瞬き 甘やかな香りが、風に乗って運ばれてくる。寒さの緩んだ、けれどもまだ冷ややかさを残す風は朝らしく澄んでいた。開け放した窓からは、白々と朝陽が差し込んでいる。
「お待たせ、先生」
厨房から寝室へ戻ってきたタルタリヤは、窓の前にある卓子へ二人分の茶と点心を置いた。昼に喫するものは飲茶と呼ばれるが、早朝の場合は早茶である。故郷スネージナヤにはない習慣で――タルタリヤが朝起きて口にするものと言えば硬い黒パンと、ほんの少しのジャム付きの紅茶だった――けれども今はすっかりこの朝食に慣れてしまった。
「せんせ、髪に花がついてるね」
椅子に腰をおろしながら、タルタリヤは先生と呼ぶ相手に微笑みかける。長く艶のある黒髪に、紅い花弁が数片散っていた。唇にさした紅と響き合い、常よりもどこか華やいだ雰囲気だ。
タルタリヤは茶杯を口元へ運んだ。滑らかな味わいが渇きを潤し、芳醇な香りが鼻腔を抜けていく。今朝の茶は「松蘿仙芽」だ。璃月の中でも茶葉の産地として知られる沈玉の谷で栽培された「沈玉仙茶」の一種である。
――ここの茶葉は美味いだろう。
かつて、鍾離に連れられて沈玉の谷を訪れたことがあった。清らかな水に育まれた自然は翡翠のように碧く、美しい土地だった。中でも翹英荘という村が茶葉の産業に従事しており、白っぽい石造りの建物が並んで、茶を楽しむ場所がいたるところにあった。鍾離に連れていかれたのは、清水が流れ、青々とした茶畑が一望できるところだった。そこで、鍾離は村の住民に早茶を頼み、「松蘿仙芽」が二人の前に提供された。そうして、鍾離は薄く笑みを浮かべながら、右記の言葉を述べたのである。
――先生にとって、やっぱりこういうのは鼻が高いの?
――こういうの、とは。
――璃月に名茶の産地があること。
鍾離は手の中で空の茶杯を弄んでから、そう言って良ければだが、と曖昧に言葉を濁した。追求していいものかどうか悩む間に、茶葉をたっぷり使った菓子である良茶満月が呈され、塩漬けにした黄身が餡に包まれているという工夫に驚く内に、その話題は流れてしまった。
その時は、いつもの謙遜だろうとタルタリヤは思った。鍾離は凡人に身をやつしてはいるが、本来は璃月の神たる岩王帝君であり、璃月の人々は彼の庇護のもとに国を発展させた。だが、鍾離は単に自分は契約を果たしただけで、璃月の美しさ豊かさはみな、人間の努力の賜物だと言う。彼はただ建前としてそう言うのではなく、心の底からそう信じているようだった。
タルタリヤが沈玉の谷の歴史を知ったのは、それから随分と後のことだった。色々と複雑な経緯はあるようだが、とどのつまり、かつて沈玉の谷の主人であった魔神は七神の座を狙い、魔神戦争に参加、だが旗色悪く、自らの民に犠牲を強いろうとしたのを配下の者に止められ、後に当の魔神は没し、沈玉の谷の庇護は岩王帝君に引き継がれることになったという。故に、この土地の者たちは港周辺の者達よりも帝君に対し心的距離があった。侵略したわけではないが、本来の神ではない己が土地を統治したことを鍾離自身はどう考えていたのだろう――今となってはそれは歴史の闇に消えてしまった。
窓の向こう、鳥の囀りが響いている。タルタリヤはその声に耳を傾けながら、蒸したての良茶満月を半分に割った。口に放り込むと、黄身の塩気と餡の甘みが程よく絡み合い、舌先に溶けていく。
――璃月の食文化は興味深いだろう?
初めて良茶満月を口にして驚くタルタリヤを見て笑った鍾離の顔は、どこか悪戯に成功したような表情を浮かべていた。
「今ではすっかり好物になった、と言ったら驚くかな」
隣に座る相手の手に、自らのそれを重ねた。相手の手はひどく滑らかで、冷ややかだ。決してタルタリヤの手を握り返すことも、体温が通うこともない、陶器製の人形の手。もう数えきれないほどこの手を重ねているはずで、けれども自分の交わることのない肌の無機質さに傷つかないと言ったら嘘になる。
「……せんせ、」
返事ひとつもらえないと知りながら、甘えるような声が出てしまう。掴んだ手を軽く引き寄せる。重たげな百合のように頭部がたおやかに揺れ、黒髪が錦糸のようにはらりと崩れて、黄金の瞳がぱちりと瞬く。何も見つめていないはず瞳が、一瞬だけこちらを見たような気がした。