鍾離をの洞天を抜け出し、行く先もなく歩く。かろうじて履いたスラックスと、肩にひっかけただけの真っ白のシャツ。見下ろした自分の体は見慣れた傷しかない。鍾離に直してもらったばかりのまっさらな体。治療の際、ひとつひとつ鍾離の指先が辿っていったその傷たちはもうないはずなのに、隠すように振るえる指先シャツのボタンを留める。
踏みしめた地面に転がる石を感じながら足元を見る。洞天から転がり出た先がどこにつながるのか考える暇もなかった。呆然としたまま辺りを見回す。先ほどから見える木々は黄金に色付き、璃月の地であることは伺える。しかし2人ほどが通れる程度の道は舗装されているともいえず、裸足で歩くような道ではないことだけが確かだ。差し込む光を遮る木の葉が影をつくり道を彩る。木漏れ日の隙間から除く青空は雲一つなく、暖かい。常であれば息をのむ景色だったのかもしれない。けれど、いまのタルタリヤにとって景色がどうなどとは関係無かった。ただ、この道の先を進めば鍾離の視界から少しでも遠くに行けると盲目的に信じているだけだ。足を傷つける小石が意識の端に引っかかっては消えてゆく。
うつらうつらと頭を揺らしながら歩みをすすめる。
「ここら辺じゃないか?」
「パイモン、ちょっとまって…」
ひゅ、と喉が小さな悲鳴を上げる。聞きなれた声、以前ならすぐにでも笑顔を張り付けて駆け寄っていたであろう声。
とっさに道から外れて木の陰に姿を隠す。心音がうるさい。腹の奥に氷を入れられたみたいに一気に体温が下がった気がする。落ち着かないと、と震える息をゆっくり吐き出した。最近癖になってしまったらしい、両手で口を押えていることに気が付いて、もうそんなことする必要ないと慌てて手を話す。宙を漂う行き場のない手が誰に見られてる訳でもないのに隠したくなった。情けない。
「ここら辺だろ?石珀がとれる秘密スポット!」
「どこにヒルチャールとかアビスがいるかもわからないんだから」
「こーんなきれいな場所にいるわけないだろ!」
ほら、ここを探索しよう、とパイモンの小さな手が片手剣を持った旅人の開いた手を引く。二人だけで来たのだろうか、ここはどこだろう、今更な疑問がタルタリヤの脳裏をかすめる。いつもなら、ここで片手を上げて二人の目の前に行けただろう。
やぁ、相棒。久しぶりだね、元気だった?
石珀がまだ足りてないの?この前先生に沢山案内してもらったところだろう…
多分、そんな会話。きっとそれが正解だ。多分素直な子どもたちだから、どうしてそんな恰好で?と聞いてくるに違いない。そうしたら、ちょっと面倒なことに巻き込まれてね、とでもいえばいい。パイモンはきっとそれでごまかされてくれるし、なにかと聡い旅人はそれ以上聞いてくることもないに違いない。ここはどこだろう、璃月の北の方?もしかしたら奥蔵山とか?
そんないつもの自分ができることが、何一つできない。足が震える、袖を握りしめる、呼吸が整わない、表情がひきつる。そんな状態で「公子」の顔をできるわけがない。
どうすれば、そればかりが頭をめぐる。
ざ、と草を踏みしめる音を聞いた。
弾かれるように顔を上げる。
「…公子?」
「おまえ、こんなところでどうしたんだ?」
ちがう、まってくれ相棒。
喉が締め付けられたみたいだ、声が出ない。
「お、おい…おまえそんな恰好で、こんなところにいるなんて変だぞ、大丈夫か…?」
なぁ、と空を浮かぶパイモンがタルタリヤに近づく。目を開いてそれを見つめることしかできないタルタリヤに、旅人がパイモンを止めた。
「…タルタリヤ。落ち着いて」
ひゅ、と喉から引きつった音がした。
「ちがうんだ、あいぼう」
「何が」
「ちが、いや、あ…」
違う、違うと繰り返すタルタリヤの異様な雰囲気にパイモンは息をのむ。タルタリヤが弱っているところは何度か見たことがある、でもこれは明らかにそれとは異なる。狼狽えるパイモンはこういう時頼りになる旅人とタルタリヤの顔を交互に見た。
しかし、旅人も同じことを繰り返すタルタリヤをどうすればいいかわからなかった。いつも兄のような顔をして、時には人懐こい表情を見せる彼と今の彼が結びつかない。来ている服もいつもとは違っていて、そういえば、あの赤いピアスもつけていない。
「何があったの、いえるところまででいいから…」
旅人の言葉に、タルタリヤの動きが止まる。何かを考えているのか、それとも思考が停止したか。判断のつかないぼんやりとした表情を浮かべるタルタリヤは明らかに異常だ。こんな、人気のない場所で、隠れるように木の根元に座り込んでいる。あぁ、そういえば、いつも腰につけている神の目はあるのだろうか。シャツに隠れていてそれを確認することはできない。
「タルタリヤ…」
どうすればいいかもわからず、彼の名を呼ぶことしかできないでいると、突然、ほんとうに突然彼の瞳からぼろりと涙がこぼれた。大きなしずくが一つ、白い頬を伝う。そこからはまるで泉が決壊したみたいだった。ひとつ、ふたつ、みっつと溢れた涙は数えきれないくらいになって、呆然と目を開いたままのタルタリヤは動かない。
とても見ていられるものではなくて、旅人は己の懐から布を取り出して、ゆっくりとタルタリヤに近づく。彼の視界にしっかりと見えるように手を伸ばし、ゆっくりとその頬に布を当てた。
「ひっ」
瞬間、弾かれるようにタルタリヤが体を引いた。ごつ、と大きな音がたって、後頭部を木にぶつけたのだろう、手を頭に回して体を丸めてしまう。
本格的に、まずいことになってる。そうは思うが、どうすることもできない。宙に伸ばした手をさまよわせて旅人は迷う。多分自分が見ていい光景じゃないのだろうな、とそれだけはわかる。けれどこんな場所にタルタリヤを一人残しておくことなんてできない。少し離れた場所で落ち着くのを待った方がいいのだろうか。
そんな時だった。ず、と低い音を立ててタルタリヤの座り込む周囲の地面が動いた。