【贅沢で深刻な悩み】一斗は、Domの本能を__兄への情欲を抱えた自分を押し殺して生きてきた。一度過ちを犯した自分が兄に想いを告げるなど、許されるはずがない。そう己を罰し続け、せめて兄が一人の自立したSubとして幸せを掴めるよう努めてきた。
だがある日、兄は一斗の全てを受け入れ、正式なパートナーとして受け入れてくれたのだ。それは、一斗にとって予想だにしない出来事であった。ダイナミクスの欲求を満たす為に正式にパートナー契約を結ぶ__そんな未来を夢想したことはあった。しかし、まさかDomとしての苛烈な支配欲や、人としての邪な思いすら受け入れてもらえるなんて考えたことすら無かった。兄は、決して一斗と同じ気持ちを抱いているわけでは無い。けれども、打ち明けることすら許されぬはずの想いを受け止めてもらえた。それだけで一斗は十分過ぎるほどに幸せだった。
以来、一斗は長らく蓋をしてきた欲望を少しずつ表に出すようになった。
例えば、兄の食事のほとんどを自分が管理したり、身に着ける服をすべて用意したり、了承を得て互いの位置情報を共有するアプリを入れたり。
かつては"どうされたいか"と尋ねることに徹していたが、今では"こうしたい"と自分の望みを言えるようになったのだ。兄はその変化に驚きながらも、一斗の頼みをすべて受け入れてくれた。
そうして日々が積み重なり、兄は次第に弟に甘やかされることに慣れ、リラックスした顔を見せるようになった。また一斗はさらに尽くし、兄はそれを受け入れる__その循環を繰り返すうちに、一斗の生活はすっかり兄を中心に回るようになっていた。
そんな毎日を過ごしていたある日。不意に一斗は、ある現実に気が付いた。
「……あれ。僕これ会社勤めとか絶対に無理じゃない?」
【贅沢で深刻な悩み】
「何で今更気づいちゃったんだろう……。そうだよ、就職したら一日の半分は兄貴と離れ離れだし残業とかあったらもっと長く会えないじゃん。そんなの絶対に無理だって。え?どうすんのさこれ」
気づきたくなかった事実を突きつけられたように、一斗はリビングで頭を抱え、大きな独り言をこぼす。
元より、一斗は大学生活中に兄のSubとして抱えるコンプレックスを限りなくゼロにすることを目標に掲げていた。兄の中にあるSubの欲求を緩和させ、自分ではない他のDomとのプレイを出来るようサポートする。その様に動き続けていた一斗は、社会人になる頃には兄との疑似的なパートナー関係は解消されているものと決めつけていた。例え関係が続いていたとしても、家族が週末に顔を合わせて近況報告をするような、ごく普通の健全な距離感になっているものだと思い込んでいた。しかし、現実は真逆で、一斗は兄との契約は解消するどころか正式にパートナー契約を結ぶこととなった上に、兄のSubの欲求を緩和させるどころか一斗のDomとしての欲求が爆発してしまっているのが現状であるのだが。
閑話休題。
つまり一斗は、兄から離れた後の自分を想定しながら大学三年の六月まで就職活動を続けてきたのだ。希望の業種も固まり、ビジョンも描き、短期インターンにも参加し、面接練習にすら手を伸ばしていた。ところがここに来て"Subの管理がし辛くなるから会社勤めはしたくない"という馬鹿げた願望に囚われてしまった。
「いやいやいや、これ本当にどうするのさ。え、僕どんな業務形態なら働けるの?在宅?文系なのに?兄貴みたいにIT関係のスキルがあるならまだしも僕そんなの持ってないよ……」
フルタイムで会社勤めをする前提で資格勉強等を行っていたのに、ここに来て浮上する"フルリモートワーク対応会社への就職"という道。IT系ならまだしも文系で、それも社会人経験のない新卒にフルリモートで働ける職種などあるのだろうかと、一斗はクッションに顔を埋めてソファへ沈む。
「一斗―、今日のおやつはー……って、昼寝中かい?」
そんな現実逃避の最中、仕事部屋に籠っていた兄の声が聞こえてきた。クッションをどかし、ソファに寝ころんだまま目線だけで兄の姿を探す。すると兄は一斗が湯がいた後冷水に入れたまま放置していた白玉の存在に気付いたらしく、キッチンの流しに立ちながら「今日も随分と凝ったおやつを用意したね」と感心していた。
「ううぅ、兄貴ぃー……」
「うわ、情けない声。……あーあーあー、一体どうしたんだいそんなぐずぐずの顔をして」
どうにもならない問題に頭を抱えていたところに精神的支柱が現れ、一斗は気が緩み子供のようにぐすぐすと泣き出してしまう。そんな弟の振る舞いに慣れたものだと言わんばかりに兄はティッシュボックスを片手に一斗に近づいてくる。ソファの傍に座り込んだ兄に少し乱暴な手付きで目元と鼻の周りを拭かれた後、未使用のティッシュを複数枚顔に押し付けられる。それを手に取り未だ流れ続ける涙を抑えながら一斗は兄に弱音を吐いた。
「兄貴……僕は一体どんな会社に就職すればいいのかな」
「随分と唐突だね。どんな会社って言ったって、一斗はずっと企業セミナーや短期インターンに参加していたじゃないか。どうして今になってそんなことを言い出したんだい?」
当然の問いに、一斗は素直に「兄貴と離れてまで会社に行きたくない」「兄貴の動向を把握できなくなるのが辛い」とDomとしての欲求を言葉に表した。
「成程ねえ。元々は僕と距離を置くつもりだったのに、その正反対の結果になったから想定外の欲が湧いてきたと。ま、僕としては想像出来た話ではあるかな。最近僕に出すおやつも日に日に手の込んだものになってたし。それで、今日は何を出してくれるつもりだったんだい?」
「……前に作ったあんこの残りが冷凍庫にあるから、白玉あんみつでも作ろうかなって」
「それ日常的に振る舞うおやつの枠を超えて無いかい?一斗のその熱意は一体どこから湧いてくるのか、全然理解出来ないね。何度でも言うけど僕は市販のおやつで構わないし、そもそもおやつなんか用意しなくていいんだけど」
「僕がやりたいからやってるだけだし……」
おやつなんか用意しなくていい、という兄の言葉に拗ねた声をだすと「あっそ」とそっけない返事が返ってきた。
兄の食事を管理するにあたって、一斗は"兄が口にする食べ物は出来る限り自分が手作りした物にしたい"という欲求を抱く様になった。勿論、兄が好む市販のおやつはいつでも兄が好きなタイミングで食べられるように、定期的に購入し収納棚へストックしてある。しかし、出来る限り兄には自分の作った物を食べて欲しい。作った物を美味しいと言って食べて欲しい。そんな願望を抱えた末、一斗は兄に手の込んだ料理を振る舞うようになったのだ。
とは言え、一斗自身"やりすぎではないか"と思う事は多々あるが、兄がそれを許してくれるので、つい一斗は張り切り過ぎてしまうのだ。
「それで?会社に行きたくないってことは就職はしないのかい?一斗一人くらいなら養えるし僕はそれでも構わないけど」
「それだけは嫌!」
専業主夫として兄に養われる姿を想像し、一斗は即座に反発する。確かに兄はこの年にしてはそれなりの額を稼いでいるらしいが、幾ら稼ぎに余裕があるからと言ってDomである自分がSubの兄に養われるのは到底プライドが許さなかった。
「そんなに嫌がることは無いじゃないか。うーん、それなら在宅勤務が出来る会社に勤めるのが現実的じゃないかい?」
「そんなの、僕の手には届かない大手以外ないでしょ絶対。僕文系だよ?」
「別に大手じゃなくてもそれなりに対応している会社はあるはずさ。フルリモートの短期インターンを受け付けている総合事務とかもあるらしいし」
総合事務、という思いがけない職種の名に一斗は考え込む。兄の影響でPC関連の知識は人並み以上に身に付けている自信はある。総合事務の在宅勤務となると、その内定は狭き門である事は想像に容易かったが、今の自分にとって最適解かもしれないと一斗は思えた。
「……そんな人気そうな枠、僕が掴めるかな」
「一斗なら出来るさ。なんせ僕の弟なんだからね。万が一お前の才能を見抜けない企業にしかなかったとしても、メガネハッカーズの事務職担当として雇ってあげるさ」
「ハッカー業で得た利益のマネーロンダリングだとか、怪しい経費の仕分けとかさせられそうだから遠慮しとく」
「んなっ!?そんなこと一斗にさせるわけが無いだろう!そもそもマネーロンダリングとか滅多にしないし!」
したことはあるんだ、と素朴な感想を抱いたが、深入りは危険だと黙ってその言葉を飲み込む。
「……まあ、色々と悩んでいるみたいだけど、そもそも僕は一斗が会社勤めになろうと、在宅勤務になろうと、家の中に閉じこもったりしない。アジトに向かう生活を辞めるつもりは無いよ」
兄は自身の考えを整理するように、ゆっくりと落ち着いた声色で話し始める。
「勿論、一斗が僕のDomとしてそばに居てくれるからこそ、僕は外に出てメガネハッカーズとしての活動が出来ている。だけど、一斗のご機嫌取りの為に家に居続けるのは僕らしく無い。そうだろう?」
同意を求める様に兄にそう尋ねられ、一斗は小さく頷いて見せる。それに満足そうな笑みを浮かべた兄はさらにこう続けた。
「……けど。もし一斗が在宅勤務になって、僕が会いたい時にいつでも会える状態でいてくれるなら、それ以上に嬉しいことはないね」
幸せをかみしめるようなその表情を間近で見て、一斗の口から「ぐうぅっ」と声が漏れ出る。兄の見せた安心し切ったSubの顔。それを見せられたらもう、一斗は決意を固める他なかった。
「あー……僕絶対に在宅勤務出来る会社に就職する。フルリモートは無理でも出社が少ないとこに行くんだ……」
「ま、せいぜい無理せず頑張りなよ。例え一斗がニートになろうとも僕はお前を受け入れるからさ」
「決意を固めた弟に向かってニートになる可能性をちらつかせないでよ!」
冗談にしたって随分と意地悪な事を言う兄に一斗は情けない声を上げる。それを受けた兄は、ケラケラと、大層楽しそうに、声を上げて笑った。