「違うだろう」
強く顎を掴まれる。布越しの生暖かい体温が嫌にリアルだった。頬の肉が引き攣るような痛みを訴える。人外の腕力で持ち上げられて爪先が浮く。息を詰めて視線を合わせようとするが叶わない。
「…わかってるよ」
かすれた笑い声に乗せてそう言えば、拘束する力が少し緩んだ。
「ごめんって先生。ていうかさ、凡人は片手で人を浮かせられないよ?」
「…それもそうか。悪かった」
「形だけの謝罪はいらない」
そうか、と鍾離が大人しく引き下がり、その腕から解放されたタルタリヤは首に手を添え軽く咳をした。けほ、けほ、と何度か咳き込んでいると再び鍾離の腕が伸びてくる。反射で構えようとするが、ここで下手に振り払うと痛い目を見るのは過去の経験から学習済みだ。その場にぴたりと停止したまま鍾離の手を受け入れる。
「跡が残ってしまった」
まるで惜しんでいるかのような口調。力任せにおもちゃを壊したあとのこどもみたいだ。
何を言うでもなくただ鍾離の瞳を眺めていれば、やがてその瞳が光を帯びる。
人に成り切る気のない石珀が揺れる。蜃気楼のように、染み込むようにあやふやになって、輪郭さえ失い、やがてタルタリヤはそれに包まれる。腹の奥がひんやりするような、吐き気を催すような。とても心地の良いものでは無い。然して拒絶することも許されない。
あぁ全く嫌になる。タルタリヤにはそう感じざるを得ない時間が過ぎた。
「首に違和感は」
「ないよ」
「そうか」
するりと名残惜し無用な手つきで鍾離の手が離れる。先程まで感じていた首の違和感は消えていた。
「もういい?」
「あぁ」
軽く確認を取り、ひとつため息を吐く。それからタルタリヤと鍾離の近くを見渡して、さらにもう一度。まるで癇癪持ちのこどもでも相手にしている気分だった。
「もったいない…」
鍾離を責めるような口調になっても、文句は言われないはずだ。実際鍾離は何も言わなかった。無言でしゃがみこみ、床に拡がった惨状を片付け始める。最後にもうひとつため息を履いてタルタリヤも同じようにしゃがみこんだ。
先程まで湯気を立てていたはずの食事。うつくしいシルエットを持つ高価な食器。鍾離から送られた箸。わざわざ他国から取り寄せたという高価な机と椅子。
それらが乱雑に地面に転がっていた。鍾離が食べたいと言ったから作った故郷の料理も、高級そうな絨毯にシミを残すゴミ同然だ。せっかく美味しそうにできたのに、とはさすがに口に出さなかった。
「……悪かった」
お互い無言で片付けをしていたら、ぽつりと鍾離がつぶやく。タルタリヤはピタリと手を止めて、鍾離を見ることなく返した。
「はは、謝んないでよ」
「……」
「今回も俺が悪い。そうでしょ?違う?」
「それは」
「俺が間違えたから」
鍾離が黙り込む。この惨状を作り上げたのが鍾離とはいえ、その原因を作ったのはタルタリヤだ。それくらいの理解はある。
「そうだよね、タルタリヤは、料理を上手くできたからって先生に自慢するようなことはしないし、上手くできたとしても黙って料理を出すだろうね。褒められたってありがとうって笑うくらいかな。それから箸を上手に持てないし、いつまでたっても上達しない。料理の最中に先生に気を取られて鍋を焦がすこともしないし、刃物で手を怪我することだってしないだろう。もし怪我しても絶対先生には言わない。基本的にプライドの高い男だからね、見栄を張りたくって仕方ないんだ。まぁ、そんなところが先生は好きだったんだろうけ、」
ど、と発する前に、黒い手袋をした手のひらに口を塞がれた。