔しますよー」と声をかけるがそれに応える声は聞こえてこない。玄関には目金さんの靴が一足置かれたままなので出かけている訳ではない筈だと、音無は開きっぱなしになっていた目金さんの自室をそおっと覗きこむ。すると家主である目金さんが机に突っ伏し静かに寝息を立てる姿がそこに在った。推測するまでもなく、長らく消化出来ていなかったアニメやそれに類ずるコンテンツを寝る間を惜しんで消化していた結果だろう。音無はふう、とため息をつきキッチンへと向かう。
男の一人暮らしにしては綺麗な、長らく住んでいる家にしては使った形跡が無さすぎる殺風景な調理場に音無は買い込んだ袋をどさりと置いた。袋から材料を取り出し、念のため戸棚に何か使えそうな調味料がないか探してみると、新品同然の小さなサラダ油が見つかった。目玉焼きくらいはたまに作っているのかもしれないと想像しながら、これは使わせてもらおうと調理台の上に油を置く。他に何か無いかと調理器具置き場辺りも探ってみると包丁と手ごろのサイズの鍋がそこにあった。鍋の方は長らく使われていないのか少し埃っぽかったため、軽く水で洗う。
それにしても、あの目金さんが鍋や調理器具を買い揃えているだなんてと、音無は感心する。しかし、
(そういえば、何年か前にお鍋くらいは家に置いてくださいって目金さんに言った事があったわね)
それが自分の言葉がきっかけで購入されたものだと思い当たり、音無はくすりと笑みをこぼす。
数年前の目金さんは今以上に生活習慣が乱れていて、見ているこっちの具合が悪くなりそうな程であった。その乱れた生活が原因で、入院するまではいかなかったが目金さんは満足に身体を動かせない程に体調を崩してしまったことがある。当時の目金さんはレトルト食品とサプリで体調不良を乗り越えようとしていて、その余りにも杜撰な体の管理を黙ってみていられなかった音無は、つい目金さんの家に乗り込み今日の様に病人食を作ったのである。
その時は鍋はおろかまな板すら家に置いておらず、これでどうやって生活しているのだと驚き呆れたものだ。そんな目金さんの家に今はまな板も鍋もある。少し探してみるとお玉も見つかり、本当に良く揃えたものだと心中で目金さんを褒め称える。なので、軽量スプーンやカップが無いのはご愛敬だろう。
鍋をすすいだついでに包丁とお玉も水洗いし、すぐに使う包丁と鍋はタオルで水気を拭き取って出番まで時間のあるお玉は暫し水切り台に置いておく。ざくざくと白菜を切り、まな板の端へと寄せていく。芯に近い部分は細く切った方が良いのだろうかと考えがよぎったが、どうせ柔らかくなるまで煮込むからこのままでいいでしょうとざく切りのまま切り進める。鍋に油を敷き、鶏ひき肉を入れて炒めていく。ひき肉の色が変わった頃合いで白菜も鍋へ投下する。火が通るまで軽く炒め、塩、醬油、水、粉末だしの順で鍋へと入れていく。本当は水ではなく料理酒が良かったのだが、この家にそんなものは無い為諦めるしかない。浮き出て来た灰汁を掬い続け、十分ほど煮込んだら火を止め水に溶かした片栗粉を注ぎ入れる。お玉で鍋の中身を混ぜ、小皿に少し移し入れる。
「……まあ、こんなものね」
少し薄味な気もしたが、病人食なのだからこんなものだろうと自身を納得させ鍋の蓋を閉じた。目的は果たしたのでメモ書きを残してこのまま帰っても良かったのだが、もしかすると目金さんはこの料理に気付かない恐れがある。ここまで来たら最後まで世話を焼いてしまおうと音無は食器類の準備をし、目金さんを起こしに部屋へと向かう。
「目金さん。目金さーん。起きてくださーい」
音無は来たときと同じ姿勢で寝ていた目金さんの肩をゆさゆさと揺らす。
「んぇ、んー?」
急に起こされて頭が回っていないのか目金さんはのっそりと顔を上げ、ぼんやりとした様子で真っ暗なディスプレイを眺める。すると画面越しに映る人影に気付いたのか、目金さんは机に置いていた眼鏡をかけ、こちらへ振り返り「うわあ!?」と大きな声をあげる。
「お、おおお、音無さん!?」
「おはようございます目金さん。なんて、もうお昼も過ぎて夕方に近い時間ですけど。あ、これお土産のお菓子です。皆さんと一緒に食べて下さいね」
「え、あ。有難うございます。……え、何で音無さんがここに」
「ふふっ、それはリビングでお話しますね」
早く来てくださいよ、と声をかけ先に台所へと戻る。準備しておいたボウル皿に先程作った煮込み料理を注ぎ、ダイニングテーブルの上へと置く。軽く顔を洗ってきたのか前髪が少し濡れた状態で目金さんがリビングへと足を踏み入れる。
「はい。お腹が空いていなくても食べきれる位の量しか入れていませんから。温かいうちに食べちゃって下さい」
「……へ、え?」
目金さんはテーブルの上に置かれた料理を驚いたように凝視し、その目が此方へと向けられ、再び料理へと向けられる。その一連の動作を三度ほど繰り返し、徐々に冷めて行く料理にようやく気が回ったのか恐々と席に着き「……いただきます」と手を合わす。
「はい、召し上がれ」
目金さんの向かいの席に座り、音無はその食事風景をじっと見つめる。目金さんは何かを言いたそうに此方を見てきたが、何も発する事なくスプーンを手に取り白菜を口へと運んだ。一口入れた途端、目金さんは「ぁ~……」としみじみとした声をあげる。きっと今の今までこの手の体に優しい食事を摂っていなかったのだろう。お節介を焼いて良かったと音無は満足気に笑みを浮かべる。
「目金さん、美味しいですか?」
「はい、とても。和食というのはどうしてこうも体に染み渡るのですかね。……って、そうじゃなくて!何で音無さんがここに居て、僕に手料理を振る舞ってくれているのですか!」
食事を口にした事で完全に目が覚めたのか、起きてからずっと気になっていたのであろう疑問を目金さんは問いかける。
「ただのお節介ですよ。目金さんの事だから、退院して直ぐにバランス栄養食みたいなものばかり食べているんじゃないかと思って」
「それは、その通りですが……」
図星を突かれたからか、目金さんは分かりやすく背中を丸め気まずそうにボソボソと口籠る。
「それに、以前にもこうしてご飯を作りに来てたじゃないですか。今更ですよ」
「……女性が一人身の成人男性の家に料理を作りに来るって、良くない見られ方をしてしまうのでは」
「それを気にするなら、私に心配されないような振る舞いをして下さい」
そう歌う様に告げると、目金さんは「うぐう…」と見事なぐうの音をあげ、何も言い返せなくなったのか黙って料理を口に運ぶ。黙々と料理は食べ進められ、三分の一程食べ終わったタイミングでそういえば目金さんに直接話していなかったなと今騒動のきっかけとなったゲームに纏わる話を目金さんに共有する事にした。
「ところで、この間完成した新作のゲーム好評みたいですね。うちの生徒達もあのゲームに夢中みたいで、学校に持ち込む子まで現れちゃって。もう大変なんですよ」
「おや、音無さんのお世話になったお客様まで出て来ましたか。お陰様で『幕末!サムライファイターズZ!』は想定を上回る売り上げを見せていましてねえ。コアなファン層狙いでは無いゲームだったので初週は緊張しましたが、いざ発売されてみれば好評に次ぐ好評!嬉しい悲鳴とはこの事をいうのでしょうね」
まっ、メガネハッカーズ渾身の一作ですので当然の結果ではありますが!と胸を張りお手本の様なドヤ顔を見せる目金さんに食事の手が止まっていることを指摘し、音無は生徒達の反応を思い返す。
目金さんが語る様に、サムライファイターズというゲームは普段は大衆向けゲームでしか遊ばないような子供達の間でも流行っているらしく、没収したゲームの中身がサムライファイターズであった回数は既に二桁に上っている。そういえば、この間お見舞いに行ってもらった天馬君達もそのゲームに関心を持っていたような、と音無はその時の事を目金さんに尋ねる。
「そう言えば。あの子たちがお見舞いに行った時はどんな話をしたんですか?目金さんに用事があったみたいですけど」
「特に何も話していませんよ。僕はプリティレイナちゃんのフィギュアを貰ったお礼に坂本龍馬の写真を渡しただけですから」
「ええっ!?坂本龍馬の写真って一体何処でそんなもの……いえ、それよりも。あの子達はそんな貴重な品を、一体何の為に使ったんですか?」
「さあ。どうするつもりなのかは聞かなかったので」
僕はあの時プリティレイナちゃんに夢中でしたしね。と楽しげに笑う目金さんに音無は思わず肩を落とす。
目金さんが時折垣間見せる無関心さは今に始まった事ではないが、歴史館に納められるような貴重な資料の使い道を聞かずに渡すなんて、流石に関心を持たなさ過ぎるとすっかり重くなった頭を右手で支える。
(そもそも、プリティレイナの限定フィギュアを用意したのは私で、天馬君達にはそれを持って行ってもらっただけなのに)
そう心中でぼやきつつも、細かな事を指摘しても仕方がないと気持ちを静め、「もう少しあの子たちに興味を持ってあげてもいいんじゃないですか?」とやんわりと諭すに留めた。
「革命を終えた今となっては僕と彼らの関係は現役雷門サッカー部員とそのOBでしかないですからねえ」
「それはそうかもしれないけれど、目金さんと雷門サッカー部の皆はOBと現役部員の関係である以上に、共に革命を成し遂げた仲間でもあるんですよ」
「そう言われましても、彼らの先生である音無さんと部外者の僕では気の持ちようは違いますよ」
目金さんは悪びれる様子もなくやけに冷静にそう語った。確かに彼の言う通り、雷門サッカー部の皆の為ではなく中学サッカーそのものの為に革命を推し進めていた目金さんと、先生という立場から彼らを見守り続けてきた音無とでは見え方は違うのだろう。それでも、昔からの仲間として、目金さんにも今の中学サッカー界を支える雷門中の皆にもっと関心を持ってほしいという思いを、音無は拭いきれなかった。
どうすれば彼らに興味を持ってくれるだろうか。そんなことを考えながら思案を巡らせていた、その時だった。
「では聞きますが、革命後の雷門サッカー部は一体どんな様子なのですか?」
口を閉じ考え込む様子から彼なりに何かを感じ取ったのか、スプーンを机に置いてじっと此方を見つめ目金さんはそう尋ねてきた。突然の気の変わり様に驚きながらも、音無は口を開く。
「ええっと、そうね。天馬君を中心としたサッカー部の皆はホーリーロードの後も真剣に練習に取り組んでいて、けれど今までと違って本気のサッカーを楽しんでいるみたい」
大会を終えた後も、サッカー部の皆は何か目標を持っているかのように熱心に練習に励んでいた。特に天馬君は、何か大きな使命を胸に抱えているかのような真剣な表情を見せるのが印象的で、一時は顧問として介入すべきか悩んでいたが、そんな彼をサッカー部の皆で支えている様子も伝わってくる為、音無はあえて深く関わりすぎず、そっと見守ることにしていた。
「それと、ホーリーロードで雷門が優勝してからサッカー部に戻ってきた生徒や新たに関心を持ってくれた子達が現れたんです。新入部員の指導は二年生や三年生達が中心となって頑張っているみたいで、今のサッカー部は十年前のあの頃みたいに活気があふれているんですよ」
「皆本当に楽しそうに、何のしがらみもない自由なサッカーを楽しんでいて、皆の頑張りは報われたんだなって。特に、二年生と三年生の皆は辛い環境の中ずっと耐え続けて本当に頑張ってくれたから、笑顔で過ごしていてくれるのが何よりも嬉しいんです」
中学サッカー界に巻き起こった革命は間違い無く天馬君が居てこその物ではあったが、管理された不自由なサッカー界でもがき続けた二年生と三年生がいてこそ起こし得た革命だ。満足のいく試合が出来ず暗い面持ちで日々を過ごす彼らを見て来た音無にとって、ただ真っ直ぐに自分達のサッカーを楽しむ彼らの笑顔が本当に喜ばしいものであったのだ。
そんな音無の話を黙って聞き続けた目金さんは「ふうん」と関心があるのかないのか分からない相槌を打ち、こう口を開いた。
「なるほどねえ。まあ最近の音無さんは顔色が明るいですもんね。元に戻ったと言いますか」
生徒に関する心労が減って良かったですね。そう呟いて目金さんは料理を口へ運んだ。
何て事の無い平坦な声色で放たれたその一言に、音無は不意を突かれ目を見開いた。
あの目金さんが。人の表情の変化を察知し、相手を気遣うような一言を言った。一見当たり前かのように思えるその振る舞いは、目金さんと長い付き合いをしているからこそ分かる異様で、驚くべき行動で、音無は動揺せずにはいられなかった。
(まさか目金さんがこんな言葉を口にするなんて)
想定外の優しさに何とも言えない気恥ずかしさが込み上げてくる。
今になって思い返せば、大学生になり教育実習を通じて中学サッカー界の現実に初めて目の当たりにした頃、目金さんがやたらとアニメや漫画を勧めてきたことがあった。当時はその勢いに押されて半ば仕方なく目を通したが、もしかするとあれは目金さんなりに自分を元気付けようとしてくれていたのかもしれない。
そう気付いた瞬間、一つ上の兄の不器用な優しさに触れたときのようなくすぐったさを覚えた。けれどそれを悟られるのもどこか気恥ずかしくて、音無は何でもないふりをしていつもの調子で目金さんに言葉を返した。
「あら、目金さんも人の顔色が分かる様になったんですね」
「ちょっと、僕を何だと思っているのですか!」
意地の悪い返しに目金は心外だと言わんばかりに怒りをあらわにし、やけ食いする様に再びスプーンを口に運び入れる。そんないつもの下らない掛け合いに音無はアハハと声をあげて笑った。他愛のないやり取りを繰り返しているうちに皿の中身は空になり、目金さんはスプーンを置き手を合わせた。
「御馳走様でした」
「はい、お粗末様でした。まだお鍋の中にもありますから。休養期間中に食べきっちゃって下さいね」
暗に『インスタント食品ばかり食べないで下さいね』と伝えると、珍しくその意図を正しく汲み取った目金さんは、「肝に銘じますよ」と苦笑いを浮かべる。
「それじゃあ私はこれで」
「ああ、待って下さい。今日の料理の代金を」
「いいですよ、それくらい」
「そういう訳にはいきません。わざわざ家にまで来て作って下さったのですから」
そう言って目金さんは自室へと戻り、暫くした後無地の茶封筒を手に戻ってきた。
「食材の値段の相場はよく分からなかったので、大体の金額ですが」
「はいはい、有難く頂戴しますね」
本当はお金なんて受け取るつもりはなかったが、目金さんとしても渡せないままでは落ち着かないのだろう。これも彼なりの感謝の表し方なのだと受け止め、音無は封筒を貰い受けることにした。
「それではまた」
「ええ、また」
そんな簡素な挨拶を玄関で交わし、音無はアパートを後にする。何と無しに空を見上げると日は西陽の色へ姿を変えていて、体感以上に時間が過ぎていたことに気付く。こんな時間にご飯を食べさせて良かったのだろうか、と一抹の後悔が頭を過ぎるが、食事を惜しんで遊び続けるよりは余程健全だろうと思い直す。
「あ、そういえば」
(あの人いくら包んでくれたんだろう)
何も確認せずに受け取ってしまったが額によってはお返しをしなければならないと、行儀が悪いと理解しながらも音無は道の端に寄り封筒を開ける。
「……えっ、五千円!?」
簡素な封筒の中から出て来たお札には『5000』の文字が書き記されており、想定を大きく上回るその金額に音無は声をあげて驚きを露わにする。今日目金さんに振舞った料理に掛かった金額は千円を少し越えただけであり、明らかに貰いすぎている。今からでも引き返してお金を返した方が良いのではとアパートに向かって振り返るが、別に良いかと考えを改め封筒をカバンに仕舞い帰路へ就く。
目金さんはまた自身の体を管理出来ず体調を崩すだろうし、自分もまた懲りずに目金さんを心配して今日の様に料理を作りに行くのだろう。その時に今日頂いたお金で材料を買い揃えよう。
何処かおかしな話の様な気もするが、誰かに咎められる理由も無い。私とあの人の関係は、これくらいの距離感がきっと丁度良いのだ。
音無はそう結論付けて、軽い足取りで歩みを進めるのであった。