かみさま 見晴るかす空は朱く暮れなずむ。昼には暖かった風はやや冷たさを帯びて、石畳を撫でていく。縋るようにして腰を落ち着けた石のベンチも、とうにひんやりとしていた。
流石に帰らなきゃ、と思いながらも、私は立つことができずにいた。膝には贈ることのできなかった小箱がひとつ。忙しさの合間を縫い、今日のために心を込めて用意した贈りもの。
今頃、あの方はどうしていらっしゃるのだろう?
今日の舞台はーーいや、今日の舞台も素晴らしかった。『水の娘』がこのエピクレシス歌劇場でロングラン公演をするようになってからというもの、もう数えきれないほど足を運んでいるけれども、幾度観ても、このお芝居にはいつも初めて観たかのように心を震わせられてしまう。
台本や音楽の素晴らしさはもちろんだけれど、私が何よりも愛しているのはあの方の演技と歌声だ。水神の座をおりたとは言え、あの方の輝きは何一つ揺るがない。凛として涼やかな声、感情の襞が手にとるように伝わってくる細やかな演技、そして劇場に響く、清らかに澄んだ歌。何度も聴いているはずなのに、いつもその美しさに泣いてしまう。
今日は特別な日だった。『水の娘』が人気公演となってしまったいま、チケットはなかなか取れない。だというのにーーああ、なんという天の導きだろう! 今日のチケットは最前列の中央だった。こんなこと初めてだったから、あのお方の視界に入ってもいいように新しく服を買って、慣れない化粧もして、ーーそして勇気を振り絞って贈り物も。
茜色の空は徐々に紺青を濃くしていく。街灯がぽつりぽつりとつき始め、一日の終わりを告げ始めていた。
膝の上の箱を見下ろしながら、自然とため息が漏れる。風の噂を信じた私が愚かだったのかもしれない。いや、噂自体は本当だったのだ。あのお方は、出待ちしているファンからも気前よく贈り物を受け取る、と。けれども、数が多すぎて、私なんて到底あのお方の視界に入ることなど出来そうにもなかったのだ。こんなことならーーそう、こんなことになるのなら素直に劇場に預ければ良かったのだ。あのお方にお会いして、直接思いを一言でも伝えたい。そんな思いが、私の身の丈に合っていなかっただけ。
ルキナの泉からは絶え間なく水が湧き、周囲の噴水もいつも通りだ。夕刻、散歩を楽しむ人々の声を混じって、水の流れる音がざあざあと耳を打つ。
ーー泉にお願いして帰ろう。また『水の娘』のチケットが買えますように。
やっとことで、千々に乱れる思いを纏め、ベンチから腰をあげた時だった。こつこつと、石を蹴るヒールの音がこちらに向かってくるように聞こえてきた。
「君! 少し待ってくれないか?」
知りすぎるほどに、知っている声ーー何なら先まで、歌っていた声がまだ耳に残ってさえいる。まさか、と心臓が嫌でも早鐘を打つのを感じながら、慌てて振り返った先に立っていたのはフリーナ様だった。
私は驚きのあまり、なんと言ったらいいか分からず、ただ黙ったまま見つめ返してしまった。フリーナ様が一体なぜ? どうして私なんかに? こんな言葉ばかりがぐるぐるして一向に言葉らしい言葉を発せずにいると、それを察したらしいフリーナ様は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「おや、驚かせてしまったようだね。……僕の勘違いだったらすまないが、君はさっき僕の出待ちをしてくれていた人じゃないかい?」
「……私のこと、まさか覚えててくださったんですか?」
声が震えてしまって、これだけを言うので精一杯だった。すると、フリーナ様はいつもの愛らしい笑みをこちらに向け、舞台と変わらなく朗らかな声で答えてくださった。
「当然さ! 君は今日一番前で、とても熱心に観てくれていただろう? それにさっきは随分と待たせてしまったみたいですまない」
フリーナ様は申し訳なさそうに眉を顰めた。そんなことないです、と首を慌てて横に振り、緊張で心臓が口から出そうになるのを感じながら、胸に抱えていた箱をおずおずと差し出した。フリーナ様は大きな瞳を丸く見開く。
「えっと、これは僕が受け取っても良いのかな?」
もちろんです、とこくりと頷く。フリーナ様は、ありがとう、と笑って受け取ってくださった。
「毎日のように舞台に立っていても、やはり君のように熱心に観てくれる観客がいると僕も嬉しくなるんだよ。だから、こうして君と話をさせてもらったのは、僕の方がお礼を言いたかったからなんだ」
「……あの、フリーナ様、」
「何だい?」
「わたし、その……今日の舞台、とても感動しました。フリーナ様の演技がすごくすごく好きで、何度も通ってます」
そこから先はなぜそんなことが自分でも言えたのだろう、その日の、そしてそれまでの舞台への想いが溢れ、必死に言葉を紡いでいた。お忙しいだろうに、フリーナさまはそのひとつひとつに丁寧に相槌を打ってくださった。気がついた時には山の端に月が出かかっていた。
それからフリーナ様には急に引き止めたことの非礼を詫び、彼女はまた観に来てね、と笑って、大事そうに小箱を抱え直してくれた。
「演技をするのって素敵なことだと改めて思えたよ、ありがとう」
ルキナの泉が囁くように流れるなか、彼女青い後ろ姿が夜に溶けていくのを私は静かに見送っていた。