アルビレオの離別4・後編「おひいさん!」
「こらっジュンくん! 今までどこに居たの? ぼくの検査が終わったら迎えに来る約束だったのに!」
艦内を走り回ってようやく日和を見つけ出せたと思えば、まるでジュンが約束を違えたかのように怒り出す日和の態度にガックリと肩を落とす。
ひとまずは良かったと安堵するが、腹が立つことには変わりないので、今までと同じように遠慮せずに悪態をついた。
「オレが行く前にあんたが勝手にフラフラ出歩いたんでしょうがよ。医務室から連絡受けて、すげぇ探したんすよ。……なんだってこんな所に」
ここはアウェイクニング・ミスの艦底部にある機体整備場。破損した戦闘機がメンテナンスを受けたり、出撃待機をする場だ。
通りがかるエンジニアたちが二人に視線を向け、Eveが揃っている、と囁き合って感激しているのが聞こえてくる。それに対して大手を振って笑顔で答える日和に合わせ、ジュンも苦笑しながらペコリと頭を下げた。
「……言っておくけど、みんなには内緒だからね」
「……わかってます」
どこに裏切り者が潜んでいるかわからない今、弱みは見せない方がいい。日和が記憶を失っていることは、Edenのメンバーと診察を担当する医師、その他ごく少数の限られた者だけが知る極秘事項となっている。
日常会話に支障をきたさないように、日和は茨に用意させた自分と関わりのある人間の顔写真やパーソナルデータを全て記憶してしまった……らしい。ジュンが傍を離れていた検査の間、ちょっとした待ち時間などを利用して、だ。
日和の記憶力と、その徹底ぶりは恐ろしさを感じる程だ。だからジュンも普段通りを演じなければ。しかし気負えば気負うほど嘘が苦手なジュンとしては不安になるもので、話しかけられないうちに日和の背を押してそそくさと人の多い整備場を出る。
廊下を歩きながら、ふと日和が手に持っている小さな封筒に目がいった。検査結果の書類か何かだろうか、しかしそれにしてはやけにサイズが小さい。
「おひいさん、それ、何持ってるんです?」
「あぁそうそう、はいこれ。きみの忘れものだね。さっき整備工から預かったんだよね。コックピットに落ちていたからジュンくんに返してほしいって」
「え? ……あぁ〜、写真か。そういやすっかり忘れてました。ありがとうございます」
日和は封筒を手渡すと、ジュンの肩に肘を乗せてもたれかかりながら首をかしげる。
「そういえば昨日貼ってあったよね。一体なんの写真? 中身は見ていないけど……多分ぼくも見たことがあるらしいね。整備工が『からかうのもいいけど程々にしてあげて』って笑っていたね」
「はは……見ます?」
ジュンは受け取った封筒を開封すると、中の写真を取り出して見せた。……あの時、ヤケになったまま破り捨ててしまわないで良かった。またこんな風に、日和と共に眺めることができるのだから。
「ぼくたちの……Edenの集合写真?」
日和はどうやらピンときてはいないようだが、今更その程度のことでいちいちクヨクヨしていられない。ジュンはひとつ頷くと、たわいもない思い出話を語り出す。
「なんの時に撮ったんでしたっけ……確か、別に特別でも何でもない日にあんたが突然言い出してノリで撮ったんです。それをナギ先輩がどっかで買ってきた古い機械で現像してくれて」
「へぇ、データが主流のこの時代に……面白いね」
「なんかナギ先輩の中でその時ブームだったみたいなんですよねぇ。あんたも一緒になって色んな写真を紙に印刷しまくってさ……オレにも何枚か分けてくれたんです。その中から全員が写ってるこの一枚を、無事にEdenに帰れるようにっつー願掛けみたいな感じでコックピットに飾ってます」
「ふふ、ジュンくんったら、可愛いことするね」
「前と同じこと言いやがる……いや、わかってますよ。オレみたいなナリした男が柄じゃないって。だから誰にも言ってなかったし、メンテナンスに出す時はいつも回収していくんすけどねぇ……。昨日はバタバタしちまったし、前にも今みたいに回収し忘れたことがあって。そん時は茨経由で返ってきて、Eden全員にバレてちまって……すげーいじられたんです」
「あっはは、そうだったんだね」
日和は興味深そうに相槌を打ちながらジュンの話に耳を傾ける。茨の資料は短期間で膨大な人間関係を網羅した反面、そういったとりとめのない話や個人的な思い出話までは手が回らなかったようだ。
当然日和と当人しか知らない会話もあるため無理もないことだが、日常会話からボロが出る可能性もある。事情を知る少数のみとしかやり取りをしてこなかったこれまでとは違うのだと、今頃になってジュンにようやくその重みがのしかかってくる。
茨が日和の身の回りの世話をジュンに任せた意図はこういったところにもあるのだろう。もちろん頼まれずとも自ら買って出るつもりであったが、それが認められるかどうかはまた別の話。いくら常に一緒にいたからと言っても、ジュンはカウンセラーでもなんでも無いのだから。
しかし日和が今最も必要としているのは専門家のケアではなく、違和感を抱かせないための共犯者。ちらりと横目で日和を見れば、日和もジュンに視線を向けてスッと目を細めた。
「ジュンくんならぼくと一緒にいた時間も長いはずだよね。知ってる範囲でいいから、フォローをお願いするね」
「……うぃっす」
これはコロニーに帰り着いた後も更に苦労するだろうが、やるしかない、とジュンは腹を括る。二週間の休養期間、なるほど確かに休む暇など無さそうだ。
「さぁ、いつまでも廊下に立ったままでいないで、艦の中を案内してほしいね」
日和はパッと空気を切り替えるようにジュンから離れると、ジュンの腕を引いてステップを踏みながら廊下を再び進みだす。ジュンはよろめきながらもすぐにバランスを取り戻し、次に向かう場所を思案する。
「どうすっかな……食堂になんか食いに行きます? 朝食食ったきりっすよね、腹減ってるんじゃありません?」
「うんうんっ良いね! だけどその前に、さっきこの艦には大浴場があるって聞いたんだよね。ずっとボディシャンプーでしか身を清められていないし、お医者様からも入浴は問題ないって許可も得ているから行ってみたいね」
「あぁ、いいっすねぇ〜。大浴場行くんなら、一旦部屋に戻りましょう。あんた備え付けのシャンプーとか嫌がってたから、自前のセットがあるんです」
「へぇ、それも初耳だね! それじゃあそうしようねっ」
長期的な任務に出ることもあるこの戦艦には、入浴施設も完備されている。ここも先ほどのラウンジと同様、人工重力発生装置により成立している設備だ。
艦内の無機質さとは一風変わって、遠い星の古代帝国を思わせる石造り風の内装、壁際には柱や彫像等の装飾が施され、楽園要塞戦艦の名にふさわしい正に楽園のような空間となっている。
設計の際に凪砂と日和が提案したもので、その拘りように茨はげんなりとしていたが乗組員からは取り分け好評だ。今の日和もおそらく気に入ってくれるだろう。
日和は自分の荷物を全てジュンに持たせると、ワクワクした様子で一足先に脱衣室に入っていった。ジュンは着替えやらシャンプーやらの大荷物を落とさないよう慎重に後を追う。はしゃいでいるのは結構だが、相変わらず日和はジュンに容赦が無い。ため息をつきながら自動ドアをくぐり抜けると弾んだ声が響き渡る。
「わぁ! けっこう広いんだね。ジュンくんジュンくん、ロッカーはどれを使ってもいいの?」
「ええ、自由ですよぉ〜。つうか声がデケェ……他の人の迷惑になるでしょうが」
「今はちょうど誰もいないみたいだから大丈夫! いい時間帯に来られたね」
だったら良いのだが、日和のことだから他に利用者がいたとて声量は変わらないだろうなと苦笑する。
間隔をあけていくつも連なるロッカーの壁に阻まれて日和の姿は見えないが、声はかなり奥から聞こえてくるから浴場の入口に近い場所を選んだのだろう。楽しげな鼻歌を頼りにようやくジュンが日和を見つけ出すと、既にパイロットスーツを脱ぎ始めていた。
「いたいた。もう着替えてんのかよ……少しは待っててくださいよ、おひいさ……、」
シュルシュルという衣擦れの音と共に上着を脱ぎ去った日和の姿を視界に捉えたその瞬間……ジュンは思わず硬直し、その拍子に持っていた荷物を全て床に取り落とした。
ボトン、ガタン! と大きな音が立つ。中にはガラス製の容器などもあったはずだ。割れたような音はしなかったが、驚いた日和が振り向いて上裸姿で駆け寄ってくる。
「ちょっとジュンくん!? ぼくのなんだから丁重に扱ってほしいね! あぁ良かった、全部無事みたい……ジュンくん?」
「あ、んた、それ、」
「……あぁ、これ? ……そっか、ジュンくんは初めて見るんだったね」
恥ずかしげもなく晒された日和の白い肌に走る歪な亀裂。至る所に、見たことのない無数の傷跡がある。
……ジュンを庇った時にできたものに違いなかった。
「……、」
どうして思い至らなかったのだろう。この数日間日和はジュンの前で素肌を晒すことが無かったとはいえ、傷があることなど少し考えればわかっただろうに。顔や手、パイロットスーツで隠れない部位が無傷だったことが奇跡的なくらいだ。
「……これ、このままずっと消えないんすか」
「う〜ん、ぼくはまだ若いし、もしかしたら数年後には薄くなるかもしれないけれど。完全に、とまでは期待しない方が良いかもね。……全く、美しくないね」
「……っ」
「あぁ、言っておくけど、きみの表情のことだね。ぼくは生きている、ちゃんとね。だからこのくらいの傷、どうってことないね」
「……けど!」
どうってことないわけがない。今は塞がっているこれらの傷痕のひとつひとつから鮮血が吹き出して、fineの救助があと一歩遅ければ、きっと日和の命を奪い去ってしまっていた。
恐る恐る震える手を伸ばしてそのひとつにそっと触れてみれば、ジュンの指先がうっすらと凹凸を描く。本来ならジュンに刻まれるはずだった忌々しい傷跡、こんなもの、日和に似つかわしくない。
傷は勲章だなんて、言っていいのは傷を負った本人だけだ。守られた方は、その傷を見て一体どんな顔をすればいい?
言葉を失くしたジュンが強く拳を握りしめ項垂れていると、頭上から呆れたようなわざとらしいため息が落とされた。
「んもう……ジュンくん、きみが今するべきことはなぁに? この傷を見て落ち込むこと? 過ぎ去ってしまった過去を悔やむこと? 違うよね」
「……はい。一刻も早くオレたちにこんな傷を付けやがった黒幕を暴き出して、」
「それも全っ然違うね! きみがすべきことはただひとつ! このぼくのおかげで生きていることを噛みしめて、深く感謝しながらぼくに尽くすことだね! ほらほら、ボーッとしていないできみも早く着替えちゃって、早くぼくにお風呂の使い方を教えること!」
「っ、はぁ!?」
「先に行っているから、バスグッズもちゃんと全部拾ってきてね」
「ちょっ、おひいさん!」
憎々しい程いつも通りの強引さで、日和は浴場へと入っていってしまった。ジュンはしばし唖然としたが、ハッと我に返って慌てて床に散らばった容器などを拾い集めると、日和の隣のロッカーに小走りで向かう。
(大怪我して、記憶も全部失くしちまって、それなのになんであんたの方がそんなに余裕そうなんだ……!)
いつもならそんな日和に毒気を抜かれてしまうのに、今日は流石にそうもいかないらしい。つい苛ついて脱いだパイロットスーツを叩きつけるようにロッカーに投げ入れるが、上手く入ってくれずにバサリと床へ落ち余計に苛立ちが募る。
「……GODDAMN。なにやってんだ、オレ」
「ジュンくんっ! 遅いね!」
「……うぃーっす」
日和の急かすような声が浴場でこだましている。いつまでもジメジメしていたら、また日和の機嫌を損ねるだろう。
重いため息を吐き出しながら緩慢な動作で落ちたスーツを拾い上げ、今度は確実に中へとしまう。ロッカーを閉める際にふと目についた傷ひとつない自らの腕からは視線を背けて、日和の元へ足を急がせた。
◆
その後も日和の気の向くまま振り回されるように艦内を歩き回り、気付けばすっかり夕刻となっていた。昼夜兼用といった形で食事をとるべく、二人は食堂へと赴いた。
食堂、と言っても宇宙空間では調理設備が限られているため、水で戻すフリーズドライ食品や、フードウォーマーで温めたレトルト食品を提供するのみ。きちんとした食事はコロニーに戻るまでお預けだ。
夕食にはまだ少し早い時間だが、ずらりと並んだテーブルには既にちらほらと先客が見受けられる。その中によく見知った後ろ姿を見かけて、近寄っていけば足音で気配に気付いたのか、その二人はフッと顔を上げてこちらを見た。
「おや、お疲れ様です。殿下とジュンも食事ですか」
「お疲れさんです。茨とナギ先輩もっすか。一緒に座ってもいいですか?」
「……もちろん。おいで」
四人掛け用のテーブルを囲んでEdenが再び再集結する。日和はやはり凪砂と話ができるのが嬉しいらしい、既に用意されているAdam二人の分の食事プレートを覗き込みながら談笑し始めた。
そんなことをしていれば、ここでも周囲から安心した様子で温かな視線が向けられる。ありがたいことだが、今のジュンはそれを素直に受け止められずにいた。
……誰も気が付かない、違和感すらも抱かない。日和の記憶がないだなんて。誰も。
「……あ~、オレ、食事もらってきます」
話に夢中になっている日和たちの代わりに、タブレット端末で何かのデータを見ている茨にだけひと声かけてテーブルから離れた。気疲れをしてしまったのかもしれない。わずかな時間でもいい、少し一人になりたかった。
「ん~、良い香りだね。ミネストローネにチキンステーキ……それにカットりんごなんて。全員に振舞われているの? そんな量の生鮮食品を積んで来ていたなんて驚いたね」
「……うん。りんごはEdenを象徴する果物でもあるから。日和くんの帰還とEden復活のちょっとしたお祝いの気持ちだって。コロニーに戻ったら、もっと盛大なパーティをしよう」
「ありがとう。楽しみだね、ジュンくん! ……あれ? ジュンくん?」
いつの間にかジュンがいなくなっていたことに気付いた日和に、あぁ、と茨が視線を上げる。
「ジュンならカウンターに食事を……、」
「ジュンくん……ジュンくんは?」
「……、」
日和がキョロキョロと不安げに辺りを見回し始めた様子を見て、凪砂と茨は一瞬だけ呆けて、その後密かに目配せをする。
腰を浮かせて立ち上がりかけた日和の肩に凪砂が手を添え、落ち着かせるように座り直させるとカウンターの方を手で差し示して見せた。厨房からトレイを受け取っているジュンの後ろ姿を見つけてか、日和の強張っていた表情から力が抜ける。
「……みんなで行けば良かったね。日和くん、ジュンはすぐに戻ってくるよ。……ほら」
「戻りました〜。おひいさん、適当にサーモンのムニエルとポークソテーにしてみましたけど、どっち食います?」
「……っ! ジュンくん! どこに行ってたのかね! ひとりにしないって言ったのに!」
「えっ、い、言いましたけど、今は茨もナギ先輩もいるじゃないっすか。ちょっと席外したくらいでそこまで怒らなくても……流石に片時も離れずってのは無理っすよぉ〜」
「ジュン、こちらへ」
状況が呑み込めず困惑しながらジュンがトレイをテーブルに置くと、茨がジュンを開いている隣の席へ座るよう促す。大人しく従うと、凪砂が日和を宥めて気を引いてくれている間にさらに茨は顔を近づけて小声で耳打ちをしてきた。
「どうやら、思った以上に殿下は精神的に不安定気味なご様子。今後は文字通り、片時も離れず殿下と行動を共にしてください」
「不安定? でも、オレといる時にはそんな風には……」
「ええ、ジュンがいれば安心するようです。休養期間も必要そうであれば伸ばしますので、少しでも気付いたことがあれば適宜報告をお願いします」
「い、茨がそう言うなら……つうか一体何が、」
「ねぇ、ぼくを無視していつまで内緒話なんかしているの? それにせっかくの食事も冷めちゃうね」
「っ、」
つい長引きかけた話を、不貞腐れた声音で日和が遮る。日和はムニエルのプレートを自分の前に引き寄せて、もう食べ始める準備ができているようだった。
「大変失礼いたしました! どうぞ、ジュンをお返し致します」
「物みたいに言わねぇでくたさいよ……まいいや。お待たせしてすんません」
ジュンと茨もテーブルに向き直り、四人揃って挨拶をする。既にカットされているポークソテーにフォークを突き刺しながら、ジュンは横目で日和の様子を伺った。茨がわざわざ伝えてくるほどだ、違和感を感じる何かがあったのだろう。しかしジュンには上機嫌にムニエルを頬張るいつもの日和にしか見えない。
それ自体は良い。記憶喪失の事実は当面は周囲に隠しきらなければならないのだから。けれど、ジュンに気付けるだろうか。味方すら欺けるほどの日和が、見せるかどうかもわからない綻びを生じさせたとき、一番近くにいながら見過ごすなどあってはならないのに。もしそんなことがあれば。
次はきっと、本当に失ってしまう。
「…………」
重い腕を持ち上げて、フォークを口に無理やり運ぶ。好物のはずの肉料理は、何だか無機質で味がしなかった。