神域に降りた鬼――これが。
注連縄で結界の張られた古びた本殿を目の前に、高杉は小さな足を止めた。村の、本来なら産土神が祀られている建物だ。信仰が厚く綺麗に整えられているが村の貧しさを反映してか構えは決して立派といえず、強めの嵐が来れば一度で崩れてしまいかねない佇まい。しかしその正面に場違いなほど真新しく頑丈な鉄格子が大量の釘で縫い付けられていた。鉄格子の前にこの時代としてはかなり上等な部類の布団が敷かれている。
――なるほどね。そこに寝ろというわけだ。
満月とはいえ木々に遮られて薄暗く、神社の外はここから見えない。いっそ逃げてしまっても気づかれないのではとすら思う。が、警護の村人が多数待ち構えている気配がある。高杉はサーヴァントである上に生前剣術も皆伝まで修めている。まともな武術を習得していない一般人など敵ではないので簡単に突破できる。……そう、普段なら。
はあ、とため息をついて小さな手をぐーぱーと結んだり開いたりし、宙を殴る真似などしてみる。どういうわけかこの特異点に着いたら子供の姿になっていたのである。宝具もスキルも使えないただの非力な子供である。腰の刀はあっさり奪われたし衣服も剥がされ誰のものかもわからない古着を着せられた。身元の分からぬ迷い仔ならば贄にするには最適だ、と気づけば目の前でそんな話が始まっていてあれよあれよと言うまに境内に閉じ込められていた。
これは奪われなくてよかった、と耳のピアスを小指でつつく。ピピ、と電源が入り雑音混じりに音声が繋がる。
「マスター。聞こえるな?」
『高杉さん! 無事ですか? どこに』
「スエモリというところの神社」
『なんか声高くないですか?』
「それはひとまず置いといてくれたまえ。森くんは?」
『え、なんで知ってるんですか。ここに来てから動かな――』
ビンゴ。通信を切って本殿に向き直る。鉄格子の向こうの気配は夜が更けていっそう濃くなっていた。
ムサシガミ。高杉を神域に放り込んだ爺がそう呼んでいた。もともと祀られていた産土神へ夜の祈祷に訪れて、翌朝首と胴体二つに別れて手水に倒れているということが二件三件と立て続き、誰も寄り付かなくなると神域をはずれて周囲の家人を襲うようになっていった。鬼が憑いたと本殿に鉄格子を嵌めたがおさまらず、月に一度旅人や病人を選んで贄とするようになったらしい。そしていつしかその鬼は、性質に因んでムサシガミと呼ばれた。
「武蔵守と書けば読み方は多少違うが彼の名前の一つになる。が、不名誉極まりないだろ。なんでそんなのに引き寄せられてるんだよ」
七歳までは神のうち、という言葉がある。今の高杉の姿は十かそこらでそれを過ぎているが、その年頃の高杉は疱瘡で生死の境を彷徨っていた。まだ神の側に近かった頃の姿に変わったのはつまりそういうことだ。
「さあ森くん。そこは窮屈だろう。出てきたまえよ」
黒い気配に語りかける。気配の方は高杉を獲物としか認識していない。無理もない。彼の霊基のただ一面が薄っぺらに切り取られてここに在るだけなのだ。もともと英霊は過去の人物の言い伝えや印象の影響が強く、一部の側面だけを抜き出したような存在で確かに本人そのものではない、が。
「首級をあげるだけが君じゃないだろ。書をしたためて茶をたてる側面を併せ持ってこそ君だ。でも闘いを好むその部分も欠かせない」
鉄格子に手を触れる。コゥ、と格子が青白く光を放ち張り巡らされた結界が霧散した。解放された「鬼」は咆哮をあげて力を薙いだ。高杉は平然とそれを身に受ける。槍の形をした風は高杉の首には傷ひとつつけずすり抜けた。